第14章:忘却の監獄(レテ・プリズン)
北の最果て。そこは、地図のインクが途切れ、呼吸そのものが凍りつく場所だった。
アドラス公国の肥沃な大地や、管理された秩序は遥か後方に去り、十人の目前に広がるのは、神にさえ見捨てられた「絶念の地」である。空は常に重い鉛色に淀み、太陽はその厚い雲に遮られ、まるで死者の瞳のように生気のない淡い輪郭を晒している。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、足元の灰色の泥が、薄いガラスを噛み砕くような不快な音を立てて崩れる。ここには植物の緑はなく、鳥のさえずりもない。ただ、凍てついた風が廃墟の隙間を通り抜ける際に上げる、獣の呻きのような音だけが、絶え間なく鼓膜を震わせていた。
「……ここが、本当に私たちの知る世界の一部なのかしら」
フィリーネが、防寒用の外套をきつく締め直し、白く濁った吐息を漏らした。彼女が踏み締める地面には、かつて帝国の一部であったであろう石畳の欠片が、歴史の重みに耐えかねたように無惨に砕け散っている。
「ええ。公国の歴史書には聖域なんて美化して書かれているけれど、その実態はこれよ。三百年もの間、誰にも顧みられなかった巨大なゴミ捨て場……それも、ただのゴミじゃない。歴史から消し去りたかった不都合な真実が詰め込まれた箱だわ」
イリスが冷徹な眼差しで、前方にそびえ立つ巨大な黒い影を射抜いた。彼女は自身の魔力残量を確認し、この土地が放つ「毒」を肌で感じ取っていた。
「……イリスの言う通りだ。だが、ただのゴミ捨て場じゃない。僕の目には、ここが、生きたまま凍らされた墓場に見える」
ガイルが右目の眼帯を指先で持ち上げた。彼の「解析眼」が、周囲の大気に満ちる異常な魔力のうねりを、青白い数式の羅列として捉え始めていた。
その影こそが、十人の目的地であり、最大の試練となる場所――忘却の監獄だった。
近づくにつれ、その威容は現実味を奪うほどの圧倒的な質量をもって迫ってくる。要塞そのものが巨大な岩山を力任せに削り出して作られたかのように荒々しく、その壁面には三百年分の呪詛が染み付いた黒ずんだ魔導回路が、浮き出た血管のように不気味に這い回っていた。
そして、十人の歩みを完全に止めたのは、その中央に鎮座する巨大な鉄の門だった。
高さ二十メートル。公国の騎士団が使う巨大な攻城槌ですら、この門の前では子供の玩具にしか見えないだろう。門の表面には、太い大蛇を思わせる無数の鎖が、視覚を狂わせるほど複雑な密度で絡み合っている。その一本一本が、触れる者を呪い殺さんとばかりに鋭い霜を帯び、冷たく発光していた。
その光景は、まさに感情をすべて剥ぎ取られた氷の巨人が、侵入者を一瞥もすることなく、冷酷にまぶたを閉じている姿そのものだった。
「……おいおい。聞いてた話と違うぜ。これじゃあ、門っていうより鉄の山じゃねえか」
カシムが短剣を抜き、その柄を弄りながらも、視線は門から逸らさない。彼の野生的な本能が、この門から発せられる異質な魔圧を敏感に捉えていた。
「単なる寒さじゃない……。空気が、一方的に吸い込まれているんだ」
「ガイル、解析を」
ゼノリスの静かな、だが深く通る声が響く。ガイルは右目の解析魔力を限界まで解放し、門の深層へと視線を突き刺した。
「……ああ。最悪だ。この門、単なる物理的な障壁じゃない。表面を覆っている古代の術式が、周囲の大気から熱……つまり生命の最小単位であるエネルギーを強制的に吸い上げ、それを自分の強度に変換し続けている。僕たちがここに立っているだけで、僕たちの命の灯火は、この門をより強固にするための餌として奪われているんだ。例えるなら、侵入者の体温を盗んで鍵を太らせる熱泥棒の門だ」
