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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第3巻 黄金の導きと冒険者たち

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第16章:卒業、そして星たちの船出

 窓の外から差し込む春の陽光が、旧時計塔の分厚い石壁を、蜂蜜をゆっくりと時間をかけて溶かしたような柔らかな黄金色に染め上げていた。帝国魔導院学園に入学してから、五度目の春である。かつては地下の掃き溜め、あるいは学園の「不都合な廃棄物」と同義であった最下位「プルンブムクラス」の居城は、今や全生徒、そして八ヵ国連合の要人たちですら畏怖を込めて見上げる、不可侵の聖域——あるいは大陸の運命を左右する「伝説の震源地」へと変貌を遂げていた。

 ゼノリス・ルーツは、使い込まれたベッドの縁に腰を下ろし、朝の静寂の中で自身の大きな掌を見つめていた。

16歳。少年のあどけなさは五年間という歳月の荒波に削ぎ落とされ、その身体には「書架騎士」であった養父ロランから徹底的に叩き込まれた守護の剣術と、数多の死線を越える中で培われた強靭な筋骨が宿っている。かつて細かった手首は逞しくなり、肩幅は広く、座っているだけで周囲の空気を圧するような騎士の風格を纏っていた。右手のひらに刻まれた、幼き日の力の暴走による大きな火傷の跡。そしてその上に、帝国の禁忌たる技術の象徴として鈍い銀光を放つ「三つ目の星」の刻印。ゼノリスは、その刻印を左手でなぞりながら、ふと意識を過去へと飛ばした。


 ——この五年間、誰一人欠けることなくこの時計塔で生き抜いてこれたのは、奇跡などではない。

 ゼノリスは目を閉じ、共に歩んできた「鉛の騎士団」の面々の顔を思い浮かべる。二年生の冬に挑んだ「忘却の監獄」での死闘を経て、彼らの絆は単なる友情を超えた、魂の共鳴アンサンブルへと昇華されていた。

 没落聖女であったセレスティアは、この五年間で最も気高く、そして美しく成長した一人だ。かつては運命に絶望していた彼女の青い瞳は、今や迷いなき真実の輝きを宿している。聖女の一族として受け継いだ癒しの力は、ゼノリスが二つの脈動の狭間で倒れそうになるたび、その清冽な祈りで彼を現世へと繋ぎ止めてくれた。彼女が奏でる聖歌は、時計塔に集う仲間たちの荒んだ心を鎮める慈雨となり、今や彼女は学園内の「隠れた聖女」として、一部の生徒たちから神聖視されるほどの存在になっていた。

 そのセレスティアと、かつて聖女の座を巡って争い、教会を追放されたイリスもまた、時計塔には欠かせない守護の要となった。灰色の修道服を纏い、冷徹な仮面の下に激情を隠した彼女は、自身の得意とする幻惑魔法イリュージョンを極限まで磨き上げた。彼女が旧時計塔の周囲に張り巡らせた「迷いの霧」は、八ヵ国連合の刺客や、マルクスが送り込む監視の目から、この五年間、仲間たちの平穏を完璧に守り抜いてきたのだ。セレスティアとの間に芽生えた、言葉を交わさずとも通じ合う奇妙な信頼関係は、今の「鉛の騎士団」の強さの象徴でもあった。

そして、ルサルカ海洋公国出身のナディアは、常に太陽のような明るさでクラスを照らし続けてきた。小麦色の肌と青い髪を持つ彼女は、黄金の羅針盤を手に、過酷な演習や任務において、常に「生き残るための航路」を指し示してくれた。荒れ狂う運命の波の中で、彼女の屈託のない笑声と、船乗りの娘らしい揺るぎない決断力に、ゼノリスが何度救われたか分からない。彼女は今や「鉛の騎士団」の航海士としてだけでなく、仲間たちの心を繋ぎ止める精神的な支柱となっていた。

 ルカスとガイルが地下の帝国の心臓を司り、カシムが闇を、リィンが風を、テオが盾を担う。十人の異能が、この五年間で一つの完成された「機構」のように噛み合い、彼らは学園という箱庭を飲み込むほどの力を持つに至った。

 だが、ゼノリスにとって最も大きな、そして最も心を掻き乱す変化は、仲間の成長でも、八ヵ国連合の圧力でもなかった。


 それは、今まさに扉を叩こうとしている、一人の少女の変貌だった。


(……あの頃のフィリーは、僕の服の裾を掴んで離さない、小さな子供だったはずなのに)


 脳裏に浮かぶのは、七年前の逃亡生活や、入学当初の幼い彼女の笑顔だ。銀色の髪をなびかせ、「兄さま!」と呼んで胸に飛び込んできた、壊れそうなほどに儚い存在。それがいつしか、彼女の背がゼノリスの肩に届くようになり、その声から幼い甘えが消え、代わりに底知れない慈愛と、一人の女性としての熱情が混じるようになった。「星のステラ・シード」としての覚醒は、彼女をただの人間から、この世界の理を司る神聖な存在へと押し上げたが、それ以上に彼女の肉体と精神にも、残酷なまでに美しい成熟をもたらした。


 コン、コン——。


 その時、部屋の扉が遠慮がちな、しかし確かな、どこか心弾ませるようなリズムでノックされた。思考の海から引き戻されたゼノリスは、喉の奥に溜まった熱を飲み込むようにして、短く息を吐いた。


「お兄様。朝の支度のお手伝いに参りました」


 ゼノリスの心臓が、ドクリと大きく跳ねた。扉の向こうから聞こえてきたのは、かつてのあどけない少女の声ではない。鈴を転がすような透明感を保ちつつも、どこか湿り気を帯びた、大人の女性へと至る途上の艶やかな響き。フィリーネだ。


