第15章:星たちの帰還――銀の残響(エピローグ)
アドラスティア魔法学園の白亜の門が見えたとき、東の空からは薄い紫色の光が差し込み始めていた。
昨日までの地獄が嘘だったかのように、学園を囲む森には清らかな朝霧が立ち込め、目覚めたばかりの小鳥たちが、命の輝きを謳歌するように囀っている。そのあまりに平穏な光景は、全身に深い傷を負い、泥と返り血に塗れた十人の「鉛の騎士団」にとっては、眩すぎて痛いほどだった。
一歩踏み出すたびに、磨き抜かれた白大理石の石畳が、彼らの泥まみれのブーツを拒絶するように硬く響く。監獄の床を覆っていた、あの吸い込むたびに喉を焼くような不浄な埃の匂いはない。代わりに鼻腔をくすぐるのは、朝露に濡れた若草の瑞々しい香りと、学園都市を彩る街路樹が放つ春の息吹だった。
「……帰って、きたんだね。僕たち」
ゼノリスが掠れた声で呟く。その肩は以前よりも一段と広く、紺青の制服はボロボロに裂けていたが、その立ち姿には自らの足で運命を切り拓いてきた若き指揮官の威厳が備わっていた。隣では、フィリーネが破れた外套をきつく締め直し、震える足取りで一歩ずつ、現実の感触を確かめるように地面を踏みしめていた。銀色の長い髪は朝露に濡れ、煤と血の混じった汚れがその輝きを覆っていたが、その透明な青い瞳だけは、兄であるゼノリスという唯一の光を捉えて離さなかった。
「はい、兄さま。……空気の匂いが、監獄とは全然違います。……甘くて、少しだけ土の匂いがして……」
フィリーネはそう言って、無理に作った微笑みをゼノリスに向けた。12歳になったゼノリスは、自分の袖を小さく掴む9歳の妹の手の震えに気づき、そっと自分の手を重ねた。包帯越しに伝わる『銀色の星』の拍動が、彼女の不安を凪いでいく。
「……もう大丈夫だ、フィリーネ。あそこには、もう誰もいない」
朝霧の立ち込める門前には、微動だにせず立ち尽くす二人の人影があった。一人は、岩のように逞しい体躯を揺らし、焦れったそうに腕を組んで門の先を見つめる教官、ガンド。そしてもう一人は、背筋を真っ直ぐに伸ばし、朝日を浴びて長い銀髪を神々しく輝かせている女性――学園長、エレアノール・フォン・アドラスティアであった。
「――戻ったか、お前たちッ!!」
ガンドが、その野太い声を荒野に響かせた。彼は満身創痍の十人の姿を認めるなり、それまでの強固な構えを崩し、弾かれたように走り寄った。先頭にいたゼノリスとルカスの肩を、壊れ物を扱うような手つきで、それでいて力強く掴み、その無事を確かめる。
「よくぞ……よくぞ生きて戻った! 指導役として無茶をさせた自責の念があったが……お前たちの可能性を信じて待っていた甲斐があったぞ!」
「……ガンド先生、ただいま戻りました」
ゼノリスが答えると、ガンドは安堵からか目尻を僅かに湿らせ、何度も力強く頷いた。そして、ふとゼノリスの腰に下がった革袋に目を留めた。
「……ん? ゼノリス、それは『呼吸する魔石』か。……封印が解かれていないようだが、使わなかったのか?」
ゼノリスは、監獄の深層で肺を焼くような死の沈黙に悶えた瞬間を思い出した。
「……あ、はい。あの監獄の魔力濃度には苦しみましたが、戦いの中で必死に呼吸を合わせ、自分たちの『音』を調律しようとしているうちに……いつの間にか、大気の澱みが気にならなくなっていました。だから、結局使わずに済んだんです」
ガンドはその言葉を聞くなり、一瞬驚愕に目を見開いた後、雷鳴のような大声で笑い飛ばした。
「……ははは! あの呪われた監獄の不協和音を、自らの魔力だけで調和させただと? ……ゼノリス、お前の中に眠る『種火』の成長は、俺の想像を遥かに超えているようだな。……よし、この石は返してもらおう。次にお前に渡すときは、もっと高度な……例えば『空を歩く』ための触媒にでもしてやるさ」
