第17章:自由都市エテルナ、出会いの街と星屑の第一歩
学園という名の箱庭を飛び出した魔導船が、黄金色の雲海を切り裂いて進むこと数日。ゼノリスたちの目の前に、八ヵ国連合のどの法律にも縛られない、自由と混沌の象徴である「自由都市エテルナ」がその壮大な姿を現した。
エテルナは、切り立った岩山の合間に築かれた、天然の要塞のような街である。高い石壁の内側には、八ヵ国の文化が奔放に混ざり合い、独自の極彩色を描き出す街並みが広がっている。港に船を寄せ、タラップを降りたゼノリスが最初に圧倒されたのは、その視界を埋め尽くす人々のうねりと、剥き出しの生命力だった。
石畳の港湾地区は、到着したばかりの物資を運ぶ屈強な港湾労働者たちの荒々しい怒鳴り声と、重い木箱が地面に置かれる鈍い衝撃音に満ちている。日焼けした肌を晒した船乗りたちが、寄港の喜びを分かち合うように酒瓶を掲げて笑い、その傍らを、異国の色鮮やかな民族衣装を纏った商人たちが、言葉の通じない相手とでも強引に商談を進めようと、激しい身振り手振りで渡り合っていた。
人混みの隙間を縫うように、汚れた麻の服を着た子供たちが笑い声を上げながら駆け抜けていく。屋台からは、香ばしく焼ける肉の匂いと共に、八ヵ国のどこにも属さない混ざり合った訛が喧騒となって立ち上っていた。
ゼノリスは、人々の熱気に身を晒しながら大きく深呼吸をした。肺を満たすのは、学園の清潔すぎる空気とは違う、家畜の匂いやスパイスの芳香、そして無数の人間がそれぞれの意志で生きることで発せられる、泥臭くも力強い生命の匂いだ。ここでは誰もが「何者か」としてではなく、ただ「生きる者」としてそこに存在している。その混沌とした活気が、これから始まる新しい旅路を祝福しているように感じられた。
「……お兄様、すごい人混みですね。学園の晩餐会よりもずっと騒がしい気がします」
13歳になったフィリーネが、ゼノリスの逞しくなった腕を頼るように握りしめ、驚きに目を見開いた。彼女の銀糸の髪がエテルナの強烈な陽光を浴びて煌めき、道行く荒くれ者たちの視線を否応なしに引きつける。だが、彼女の青い瞳には、周囲の喧騒など一切届いていないかのように、ただ隣を歩く「お兄様」の横顔だけが映っていた。
「ああ。ここなら、帝国の影も届きにくい。……テオ、荷物は大丈夫か?」
ゼノリスが振り返ると、三人の旅道具を詰め込んだ巨大な革袋を軽々と担いだテオが、獣の耳をせわしなく動かしながら鼻を鳴らした。
「大丈夫だよ、ゼノリス。それより、この街の市場……すごいよ。そこら中の屋台から、干した薬草や珍しい香油の匂いがしてくる。学園の温室にはなかった、野生の『力』を感じる匂いだ」
三人が活気あふれる市場を歩いていると、威勢の良い少年の声が響いた。
「おい、そこの強そうな兄貴! エテルナ名物の『太陽の串焼き』はどうだい? 旅の疲れが吹っ飛ぶぜ!」
声をかけてきたのは、汚れの目立つ麻の服を着た、十歳くらいの元気な少年だった。手際よく肉を焼く香ばしい匂いに誘われ、三人は足を止めた。
「いい匂いだね。……君の名前は?」
「オレはルカ! この街の案内なら任せてくれよ。あんたたち、見たところ遠くから来た冒険者志望だろ?」
ルカという名の少年は、ゼノリスたちが背負った武骨な武具を見て、ニヤリと笑った。 「ちょうどいい宿を探しているんだ。安くて、食事が美味しいところを知らないかな?」
「それならオレの母ちゃんの宿が一番だ! 『青い星の宿』っていって、ここからすぐそこさ。案内してやるよ!」
ルカに導かれて辿り着いたのは、市場の喧騒から一本裏に入ったところにある、古いが手入れの行き届いた石造りの宿屋だった。
「母ちゃん、お客さんだぞ!」
中から出てきたのは、ルカと同じ快活な瞳を持つ、がっしりとした体格の中年女性、マーサだった。