「ああ……入っていいよ、フィリー」


 返事とともに扉が開く。そこに立っていたのは、朝日を背負い、銀糸の髪を揺らす一人の美しい淑女レディだった。


 13歳になったフィリーネ・ルーツの成長は、ゼノリスにとって、魔王の脈動を制御することよりも遥かに困難な「毒」となりつつあった。腰まで届く銀色の髪は、歩くたびに光の粒子を振り撒くように煌めき、透明な青い瞳には、深淵のような慈愛と、兄に対する危ういほどに深い独占欲が静かに揺れている。だが、何よりゼノリスを動揺させたのは、そのしなやかな肢体の変化だった。13歳という実年齢を疑わせるほどに、彼女の身体は女性としての完成を急いでいた。白亜の制服のシャツを内側から力強く押し上げる豊かな胸の膨らみは、彼女が呼吸を繰り返すたびに柔らかな曲線を描き、引き締まった細い腰のラインが、その豊饒さを残酷なまでに際立たせている。かつては「幼い妹」として軽々と抱き上げていた彼女は、今や一人の男性として、正面から向き合うことを躊躇ためらわせるほどに完成された美を放っていた。


 フィリーネは流麗な動作でゼノリスの傍らに歩み寄ると、ごく自然な仕草で、彼の隣に腰を下ろした。ギィ、と古びたベッドが僅かに沈み、彼女の体温と、春の風に乗った早咲きの百合のような甘い香りがゼノリスの感覚を支配する。


「お兄様、また右手の包帯が緩んでいます。……私が、丁寧に巻き直して差し上げますね」


 彼女が差し出した白く細い指先が、ゼノリスの武骨な手に触れる。ひやりとするような冷たさと、その奥に潜む、熱を孕んだ柔らかな質感。フィリーネはゼノリスの右手を自らの膝の上に乗せ、大切に古い包帯を解いていった。剥き出しになったゼノリスの火傷の跡を、彼女は慈しむように、壊れ物を扱うような手つきでそっとなぞる。


「……フィリー。その、『お兄様』っていう呼び方、いい加減やめてくれないか。……どうにも照れくさくて、落ち着かないんだ。前みたいに、普通に呼んでくれればいいのに」

ゼノリスが視線を逸らし、赤くなった耳を隠すように呟くと、フィリーネは包帯を繰る手を止め、どこか愉しげに小首を傾げた。


「ふふ、ダメですよ。私たちはもう、ただの幼い兄妹ではありませんから。……いつまでも袖を掴んで甘えているだけの子供では、今の立派なお兄様に釣り合いませんし、私の気が済みませんもの」


 そう言って、彼女はゼノリスの顔を覗き込むようにして、悪戯っぽく微笑む。


「それに……これからはもう、守ってもらうだけの『妹』でいようとは、思っていませんから」


 真っ直ぐに自分を射抜くフィリーネの瞳に、ゼノリスは言葉を失った。そこにはかつての無邪気な依存ではなく、一人の女性として、大切な人の隣に立つという静かな、しかし確かな覚悟が宿っていたからだ。

 ふふ、と彼女が微かに微笑む。その拍子に、彼女の豊かな胸元が、ゼノリスの逞しい腕に僅かに触れた。柔らかい、という回避不能な事実が、ゼノリスの思考回路を一瞬で焼き切る。  彼女の指が包帯を繰るたびに、二人の距離は物理的にも心理的にも縮まり、ゼノリスは逃げ場を失っていく。


「っ……」


 ゼノリスは思わず、逆側の窓の方へと顔を背けた。視線をどこにやっていいのか、もはや分からない。目の前のフィリーネは、かつて嵐の夜に瓦礫の中から救い出し、黄金の麦畑で共に駆け回った「守るべき子供」ではない。帝国の正統な継承者「星のステラ・シード」としての不可侵の神々しさと、一人の男としての本能を根底から揺さぶる女性としての色香を兼ね備えた、残酷なまでに魅力的な「ひと」なのだ。


「どうかなさいましたか? お兄様。……先程からお顔が赤いですけれど。……どこか、お加減でも悪いのではありませんか?」


 確信犯だ、とゼノリスは唇を噛む。フィリーネは彼の動揺を、その耳たぶが赤く染まる様を、呼吸が僅かに乱れる様を、すべて知り尽くした上でこの距離を維持している。彼女の瞳の奥には、ゼノリスを世界の誰一人にも、たとえ運命という神にさえも渡したくないという、底知れない、そして甘美な情愛が渦巻いていた。


「いや、なんでもない。……ただ、少し陽光が眩しかっただけだ」


「あら。……光栄です、お兄様。私、お兄様のそんな不器用な嘘も、大好きです」


 フィリーネは完璧な手際で包帯を巻き終えると、ゼノリスの手の甲に、羽毛が触れるような軽い、しかし執拗な口づけを落とした。銀糸の髪がゼノリスの腕に触れ、さらさらとした感触が肌に残る。


「さあ、行きましょう。……今日は、八ヵ国連合の使節団が到着する大切な日です。……『鉛の騎士団』のリーダーとして、彼らに、私たちを思い通りにできるなどという幻想を捨てさせてあげなくては」


 彼女が立ち上がり、ゼノリスの手を引く。その手に導かれるまま、ゼノリスは部屋を出た。  廊下を歩く二人の姿は、もはや学生のそれではない。


 一人は、二つの脈動を調律し、騎士の誇りを纏った若き巨星。一人は、その巨星に寄り添い、世界を冷徹に見据える銀髪の淑女。


 五年間、この旧時計塔で静かに育まれてきた絆と、互いへの募る想い。それは今、「黄金の卒業」という名の解放を経て、世界という不協和音の譜面を自らの手で書き換えるための、苛烈なる旅路の始まりを告げようとしていた。


 ゼノリスは、フィリーネの柔らかな手の感触を確かめるように握り返した。それが、これからの戦いにおける唯一の「いかり」になると信じて。



旧時計塔の冷涼な空気から一転し、回廊を抜けた先にある中央演習場は、むせ返るような熱気と、肌を粟立たせるような殺気に満たされていた。学園の心臓部に位置するこの円形演習場は、数千人を収容する観覧席に囲まれた広大な砂地である。その中央、天を衝くような陽光を照り返す白砂の上に、卒業の日を迎えた数百名の生徒たちが整列していた。ゼノリスとフィリーネが歩み寄る先、最前列の一角には、五年間という過酷な歳月をこの時計塔で共に生き抜いてきた「鉛の騎士団」の仲間たちが、既にその威風堂々たる姿を現していた。


