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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第3巻 黄金の導きと冒険者たち

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第18章:託された旋律とエテルナの不協和音

 窓枠のささくれた木肌をなぞるように、エテルナの朝陽あさひが部屋へと滑り込んできた。その光のなかには、無数の塵が細かな銀の粒となって舞い、渦巻いている。学園の清潔な石造りの寮とは違い、この宿の空気には、湿り気を帯びた古い木材の匂いと、誰かが昨夜こぼしたであろう安酒の残り香、そして階下の市場から風に乗って漂ってくる異国のスパイスの刺激が混ざり合っていた。


 ゼノリスはゆっくりと上体を起こし、枕元に置いた鉄色のプレートに指を伸ばした。指先に触れるプレートの縁は、昨日の魔獣との交戦ですでに微かな傷がつき、指を滑らせるとざらりとした感触を返してくる。昨日までは、自分たちが何者であるかを隠すための「仮面」に過ぎなかったこの薄い金属板が、今ではこの広大な世界で呼吸するための、たった一つの確かな拠り所のように感じられた。


 その鈍い質感を眺めていると、不意に、あの夜の静寂が脳裏をよぎった。このプレートの重みは、学園を去る直前、教官ガントから託されたある重みと、重なっている。


 それは、旅立ちを数時間後に控えた、深夜の練武場でのことだった。


 板張りの床は、差し込む月光を反射して鏡のように澄み渡り、ゼノリスが踏み出す一歩ごとに、ギチ……という床のきしむ音が冷え切った大気に溶けていった。学園の喧騒が完全に死に絶えた、深夜の二時。誰もいないはずのその場所に、教官ガントは背を向けて立っていた。


 数多の死線を潜り抜けてきたその背中は、闇のなかでは峻険しゅんけんな岩山のように見え、近寄る者を拒むような無言の圧迫感を放っていた。彼はゼノリスの気配を察しても振り返らず、ただ高い位置にある窓から差し込む月を見上げたまま、低い声で話し始めた。


「……旅立ちの前に、これだけは見ておけ。お前にしか見せられんものだ」


 ガントがゆっくりと振り返り、懐から掌に乗るほどの小さな硝子瓶がらすびんを取り出した。ゼノリスが数歩歩み寄り、月光の下でその中身を覗き込む。


 瓶の中には、鈍い鉛色をした極細の糸が閉じ込められていた。それは意志を持つ生き物のように不自然なのたうちを見せ、硝子の壁を内側から削り取るようにうごめいている。そのたびに、キィ……という、耳の奥を直接針で突くような高周波が、ゼノリスの鼓膜を震わせた。それは生物の叫びでもなく、金属の擦れる音でもない、世界の理を無理やり捻じ曲げたような不快な響きだった。


「これは、リードストリング(這い寄る鉛糸)。かつて世界を破滅の縁まで追い込んだ『沈黙の病』の種だ」


 ガントの瞳には、教官としての厳格さではなく、かつて世界の半分を統べた血脈に連なり、その黄昏を見守り続けてきた者だけがたたえる、深淵のような憂いが宿っていた。


「今、この糸が再び各地で芽吹き始めている。ゼノリス、お前をここから送り出すのは、単に『鉛』という不遇な立場から解き放つためではない。この異変の根源を、お前にしか聴き取れないその耳で、正しく聴き分けてほしいからだ。私欲に駆られる各国の権力者や、自らの地位に固執する者たちは、この不吉な響きを己の都合で塗り潰そうとしている。……だが、真実は耳を澄ませた者にしか聞こえん」


 ガントは瓶を懐にしまうと、今度は使い古されて黒ずんだ革袋を、ゼノリスの手元へ差し出した。

受け取った瞬間、ズシリとした重みがてのひらを打った。革越しに伝わってくるのは、複数の硬い円盤状の感触。そして、微かに触れ合う金属特有の鈍く、重厚な響き。それは明らかに、銀貨や銅貨ではなし得ない、金貨だけが持つ密度だった。