「あら、いらっしゃい。私はマーサ。ずいぶん立派な連れだねぇ。特にそのお嬢さん、お人形さんみたいに綺麗じゃないか」
その夜、三人はマーサの作った温かい豆のシチューと焼きたてのパンを囲み、これからの計画を話し合った。
「明日はまず、冒険者ギルドへ行って登録しよう。……マーサさん、この街のギルドはどんな様子ですか?」
ゼノリスの問いに、マーサは少し真剣な顔をして答えた。
「ギルド『万物の盾』かい? あそこは腕自慢が集まる場所だよ。最近は特に、新入りをいびって楽しむような、あまり質の良くない中堅冒険者がたむろしてるって聞くねぇ。あんたたちみたいな若い子は珍しいから、きっとなめられるだろうけど……あんまり無茶しちゃだめだよ」
「……ギルド、ですか。少し怖そうですが、楽しみでもありますね」
フィリーネがゼノリスを見つめ、静かに微笑んだ。その瞳には、どんな困難があってもお兄様と共に歩むという、強い覚悟が宿っていた。
翌朝。三人は街の中央にある巨大な石造りの建物、冒険者ギルドの門を叩いた。
エテルナの中央広場に面した、古色蒼然とした石造りの大建築。その重厚な鉄の扉を押し開けると、むせ返るような汗と鉄錆の匂い、そして荒くれ者たちの喧騒が、熱波となってゼノリスたちを襲った。
酒場で飲み交わす者、武器の手入れに余念がない者、依頼書を奪い合う者。学園の端正な空気とは対極にある、剥き出しの生命力が渦巻く空間に、フィリーネは思わずゼノリスの腕を握る力を強めた。
「おいおい、見ろよ。迷子のお貴族様が紛れ込んだか?」
「真ん中の銀髪の娘、俺のパーティーの看板娘にいいな」
下卑た笑い声や値踏みするような視線を平然と聞き流し、ゼノリスは真っ直ぐに受付カウンターへと歩みを進めた。カウンターの奥では、数人の職員が忙しなく書類を捌いていたが、三人が正面に立つと、一人の若い女性職員が顔を上げた。
眼鏡をかけ、知的な印象を与えるその女性は、胸元の名札に「ソニア」と刻まれている。彼女は三人の若すぎる風貌と、それに見合わないテオの巨大な黒盾やゼノリスの落ち着いた佇まいを鋭く観察し、職業的な笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。冒険者ギルド『万物の盾』へようこそ。……本日は、どのようなご用件でしょうか?」
ソニアの言葉は丁寧だったが、その瞳には「子供の遊び場ではない」という暗黙の警告が混じっていた。
「冒険者の登録をお願いしたいんですが」
ゼノリスが短く答えると、ソニアは僅かに眉を動かした。
「……登録、ですか。失礼ですが、そちらのお嬢さんもご一緒に?」
彼女の視線が、まだ幼さの残る13歳のフィリーネに注がれる。フィリーネは背筋を伸ばし、学園で培った気品を崩さぬまま、鈴を転がすような声で答えた。
「はい。私も、お兄様方の力になりたいと思っております。足手まといにはなりません」
「……分かりました。この街では、実力さえあれば年齢は問いません。ですが、冒険は貴族の遊戯とは違います。一度門を出れば、そこは死と隣り合わせの世界。その覚悟はよろしいですか?」
「もちろんです。そのためにここへ来ました」
ゼノリスの揺るぎない返答に、ソニアは頷き、カウンターの下から三枚の羊皮紙と、一つの大きな水晶玉を取り出した。
「では、こちらの書類に必要事項を記入してください。偽名でも構いませんが、一度登録した名前は変えられませんよ。……それから、そちらの『鑑定の水晶』に手を置いてください」 「これで何を測るんですか?」
テオが巨大な盾を床に置き、興味深そうに耳をピクリと動かして尋ねた。
「その方の魔力適性と、生命力の密度を測ります。それで最初のランクが決まります。……まずはそちらの、獣人の方からどうぞ」
ソニアの指示に従い、テオが大きな掌を水晶に置いた。水晶は鈍い黄色に輝き、ソニアは手元の台帳にペンを走らせる。