 まず目を引くのは、岩壁のようにそびえ立つテオの背中だ。16歳になった彼の体躯は大人顔負けの厚みを備え、その手には学園支給品ではない、鈍い輝きを放つ漆黒の重盾が握られている。彼は無言のまま、周囲から注がれる好奇の視線をその盾一枚で弾き返すかのように、どっしりと大地に根を張っていた。

その隣、凛とした空気を纏って立つのはリィンである。腰まで伸びた黒髪を一つに束ね、その手は常に愛刀の柄に近い。彼女の周囲だけは微かな風が常に渦巻いており、近づく者すべてを切り裂くような鋭い剣気が、彼女の静かな表情とは裏腹に剥き出しになっていた。

潮風の香りを漂わせ、青い髪を遊ばせているナディアは、手にした黄金の羅針盤を退屈そうに指先で弄んでいる。だがその双眸は、空を流れる雲の速さや風の匂いから、刻一刻と変化する演習場の魔力密度を冷静に読み取っていた。

そして、胸元で深く指を組み、静かに祈りを捧げているのはセレスティアだ。かつての悲壮感は消え、その横顔には聖女としての確かな慈愛と、揺るぎない覚悟が宿っている。彼女の放つ清冽な気配は、殺伐とした演習場において、唯一の清涼剤のように仲間たちの心を繋ぎ止めていた。

 その隣で、灰色の修道服を深く被り、微動だにせず佇んでいるのはイリスだ。彼女の周囲には常に薄い霧のような幻惑の魔力が漂い、他国の魔導探知を無効化する不可侵の結界を築いている。冷徹な仮面の下に潜むその瞳は、観覧席にひしめく各国の使節たちの嘘を、誰よりも鋭く見抜いていた。

さらに、眼鏡の奥で観覧席の構造と各国の武装を分析するルカスと、無愛想に魔導回路の調整を終えたガイルが控えている。

影に溶け込むように気配を消したカシムは、既に観覧席に潜む不穏な動きを察知しているのか、その鋭い視線は一度として定まることがない。

十六歳になったゼノリスがその中心へと一歩を踏み出すと、八人の仲間たちは一斉に彼を振り返った。そこには言葉など必要なかった。ただの視線の交差だけで、五年間で築き上げた鉄の絆が、目に見えない熱となって場を支配した。


「……お兄様。見てください。あそこにいる人たち、誰一人として私たちの卒業を祝うような目をしていません」


 ゼノリスの腕をそっと握りしめたフィリーネが、観覧席を埋め尽くす異様な光景を冷徹に見上げて囁いた。13歳となった彼女の感性は、各国の領袖たちが放つ、剥き出しの独占欲を鋭く捉えていた。


 貴賓席の最上段、漆黒の鉄装束を纏い、重油と錆の混じった威圧感を撒き散らしているのは、北の鉄鋼王国ヴェルンドのヴァルガルド王だ。彼は無骨な指先で肘掛けを叩きながら、ゼノリスを凝視していた。

(……あの少年が、我が軍の機械歩兵に『心臓』を吹き込む触媒か。彼の『調律』さえあれば、ヴェルンドの鋼鉄は真に無敵となる。他の小国どもに分け前を与えるなど、愚の骨頂よ)

ヴァルガルド王の脳裏には、ゼノリスを自国の軍事工場に繋ぎ止め、大陸全土を黒煙で覆い尽くす覇権の図面が描かれていた。


 それに対抗するように、扇で口元を隠しながら優雅に、しかし氷のような瞳で場を見下ろしているのは、西のルサルカ海洋公国のマリエーヌ大公妃である。

(……フィリーネ。あの娘の神聖な美しさは、我が公国の『星読み』の権威を完成させる最後のワンピース。彼女を聖女として祀り上げれば、海上貿易の主導権は永遠に我が手の内に。ヴェルンドのような野蛮な鉄の塊に、あの宝石は似合わないわ)

彼女にとって、ゼノリスとフィリーネは自国の経済的優位を絶対のものにするための、最高級の「価値ある駒」に他ならなかった。


 また、宝石を散りばめた衣装を纏い、静かに煙管を燻らしているのは、アル・ザハブ南方太陽国のスルタン・ハシムだ。

(……カシムの影魔法。あれこそが、オアシスの水を狙う賊どもを闇に葬るための最強の暗殺術だ。砂漠の太陽の下では、光よりも影の方が価値がある。あの少年たちを砂の牢獄へ招くためなら、いくらでも宝石を積み上げよう)


 一方、帳簿をめくるように冷酷な視線を送っているのは、ギルダー商業公国のバルトロ議員であった。

(……フン、ヴェルンドもルサルカも青いな。あの少年たちの価値を軍事や権威でしか測れぬとは。あの『調律』の技術を特許化し、大陸全域の魔導回路にライセンス料を課せば、どれほどの金貨が舞い込むか。金こそが世界を動かす唯一の正義だということを、じっくり教えてやらねばな)


 情報戦の要を担うブレーゼ西方高原王国のゼフィール王は、傍らに置かれた通信用鳥便を撫でながら、冷徹に思考を巡らせる。

(……空中騎士団の機動力をさらに高めるために、あの魔導の『加速』は必須だ。他国が手を出す前に、情報操作で彼らを孤立させ、我が国へ亡命せざるを得ない状況を作るまでよ)


 ヴェルンドへの鉄供給を握るドロモス中央山岳王国の頑鉄王ロックは、無愛想に腕を組んでいた。

(……我が国の鍛造技術は今や限界に達している。あの少年たちの異能を、新しい合金の生成試験に使わせてもらおう。道具は使い倒してこそ価値がある)