少し遅れて歩み寄ってきたエレアノール学園長は、威厳に満ちた佇まいのまま、十人の「鉛の騎士団」一人ひとりの顔を慈しむように見つめた。その瞳には、学園の主としての冷徹な鋭さはなく、死地から生還した教え子たちを心から誇る、温かな光が宿っていた。
「……皆さん、よくぞ戻りました。アドラスティアの名を背負い、死地を乗り越えたその勇気、このエレアノールが確かに受け取りました。……もう安心しなさい。ここは貴方たちの学び舎であり、守られるべき家なのですから」
エレアノールの気品ある、しかし母のような慈愛に満ちた声が、夜通しの緊張で強張っていた十人の心を、温かな陽光のように解きほぐしていく。
門をくぐり、中央広場へと差し掛かると、早起きの生徒たちがちらほらと姿を見せ始めていた。彼らは、あまりに凄惨な姿で帰還したゼノリスたちを見て、一瞬だけ足を止め、驚愕と畏怖の入り混じった表情を浮かべた。だが、次の瞬間には不気味なものから目を逸らすように視線を戻し、自分たちの「日常」――今日の小テストの予想や、朝食のメニューの話に戻っていった。
自分たちが三千年の呪いを打ち破り、帝国の隠された残酷な真実を見てきたことなど、この平和な学園の誰も知らない。その圧倒的な「温度差」に、カシムが影の中から音もなく現れ、力なく笑った。
「……世の中、案外そんなもんだな。俺たちが死に物狂いで世界の裏側を覗いてきても、食堂のオヤジはいつも通りパンを焼いてやがる」
「……それでいいのよ。私たちが守りたかったのは、この『何も知らない平和』そのものなんだから」
イリスが、その鋭い瞳を少しだけ和らげて答えた。
一行は、エレアノール学園長とガント先生に促され、中央塔にある会議室へと向かった。 重厚な扉を開くと、そこには円卓が置かれていたが、その中に一つだけ、心臓を冷やすような「空白」があった。それは、常に優雅で冷徹な所作で座り、十人に「不適合者」としての絶望を突きつけた男――時計塔の主、サイラス・ヴォーンの椅子だった。
「――サイラス教授は、潜入調査中の不慮の事故により、行方不明と判断されました」
エレアノール学園長が重々しい口調で告げた。その言葉は、あらかじめ用意されていた台本のように滑らかだったが、彼女が杖を握る指先は僅かに震えていた。
「事故……ですか?」
ガイルが右目の眼帯を指先で持ち上げ、剥き出しの「解析眼」で鋭い視線を投げかける。
「あれほど僕たちを執拗に追い詰め、監獄の深淵を意のままに操っていた男が、単なる事故で行方不明になるなんて。……学園長、あなたは本気でそうおっしゃるのですか?」
エレアノールは、ガイルの射抜くような問いを真っ向から受け止めるように、静かに、しかし厳しく首を振った。
「……ええ、そうです。……それが、今の帝国において学園と貴方たちを守るための、最善の『盾』なのです。……サイラスが何を目論み、何を奏でようとしていたのか。その真実は、今は貴方たちの心の中にだけ留めておきなさい」
会議室の隅に置かれたその「空の椅子」は、サイラスが敗北した証であると同時に、彼という底知れぬ悪意がいつか再び戻ってくることを予感させる、不気味な空白としてそこに存在していた。ゼノリスは、最後にサイラスが浮かべた、理解不能なものへの恐怖に染まった表情を思い出していた。だが、あの執念深い男がこの程度で果てたとは、到底信じられなかった。
「――本日の報告は以上です。解散。皆さん、まずは身体を洗って、ゆっくり眠りなさい。明日からは、また普通の『学生』としての生活が待っているのだから」
エレアノールに促され、十人は会議室を後にした。長い廊下を歩きながら、ルカスが愛用の魔導スキャナーをしまい、ふと窓の外を眺めて言った。
「……普通の学生生活、か。あいつがいなくなった後、この学園はどう変わるんだろうな」 「……変わるんじゃないわ。私たちが、変えていくのよ」
ナディアが羅針盤を胸元へ強く押し込み、前を見据えて言った。