ガイルが読み解いた「絶望的なデータ」を受け、イリスが即座に戦術的な判断を下す。
「道理で、肺の奥まで凍りつくような感覚を受けるわけね。ガイルの解析によれば、このまま留まるだけで十分以内に全員の運動能力が三割低下するわ。……フィリーネ、先行して全員に体温維持のバフ薬を。……テオ、無理な接触は厳禁よ」
だが、その忠告よりも早く、テオが動いた。彼は仲間を覆う恐怖の沈黙を力でねじ伏せるかのように、重厚な金属音を立てて大盾を背負い直し、一歩前へ出た。
「理屈は分かった。要は、奪われる以上に叩き込めばいいんだろう?」
テオの腕が、丸太のような太さで膨れ上がる。彼は二年生として培ってきた全筋力を、その一点に集中させた。
「――う、お、おおおおおッ!!」
テオの怒号が響き、足元の地面が砕け散る。だが、門は髪の毛一筋ほどの揺らぎも見せなかった。それどころか、テオが門に触れた瞬間、猛烈な霜が腕を駆け上がった。
「ぐあぁッ……!?」
テオが叫び、手を離す。彼の右腕は、指先から肘にかけて真っ白な氷に覆われていた。血管の中を流れる血までが凍りつこうとする、異常な超低温の伝播。
「下がって、テオ!」
セレスティアが弾かれたように飛び出した。彼女は聖杖を掲げ、温かな光の幕をテオの腕に被せる。
「慈愛の熱量! ……大丈夫、組織の壊死は食い止めたわ。でも、これ以上の物理接触は自殺行為よ。この門は私たちの体温を拒絶の力に変えている。物理的な干渉は、すべて相手の防御力を高める結果にしかならないわ」
セレスティアは凛とした表情でテオを介抱しながら、ゼノリスを振り返った。
ゼノリスは頷き、銀剣の柄に手をかけた。
「……ああ。ダムの巨大な水門が水の圧力を逆に利用して閉じているように、この門は三百年分の忘却されたいという怨念を重しにしているんだ。力で壊そうとすれば、その力がそのまま壁になる」
ゼノリスは一歩、また一歩と、冷気の渦の中へと歩みを進めた。
「リィン、君の力を貸してほしい。この門が閉じようとするリズムを、僕たちの旋律に書き換えるんだ。ガイル、鍵穴を見つけろ!」
「了解だ! 右から三番目の鎖の交差点、そこがこの術式の共鳴の節だ。そこにゼノリスの銀色の波長を叩き込めば、一時的にシステムを飽和させられる!」
ガイルが指し示したのは、氷の巨人の瞳に相当する箇所。
「リィン、風を送って。僕の魔力を運ぶ船になってほしい」
「……うん。まかせて。風は、もうあそこの隙間に手をかけているよ」
リィンが白銀の羽衣を広げると、監獄の死んだ空気が、彼女の意志に従って生き生きとした波動へと変わった。風は、暗闇の中を優雅に泳ぐ光の魚のようにしなやかに、門を縛る鎖の微かな隙間へと吸い込まれていった。
ゼノリスは銀剣を抜き、その切っ先を門の瞳に向けた。リィンが運ぶ風の背に乗って、彼の銀色の魔力が門の深層へと浸透していく。ガイルの解析眼が捉えたのは、鉄の分子レベルでの凄まじい不協和音だった。何億という原子がバラバラに震え、互いに衝突し合うことで絶対に動かない壁を作り出している。
「リィン、今だ! 僕の波長を増幅して! 散らばっている不揃いな振動を、一つのリズムに束ねるんだ!」
「――いっけぇぇぇぇッ!!」
リィンの叫びと共に、風の渦がゼノリスの銀色の魔力を巻き込み、門の瞳へと猛烈な勢いで突き刺さった。それは、暴れ狂う十頭の荒ぶる馬の手綱を、強引に一本にまとめ上げ、御者が渾身の力で一方向へと走らせるような、強烈極まる共鳴だった。
――ズ、ゥ、ゥ、ゥ、ゥ、ゥ、ゥ、ゥ、ン……!!