 さらに、古びた権威を盾にしながら、深く帽子を被り祈るフリをしているのは、サンクトゥス聖教国の教皇ベネディクトの代理人だ。

(……セレスティアとイリス。あの二人の聖なる力を教会の管理下に戻さねば、腐敗した上層部への批判は止まぬ。彼女たちを『罪人』として連れ戻し、再び地下の祈祷室へ封じ込めるのが、神の御意志というものだ)


 八ヵ国連合——表向きは平和を謳いながらも、その実態は、互いの背中を刺し合う隙を狙う飢えた獣の群れ。彼らにとって、この卒業式は祝賀などではなく、かつての帝国の威光という「覇権」を切り分けるための残酷な狩場であった。


 そんな殺伐とした不協和音の中で、唯一、中立を保ちながらゼノリスたちに穏やかな視線を送っていたのが、シルフィード東方霊樹国の使節団だった。


「……ゼノリス殿、そして『鉛の騎士団』の皆さん」


 使節団の中から、リィンの師である剣聖カゲトラが、他国の王たちの威圧をものともせず静かに歩み出た。彼は砂地を踏みしめ、ゼノリスたちの前で立ち止まると、深く、誠実な一礼を捧げた。


「霧の回廊での恩義、我が国は一刻たりとも忘れてはおりません。……他国の欲望が渦巻くこの地で、皆さんが自らの志を失わぬよう、霊樹の国は常に静かなる友として、皆さんを見守り続けることを約束いたしましょう。……そなたたちの奏でる旋律に、精霊の加護があらんことを」


 その言葉は、欲望に満ちた演習場において、唯一ゼノリスの心に響く澄み渡った一音だった。ゼノリスは僅かに表情を和らげ、力強く頷く。


 やがて、演壇の中央に学園長エレアノールが立った。彼女は集まった使節団の野心を遮るように杖を突き、卒業を迎える生徒たち、そしてゼノリスたちを慈しむような眼差しで見つめた。そして、生徒たちに向かって、静かだが凛とした、母のような温かさを湛えた声で語りかけた。


「皆さん。これから行われるのは、皆さんがこの学園で五年間をかけて育んだ、輝ける努力の証です」


 その声は演習場全体に響き渡り、騒めいていた観覧席を魔法のように静まり返らせていく。エレアノールは、八ヵ国の領袖たちを一瞥だにせず、ただ前を向く教え子たちの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「……皆さんがこの五年間で積み上げた絆と力を、輝きを、思う存分に示しなさい」


 その宣言とともに、卒業演習の開始を告げる号笛が、空を裂くように鳴り響いた。ゼノリスは、隣に立つフィリーネ、そして背後に控える八人の仲間たちの熱い気配を肌に感じ、不協和音の渦巻く戦場へと一歩を踏み出した。

世界が自分たちを「利用すべき資源」と見なすならば、その傲慢な認識を根底から砕いてやる。自分たちが奏でるのは、誰かに書かされた譜面ではない。五年間、この時計塔で磨き抜いた、自分たちのための「黄金の卒業」の響きなのだ。ゼノリスの瞳に、静かな、しかし決して消えることのない熾烈な火が灯った。



演習場を覆っていた熱砂の匂いと殺気は、陽が落ちると共に、白亜の大広間に漂う芳醇なワインの香りと、虚飾に満ちた華やかさへと姿を変えていた。帝国魔導院学園が誇る貴賓館「星辰の間」。天井に散りばめられた巨大な魔石のシャンデリアは、人工的な黄金色の光を雨のように振り撒き、各国の楽団が奏でる繊細な弦楽の調べが、互いの意地を競い合うように重なり、不協和音気味の贅沢な音の海を形作っている。それは、華やかな仮面の下で八つの国の野心が激しく火花を散らす、一触即発の外交の最前線であった。


 ゼノリス・ルーツは、窮屈な正装の襟元を指先で僅かになぞった。16歳になった彼の身体には、仕立ての良い漆黒の礼服があつらえたように馴染んでいる。だが、剣を握るために鍛え上げられたその掌は、繊細なクリスタルグラスの脚を支えるにはあまりにも武骨に過ぎた。演習場で浴びた喝采よりも、この静かな視線の応酬の方が、彼にとっては遥かに息苦しい。


「お兄様。……あまり眉間に皺を寄せていると、美味しいワインが逃げてしまいますよ」


すぐ傍らから、鈴を転がすような透明な、それでいてどこか煽情的な湿り気を帯びた声が届いた。ゼノリスが振り返ると、そこには、この夜の全ての光を吸い込んで咲き誇る一輪の月下美人がいた。


 フィリーネが纏っているのは、西のルサルカ海洋公国から献上された、深海の青を映したシルクのドレスであった。13歳という年齢は、もはや彼女を縛る枷にはなっていない。ドレスの流麗な曲線は、彼女のしなやかな肢体を残酷なまでに強調し、結い上げられた銀糸の髪から覗くうなじは、シャンデリアの光を跳ね返して陶器のような白さを放っている。  周りの大人たちが彼女を「星の種」という仰々しい肩書きで呼ぼうとも、当のフィリーネにとって、その言葉は何の重みも持っていなかった。彼女の瞳に映っているのは、五年前も、順風満帆な今も、ただ一人の「お兄様」だけである。


「フィリー。……そのドレス、やっぱり少し……。いや、なんでもない」


背中が開きすぎている、という言葉をゼノリスは飲み込んだ。それを指摘することは、今の彼女を一人の女性として意識していると認めることに他ならない。他国の男たちの不躾な視線が彼女の肌を舐めるたび、ゼノリスの胸の奥では、魔王の脈動とは異なる鋭い熱が火花を散らした。


「ふふ、大丈夫ですよ。……私はもう、お兄様の背中に隠れているだけの子供ではありませんから。今夜は、ルーツ家の者として、この騒がしい方々を上手にあしらわなければいけませんもの」