寮の入り口まで辿り着いたとき、ようやく朝の鐘が学園中に鳴り響いた。それは、地獄の終焉を告げる葬送曲ではなく、新しい、そしてどこまでも本格的な「学園生活」の始まりを告げる、清々しいファンファーレのようだった。
「兄さま、また明日から……楽しみですね」
フィリーネが、ゼノリスの手を離しながら、今度は本当に心からの、柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ。……まずは、ゆっくり眠ろう」
十人の長い夜が、ようやく、本当の意味で明けたのだった。
学園長室での張り詰めた報告を終え、鉛の騎士団の拠点である旧時計塔へと辿り着いた十人を待っていたのは、数日前の出発時と変わらぬ、埃っぽくも愛おしい「自分たちの場所」の匂いだった。
「……帰ったぞ。本当の意味でな」
カシムが、重い装備を床に放り出し、短剣の柄に手をかけたまま大きく伸びをした。その声には、死線を越えた者だけが許される、深い安堵が滲んでいた。
ルカスとガイルが地下動力室から引き込んだ魔導管は、主たちの帰還を祝うかのように、熱い蒸気を豊かに吐き出している。監獄の凍てつく死の静寂とは正反対の、命を慈しむような熱。十人は、互いに労いの言葉をかける気力すら惜しむように、まずは身体を浄化するために浴室へと向かった。
大理石のタイルに、豊かな湯気が白く立ち込める。地下から汲み上げられた温水が、五人の少女たちの身体を包み込んだ。
「あぁ……生き返るわ。監獄のあの鉄臭い空気が、ようやく肌から剥がれていくみたい」 ナディアが、小麦色の瑞々しい肢体を惜しげもなく晒し、湯船の中で大きく手足を伸ばした。日頃の鍛錬によって引き締まった彼女の身体は、まるでしなやかな豹のような躍動感に溢れている。
「ねえ、リィン。貴女のその羽衣の跡……もうすっかり消えているわね。やっぱり、あそこで覚醒したのが大きかったのかしら?」
ナディアに水を向けられたリィンは、乳白色の湯に肩まで浸かりながら、少しだけ頬を赤らめた。
「ええ。……あの羽衣が、私の一部になったみたい。……でも、ナディアさんのその引き締まったお腹周り、羨ましいわ。私なんて、ずっと修練していたはずなのに、まだどこか細すぎて……」
「何を言っているのよ、リィン」
そう言って髪をかき上げたのは、イリスだった。彼女の肢体は、灰色の修道服に隠されていたのが惜しいほどに、均整の取れた「美」を体現していた。
「貴女のその、折れてしまいそうな華奢な肩にこそ、あの苛烈な風が宿っている。そのギャップが、貴女の魅力なのよ。……それに比べて、セレスティアときたら……」
イリスの視線の先には、湯気の中に浮かび上がる、息を呑むほどに白く、そして気高いセレスティアの姿があった。
「……あら、イリス。私の何が不満なのかしら?」
セレスティアが優雅な所作でお湯を掬う。彼女は12歳ではあったが、名門貴族としての気品と、将来の圧倒的な美貌を予感させるしなやかな曲線を備えていた。
「……貴女のその、12歳とは思えない気品あふれるスタイルよ。聖女というより、誰かを誘惑するお姫様みたいじゃない。……ゼノリスがどこを見ていいか分からなくなるのも、納得だわ」
「……っ!? ゼ、ゼノリスが、どこを……?」
セレスティアの頬が、お湯の熱さとは別の理由で朱に染まった。その様子を見て、末っ子のフィリーネが「えへへ」と悪戯っぽく笑う。9歳になったばかりのフィリーネは、まだ子供らしいあどけなさを残していたが、銀色の髪をアップにまとめ、お湯に浸かる姿には、将来、兄を翻弄するであろう美少女の片鱗が、確かに宿り始めていた。
「セレスティア、大丈夫だよ。兄さまは、女性の体つきなんて全然見てないから。……たぶん。……でも、私も早くセレスティアみたいに、兄さまが思わず『おっ』てなるような、綺麗なお姉さんになりたいな」