「……ランクC。新入りとしては異例の魔圧ですね。盾使いとしての資質が極めて高い。次は、お嬢様」
フィリーネが触れると、水晶は清冽なエメラルド色の光を放った。
「……同じくランクC。高い治癒能力と、植物への親和性を感じます。これなら、どこのパーティーからも引く手あまたでしょうね」
ソニアの表情に、微かな驚きと期待が混じり始めた。彼女の視線が、最後に残ったゼノリスへと向けられる。
「では、最後に貴方……リーダーの方ですね。水晶へ手を」
「……はい」
ゼノリスは右手の刻印を隠す包帯が緩んでいないかを確認し、精神を集中させた。
(抑えるんだ。学園で見せた『銀色の残響』ではなく、ただの剣士としての、最低限の魔力を……)
彼は細心の注意を払い、自身の内側にある巨大な魔力の奔流を奥底へと押し込め、静かに水晶へ掌を当てた。
触れた瞬間だった。 キィィィィィィィン……! という、耳を劈くような高周波がギルド中に鳴り響いた。
「なっ、何事……!?」
ソニアが眼鏡を抑えて立ち上がる。紫色の水晶はゼノリスの魔力を吸い込んだ途端、青白く、まるで真昼の太陽を無理やり閉じ込めたような、強烈な閃光を放ち始めた。その光は、抑えようとするゼノリスの意志を嘲笑うかのように膨れ上がり、ギルドの喧騒を完全に飲み込んだ。
次の瞬間――パリンッ! という、悲鳴のような派手な音と共に、水晶は内側からの圧力に耐えかね、無数の破片となって粉々に砕け散った。
「…………っ!?」
静まり返るギルド。砕けた水晶の破片がカウンターに飛び散り、ソニアは呆然と立ち尽くしていた。彼女の職業的な笑みは完全に消え去り、震える指先で台帳を握りしめた。
「……計測、不能? 水晶が割れるなんて、この街の創設以来、一度も……」
嘲笑していた冒険者たちも、蛇に睨まれた蛙のように硬直している。その異様な静寂を破ったのは、カウンターの背後、2階の回廊から響いた、地鳴りのような低い声だった。
「……ソニア、下がれ。その小僧たちは俺が直々に相手をする」
騒然とする広間に、地鳴りのような低い声が響いた。
二階の回廊から現れたのは、全身に数多の戦傷を刻んだ隻眼の老人、ギルド長ボーランだった。その一言で、ギルド内の喧騒が潮が引くように消える。
ボーランは顎で三人を促し、奥の執務室へと入っていった。
部屋は古い紙と煙草の匂いに満ちていた。ボーランは重厚な机の奥に腰を下ろすと、射抜くような視線をゼノリスへと向けた。
「座れ。……さて、まず聞かせろ。あんな魔力を見せつけておきながら、今さら新入りとして登録しに来た本当の理由はなんだ?」
「……水晶を壊したのは謝ります。弁償もします。ですが、わざとじゃありません」
ゼノリスが真っ直ぐに言い返すと、ボーランは鼻で笑った。
「金の心配はしてねえ。あの水晶が割れるのは、中身がとんでもねえ化け物だって証拠だ。……お前ら、あの学園の連中だろ。卒業式に各国が血眼になって探してたっていう……例の『鉛』か?」
ゼノリスは僅かに沈黙した後、観念したように息を吐いた。
「……そうです。あそこにいたら、結局誰かの都合で戦わされるだけだと思った。だから僕らは逃げ出しました。身分を隠して、自分たちの足でこの世界を見たい、感じたい。ただそれだけです」
ボーランは腕を組み、深く椅子に背を預けた。
「逃げ出したか……」
ボーランの独り言に、ゼノリスは一瞬眉をピクリとさせた。
「……いいか、小僧。もし俺が今ここでお前らに相応のランクを与えたら、明日の朝には八ヵ国の刺客がこの街を埋め尽くすことになる。お前らが望んでいるのは、そんな状況じゃないはずだ」
「……ええ。目立ちたくはありません」
「なら、ランクFで登録しろ。鉄のプレートを持たせてやる」
ボーランは机の引き出しから、まだ輝きのない三枚のプレートを取り出し、無造作に放り投げた。