「……これは、」


 ゼノリスが顔を上げ、師の目を見つめた。問いかけようとした言葉を、ガントは静かに遮るように、黙って、一度だけ深くうなずいた。


 それ以上の言葉は交わされなかった。ガントは月光を切り裂くように背を向け、闇の中へと消えていった。残されたのは、掌に残る革袋の確かな熱と重みだけだった。



「……お兄様? どうされたのですか? そのようにプレートをじっと見つめて。もう、市場の方はすっかり騒がしくなっていますよ」


 隣の部屋との仕切りである薄い扉が開き、フィリーネが顔を覗かせた。彼女の銀糸の髪は、朝の光を浴びて透き通るように輝き、殺風景な部屋を一時忘れさせるほどに気高い。

彼女はゼノリスの傍らまで歩み寄ると、その服の襟元を慣れた手つきで整え始めた。指先から伝わる微かな魔力の温もりが、ゼノリスの意識を現実へと引き戻す。


「……ああ、いや。ガント先生のことを、少し思い出していただけだ。あの先生が、僕たちの背中をどれほど静かに押してくれていたのかをね」


「そうですね。……さあ、テオももう食堂へ降りていますよ。マーサさんの朝食は、少しでも遅れると、冷めてしまうからと叱られてしまいます」


 フィリーネがふふ、と悪戯っぽく微笑む。

階下へ降りると、そこにはすでにエテルナの剥き出しの生命力が充満していた。

カウンター越しのマーサが、大きな鍋を力強くかき混ぜながら「おはよう!」と野太い声で挨拶を投げてくる。湯気の立つ厨房からは、香ばしく焼ける肉の匂いと、クミンやコリアンダーを思わせるスパイスの芳香が混ざり合い、空腹の胃袋を容赦なく刺激した。


「おはよう、兄貴! 昨日は最高だったぜ、ガルドさんの嬢ちゃんを助けたって話、もう市場の連中の間じゃあ持ち切りだ!」


 ルカが、朝食を終えた客たちの間を縫うようにして駆け寄ってくる。その瞳は、昨日出会ったばかりの「英雄候補」を見つけた興奮でキラキラと輝いていた。


「おはよう、ルカ。……そんなに有名な話になっているのか? 困ったな、目立ちたくはなかったんだが」


「何を言ってるんだよ! 特にあの『鉄砕の大牙』を一撃で黙らせたってのが、港の荒くれ者たちの間でも噂になってるんだ。おかげで母ちゃんの宿まで、なんだか鼻が高いぜ!」


 ルカが誇らしげに自分の胸を叩くと、先に席に着いていたテオが、熱々のシチューを口に運びながら頷いた。

「……んぐっ。おはよう、ゼノリス。でも、有名になるのはいいことばかりじゃないみたいだよ。ほら、見て。あの隅の席」


 テオが視線だけで示した先では、数人の柄の悪い男たちが、こちらを値踏みするような、どこか不快な視線を送っていた。酒瓶を片手に、ゼノリスたちのまだ真新しい旅装束を冷やかすように笑う低い声が、食堂の喧騒に不協和音となって混じる。学園の中では決して向けられることのなかった、純粋な「悪意」と「嫉妬」。


「……気にする必要はない。僕たちは、僕たちの仕事をするだけだ」


 ゼノリスは平静を保ちながら、マーサが運んできた厚切りの黒パンに手を伸ばした。パンは温かく、噛みしめるほどに穀物の力強い甘みが広がる。シチューは地野菜の旨みが溶け込んだ素朴な味だが、それがかえって今の彼らの胃袋に染み渡った。


 食後、三人は中央広場に面した冒険者ギルド「万物のイージス」へと向かった。

午前中の広場は、商人たちの叫び声と、荷馬車の重い車輪が石畳を削る音で、凄まじい活気に満ちている。道ゆく人々の肩がぶつかり、籠いっぱいの魚を運ぶ売り子の声が、広場の空に溶けていく。