「フィ、フィリー……! 貴女まで何を……!」
少女たちの賑やかな笑い声が、浴室の天井に反響する。監獄での死闘が嘘のような、残酷なまでに美しい平穏がそこにはあった。
一方、男子浴室では、女子側の華やかさとは対照的な、むさ苦しくもコミカルな光景が広がっていた。
「おいガイル! お湯を跳ね飛ばすな! 俺の眼鏡が曇って解析データが読めないだろう!」
ルカスが、湯船の中でも眼鏡を死守しながら、必死に魔導端末を操作していた。
「うるせえ! 湯船の中でまで仕事してんじゃねえよ。監獄の埃を落とすのが先だろ!」
ガイルが勢いよくお湯を掛け合い、ルカスの叫び声が響く。
テオは、湯船の縁に顎を乗せ、死んだように目を閉じていた。
「……あぁ。……もう、指一本動かしたくない。テオは今、とろけるチーズになっているのです……。カシム、いつまで潜ってるんだ。……溺れてるのか?」
テオの問いに、お湯の中からプハッと顔を出したのはカシムだった。
「……影の中にまでお湯が入ってきやがった。……熱ちぃけど、悪くねえな」
ゼノリスは、そんな仲間たちの騒がしいやり取りを、一番隅の蛇口の前で静かに聞いていた。右手の『銀色の星』の刻印を、熱い湯で丹念に洗う。あの監獄の重圧に耐え抜き、今こうして仲間と馬鹿な話をしていられる。その当たり前のことが、何よりも尊かった。
入浴を終え、清潔な着替えを済ませた十人は、それぞれのベッドに潜り込んだ。枕の柔らかさ、毛布の温もり。それがこれほどまでに贅沢なものだと、彼らは初めて知った。ゼノリスもまた、自室のベッドに身体を預けた瞬間、意識が深い闇の底へと沈んでいくのを感じた。
――そして、ゼノリスは夢を見た。
視界いっぱいに広がっているのは、かつて父ロランや母ミリアと過ごし、家族の温もりを知ったあの「黄金の麦畑」だった。だが、記憶の中の風景よりもずっと、世界は鮮やかで透き通っている。風が吹くたびに麦の穂がさらさらと波打ち、まるで大地そのものが優しく歌っているかのような、心地よい旋律が満ちている。
その麦の海の中を、二人の人物が並んで歩いている。一人は、今の自分よりもさらに背が伸び、逞ましい戦士の背中を持った「大人のゼノリス」だ。その隣には、一人の女性がいた。風になびく長い髪が黄金にも白銀にも見え、その表情は光に満ちていてはっきりとは分からないが、彼女は大人のゼノリスの腕にそっと手を添え、この上なく幸せそうに微笑んでいた。
二人の歩みは、どこか遠い目的地へ向かうものではなく、今、この瞬間を慈しんでいるかのようだった。
「――ねえ、こっちだよ!」
「――待ってよー!」
不意に、背後から弾けるような高い笑い声と、無邪気な呼び声が響いた。大人のゼノリスとその隣の女性は、同時に顔を見合わせ、慈愛に満ちた幸せそうな笑みを浮かべて振り返った。二人の視線の先には、黄金に輝く麦の穂をかき分けて、光の粒子を振りまきながらこちらへと全力で駆けてくる「小さな影たち」がいた。
逆光の中でその姿は光に溶けて見えなかったが、こちらへ向かって精一杯に伸ばされた小さな手と、世界を祝福するような無邪気な歓声が、そこにある「生命の至福」を何よりも雄弁に物語っていた。
振り返ったゼノリスの瞳に、あふれんばかりの喜びが宿る。その瞬間、夢の中の自分と意識が重なった彼は、今まで一度も感じたことのない、烈火のような、それでいて真水のように澄み渡った「幸福感」に包まれた。
(あぁ……そうか。僕たちは、辿り着いたんだ。こんなにも……温かい場所に)
その幸福の絶頂で、夢は白い光の中に溶けて消えた。
次にゼノリスが目を開けたとき、部屋の窓からは、丸一日が過ぎたことを告げる柔らかな夕焼けの色が差し込んでいた。深い眠りから覚めた彼の頬には、自分でも気づかないうちに流れた一筋の涙の跡があった。それは悲しみの涙ではなく、魂が極上の安らぎに触れたことへの、震えるような残響だった。