大地の底から響くような、重厚で低い呻き。
門を縛り付けていた数千の鎖が、一斉に力を失って地面へと崩れ落ちた。凄まじい鉄の衝突音が荒野に木霊し、氷の破片が十人の周囲にキラキラと降り注ぐ。そして、二十メートルの鉄の巨門が、ゆっくりと、そして傲然と左右に分かれていった。
門が開いた瞬間、十人の頬を打ったのは、三百年もの間、光も酸素も奪われた場所で発酵し続けた、冷たく湿った死んだ過去の匂いだった。
「……開いたわ。巨人が、私たちのために目を開けたのね」
セレスティアが聖杖を高く掲げた。先端に灯された柔らかな光が闇を照らすが、その光さえも、数メートル先で灰色の虚無に吸い込まれてしまう。
「……行こう。ここからが本当の鉄の枷の試練だ。一人一人が、自分の音を失わないように」
ゼノリスが先頭に立ち、闇の中へと足を踏み出す。十人が最後の一人まで門を潜り抜けた瞬間だった。
ガガガガ、ガガガ……ゴンッッッ!!
背後で、あの巨大な鉄の門が再び地響きと共に閉じ合わされた。
それは、もはや逃げ道など存在しないことを告げる、冷酷な断絶の音。
十人の周囲に残されたのは、自分たちが持ち込んだ魔導灯の小さな揺らめきと、足元から這い上がってくるような、三百年分の忘却の静寂だけだった。
背後で巨大な鉄門が、地響きと共にその口を閉ざした瞬間、世界からあらゆる「音」が完全に消失した。つい先刻まで耳を打っていた極北の風の唸りも、凍てついた泥を踏み締める際の硬い音も、もはやここには届かない。後に残されたのは、自分たちの心臓の鼓動が、まるで耳元で巨大な太鼓を叩かれているかのように大きく、不快に響き渡るほどの、不自然なまでの無音だった。
「……真っ暗ね。まるで、冷たく湿った重い布で、頭をまるごと包み込まれたみたいだわ」
フィリーネが、自身の腕を強く抱きしめながら、震える声で小さく呟いた。
ゼノリスが掲げた灯火の、わずかな銀色の光だけが、周囲の景色を頼りなく、細切れに照らし出している。そこは、どこまで続いているのかも知れない、灰色の石造りの回廊だった。
床にも、壁にも、三千年分の時間がそのまま堆積したかのような、分厚い埃が積もっている。それは遠目には降り積もったばかりの雪のように白く見えるが、一歩歩くたびに、灰色の粉塵が霧のように舞い上がり、吸い込むたびに喉の奥を細かなガラスの粉で撫で回されたような、鋭いザラつきを残した。
「……変な匂いがする。古い本を、湿りきった地下室に三千年も放置したような、紙の腐敗臭と……鉄が、自分自身の重みに耐えかねて錆び朽ちていくような匂い」
セレスティアが顔をしかめ、鼻を覆いながら聖杖の光を少し強めた。
「……ガイル、これは単なる埃じゃないわ。そうでしょう?」
「ああ。……僕の解析眼が捉えているのは、物質の死骸だ。古代の魔導具が焼き切れた際の煤や、人間の魔力が使い果たされて霧散した後の『魂の抜け殻』……。例えるなら、ここは三千年前からの吐息が、一度も換気されずに澱み続けている、巨大な石の瓶の中のようなものだよ」
ガイルが右目の眼帯を指先で持ち上げると、暗闇の中に青白い魔力の波紋が広がった。 「……空気が重い。情報の密度が、外の世界とは比較にならないほど高いんだ。肺に空気を吸い込むたびに、三千年分の死んだ記憶が喉に張り付く感覚がする」
「……ガイル、ルカス。明かりを頼めるか。この暗闇に慣れすぎると、感覚が麻痺する」