 ギルドの重厚な鉄の扉を押し開けると、掲示板の前に群がる冒険者たちの、汗と鉄錆、そして強い酒の匂いが溢れ出してきた。

受付カウンターには、今日も一分の隙もない事務的な態度でソニアがいた。彼女は眼鏡の奥の瞳を動かし、ゼノリスたちが差し出した三枚の鉄色プレートを一枚ずつ丁寧に確認すると、無造作に数枚の羊皮紙をカウンターの上に並べた。


「ランクFの皆さんに、今日のお仕事を差し上げます。……中央用水路の、清掃とゴミ拾いです」


「……ドブさらい、ですか。魔獣の調査とかではなく?」


 テオが思わず耳を垂らし、意外そうな声を上げた。その落胆を見透かしたように、ソニアは冷淡に鼻を鳴らす。


「そうです。昨日の件で、自分たちが特別な英雄だと勘違いしていないことを願います。ランクFに求められているのは『実力』ではなく『信頼』です。街のドブさらいひとつ満足にできない人間に、命に関わる重要な依頼を回すほど、この街のギルドは甘くありませんよ。……もし嫌だというのなら、今すぐプレートを返却して去りなさい」


 周囲にいた中堅冒険者たちが、そのやり取りを聞いてゲラゲラと下卑た笑い声を上げた。


「おいおい、そこのお貴族様! ドレスが泥まみれになる前に、俺のパーティーの洗濯係にでも立候補すればどうだ? そっちの方が稼げるぜ!」

「ドブネズミに指先を噛まれて泣くんじゃねえぞ、坊ちゃんたち!」


 浴びせられる侮蔑の言葉。だが、ゼノリスは動じなかった。彼は汚れた依頼書を静かに受け取ると、そこに記された「中央用水路・水源付近」という文字をじっと見つめた。そこは街の最下部から最上部へと続く、水の道。


「……わかりました。この依頼を引き受けます。フィリー、テオ。行こう」


「はい、お兄様。どのような場所であっても、私たちがやるべきことは変わりません。……汚れることくらい、魔法でどうにでもなりますわ」


 フィリーネは、野次を飛ばす男たちを一瞥いちべつだにせず、凛とした佇まいでゼノリスの後に続いた。


 ギルドを出る際、ゼノリスはポケットに入れたプレートを指先でなぞった。

ガントから託された金貨の入った革袋は、まだ大切に仕舞ってある。だが、それを今ここで誇示し、楽な道を選ぶ必要はない。


 街の底を流れる、よどんだ水の響き。そこに潜むかもしれない「不協和音」の正体を聴き取るために。エテルナでの仕事は、華々しい戦いではなく、太陽の光の届かない、暗い水の底から静かに始まった。



中央用水路の入り口は、エテルナの華やかな大通りから数段低い位置に、巨大な獣が口を開けているかのように暗く沈んでいた。

高く切り立った石壁に挟まれたその場所は、太陽の光が正午のわずかな時間しか届かない。壁面にはびっしりと黒ずんだこけが張り付き、ひんやりとした湿気と共に、泥が腐敗したような、あるいは金属が錆び付いたような独特の臭気が絶えず立ち込めている。上流から流れてきた折れた枝、ボロボロになった古布、さらには不法に投棄された生ゴミが、水の流れを物理的にき止め、よどんだ水面には虹色の油膜が浮いていた。


「……うう、これは想像以上だね。学園の演習場がいかに恵まれていたか、今さらながら身に染みるよ」


 テオが巨大な漆黒の重盾を岸壁に立てかけ、鼻をひくつかせながら大きく溜息をついた。彼は支給された分厚いゴム製の長靴を履き、腰まで浸かりそうな濁った水の中へと恐る恐る足を踏み入れる。ジャリ、という、砂利とヘドロが混ざり合った不快な感触が足裏に伝わり、一歩ごとに鈍い水の抵抗が太腿ふとももを圧迫した。