ゼノリスが階下へ降りると、広間からは賑やかな包丁の音と、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。
「……おはよう、兄さま」
キッチンから顔を出したのは、エプロン姿のフィリーネだった。彼女もまた、深い休息を経て、その瞳に本来の瑞々(みずみず)しい輝きを取り戻していた。
「ちょうどよかったです。今、テオが温室から持ってきてくれた新鮮な野菜で、帰還のお祝いディナーが完成したところなんですよ」
広間の大きな円卓には、次々と心のこもった料理が並べられていった。監獄の「薪」にされた不適合者たちの怨念を振り払い、十人が一つの輪になって囲む夕食の席。それは、どんな豪華な帝国の晩餐よりも輝いて見えた。
「さあ、皆さん。まずは生き延びて戻れたことに……乾杯しましょう!」
セレスティアの音頭で、果実水のグラスが重ねられた。食事の間、彼らは監獄の惨劇については一切触れず、明日から始まる「普通の学生生活」への期待を語り合った。
ゼノリスは、隣で楽しそうにスープを運ぶフィリーネの横顔を、慈しむように見つめた。 (あの夢は、ただの幻じゃない。僕たちがこれから、この手で築いていく未来の響きなんだ)
十人の長い夜が明け、本当の意味での「学園生活」が、今、ここから始まろうとしていた。
賑やかだった晩餐の灯が消え、旧時計塔は深い静寂に包まれていた。だが、その静寂は以前のような死を待つ「鉛」の重さではない。地下動力室から繋がる魔導管が、生命の熱を各部屋へと運び、壁の裏でトクトクと力強い拍動を刻んでいる。それは、この時計塔そのものが、十人の生還を祝うかのように息づいているかのようだった。
地下の調整室では、ルカスとガイルが、薄暗い魔石の明かりの下で向き合っていた。
「……ルカス、魔導管の第三バイパスの圧力が安定している。監獄から引き抜いたあの三千年前の術式が、ようやく今の回路と共鳴し始めた証拠だ」
ガイルが右目の「解析」を明滅させながら、熱を帯びた配管を愛おしそうになぞる。
「ああ。……でも、この過剰なまでのエネルギーこそが、僕たちが勝ち取った自由の重さだ。明日からはまた、マルクスたちの監視の目を盗んで、この熱を『故障』や『誤差』に偽装し続けなきゃならないからね」
ルカスが眼鏡のレンズを拭きながら、不敵に笑う。二人の間には、もはや去年の春のような刺々(とげとげ)しい反発はなく、巨大な真実を共有する戦友としての、揺るぎない連帯感があった。
二階の談話室では、セレスティアとイリスが、冷え切った紅茶のカップを前に静かに座っていた。
「……イリス、貴女の幻惑、あの監獄で少し変わったわね。……今の貴女の魔力、ただの嘘じゃなくて、どこか『祈り』の響きが混じっている」
セレスティアの「真実を映す青い瞳」が、イリスの周囲に揺らめく灰色の残響を見透かすように見つめる。
「……そうかしら。自分を捨ててまで他人を守るなんて、聖女様の影響が移ったのかもしれないわね。……皮肉なものだわ」
イリスはそう言って自嘲気味に微笑んだが、その表情は以前よりもずっと柔らかかった。監獄で泥を被ることを選んだ彼女の誇りは、今や十人の絆を守るための、最強の盾となっていた。
時計塔の中層にあるテラスの影では、カシムが闇の中に溶け込むようにして佇んでいた。
「……カシム、またそんなところで夜風に当たっているの?」
窓辺で黄金の羅針盤を磨いていたナディアが、ふと声をかけた。彼女の羅針盤は、監獄での異常な回転を経て、今はかつてないほど澄んだ「北」を指し示している。
「……影の中の方が、あいつらの気配をよく拾えるんだよ。マルクスの監査官ども……表向きは引き上げたようだが、まだ校舎の影でネズミみたいに動いてやがる」