「高ランクの連中はどこへ行っても注目の的だが、ランクFはただの石ころだ。薬草摘みやドブ掃除をしてるガキを、わざわざ追いかける奴はいねえ。まずは下っ端として、世の中の仕組みを叩き込め。それが正体を隠し通すための最善策だ」
ゼノリスはプレートを握りしめ、小さく頷いた。
「……助かります。そうしてもらえると」
「恩に着る必要はねえ。ただし、その腕を腐らせておくのも街の損失だ。……これを持ってけ」
ボーランは一枚の依頼書を突き出した。
「エテルナの森での薬草摘みだ。大した金にはならねえが、最近の森は少し様子がおかしくてな。お前らの腕なら、目立たない程度に魔獣を追い払うくらいはできるだろ。……街の平和のために、少しは手を貸してくれ」
「わかりました。……行こう、フィリー、テオ」
ゼノリスが立ち上がると、ボーランは背を向け、深く椅子に寄りかかった。
「……精々、目立たねえようにやるんだな。しくじるんじゃねえぞ」
そのぶっきらぼうな背中に一礼し、三人はギルドの二階から階段を降りていった。
三人はその提案を喜んで引き受けた。エテルナの森に入ると、テオとフィリーネの表情が明るくなった。
「ゼノリス、見て! 岩陰に『月見草の原種』が群生してる! これ、学園では一株手に入れるのにも手続きが大変だったのに!」
「本当ですね、テオ。こちらには『銀嶺の雫』まで……。見てくださいお兄様、この葉の輝き。学園の魔法で無理やり育てられたものとは、生命力の強さが全く違います」
テオは楽しそうに土を弄り、フィリーネも丁寧に草を摘んでいく。学園での緊張感から解放された、束の間の穏やかな時間。
「ふふ、テオ。あまり夢中になりすぎて、魔獣への警戒を忘れないでくださいね。お兄様の前で無様な姿は見せられませんから」
「わかってるよ、フィリーネ。でも、見てよこの根の張り方! これなら、僕が作るポーションの効果も三割は増しそうだ。……ねえ、ゼノリス。今日はここに泊まりたいくらいだよ」
だが、その静寂は不意に破られた。
キィィィィィィィン……! という、大気を震わせる不吉な咆哮。そして、それに重なる若い女性の悲鳴。
「……っ、悲鳴か!?」
ゼノリスは鋭い警戒の色を宿した瞳で、声のした東の空を射抜いた。
天を覆う巨木の隙間から、正午近い太陽の光が幾筋もの柱となって差し込み、舞い上がる土煙を白く照らし出している。
「ゼノリス、こっちだよ! 凄まじい魔力の乱れと、血の匂いを感じる!」
テオが獣の耳を鋭く動かし、鼻先を震わせた。三人は弾かれたように地を蹴った。
深いシダの葉をなぎ倒し、腐葉土を跳ね上げながら駆け抜けた先、森が開けた街道沿いで、それは異様な威圧感を放って君臨していた。
そこにいたのは、この辺境の森の暴君と恐れられる魔獣『鉄砕の大牙』であった。
体長は四メートルを優に超え、肩の高さだけでもゼノリスたちの身長を遥かに凌ぐ。巨大なイノシシを数倍に膨れ上がらせたようなその巨躯は、全身が鋼のように硬質な、黒い剛毛に覆われている。一歩踏み出すたびに地響きが鳴り、凄まじい重量感を示していた。
何より目を引くのは、下顎から天に向かって湾曲しながら突き出した、一対の巨大な牙だ。鈍い銀色の光沢を放つその牙は、大樹の幹さえも一突きで粉砕する破壊の象徴であり、今は倒れ伏した護衛たちの血に濡れ、禍々しく輝いていた。
その巨躯の前で、車輪を折られ傾いた一台の豪華な馬車の傍ら、一人の少女が恐怖で声を失い、泥にまみれて座り込んでいた。上質な生地のドレスは無残に汚れ、震える肩は今にも崩れ落ちそうだ。彼女の眼前で、魔獣が真っ赤な双眸を爛々と輝かせ、煮え立つような吐息を漏らしながら、その強靭な蹄を今まさに振り上げようとしていた。
「テオ、正面を止めろ! フィリー、援護を頼む!」
ゼノリスの裂帛の気合が飛ぶ。
同時にテオが大地を割り、弾丸のような速さで少女の前へと割り込んだ。