ゼノリスの静かな指示に、技術担当の二人が弾かれたように動き出した。
ガイルは「解析眼」を限界まで研ぎ澄ませ、石壁の深層に眠る、血管のように細い魔導配線を青白い光の筋として浮かび上がらせた。
「……見つけた。壁の中に古代アドラスティアの回路がまだ生きている。……ルカス、三メートル先の獅子の彫像がある接続部だ。そこに予備の魔石を流し込めば、このエリアの照明を強制起動できるかもしれない」
「合点承知だ。……ったく、三千年も眠っていた老いぼれを叩き起こせってか。俺の魔導具が、その気難しい『音』に耐えられればいいんだがな」
ルカスが苦笑しながら、獅子の口の中に手を突っ込み、現代の魔導技術を古代の回路へと強引に繋ぎ合わせた。
「……行くぞ。僕たちの新しい明かりで、この古臭い沈黙を穿ってやる!」
バチッ、という激しい火花が闇を裂いた。次の瞬間、天井に埋め込まれた水晶のランプが、ひとつ、またひとつと、青白い幽霊のような光を灯し始めた。ドミノ倒しのように、回廊の奥へと光が伝播していく。だが、その光が映し出したのは、かつてこの監獄を埋め尽くしていたはずの、救いのない「絶望」の記録だった。
光の下で露わになった壁面には、気が遠くなるほど無数の「線」が刻まれていた。 それは、ここに閉じ込められた囚人たちが、正気を保つために爪を立てて刻み続けた日付であり、二度と会えない家族への呪文のような想いであり、あるいは自分たちを捨てた帝国への果てしない呪詛だった。
「……見て。壁一面に、名前が刻まれている。……何千、何万という人たちが、ここで誰にも知られずに忘れられていったのね」
リィンが、吸い寄せられるようにその刻銘に触れようとして、そのあまりの「熱の欠落」に慌てて手を引いた。名前の横には、どれだけの時を過ごしたかを示す無数の斜線が、まるで檻の柵のように整然と、そして無残に並んでいる。一、二、三……。その線が壁を埋め尽くし、天井にまで達している箇所すらあった。
「……解析結果が出た。……ここにある全ての刻銘には、微かな『魔力的な執念』が宿っている。彼らが肉体を失い、塵となった後も、その想いだけがこの埃の中に溶け込んで、監獄全体の物理的な重圧を形成しているんだ」
ガイルが、疼く右目を抑えながら険しい表情でデータを読み取る。
「僕たちの足が重いのは、単なる重力のせいじゃない。この三千年分の『忘れられたくない』という情報の質量が、僕たちの意識を沼のように引きずり込もうとしている。……これ自体が、監獄のすべてを永久にこの深淵へ繋ぎ止めておくための、巨大な『鉄の枷』として機能しているんだ」
「……みんな、ガイルの言う通りだ。壁を見すぎるな。執念に心を合わせるんじゃない」
ゼノリスが仲間に注意を促したその時。
灯ったばかりの青白い光が、一瞬だけ激しく明滅した。回廊の角、光が届かない闇の向こうから、「ズルリ……」と、重たい麻袋を引きずるような、不気味な音が響いてきた。
「……カシム。何が見える?」
ゼノリスが銀剣の柄に手をかけ、低い姿勢を取る。カシムは目を限界まで見開き、闇の揺らぎを見極めようとした。
「……影だ。だが、生きているやつの影じゃねえ。……おい、見ろよ! 壁に刻まれた『名前』が剥がれ落ちて、実体を持ったみたいに蠢いてやがる!」