 フィリーネは楽しげに微笑むと、ゼノリスの武骨な腕に自らの細い腕を絡めた。その柔らかな体温が礼服越しに伝わり、ゼノリスは再び、自身の脈動が狂い始めるのを感じた。


 二人の行く手を阻むように、人混みを割って一人の男が歩み寄ってきた。ギルダー商業公国のバルトロ議員である。彼は手にしたグラスを軽やかに揺らしながら、帳簿をめくるような冷徹な眼差しをゼノリスへ向けた。


「ゼノリス君、実に素晴らしい立ち居振る舞いだ。……どうですか、将来の『運用の効率化』について、少しだけ有益な話をしませんか。貴方の持つ希少な『力』は、そのまま眠らせておくにはあまりに惜しい。大陸全体の魔導回路を安定させ、淀みのない富の流れを作るための……いわば、最高級の潤滑油としての役割に、興味はありませんか?」


バルトロの言葉は、金貨の擦れ合う音のように滑らかであった。かつて商人ガズを操り、ゼノリスの家族を売ろうとした男の野心は、今や「特許」や「利権」という名の洗練されたオブラートに包まれている。ゼノリスは、手元のワインの赤を見つめ、静かにグラスを回した。


「貴重なご提案、痛み入ります、バルトロ議員。……ですが、僕の右手の火傷は、誰かの富を潤すために負ったものではありません。卒業を控えた今は、この学園で得た絆という実りを、まずは静かに味わいたいと思っているところです。……交渉の席を用意するには、今夜のワインは少しばかり、甘すぎるようです」


 ゼノリスは、真っ向から断るような野暮な真似はしなかった。相手の差し出してきた社交の仮面を、そのまま丁寧に押し返す。今ここで剣を抜くような事態になれば、時計塔で再会を待つ仲間たちの、そして何よりフィリーネの記念すべき夜を汚すことになる。その「騎士としての忍耐」が、今の彼には備わっていた。


「……なるほど。澱みのない、見事なかわしですな」


バルトロは短く笑い、皮肉を込めて一礼し、再び闇の中へと消えていった。


 しかし、不快な旋律は止まない。次に二人の前に立ちはだかったのは、重厚な鎧の音を響かせ、晩餐会の場を戦場へと塗り替えるような圧力を放つ、北の鉄鋼王国ヴェルンドのヴァルガルド王であった。その背後には、かつてゼノリスと刃を交えた王子オーグが控えている。  オーグの表情は、五年前の傲慢な少年とは別人のようであった。父王の放つ威圧感に気圧されることなく、しかしゼノリスへの隠しきれないライバル心と、何処か忠告を孕んだような複雑な眼差しを、その鋭い双眸に宿している。


「ゼノリス。貴殿の『調律』、我が国の鋼鉄の軍勢に組み込めば、大陸に真なる不変の秩序をもたらすことができよう」

ヴァルガルド王は、ゼノリスの肩に大きな掌を置いた。それは友好の証などではなく、獲物を捕らえた鷲の爪のように力強かった。

「金貨の山を積む商業国家や、神の影を追う教国など、弱者の集まりに過ぎん。貴殿のような真の強者が住まうべきは、鋼と火の国ヴェルンドだ」


 ヴァルガルド王の言葉に、傍らのオーグが僅かに口元を歪めた。それは父への失望か、あるいはゼノリスの返答に対する期待か。ゼノリスはヴァルガルド王の視線を真っ向から受け止め、静かに首を振った。


「武門の誇り高き王に、そのように評価していただけるのは光栄です。……ですが、僕が守るべき譜面は、大陸を覆う巨大な秩序ではありません。……僕がこの剣を振るう理由は、ただ一つ。……隣にいる妹や、僕を育ててくれた両親、そして時計塔で笑い合える家族。……その人たちのささやかな平穏を、この手で守り抜くこと。……それだけなんです」


「……家族、だと?」


 ヴァルガルド王が鼻で笑った瞬間、オーグがゼノリスを真っ直ぐに見つめ、小さく、しかし確かな声で漏らした。

(……相変わらず、食えない男だな、ゼノリス。だが、その揺るぎなさが……癪に障る)

オーグの瞳には、かつての敵対心だけでなく、同じ高みを目指す者への、歪んだ敬意が灯っていた。


 そんな外交の激流から少し離れた壁際で、一人の少女が、二人の姿を静かに見つめていた。  サンクトゥス聖教国の礼服を纏ったセレスティアである。彼女の傍らには、教皇の使いである司教が立ち、執拗に帰還を促している。だがセレスティアの耳に、その老人の声は届いていなかった。彼女の視線の先には、ゼノリスの腕に幸せそうに寄り添うフィリーネと、彼女を守るように毅然と立つゼノリスがいた。


「……セレスティア様、お聞きですか。貴女は教会の権威を取り戻すための……」


「司教様。……私は、誰かの期待に応えるために、ここに立っているのではありません」

彼女は司教を冷徹に遮ると、一度だけ深く息を吐き、迷いのない足取りでゼノリスの方へと歩み出した。その瞳には、五年間ひた隠しにしてきた想いと、聖女としての自分ではなく、一人の少女として生きたいという、一縷の、しかし強烈な希望が宿っていた。


「ゼノリス様。……少し、よろしいでしょうか」


 その呼び方に、ゼノリスの肩が小さく跳ねた。いつもなら「ゼノリス君」と呼ぶ彼女が、他国の王たちの前で、あえて一線を画すような「様」付けで呼んだ。その不自然なほどの丁寧さと、そこに含まれた剥き出しの親密さに、ゼノリスは形容しがたい動揺を覚えた。


「セレスティア……? ああ、どうしたんだい、そんな改まって……」


 ゼノリスが戸惑いながら振り返った瞬間。セレスティアは吸い込まれるような動作で彼に近づくと、フィリーネや各国の領袖りょうしゅうたち、そして学園中が見守る中、ゼノリスの逞しい頬に、羽毛が触れるような軽い、しかし熱情を押し殺した口づけを落とした。