「泣き言を言わないで、テオ。地道な仕事こそが、この街での『信頼』を積み重ねるための確かな一歩ですわ。……お兄様、私が魔法でゴミを浮かび上がらせますので、効率よく片付けましょう」


 フィリーネは、朝の光を浴びて輝いていたはずの銀糸の髪を、邪魔にならないよう後ろで一つにまとめ、旅装束のすそを魔法で僅かに浮かせていた。彼女が杖を軽く振ると、清冽な風の魔力が澱んだ水面を撫で、複雑に絡み合っていたゴミの塊がゆっくりとほどけて浮かび上がる。泥にまみれた環境であっても、彼女の青い瞳は一点の曇りもなく、ただ隣で黙々と作業を始めるゼノリスだけを見つめていた。


ゼノリスは無言で、腰まで水に浸かりながら重い流木を引き揚げた。

冷たい水の感覚がてのひらを刺し、指先が徐々に感覚を失っていく。だが、彼の意識はもっと深い場所――水の流れる音の「裏側」へと、鋭く向けられていた。


(……この澱み。ただのゴミが詰まっているだけじゃないな)


 ゼノリスの耳には、不規則な水音が石壁に反響する自然な音の中に、時折、キィ……という、あの深夜の練武場でガントから見せられた硝子瓶がらすびんの中の音と、酷似した「不快な摩擦音」が混じっているように感じられた。

水底に沈んだ石の裏や、朽ちかけたくいの根元。そこには、エテルナの街を支える循環の脈動を、重く、鉛のように沈殿させようとする「何か」が確実に潜み始めている。ガントが言っていた「リードストリング(這い寄る鉛糸)」の予兆が、この街の最下層からじわじわと這い上がってきているのだ。


「……お兄様? どうかされましたか? 何か、気になるものでも……」


 フィリーネが心配そうに覗き込んでくる。ゼノリスは僅かに首を横に振り、再び作業に戻った。

今はまだ、仲間に不安を植え付ける時期ではない。ただ、この地道な「掃除」という行為が、街の衛生を守るだけでなく、深層の歪みを自身の感覚に刻み込むために必要な儀式であるように思えた。


 二刻にこくほど、三人が泥と水にまみれて作業を続けていた時のことだった。


「……あ、あの! もしかして、……ゼノリス様ですか?」


 頭上の石橋から、鈴を転がすような、しかしどこか緊張に震える声が降ってきた。

三人が同時に顔を上げると、そこには豪華な刺繍が施された、この薄暗い用水路には到底不釣り合いなほど上質なドレスを纏った少女――クララが、石造りの欄干らんかんから身を乗り出すようにしてこちらを見下ろしていた。

彼女の傍らには、いかつい体格の護衛たちが数人控えていたが、彼女自身はそんな彼らの制止を振り切るように、三人のいる岸辺へと、泥汚れもいとわず駆け寄ってきた。


「やっぱり……! ギルドで皆さまが新しい依頼を受けたと伺って、いても立ってもいられなくて。……昨日はご挨拶も、満足にできないままでしたので」


 クララは泥の臭気が漂う用水路の岸辺に、躊躇ためらいもなく降りてきた。彼女の白い頬は運動不足ゆえか、それとも別の理由か、うっすらと赤らみ、その瞳には、昨日命を救ってくれた「英雄」への、隠しきれない憧憬しょうけいが溢れている。


「クララさん……。どうしてこんな所に? お体は大丈夫ですか? 昨日あんなことがあったばかりですし……。ここはあなたが来るような場所ではありませんよ」


 ゼノリスが立ち上がり、軽く会釈をする。彼の頬には跳ねた泥が一点ついていたが、それがかえって、学園にいた頃の端正すぎる姿にはない、実戦を潜り抜けてきた男のたくましさを際立たせていた。


「はい! おかげさまで。父も、皆さまにぜひもう一度お会いしたいと申しておりました。……あの、これ。お礼と言うにはあまりにささやかなのですが、皆さま、お昼がまだだと伺いましたので」