カシムの指差す先。三千年分の怨念を吸い込んだ壁の文字が、墨汁のようにドロリと溶け出し、床を這う黒い霧へと姿を変えていた。それは形を持たないはずの「記憶」たちが、新たな生命の音を持つ十人を「異物」として排除しようとする、監獄自身の免疫反応だった。
「……ルカス、扉の解錠を急げ! 幽霊相手に魔力を浪費するわけにはいかない!」
「分かってるっての! だが、この奥の扉……認証システムが、三千年前の古いコードをさらに上書きしてやがる。ガイル、知恵を貸せ!」
「……了解だ。僕の魔力で直接回路を書き換える。十秒だけ、時間を稼いでくれ!」
ガイルとルカスが扉に取り付く。その背後で、黒い影たちは徐々に形を成し、かつての囚人たちの苦悶の表情を浮かべた人型の霧となって十人を包囲し始めていた。
「……セレスティア、光の障壁を! この影には、こちらの魔力を吸い取る性質がある。直接触れさせるな!」
「……ええ! 『聖域の残響』!」
セレスティアが聖杖を地面に突き立てると、彼女の足元から黄金の波紋が広がり、十人を包み込む柔らかなドーム状の壁を作り出した。その光が、迫り来る黒い霧を焼き、耳障りな絶叫を上げさせて霧散させていく。
だが、霧は尽きることがない。壁に刻まれた名前の数だけ、敵は無限に湧き出してくる。 十人は互いの背中を預け合い、三千年の沈黙が形を成した「影」の猛攻に耐えながら、扉が開くその瞬間を、固唾を呑んで待っていた。
背後で黒い影たちが絶叫を上げ、セレスティアの黄金の障壁を叩き割ろうと牙を剥く。その中心で、ガイルとルカスの指先だけが、火花を散らす古代の回路盤を猛烈な速さで叩き続けていた。
「……書き換え、完了! ――開けッ!」
ガイルの叫びと同時に、三千年間沈黙していた石扉が、重い溜息を吐き出すように左右へと滑り出した。
「全員、飛び込めッ!」
ゼノリスが最後尾で銀剣を振るい、迫り来る影の先端を切り裂く。十人はなだれ込むようにして扉の先へと滑り込み、ルカスが内側のレバーを力任せに引き下げた。
ガガ、ゴンッ! という鈍い衝撃と共に、扉が閉ざされる。亡霊たちの叫び声は一瞬で遮断され、再び監獄特有の、あの耳鳴りがするような静寂が戻ってきた。
だが、その静寂は先ほどまでのものとは明らかに「色」が違っていた。
「……はぁ、はぁ……。助かった、のか……?」
カシムが膝に手をつき、荒い息をつく。だが、彼はすぐに異変に気づいた。吐き出した息が、足元に向かって異常な速さで吸い込まれるように落ちていったのだ。
十人が辿り着いたのは、「枷の広場」と呼ばれる監獄の中層エリアだった。そこは、天井が見えないほど高い吹き抜けの空間で、壁一面には錆びついた鉄格子の独房が無数に、蜂の巣のように並んでいる。そして何よりも異様なのは、天井の闇から垂れ下がった数千、数万という「鉄の鎖」の群れだった。
風もないはずのその空間で、太さも長さもバラバラな鎖たちが、チリン、チリンと……まるで数千人の鉄の幽霊たちが、一斉に笑い声を上げているかのような、寒気のする高い音を立てて微かに揺れている。
「……ここ、空気がおかしい。息を吸おうとしても、肺の中に鉄の粒を流し込まれているみたいに重いの」
リィンが胸元を両手で押さえ、苦しげに顔を歪めた。彼女の白銀の羽衣が、目に見えない圧力に押し潰されるように、床に向かって力なく垂れ下がっている。
その異変が「牙」を剥いたのは、一行が広場の中央へと差し掛かった時だった。
――ズンッ!!