「っ……!」


 ゼノリスの全身が、鉄のように硬直した。周囲の喧騒が、潮が引くように遠のいていく。頬に残った柔らかな感触と、彼女から漂う清らかに澄んだ百合の香りが、彼の思考を真っ白に塗りつぶした。セレスティアは、頬を真っ赤に染めながらも、凛とした瞳で彼を見つめ返した。


「……いつか、私が私の気持ちに、もっと正直に生きられる日が来ることを信じています。……卒業、おめでとうございます。貴方はいつまでも、私の一番の騎士様です」


 それは告白ですらなく、彼女が自分自身にかけた呪文のような、決意の言葉であった。  セレスティアはそのまま、誰の言葉も待たずに、風のように人混みの中へと消えていった。


 残されたゼノリスは、頬を手で押さえることすらできず、呆然と立ち尽くすしかなかった。  だが、その沈黙を切り裂いたのは、隣に立つフィリーネの、低く、冷たく、そして激しい情熱を孕んだ声であった。


「……お兄様。聖女様に、先を越されてしまいましたね」


 フィリーネは、ゼノリスの腕を握りしめる力を、痛いほどに強めた。ドレス越しに伝わる彼女の体温は、先程までの淑女のそれとは異なり、獲物を狙う獣のような、あるいはすべてを焼き尽くそうとする火のような熱を帯びている。


「……でも、いいですよ。あの方はあの方なりに、精一杯の勇気を出したのでしょうから。……ですが、覚悟してくださいね。私の愛は、あの方のように清らかなだけで終わるつもりは……ありませんから」


フィリーネが顔を上げ、ゼノリスを覗き込む。その瞳には、ゼノリスを世界の誰にも渡したくないという、底知れない、さらに甘美な独占欲が渦巻いていた。彼女の言葉は、聖女への対抗心というよりは、自分の中に眠る「女」としての本能を、初めてお兄様に晒した瞬間であった。


ゼノリスは、頬に残るセレスティアの切実な余韻と、腕を強く抱きしめるフィリーネの激しい独占欲に挟まれ、制御しきれない二つの想いに翻弄されていた。それは心躍る高揚であると同時に、どこか破滅を予感させる危うい緊張感でもあった。


卒業の時は、もう目前に迫っている。八ヵ国の野心が不協和音を奏でる中で、彼らの運命はより複雑に、そしてより鮮烈な共鳴アンサンブルへと加速しようとしていた。



きらびやかな晩餐会が催されている華やかな広間の真下、迷路のように入り組んだ古い通路の奥に、その場所はあった。そこは、日の光が届くことも、宴の楽しげな音楽が聞こえてくることもない「地下の密談所」である。湿り気を帯びた石壁にはカビがこびりつき、かすかな松明の火が、ゆらゆらと不気味な影を揺らしていた。


 その部屋の中央にある古い机を囲んで、数人の影が向かい合っていた。影たちは皆、顔を隠すように深いフードを被っている。その中で一人、不敵な笑みを浮かべていたのが、かつてこの学園で権力を握っていたサイラス元教頭だった。


「……それで、各国の王たちは、あの少年たちをどうするつもりですか?」


 サイラスが、低く濁った声で問いかけた。かつての威厳は影を潜め、今の彼には、深い闇に根ざしたような不気味な落ち着きが備わっている。


「ヴェルンドの王は、力ずくでも連れ帰るつもりのようだ。ルサルカの公妃も、金と名誉で釣れると考えている。……だが、我々の考えは違う」


 フードを被った一人が、冷たい声で答えた。それは、八ヵ国連合の中でも特に強い野心を持つ国々が、こっそりと送り込んだ影の代理人たちだった。


「あの少年、ゼノリスが持つ力は、あまりにも大きすぎる。もし、どの国も彼を手に入れることができないのであれば……。彼をこの世界から消し去ってしまうのが、一番確実な方法ではないかとな」


 その言葉を聞いても、サイラスは驚く様子もなかった。むしろ、喉の奥でくくくと笑い声を漏らす。


「消し去る、ですか。……相変わらず、皆さんは目に見える利益のことばかりだ。ですが、あのゼノリスという少年が、本当にただの『便利な道具』だと思っているなら、それは大きな間違いですよ」


 サイラスは机の上に広げられた一冊の古い本に目を落とした。そこには、何百年も前に書かれたと思われる、奇妙な星の図形が描かれている。


「八ヵ国の皆さんは、自分たちが大陸のあるじだと信じ込んでいる。ですが、本当の主は他にいます。……私が仕えているのは、国家でも王でもありません。いつかすべてを飲み込み、何もない平穏な世界へと導いてくださる『虚無の王』なのです」


 影たちは、サイラスの言葉に気味悪そうに身を震わせた。サイラスが指差した先、部屋の高い場所にある小さな窓から、夜の空がほんの少しだけ見えていた。そこには、普段は見ることのない不吉な色の星が、不自然な並び方で輝き始めている。


「見てごらんなさい。星たちが、一箇所に集まろうとしている。これは、数百年、あるいは千年に一度しか起こらない予兆です。……これからのゼノリスたちの行く末を、空が示しているのですよ」


 サイラスは、恍惚とした表情で空を見つめた。その星々の配置は、今ある世界の秩序が壊れ、新しい何かが始まるという「終わりの始まり」を示していた。それは同時に、ゼノリスやフィリーネたちが、この学園を飛び出した後に待ち受けている、長く過酷な冒険の始まりを告げるものでもあった。


「……明日、卒業式が終わった瞬間に、すべてが動き出します。彼らがどこへ逃げようと、運命の歯車からは逃げられません」


 サイラスの独り言が、冷たい部屋の中に虚しく響く。


 その密談所のすぐ外、通路の暗闇に溶け込むようにして、二つの気配が潜んでいた。カシムとイリスである。カシムは得意の影魔法を使い、物音一つ立てずに部屋の様子を探っていた。イリスもまた、周囲に幻惑の霧を薄く広げ、自分たちの存在を完璧に隠している。だが、部屋の周囲には強力な結界が張られており、中の会話をはっきりと聞き取ることはできなかった。