 クララが、護衛に持たせていたバスケットから取り出したのは、銀のトレイに乗せられた、香ばしい匂いのする包みだった。中にはエテルナでも最高級とされる職人が焼き上げた白パンのサンドイッチと、冷えた果実水が収められている。


「……あら。わざわざこのような『ドブさらい』の現場まで、ご丁寧にありがとうございます、クララ様」


 それまで黙って、浮かび上がらせたゴミを風の魔法でまとめていたフィリーネが、一歩、ゼノリスの前へと滑り込むように進み出た。

彼女の浮かべた微笑みは、学園の礼儀作法に基づいた完璧なものだった。しかし、その青い瞳の奥には、エテルナの北側にそびえる雪山を思わせるような、静かな、しかし鋭い「拒絶」の光が宿っていた。


「ですが、私たちは今、ギルドの大事な依頼の最中です。このような場所では、せっかくの高級なお食事がドブの臭いで台無しになってしまいます。……お兄様の栄養管理と健康については、常に私が責任を持って行っておりますので、どうかお気遣いなく」


 フィリーネは自然な動作でゼノリスの二の腕を、まるで自分の所有物であることを誇示するように強くつかんだ。泥のついたゼノリスの服を気にすることなく、むしろその汚れさえも自分たちだけの共有財産であるかのような、圧倒的な「距離感」を見せつける。


「えっ……あ、はい。……そう、ですよね。私……自分のことばかりで、皆さまのご迷惑を考えていなくて。……申し訳ありません」


 クララはフィリーネのまとう、静かだが苛烈な「専属」のオーラに圧され、差し出していた包みを震える手で握りしめた。彼女の瞳に、自身の無鉄砲さへの羞恥と、それでもなおゼノリスの側にいたいという健気な決意が混ざり合い、見ていて痛々しいほどの気持ちが揺れていた。


「いいえ。……せっかくのご好意ですから、ありがたくいただきます。フィリー、少し作業の手を止めて、あそこの乾いた石畳で休憩にしよう。テオも、腹が減っているだろう?」


 ゼノリスがそう言ってクララの差し出した包みを一つ手に取ると、クララの顔がぱっと、暗い用水路に灯りが点ったかのように明るくなった。

その横で、フィリーネの微笑みがさらに深く、冷たくなっていくのを、テオだけが冷や汗を流しながら、必死に水の音を聞くふりをしてやり過ごしていた。


「……ああ、怖い。ゼノリス、君は本当に、どんな恐ろしい相手よりも厄介なものに囲まれている自覚を持った方がいいよ。僕には、魔獣のえる声なんかより、今のフィリーネの沈黙の方がよっぽど怖いからね」


 テオの切実なつぶやきは、用水路を流れる濁流の音にかき消された。

エテルナの強い陽光が、用水路の入り口を白く照らし出すなか、平和なはずの休息時間は、甘く、そして僅かに刺々(とげとげ)しい「不協和音」を奏でながら過ぎていった。



クララを見送った後、三人はさらに用水路の奥、エテルナの街の心臓部へと続く「水源地」付近へと足を進めた。

上流へ行くほど、水路の幅は狭くなり、両脇の石壁は空を覆い隠すほどに高くなっていく。先ほどまでの市場のにぎやかさは遠のき、聞こえてくるのは、冷たい水が壁にぶつかって跳ねる重苦しい音だけになった。


「……なんだか、さっきよりも空気が重い気がするね」


 テオが、重い盾を背負い直しながらつぶやいた。彼の吐く息が、かすかに白く濁っている。

足元の水は、泥というよりも、どろりとした銀色に近い不思議な色に濁り始めていた。水面に浮くゴミの数も増えているが、それ以上に、水そのものが「生きる意志」を失ったかのように、どんよりとよどんでいる。