カシムが影の中から低い声を返す。12歳になった彼の影魔法は、もはや単なる隠身の術ではなく、学園全体の「音」を拾い上げる触手のように鋭敏になっていた。
「ふふ、頼もしいわね。……でも、私の羅針盤も負けていないわ。監獄の『虚無』を知ったおかげで、この学園の閉ざされた空気の向こう側に、もっと広い星の海があることが分かるようになったの。……私、早く次の演習で外へ行きたいわ。今度は、もっと遠くの水平線まで」
ナディアが羅針盤を胸元へ抱き寄せ、夜空を仰ぐ。
「……フン、どこまでも付き合ってやるよ。俺の影が、お前の星を見失わない限りはな」
二人の会話は、監獄へと向かった時の不安を払い落とし、新しい冒険への確信に満ちていた。
温室の奥では、テオが眠そうな目を擦りながら、魔導管の熱を浴びて急成長する薬草の苗を確認していた。
「……よし。これで、リィンの剣のための特殊な研ぎ石も、フィリーネの新しいポーションも、自前で準備できる。……もう、マルクスの予算なんて、必要ないのです」
テオが動物の耳をピクピクと動かし、満足げに微笑む。
隣の部屋では、リィンが一人、窓の外の月を見つめていた。その手には、あの漆黒の小箱が握られている。
(……これが、私の誇り。……私は、もう独りじゃない)
彼女の肩にかかった銀色の羽衣が、持ち主の安らぎに応えるように、銀色の微粒子を静かに散らしていた。
ゼノリスは一人、最上階のテラスへと続く階段を上がった。
扉を開けると、そこには春の夜の、ひんやりとした空気が待っていた。学園都市エーテルガードを包む夜霧は、月光を浴びて淡い真珠色に輝いている。
手すりに手をかけ、ゼノリスは深い息を吐いた。右手のひらの刻印は、監獄の深淵と共鳴した名残か、今も静かな、しかし重厚な熱を帯びている。彼は、眠りの中で見たあの「黄金の夢」を反芻していた。
視界いっぱいに広がる黄金の麦畑。父ロランや母ミリアと過ごしたあの日の残響。そして、自分と並んで歩く、一人の女性の姿。その顔は、眩いばかりの逆光の中に溶け、表情さえも読み取ることはできない。髪の色さえ、黄金の穂に紛れ、その正体を悟ることは不可能だった。ただ、彼女が自分の腕にそっと手を添え、幸せな「気配」を纏って歩んでいること。そして、背後から聞こえてきた、誰のものか分からない子供たちの無邪気な笑い声だけが、魂の底に刻まれていた。
(……僕は、あんなにも幸せそうな顔をして、振り返っていたんだ)
今の自分には、まだ遠すぎる未来。だが、あの時味わった、真水のように澄み切った幸福感は、監獄でサイラスが突きつけたどの「真実」よりも、確かな手触りを持って彼の中に留まっていた。
「……兄さま。やっぱりここにいた」
不意に、背後から透明な声が響いた。振り返ると、そこには薄手の寝巻きの上にカーディガンを羽織ったフィリーネが立っていた。銀色の長い髪は月光を受けて輝き、9歳になった彼女の瞳は、吸い込まれるような深みを湛えてゼノリスを射抜いていた。
「フィリー。……まだ起きていたのか」
「兄さまの背中が、また難しいことを考えていたから。……フィリーには分かるんです」
フィリーネは躊躇いなくゼノリスの隣に立ち、その二の腕に自分の身体を預けた。
「……監獄で、サイラスが言ったこと。……本当はまだ、胸の奥で引っかかっているんだ。……もし僕の力が、本当に汚れを隠すための掃除機に過ぎないのだとしたら、僕は一体、何を信じて歩けばいいのかって」
「馬鹿な兄さま」
フィリーネが、ゼノリスの言葉を遮るように、その指先で彼の右手の包帯をそっと押さえた。
「兄さまの光が掃除機なら、どうして私は、あんなに温かくなったんですか? 汚れを吸い取るだけの道具に、人の心を救う音なんて奏でられません。……兄さまの種火は、兄さま自身が、私たちを守りたいと願って灯し続けてきた……世界で一番気高い音なんです」
フィリーネの瞳に宿る、狂おしいほどの信頼。その熱が、ゼノリスの胸の奥でくすぶっていた冷たい澱みを、一気に蒸発させていく。