「……カシム。中の空気が、ひどく重い」


 イリスが、蚊の鳴くような小声で囁いた。彼女の繊細な感覚は、部屋の中から漏れてくる、底知れない「闇」の気配を敏感に察知していた。


「ああ。……何を話しているのかはわからないが、ろくなことじゃないな。……明日、ただの卒業式で終わる保証はなくなった」


 カシムは拳を強く握りしめた。彼はゼノリスたちに知らせるべきか迷ったが、今は自分たちがここにいることを悟られるわけにはいかない。二人は物音を立てずに、その場から静かに離れていった。


 しばらくして。賑やかな晩餐会を終えたゼノリスとフィリーネは、二人きりで、静まり返った旧時計塔への道を歩いていた。夜の風は少し冷たく、卒業を祝うための焚き火の煙が、遠くの方でゆらゆらと立ち上っている。


「お兄様。……なんだか、さっきから空が不思議な感じがしませんか?」


 フィリーネが、ゼノリスの腕にぎゅっとしがみつきながら、空を見上げた。ゼノリスも、足を止めて空を仰ぐ。


「……ああ。星が、いつもより騒がしい気がするな」


 ゼノリスは、自分の右手のひらが、微かに熱を帯びていることに気づいた。それは、何かが近づいていることを知らせる、警告のような熱さだった。卒業式を数時間後に控え、かつては自分たちの家だと思っていたこの学園が、今はどこか遠い場所のように感じられる。


「大丈夫だよ、フィリー。……何が起きても、僕は君の手を離さない」


 ゼノリスは、フィリーネの柔らかな手を、確かめるように強く握り返した。空に浮かぶ星たちは、彼らの決意をあざ笑うかのように、冷たく、そして激しく煌めき続けていた。



卒業式の朝、旧時計塔の談話室は、五年間という月日が染み込んだ独特の静寂に包まれていた。使い古された大きな木の机には、無数の傷が刻まれている。それはかつて「掃き溜め」と蔑まれた自分たちが、もがき、足掻あがき、共に生きてきた証でもあった。窓から差し込む春の陽光が、宙を舞う小さな塵を黄金色に輝かせている。ゼノリスは、朝の光の中で、一人ひとりの顔をゆっくりと見渡した。ここにある椅子の一つ、棚に置かれた古びた魔導具の一つひとつが、今日という日を境に「日常」ではなく「記憶」へと変わろうとしている。


「……みんな。最後くらい、笑って別れたかったけれど。僕のわがままで、みんなをこんな危ない橋を渡らせてしまうことになって、本当にすまない」

ゼノリスが絞り出すように告げると、談話室の隅に腰を下ろしていたカシムが、鼻を鳴らして不敵に笑った。彼は影の中に溶け込むように椅子から立ち上がると、ゼノリスの肩を、親しみと発破を込めて強く叩いた。

「ゼノリス、水臭いことを言うなよ。俺たちは最初から、あんたの不器用な歩幅に合わせるつもりでここにいたんだ。これは今生の別れじゃない。俺とイリスは、この卒業式の騒ぎに紛れて、学園の影に深く潜り込むことにした。これからは各国の連中が何を企んでいるか、一番近い場所で見張って、あんたたちに情報を届ける『見えない糸』になってやるよ」

カシムの隣で、灰色の修道服のフードを深く被ったイリスも、静かに頷いた。

「……迷いの霧は、すでに学園の要所に配置した。敵が追ってきても、容易たやすくは捕まらない。セレスティアも、一度は聖教国に戻るけど……彼女は彼女で、内側から教会を突き崩す準備を始めているわ」


 その時、談話室の扉が静かに開き、二人の人物が足を踏み入れた。父ロランと母ミリアであった。ロランの顔には、かつての厳格な書架騎士としての面影に加え、息子を送り出す父親としての深い憂いが刻まれていた。ミリアは、ゼノリスとフィリーネの姿を見るなり、震える手でハンカチを口元に当てた。

「ゼノリス……。これを持っていきなさい」

ロランが差し出したのは、彼が現役時代に愛用していた、丈夫な革製の旅用外套だった。 「お父さんもお母さんも、お前たちがどこの誰であっても、私たちの自慢の子供だ。黄金の麦畑は、いつでもお前たちの帰りを待っている。……どうか、命だけは大切にするんだぞ」

ミリアは、壊れ物を扱うようにゼノリスとフィリーネを代わる代わる抱きしめた。

「……あんなに小さかった二人が、こんなに立派になって。お母さん、嬉しいけれど、やっぱり寂しいわ。でも、あなたたちの瞳を見ればわかる。もう、自分たちの足で行くべき場所が決まっているのね」

ミリアの目から溢れた涙が、ゼノリスの肩を濡らした。13歳になったフィリーネも、母の胸に顔を埋め、声を押し殺して肩を震わせた。ゼノリスは母の温もりをその身に刻み込むように抱き返し、父の外套をしっかりと受け取った。それが、彼らにとっての本当の「卒業」の儀式となった。


 演習場に設置された式典会場は、春の風が吹き抜けていたが、その空気は八ヵ国連合の使節団が放つ剥き出しの独占欲と、兵士たちの重苦しい軍靴の音で満たされていた。

学園長エレアノールが壇上に立ち、卒業生たちへ向けて、最後の、そして最も温かな言葉を贈る。

「皆さん。今日、この学園という名の箱庭は終わりを迎えます。これからの世界は、決して美しい音色ばかりではありません。ですが、今日からは誰かが書いた譜面に従う必要はありません。自分たちの手で、自分たちだけの歌を奏でなさい。どこまでも自由に、誇り高く羽ばたいていきなさい」