「させるかよ、デカブツ! 『黒盾の壁』!!」
テオが巨大な漆黒の重盾を地面へ叩きつける。衝突の瞬間、轟音と共に衝撃波が周囲の草木をなぎ倒した。魔獣の必殺の突進を、テオは歯を食いしばり、全身の筋肉を鋼に変えて真っ向から受け止めた。
魔獣が思わぬ抵抗に怯んだ、その刹那。
「……光の加護を! 黄金の茨、道を縛りなさい!」
背後でフィリーネが杖を高く掲げる。彼女の放った魔導の光が地面に染み込むと、無数の黄金色の茨が瞬時に魔獣の四肢に絡みつき、その巨体を一瞬だけ現世に繋ぎ止めた。
一拍。
ゼノリスが、空気そのものを切り裂いて踏み込んだ。
魔導の調律も、銀色の残響も使わない。ただ、養父ロランから徹底的に叩き込まれた、純粋かつ無欠の守護の剣技。
銀色の閃光が、森の緑を鮮やかに切り裂いた。
抜き放たれた刃は、魔獣の鋼の剛毛をものともせず、その急所である喉元を正確に、かつ深く断ち切る。
「…………ガ、アァ……」
言葉にならない断末魔を上げ、森の暴君はその巨躯を崩れさせた。
ズゥゥゥン……と、大地を揺らす最後の振動が消えた後、辺りには再び、静かな風の音だけが戻ってきた。
ゼノリスはゆっくりと剣を鞘に納めたが、視線は周囲の警戒を解いていない。テオは盾を構えたまま魔獣の死体に歩み寄り、完全に絶命したことを確認して、ようやく短く息を吐いた。
「……ゼノリス、終わったよ」
その声を聞き、ゼノリスは馬車の車輪の陰で震える少女へと歩み寄った。
彼女は両手で顔を覆い、言葉にならない嗚咽を漏らしている。傍らには編みかけの花籠が転がり、中からは摘み取られたばかりの青い小花が、踏み荒らされた土の上に散らばっていた。
「……もう大丈夫です。魔獣はもう居ません」
ゼノリスが少し距離を置いて膝をつき、低く落ち着いた声で語りかけると、少女はびくりと肩を跳ねさせた。指の間から覗いた瞳は恐怖で焦点が定まらず、涙でひどく濡れている。
「あ……あ、う……っ」
何かを言おうとするが、喉が引き攣れて声にならない。フィリーネがそっとゼノリスの隣に寄り添い、薬箱から清潔な布を取り出した。彼女は少女を刺激しないよう、ゆっくりと手を差し伸べる。
「……怖かったですね。でも、もう大丈夫。私たちは味方です。……このお花、とても綺麗ですね」
フィリーネが地面に散らばった青い花を拾い上げ、優しく籠に戻すと、少女はそれを見て、ようやく堰を切ったように泣き出した。自分の無鉄砲さが招いた事態への罪悪感と、死の淵から救われた衝撃が、一気に溢れ出したようだった。
「……私は、クララと言います。父の……父の誕生日に、この森にしか咲かない『空色の雫』をどうしても届けたくて。……私のせいで、護衛の人たちが……」
震える声で語られたその言葉に、ゼノリスは黙って耳を傾けた。彼女は立ち上がろうとしたが、足はまだ生まれたての小鹿のように震えている。
「……歩けますか。お宅まで送り届けます」
ゼノリスの言葉に、クララは何度も頷いた。生き残った護衛たちをテオが支え、一行はエテルナの街の北側に位置する丘へと向かった。そこには、街の喧騒を見下ろすように、白大理石が美しい豪奢な邸宅がそびえ立っていた。
案内されたのは、重厚な装飾が施された応接室だった。最高級の香木の香りが静かに満ちる中、三人を待っていたのは、落ち着いた物腰の紳士だった。彼こそが、この自由都市の経済を束ねる重鎮、ガルドである。
ガルドは寄り添う娘の無事をその目で確かめると、深く、誠実な一礼を捧げた。
「娘を……クララを救っていただいたこと、なんとお礼を申し上げればよいか。……まずは座ってください。お茶を用意させましょう」
ガルドは穏やかな笑みを浮かべながらも、その鋭い双眸はゼノリスたちの佇まいを静かに観察していた。泥に汚れ、鉄色のプレートを下げた「新人冒険者」という肩書き。だが、その背筋の伸び方、そして揺るぎない眼差しは、到底、昨日今日剣を握った者のそれではない。