「……ありがとう、フィリー。……君にそう言ってもらえるだけで、僕はまた、僕の音を信じられるよ」
ゼノリスが彼女の肩を抱き寄せると、フィリーネは嬉しそうに、それでいてどこか熱っぽい吐息を漏らしながら、その胸に顔を埋めた。
「……兄さま。明日からはまた、中断されていた2年生の講義が再開されますね」
「ああ。……マルクスの不当な監視も、学園内の冷たい視線も、何一つ変わっていないけれど。……でも、僕たちが監獄で手に入れた『音』だけは、もう誰にも奪えない」
ゼノリスは夜空を見上げた。2年生という激動の季節は、まだ始まったばかりだ。マルクスの支配、八ヵ国連合の陰謀、そして闇に消えたサイラス。これから待ち受けているのは、監獄よりもさらに狡猾で、広大な「世界の不協和音」だろう。
だが、自分の腕の中にいるこの確かな温もりと、階下でそれぞれの「武器」を磨き続ける仲間たちの鼓動がある限り。かつて父ロランから教わった剣と、母ミリアから教わった優しさを胸に、彼はどこまでも飛べる。
「行きましょう、兄さま。……みんなが待つ、私たちの『今』へ」
フィリーネがゼノリスの手を引き、テラスを後にする。扉が閉まる間際、ゼノリスの胸の奥で、『運命の種火』がこれまでで最も澄んだ、銀色の残響を奏でた。
翌朝、旧時計塔を包んだのは、皮肉なほどに澄み渡った春の青空だった。地下の魔導管から供給される安定した熱が、石造りの壁を通じて十人の肌に柔らかな安らぎを伝えている。それは、マルクスたちの監視網がどれほど緻密であろうとも、決して捉えることのできない「奪われない力」の証だった。
広間には、絶望的な任務を突きつけられたあの出立前のような殺伐とした空気は微塵もなかった。ルカスは愛用の魔導スキャナーの数値を最終確認し、ガイルは手に入れた古文書のメモを満足げに懐にねじ込んでいる。ナディアは窓辺で黄金の羅針盤を掲げ、既に「学園の外」に広がる世界へと思いを馳せていた。
その中心で、フィリーネがゼノリスの身なりを整えていた。彼女はゼノリスの襟元を正すと、包帯が巻かれた右手をそっと両手で包み込み、慈しむような視線を向けた。
「兄さま、準備はいい? ……今日の兄さまは、今までで一番、本物の騎士様に見えるわ」
フィリーネの銀髪が朝日に透け、その瞳には兄への深い情愛と、共に死線を越えたパートナーとしての誇りが宿っている。
「……ああ。フィリーが隣にいてくれるなら、僕はどこへだって行けるよ」
ゼノリスが微笑んで答えると、フィリーネは嬉しそうに頷き、彼の腕をしっかりと抱き寄せた。
広間に集まった十人の「鉛の騎士団」は、互いの瞳に宿る熱を確認し、時計塔の扉を押し開いた。
中央回廊を歩く彼らに、周囲の生徒たちの視線が突き刺さる。だが、そこにあるのは以前のような剥き出しの嘲笑ではない。石畳を踏みしめる彼らの靴音、使い込まれた武具が奏でる重厚な響き、そして何より一人一人が放つ圧倒的な存在感に、生徒たちは気圧されるように道を開けた。中には、彼らの凛とした姿を羨望の眼差しで見つめる下級生たちの姿もあった。彼らにとって、監獄という「世界の不都合」を打ち破って戻ってきた十人は、理不尽な学園の秩序に対する、微かな希望の象徴になり始めていた。
中央階段の踊り場で、一行の行く手を阻むように、漆黒の燕尾服を纏ったマルクス・ギルダーが立ち塞がった。その背後には、冷徹な目を光らせる監査官たちが、まるで彼らを捕縛しようとするかのように控えている。
「……何故だ。何故、貴様らはそれほどまでに平然としていられる」
マルクスの声が、苛立ちと理解不能な恐怖で僅かに震えていた。
「予算を凍結し、魔石の供給を断ち、自由を奪ったはずだ。……本来ならば、今頃は寒さと飢えに震え、慈悲を請いながら這い蹲っているはずの『不良債権』が、何故それほどまでに揺るぎない誇りを纏っているのだ!」