その言葉がゼノリスたちの胸に響いた瞬間、劇的な異変が起きた。


 ゼノリスが卒業証書を受け取ろうと一歩踏み出したその時、彼の足元の石畳から、光を吸い込むような「真っ黒な泥のような影」が噴き出したのだ。

「お兄様、危ない!」

フィリーネの声と同時に、ゼノリスの背後に控えていたテオが、電光石火の速さで巨大な黒盾を地面に叩きつけた。

ドォォォォン! という、胃の奥まで響くような重い衝撃音。サイラス元教頭が地下に潜んで放った、触れるものすべての命を枯らし、石さえも腐らせるおぞましい死の闇が、テオの盾に跳ね返されて四散した。


「……仕留め損ねたか。……まぁいい、お前たちの平和な時間はこれで終わりだ」

演習場の地下通路、古びた魔導端末の前で、サイラスは憎悪に満ちた瞳を輝かせていた。この襲撃を合図に、観覧席にいた各国の私兵たちが一斉に武器を抜き放った。

「生徒を保護せよ! 抵抗する者は賊とみなし、力ずくでも連れ去れ!」

ヴァルガルド王の傲慢な怒号が響き渡り、平和な式典会場は一瞬にして戦場へと変貌した。


「行け、ゼノリス! ここは俺たちが食い止める!」

カシムが影の中から叫び、無数の影の手が押し寄せる兵士たちの足首を掴んで引きずり込む。脱出路を確保するため、残された仲間たちが牙を剥いた。

「……ふん、僕の計算からは逃げられないよ」

ルカスが手に持った魔導端末を素早く操作すると、演習場のあちこちに設置されていた魔導回路が火花を散らした。敵軍が持ち込んだ自動追尾式の魔導兵器が、次々と火を噴いて停止していく。

「ガイル、こっちの通信バイパスを切れ! 敵の連携をバラバラにするんだ!」

「おう、任せとけ! 邪魔する奴は、このスパナでぶっ叩いてやる!」

ガイルは巨大なレンチを軽々と振り回し、近づこうとする警備兵を豪快に撥ね飛ばしながら、魔導装置の制御権を力ずくで奪い取っていく。


 一方、正門へと続く激戦区では、リィンとナディアが暴風のごとき立ち回りを見せていた。 「リィン、右前方の三列目! 風を巻いて、一気に押し出して!」

ナディアが黄金の羅針盤を高く掲げると、複雑な魔導の航路が空中に浮かび上がり、リィンの剣術に「加速」の旋律を乗せる。

「……わかった。風よ、道をひらけ」

リィンが鋭く剣を振るうと、目に見えない真空の刃が巨大な旋風となり、押し寄せる兵士たちを怪我をさせない絶妙な威力で一気に吹き飛ばした。

「ここは通さない!」

リィンの凛とした声が響き、ナディアがそれに合わせて力強い魔導の光を放ち、包囲網を内側から切り裂いていく。


 仲間たちの決死の援護の中、ゼノリス、フィリーネ、テオの三人は、唇を噛み締め、一度も振り返ることなく学園の裏手にある隠し港へと走り抜けた。港には、ルカスたちが密かに修復を終えていた、銀色の翼を持つ小型の魔導船が待機していた。船のエンジンが黄金色の光を放ち、ゆっくりと浮上を始める。

「ゼノリス! フィリーネ!」

遠く、演習場の混乱の中から、ロランとミリアがこちらへ向かって必死に手を振っているのが見えた。二人は涙に濡れた顔で、しかし力強く、旅立つ子供たちの姿をその目に焼き付けていた。ゼノリスとフィリーネは、船の甲板から身を乗り出すようにして、精一杯手を振り返した。

「……父さーん! 母さーん! 行ってくるよ!」

「……お父様、お母様! 大好きです! 必ず、必ずまた会いに戻ります!」

二人の叫びは春の風に乗り、愛する家族の元へと届いただろうか。


 船が雲の上へと差し掛かろうとした時、ゼノリスは、学園の時計塔の陰に立つ一人の男の気配に気づいた。

仮面の男、ガンドだ。

彼は何も語らず、ただ静かに、地平線の彼方へと旅立とうとする三人の姿を見つめていた。  ゼノリスの視線に気づいたのか、男はゆっくりと、顔を覆っていた不気味な仮面を外した。  現れたその素顔は、驚くほどゼノリスに似た面影を持っていた。冷徹な中にも、言葉にはできないほど重い情念が宿った瞳。

その男、バアルガンドは、一言も発することなく、仮面を握りしめたまま、空へと消えてゆく魔導船を、静かな、しかし圧倒的な威圧感を湛えた目で見送り続けていた。彼の中に眠る魔王の波動が、空のゼノリスと共鳴しているかのように、その周囲の空気だけが微かに震えていた。


 魔導船は、黄金色の夕焼けの中、地平線の彼方へと加速していった。

眼下には、小さくなっていく学園の建物と、それぞれの場所で戦い、自分たちを逃がしてくれた仲間たちの気配が感じられた。

「……まずは、この学園から遠く離れた中立の街、エテルナを目指そう。そこで正体を隠して冒険者になって、この世界の本当の姿を確かめるんだ」

ゼノリスは、隣に立つフィリーネ、そして後ろで盾を置いたテオに力強い視線を向けた。 「はい、お兄様。どこまでもお供します。私たちの物語は、ここから始まるのですね」

フィリーネが凛とした微笑みを浮かべ、テオも言葉少なに深く頷いた。


「三人で組むパーティーの名前を、今ここで決めよう。離れ離れになった仲間という星屑たちが、いつかまた一つの大きな勢いになるように」

ゼノリスは、広がる青い空の向こうにある、まだ見ぬ明日を見つめて宣言した。

「……『ステラ・レギオン(星屑の軍団)』。どんなに世界が不協和音に満ちていても、僕たちが新しい音を刻んでいこう」


 船は、春の力強い風に乗って、空の果てへと消えていった。黄金の導きを胸に、星たちの物語は今、本物の冒険へと足を踏み出したのだ。

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