「ええ。……私の風の魔法も、ここだと少しだけ動きが鈍いようです。お兄様、足元に気をつけて」


 フィリーネが杖を握る手に力を込めた。彼女の周囲を舞う魔力の光が、暗い水路を青白く照らし出す。その光に照らされた水底を見て、ゼノリスは目を細めた。


(……ここだ。ここが、音の狂っている「中心」だ)


 ゼノリスの耳には、もう水の流れる音は聞こえていなかった。

代わりに響いているのは、キリキリと、古い弦を引き絞りすぎて今にも弾けそうな、鋭くて痛々しいノイズだ。あの夜、ガント先生が見せてくれた硝子瓶がらすびんの中の「鉛糸なまりいと」が、この水路の奥に無数に絡みついているような、そんな感覚。


「テオ、フィリー。あそこの大きな鉄格子の周りを重点的に掃除しよう。あそこに、一番大きなゴミが詰まっているみたいだ」


 ゼノリスが指差した先には、用水路を上下に分ける巨大な鉄のさくがあった。そこには、折れた看板や布切れ、そして正体のわからない黒い泥の塊が、びっしりとこびりついている。


「了解! よし、僕が先に潜って、大きな塊を引き剥がすよ。フィリーネは危ないから、少し下がっていて」


 テオが気合を入れ直して、濁った水の中へ深く足を踏み入れた。腰のあたりまで水に浸かりながら、彼は必死に鉄格子に絡まったゴミを力任せに引っ張る。

だが、どれだけ力を込めても、その「黒い塊」はびくともしなかった。


「……おかしいな。ただの泥じゃないみたいだ。まるで、鉄格子に吸い付いているみたいに……うわっ!」


 テオの足元が、急に滑った。

黒い泥の塊から、細い糸のようなものが伸びて、テオの足首に絡みつこうとしている。


「テオ! 下がって!」


 ゼノリスが叫ぶと同時に、彼は水の中へ飛び込んだ。

テオの肩を掴んで後ろへ突き飛ばすと、ゼノリスは腰に下げた短剣を抜いた。だが、彼はその剣を振るうことはしなかった。

彼は、ただ静かに、その「黒い塊」に右手を添えた。


(……静かに。呼吸を合わせて。この『音』を、正しい形に戻すんだ)


 フィリーネとテオの目には、ゼノリスがただ必死にゴミを掃除しているように見えただろう。

だが、ゼノリスの指先からは、微かな、しかし澄み切った波動が放たれていた。

ガント先生から教わった、この世界のゆがみを治すための方法。それは力で叩き潰すことではなく、狂ってしまった音を、あるべき旋律へと「調律」すること。


 ゼノリスが指先に意識を集中させると、鉄格子に絡みついていた不気味な黒い糸が、びくん、と震えた。

次の瞬間、キィ……という高い音が響き、糸は砂のように崩れて水の中へと溶けていった。  支えを失った大きなゴミの山が、一気に崩れ落ち、せき止められていた水が、ごうごうと音を立てて流れ始める。


「えっ? ……ゼノリス、何をしたんだい? 急にゴミが崩れたぞ!」


 テオが目を丸くして、水しぶきを払いながら立ち上がった。

ゼノリスは少しだけ肩で息をしながら、短剣をさやに収めた。その手は、冷たい水のせいか、それとも「調律」の衝撃のせいか、かすかに震えている。


「……いや、運良く一番重い場所が外れただけだよ。さあ、流れが良いうちに、残りのゴミも片付けてしまおう」


 ゼノリスはあえて素っ気なく答えた。フィリーネだけは、何かに気づいたようにゼノリスの横顔をじっと見つめていたが、彼女もまた、深くは追求しなかった。


「……ええ。お兄様の言う通りです。さあ、テオ。ぼんやりしていないで、最後までやり遂げましょう」


 それからの作業は驚くほどスムーズに進んだ。

水路を塞いでいた大きな汚れが消えたことで、澱んでいた空気もどこか清々しくなり、テオの顔にも笑顔が戻った。三人は泥にまみれ、服を濡らしながらも、最後の一片まで丁寧にゴミを拾い集めた。