「……先ほど、護衛の者から報告を聞きました。森の暴君を、魔導も使わず一撃で断ち切ったとか。……新人冒険者と伺いましたが、その身のこなし。……どうやら、ただの『新入り』ではないお方のようですね」
ガルドの言葉には、探りを入れるような嫌らしさはなかった。むしろ、目の前の若者たちが抱える「重み」を尊重するような響きがあった。ゼノリスは僅かに視線を落とし、短く答えた。
「……ただ、運が良かっただけです」
「くくっ、……よろしい、多くは聞きません。お前さんたちがなぜそれほどの力を持ちながら、一番下のランクでこの街に来たのか。……訳ありなのでしょう」
ガルドは再びソファーに背を預けると、包容力を感じさせる眼差しで三人を見渡した。
「ですが、一つだけ覚えておいてください。私は恩義を忘れる男ではない。この街に住むのであれば、私は貴方たちの味方になりましょう。……表立って動けない事情があるのなら、私が『盾』になります。何か困ったことがあれば、私を頼ってください」
その言葉は、冷徹な理性が支配する学園では決して得られなかった、大人の余裕と慈愛に満ちていた。ゼノリスは、隣で小さく息を吐いたテオと、静かにゼノリスを見るフィリーネの気配を感じながら、新しい街での最初の「確かな絆」を実感していた。
エテルナの街を包む夜は、昼間とはまた異なる情熱と喧騒に満ちていた。魔導灯の淡い琥珀色の光が石畳を照らし、裏路地からは酔客の笑い声や楽器の音色が風に乗って聞こえてくる。
三人が「青い星の宿」の重い木扉を押し開けると、そこには昼間の殺伐とした森とは対照的な、安らぎに満ちた空気が漂っていた。薪のはぜるパチパチという音と、食欲をそそる香ばしい肉の焼ける匂い。カウンター越しに常連客と談笑していたマーサが、三人の姿を見つけるなり、顔を綻ばせて声を上げた。
「おかえり! 随分と遅かったじゃないか。あんまり帰ってこないから、ルカが心配して港まで見に行こうとしてたんだよ」
奥の厨房から、エプロン姿のルカが「母ちゃん、余計なこと言うなよ!」と顔を真っ赤にして飛び出してきた。だが、その瞳には明らかな安堵の色が浮かんでいる。
「……ただいま。少し、手間取ってしまったんだ」
ゼノリスが短く答えて席に着くと、待っていましたとばかりにマーサが特大の木製トレイを運んできた。今夜の夕食は、たっぷりの地野菜と厚切り肉を煮込んだシチュー、それにエテルナ名物の黒パンだ。
「さあ、まずは食べな。冒険者の初仕事は、胃袋を満たすまでが終わらないんだから」
「……いただきます。すごい、いい匂い」
テオが耳をピクピクと動かし、熱々のシチューを一口運ぶと、その温かさにフニャリと頬を緩めた。
「……美味しい。学園の食堂も悪くなかったけど、こういう『生きた味』がする料理は初めてだ」
「本当ですね。……お兄様、見てください。今日の収穫です」
フィリーネは大切そうに抱えていた薬草袋を少しだけ開き、中身をマーサに見せた。
「あら……! これは『月見草』に『銀嶺の雫』じゃないか。ランクFの初仕事にしちゃ、上等すぎるね。あんたたち、薬草摘みの才能があるんじゃないのかい?」
「……ああ。テオとフィリーネが、すごくこだわって選んでいたからね」
ゼノリスが微笑みながらパンを千切っていると、ルカが身を乗り出して尋ねてきた。
「なあ、兄貴! ギルドの方はどうだったんだよ。変な連中に絡まれたりしなかったか?」
その問いに、三人は顔を見合わせた。水晶が砕け散ったことや、二階のギルド長室に呼び出されたことを話せば、せっかくの「平穏な日常」が台無しになってしまう。ゼノリスは言葉を選びながら、できるだけ淡々と答えた。
「……少し驚かれたけど、無事に登録できたよ。ランクFの鉄色プレートだ。……それより、帰り道に少し困っている人を助けて、その方の家まで送り届けていたから遅くなったんだ」