前触れもなく、十人全員の膝が硬い石畳に叩きつけられた。それは魔法的な衝撃というよりは、もっと根源的な「物理的破壊」に近い。目に見えない巨大な巨人の手のひらで、頭のてっぺんから全力で押し潰されたかのような、逃げ場のない圧倒的な重圧だった。
「が、はっ……!? なんだ、これ……石が、石が乗ってやがる……!」
カシムが床に両手をつき、必死に顔を上げようとするが、首の骨がミシミシと悲鳴を上げる。床に落ちていたわずかな埃さえも、異常な重力に引かれて、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のようにピタリと地面に張り付き、二度と舞い上がることはなかった。
「……ガイル、解析……っ、頼む……!」
ゼノリスは、体内の魔力を銀剣に注ぎ込み、それを杖代わりにして、震える足でかろうじて上半身を起こした。彼の視界は、急激な血圧の変化で赤く染まり始めている。
ガイルは疼く右目を押さえ、指の間から溢れる青白い火花に耐えながら、天井で揺れる鎖の群れを睨みつけた。
「……っ! あの鎖だ! 天井から下がっている鎖一本一本が、この広場の空間を編み上げる『重力の針』になっているんだ! ……解析完了。これは古代アドラスティアの防衛術式……。侵入者の持つ魔力に反応し、その出力に比例して重力を増大させる『自縄自縛の罠』だ!」
ガイルの言葉を受け、イリスが即座に戦術的な警告を発した。彼女の声も、圧迫された喉のせいで掠れている。
「……最悪な仕組みね。魔力が高いゼノリスやセレスティアほど、かかる重圧は重くなる。……フィリーネ、測定して。私たちの限界は?」
「……心拍数、正常時の三倍を突破! このままじゃ、三分も持たずに全身の血管が破裂するわ!」
絶望的な状況の中、一人の男の「意地」が爆発した。
「……三分、あれば十分だ。……俺の筋肉が、この程度の鉄くずに負けると思ってんじゃねえぞ!」
テオだった。彼は全身の血管を浮き上がらせ、内側から筋肉を鋼鉄のように硬化させることで、重圧を真正面から受け止めた。
「おおおおおおおッ!!」
彼が背負っていた巨大な盾を地面に突き立てると、凄まじい火花が散り、強固な床の石材がクモの巣状に粉々に砕け散った。テオの全身からは、限界を超えた身体強化による熱い蒸気が、滝のような汗と共に立ち昇っている。
「……みんな、俺の陰に入れッ! この盾で、上からの重圧を左右に受け流してやる!」
テオが巨大な盾を支柱にして作り出した、わずかな「重力の空白地帯」。そこへ、這いつくばっていた仲間たちが転がり込む。だが、テオの顔は既に充血し、鼻からは一筋の血が垂れていた。彼一人に、この監獄の「怨念」をすべて押し付けるわけにはいかない。
「……フィリーネ、例のやつを! 躊躇わないで!」
セレスティアが、震える手でテオの背中に触れ、彼の崩壊しそうな魔力回路を懸命に繋ぎ止める。
「ええ! ……テオ、後で恨まないでよ!」
フィリーネが取り出したのは、刺すような刺激臭を放つ、毒々しい緑色の薬液が入ったアンプルだった。
「これは『加速の滴』。一時的に神経の伝達速度を十倍に跳ね上げ、脳がリミッターをかける前に筋肉を強制駆動させるわ。……ただし、効果が切れた後は、指一本動かせない地獄を味わうことになる!」
フィリーネがテオの太い首筋に薬を打ち込むと、彼の瞳がパッと黄金色に輝き、全身の筋肉がまるで別の生き物のように脈動し始めた。
「……ア、アァァァッ!! ……身体が、軽い……いや、痛みが消えただけか。だが、行ける……行けるぞ!」