 作業を終えてギルド「万物のイージス」に戻った頃には、太陽はすでに西に傾き始めていた。

三人の姿は、朝の出発時とは見違えるほど汚れ、泥の匂いが染み付いていた。だが、その足取りはどこか誇らしげでもあった。


 受付カウンターに座るソニアは、汚れきった三人の姿を見ると、眼鏡の奥の瞳をわずかに動かした。


「……完了報告ですね。用水路の状況は、確認の者を送ってあります」


 彼女は差し出された報告書を受け取り、淡々と処理を進めた。


「正直に申し上げれば、途中で投げ出して帰ってくると思っていました。……ですが、確認の結果、水源付近の流れは完璧に改善されています。エテルナの住民も、これでしばらくは不自由せずに済むでしょう」


 ソニアはそう言うと、三つの小さな革袋をカウンターに置いた。中には、今回の報酬である数枚の銅貨と、少しばかりの銀貨が入っている。


「これが今回の報酬です。……それと、ギルド長からの伝言です。『石ころにも、磨けば光るものが混ざっているようだな』とのことです。……お疲れ様でした。ランクFの冒険者としては、十分すぎる仕事です」


「……ありがとうございます、ソニアさん。明日もまた、よろしくお願いします」


 ゼノリスが丁寧に礼を言うと、ソニアは「……気が向けば」とだけ答え、次の書類に目を落とした。


 「青い星の宿」に戻ると、一階の食堂からは、昨日よりもさらに活気のある笑い声が聞こえてきた。

マーサとルカが、泥まみれの三人を驚いたような、それでいて温かい笑顔で迎えてくれた。


「おやまあ! 盛大に汚してきたねぇ! でも、その顔を見ればいい仕事をしたってのがわかるよ」


 マーサが大きなタオルを三人の頭に放り投げ、ルカが「兄貴、お疲れ様!」と冷えた水を運んでくる。

三人は、マーサが用意してくれた熱いお風呂で汚れを落とし、着慣れた普段着に着替えて、再び食堂に集まった。


 テーブルには、エテルナの海の幸と山の幸が並んでいる。

昨日のような豪華な食事ではないが、自分たちの手で稼いだお金で食べる夕食は、何物にも代えがたい味がした。


「……ねえ、ゼノリス」


 テオが、スープを飲み干してふう、と息をついた。


「僕、今日初めてわかった気がするよ。学園で魔法の練習をしているだけじゃ、本当の『世界』は見えないんだって。ドブさらいなんて格好悪いと思ってたけど、誰かの役に立って、こうして美味しいご飯を食べられる。……冒険者って、案外悪くないね」


「ふふ、テオにしては珍しく良いことを言いますね。……お兄様、私も同じ気持ちです。学園の外の世界は、少しだけ汚れていて、不自由ですが……とても自由です」


 フィリーネがゼノリスの隣で、穏やかに微笑んだ。

ゼノリスは、窓の外に広がるエテルナの夜景を見つめた。

街の灯りは星のように瞬き、遠くの港からは船の汽笛きてきが聞こえてくる。


 その賑やかな音の中に、もうあの不快な「鉛糸」の音は聞こえない。

だが、彼は知っている。

今日調律したのは、この広大な世界のほんの一部、小さな小さな澱みに過ぎないということを。


(ガント先生。僕は、この街で最初の不協和音を止めました。……これからもっと大きな音が聞こえてきても、僕は逃げません)


 ゼノリスは、ポケットの中で静かに眠る「鉄色のプレート」にそっと触れた。

そのプレートは、体温で温められ、今は心地よい重みとなって彼の傍らにあった。


「……明日も、早いぞ。しっかり食べて、ゆっくり休もう。僕たちの旅は、まだ始まったばかりなんだから」


 ゼノリスの言葉に、フィリーネとテオが力強く頷く。

エテルナの夜は更けていき、三人の若い「星」たちは、次の旋律を奏でるために、静かな眠りへとついた。

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