マルクスの詰問に、ゼノリスは一歩前へ出た。銀色の瞳が、冷徹な天秤のようなマルクスの視線を真っ向から射抜く。
「……副学園長。貴方の秤が測れるのは、帳簿上の数字と、形式的な規則の重さだけです」
ゼノリスの声は、廊下の隅々にまで透き通るように響いた。
「ですが、僕たちは知りました。貴方の用意したどんな檻も、本物の力を手に入れた魂を繋ぎ止めることはできないということを」
「力だと……? 貴様らのような落ちこぼれが、何を手に入れたというのだ!」
「貴方たちが『ゴミ』として捨て去ろうとした、この世界の真実です」
イリスが静かに一歩前に出、マルクスを冷ややかな眼差しで見下ろした。
「貴方の『鉄の枷』は、確かに重く、冷たい。けれど、私たちはその枷を、自分たちの足元を固めるための『錨』に変えました。……奪われれば奪われるほど、私たちは自分たちの内側にある、決して消えない光に気づくことができたのですから」
マルクスは言葉を失い、顔を赤黒く染めて絶句した。彼が完璧だと信じていた「数字と効率による支配」という名の紙細工が、十人が放つ圧倒的な実在感の前に、音もなく瓦解していく。自らの支配が通用しないという絶望が、彼の合理的な世界を根底から揺さぶっていた。
「……行こう。講義に遅れると、ガント先生に怒られてしまう」
ゼノリスは一瞥もくれずに、マルクスの横を通り過ぎた。十人の「鉛」たちが悠然と歩み去る背中を、マルクスはただ、自分の権威が塵のように舞い落ちるのを眺めることしかできなかった。
その光景を、学園の時計塔のさらに高み、隠された執務室から「聴いて」いる男がいた。 サイラス・ヴォーン。
公式には「行方不明」とされたはずの男は、闇の中に浮かび上がる巨大な古時計を背に、悦びに震えるような独り言を漏らした。
「……ふふ。実に。実に、素晴らしい響き(エコー)だ」
サイラスは、粉々に砕け散った自らの指揮棒の破片を、愛おしむように指先で弄った。彼の頬には、ゼノリスが突き放した希望の熱が刻んだ、消えない裂傷が刻まれている。
「ゼノリス君……。君はついに、帝国の血脈を『枷』としてではなく、自らの『音』として受け入れたようだね。……だが、忘れないでほしい。……君が奏でれば奏でるほど、この世界の偽りの調和は狂い、あの方が望む真の終焉へと近づいていくのだから」
サイラスの『真実の聴覚』は、遠く離れた廊下でゼノリスたちが発した言葉の端々に宿る、強靭な意志の波動を捉えていた。
「……さあ、次の楽譜を用意しよう。……学園という名の箱庭で、存分に青春を謳歌するといい。……その煌めきが強ければ強いほど、最後に訪れる不和の衝撃は、より美しく、より残酷なものになるのだから」
男の影が、闇の中に溶けて消える。それは、偽りの安息が消え去り、真実の闘争が幕を上げるための、静かなるプロローグの終わりだった。
ゼノリスたちは、教室の扉を開いた。そこには、これまでと変わらない講義の風景があり、教壇にはガント先生が厳しい顔で仁王立ちしていた。
「――遅いぞ、2年生ども! 席に着け。……死地を乗り越えてきたからといって、一端の魔導師になったつもりなら、その鼻柱を根こそぎ叩き折ってやるからな!」
ガントの咆哮に、十人は顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。死闘は一度幕を閉じた。だが、自分たちの運命を自分たちの手で奏でるための歩みは、まだ始まったばかりなのだ。
ゼノリスは席に着き、隣のフィリーネの柔らかな微笑みと、仲間たちの力強い鼓動を感じながら、静かにペンを走らせ始めた。窓の外には、どこまでも青い春の空が広がっている。
これからの日々に響くのは、もはや絶望の悲鳴ではない。「鉄の枷」を断ち切り、自らの足で歩み始めた十人の絆が奏でる、どこまでも澄み渡った「銀の残響」なのだから。