「困ってる人? 誰だよ」
ルカが不思議そうに首を傾げると、フィリーネが補足した。
「クララさん、という女性です。森で魔獣に襲われていたところを、お兄様たちが助けました。……お父様がガルドさんという方で、とても立派なお屋敷でした」
瞬間、宿屋の空気が凍りついた。
カウンターで酒を飲んでいた常連客が噴き出し、マーサは手に持っていた布巾を床に落とした。ルカに至っては、開いた口が塞がらないといった様子で固まっている。
「……ガ、ガルド!? あの、エテルナ商工会の会頭で、市長の右腕とも言われてるガルド・レオンハルトさんのことかい!?」
マーサが裏返った声で叫ぶと、周囲の客たちも騒ぎ始めた。
「嘘だろ、あの『鉄砕の大牙』が出るって噂の森から、ガルドの嬢ちゃんを助け出したってのか?」
「しかもランクFのガキが三人で……おい、本当かよ!」
ゼノリスは、予想以上の反応に僅かに眉を寄せた。目立たないように振る舞うつもりが、助けた相手があまりにも大物すぎたようだ。
「……運が良かったんです。魔獣も、それほど強い個体ではありませんでした」
「いやいや、兄貴! あの魔獣はプロの冒険者でも数人がかりで挑む相手だぜ。それを……すげえ、やっぱり兄貴たちはただ者じゃねえと思ってたんだ!」
ルカは興奮してゼノリスの肩を叩こうとしたが、ゼノリスの纏う静かな、しかし鋭い剣士の気配を無意識に感じ取ったのか、その直前で手を止めて尊敬の眼差しを送った。
「……あんたたち。この街でガルドさんに恩を売るなんて、宝くじに当たるより凄いことだよ」
マーサは呆れたように息を吐きながらも、どこか誇らしげに目を細めた。
「でも、気をつけな。有名になれば、それだけ面倒な奴らも寄ってくる。……今夜は特別に、デザートの蜂蜜林檎をサービスしてやるよ。しっかり食べて、明日に備えるんだ」
喧騒が落ち着き、客たちがそれぞれの部屋へ引き上げた後。三人は食堂の片隅で、窓の外に広がる夜景を眺めながら、静かに茶を啜った。
「……お兄様。結局、目立ってしまいましたね」
フィリーネが、少しだけ困ったように、しかし嬉しそうに呟いた。
「ああ。……でも、ガルドさんは僕たちの事情を深くは詮索しないと言ってくれた。」
「僕は、今日一日だけでもう、この街が気に入ったよ」
テオが心地よさそうに目を細める。
「学園にいた頃は、常に誰かの期待に応えなきゃいけない気がしてた。でも、ここでは自分が何者かなんて関係ない。……ただの冒険者として、誰かのために盾を振るえる。それがこんなに清々しいなんてね」
ゼノリスは、ポケットに入れた鉄色のプレートの無機質な冷たさを指先で確かめた。 かつて彼らを縛っていた「鉛」の枷は、今や広大な世界を歩くための「自由」へと変わっている……そう、少なくとも形の上では。
だが、指先に伝わる鉄の重みは、学園を発つ直前に教官ガント――バアルガントから託された、誰にも明かせない「秘密」を静かに、しかし重く思い出させた。
(……逃げてきたんじゃない。僕は、僕自身の意志でこの場所を選んだんだ。学園という閉ざされた箱庭では決して届かなかった、この世界の『歪んだ響き』。その正体を見極めるために……)
彼の銀色の瞳の奥に、新人冒険者としての顔とは異なる、鋭く深い「調律者」としての決意が宿った。
「……そうだね。僕たちの物語は、まだ始まったばかりだ。……明日からは、もっと忙しくなるぞ」
窓の外、夜の空には、かつて学園の屋根裏部屋から眺めたのと同じ、美しい星屑たちが輝いていた。だが、今の彼らはただ星を見上げるだけの子供ではない。
自分たちもまた、この夜空の巨大なうねりの中を泳ぎ、自分たちの色で輝き始めているのだ。
「ステラ・レギオン」――。
その名前が、この街に真の響きをもたらす日は、そう遠くない。