十人は、盾を掲げたテオを先頭に、亀の歩みで広場を横断し始めた。一歩進むごとに、天井の鎖がジャラリ……と重厚に鳴り、重圧が一段と、まるで地層が積み重なるように増していく。足元の石畳は十人の足跡の形に深く沈み込み、彼らはまるで液体になった重たい金属の中を、泥だらけになって泳いでいるかのような、形容し難い抵抗に全身を焼かれていた。
「……あと少し、あと十メートルだ……ッ!」
ゼノリスが、自身の銀の魔力を仲間の足首に巻き付け、地面から引き剥がすようにサポートする。彼の銀色の髪は汗と埃でびっしょりと濡れ、視界の端から意識が遠のきかけていた。
だが、出口の扉を目前にして、監獄は最後にして最大の「音」を奏でた。天井の闇の中から、ひときわ巨大な「王の鎖」が、獲物を狙う大蛇のように頭上から振り下ろされたのだ。
「――そんな鎖で、私たちの絆は縛れないわ!」
セレスティアが、テオの隣へ躍り出た。彼女は聖杖を両手で握り締め、自分たちの頭上に光の天蓋を広げた。
「『清らかなる重圧の盾』! ――重さには、私たちの祈りの重さで対抗するわ!」
振り下ろされた銀色の重圧と、セレスティアが放った黄金の祈りが、空間の歪みを伴って正面から衝突した。その瞬間、世界が真っ白な光に包まれ、全ての音が「キィィィィィィィン」という高周波に飲み込まれた。その一瞬の空白を突き、十人は崩れ落ちるように出口の重厚な石扉へと飛び込んだ。
扉を潜り抜けた瞬間、身体を縛り付けていた透明な糸がぷつりと切れたように、あの殺意に満ちた重圧が霧散した。十人は誰からともなく床に倒れ込み、まるで海面に浮上した溺死者のように、激しく肺に空気を送り込んだ。
「……はぁ、はぁ……。……なんとか、全滅せずに済んだ、みたいだな」
ルカスが、震える手で自身の魔導時計を確認しながら、乾いた笑いを漏らした。
だが、安堵の時間は短かった。彼らが辿り着いた扉の先。そこから漂ってくるのは、先ほどまでの埃っぽさや鉄の臭いとは違う……冷たく、そしてどこか「懐かしい」魔力の残り香だった。
「……ゼノリス。ここ、何だか……僕たちの『血』が、内側から激しく警報を鳴らしている気がするんだ」
ガイルが、静まり返った暗闇の先を見つめて、何かに怯えるようにぽつりと漏らした。
重力エリアの凄まじい試練を、文字通り這いずるようにして突破した十人が辿り着いたのは、監獄の中層と深層を繋ぐ境界線――「鏡石の広間」だった。
これまでの石造りの回廊とは打って変わり、そこは壁も床も天井も、磨き抜かれた黒い鏡のような鉱石で覆われた、不気味なほどに美しい円形の空間だった。天井からは魔導灯の代わりに、淡く発光する微細な塵が雪のように絶え間なく降り注いでいる。その光景は幻想的だが、同時に心臓の奥が冷えるような、命を拒絶する死の気配を湛えていた。
「……ここ、変よ。私の羅針盤が、さっきからずっと『泣いている』の」
ナディアが、黄金の羅針盤を両手で包み込むように握り締め、震える声で呟いた。彼女が指し示す羅針盤の針は、方角を示す役割を放棄し、狂ったように高速回転を続けている。それは物理的な磁場の乱れを超えた、もっと根源的な「世界の理」の歪みを物語っていた。
「磁場が乱れているだけじゃないわ。……運命の糸が、この場所で無理やり引き千切られて、幾重にももつれている。……ゼノリス、気をつけて。貴方の周りの『音』が、すごく不穏な、今にも弾けそうな悲鳴に変わっているわ。お願い、止まって!」
ナディアの切実な警告は、しかし、運命の歯車に追いつくにはあまりに遅すぎた。
「――っ、が、あぁ、あぁぁぁッ!!」
突然、先頭を歩いていたゼノリスが断末魔のような声を上げ、膝を地面に突き立てた。彼は自分の右腕を左手で激しく掴み、指が肉に食い込むほど強く握りしめる。次の瞬間、彼の身体から、銀色の魔力が制御を失った吹雪のように猛烈な勢いで吹き荒れた。
それは本来、仲間を導くための気高く美しい輝きだったはずだ。だが、今のそれは、粉々に砕け散った巨大な鏡の破片となって、周囲の空気さえも無差別に切り裂く、狂気的な暴力へと変貌していた。
「兄さま!?」
フィリーネが悲鳴を上げ、反射的に駆け寄ろうとした。だが、至近距離まで迫った銀の衝撃波がルカスを弾き飛ばすのを見て、その場に釘付けにされる。
「来るなッ……! 離れてくれ……ッ! 僕の中に、触れるな!」
ゼノリスの瞳が、監獄の怨念との強制的な同調による魔力の暴走によって、不気味なまでの白銀へと塗り潰されていく。
「……マズいわ。魔力密度が、生命維持の臨界点を突破しようとしている」
イリスが、荒れ狂う銀の吹雪の向こう側を、冷徹に観測する。
「……このままだと、彼は内側から自分自身の魔力によって焼き切られ、自壊するわ。……私たちが近づけば、その瞬間に分子レベルで分解される」
「そんなの……嫌。嫌だよ、兄さま……ッ!!」
フィリーネが、薬の入った鞄を必死に抱えながら、絶望に染まった声を上げた。彼女にとって、彼は暗闇の底にいた自分を掬い上げ、世界に光があることを教えてくれた、唯一無二の「星」だった。彼がいなくなることは、彼女にとって明日という概念そのものが消えることと同義だった。胸の奥で疼くこの激しい鼓動が、単なる敬愛や親しみではないことに、彼女自身もまだ気づいていない。だが、彼を失うという想像だけで、彼女の魂は凍りつき、壊れそうになっていた。
「兄さま、しっかりして! 私を見て……お願い! 独りでそんなに苦しまないで!! 兄さまがいなくなったら……私の世界は、また真っ暗になっちゃうよぉッ!!」
フィリーネは泣き叫びながら、銀の刃が渦巻く死の圏内へと一歩を踏み出そうとする。刃が彼女の外套を無慈悲に切り裂くが、彼女にはその痛みすら感じていない。カシムが間一髪で彼女を引き戻した。
「よせ、フィリーネ! 今のあいつは、自分でも何をしてるか分かっちゃいねえ! 近づけば死ぬぞ!」
「離して、カシム! 兄さまが……兄さまが、壊れちゃうよぉッ!!」
広間に、フィリーネの悲痛な叫びと、魔力が大気を削るキィィィィィィィンという高周波だけが響き渡る。テオもガイルも、その圧倒的な破壊力の前に、ただ立ち尽くすしかなかった。
その時。絶望に染まった静寂を破り、凛とした足音が響いた。一歩、また一歩と、死の吹雪が吹き荒れる中心部へと歩み出す影があった。
「セレスティア……!? 貴女まで何を……! 止まりなさい、死ぬわよ!」
イリスが叫び、彼女を止めようと手を伸ばす。だが、セレスティアは振り返らなかった。彼女の纏う白い聖衣は、銀の刃によって瞬く間にズタズタに切り裂かれ、その色白の頬からは、鮮やかな赤い血が一筋、ゆっくりと流れ落ちる。それでも、彼女の気高い歩みは、一瞬たりとも止まらなかった。
「……ナディア。貴方はさっき、彼の『音』が狂っていると言ったわね」
セレスティアは、もはや武器としての聖杖を握ることさえせず、その両手をそっと、無防備に広げた。
「……もしそうなら、私が隣で歌ってあげる。……彼の音が、再び優雅な調和を取り戻せるように。彼の孤独を、私の光で埋め尽くしてあげるわ」
「セレスティア……やめろ! 狂ってる……僕に、僕に触れたら、君まで粉々になってしまう……ッ!」
ゼノリスが、内側から引き裂かれるような絶望的な声を絞り出した。彼の足元からは、銀の氷が猛烈な勢いで周囲を侵食し、広間全体を極寒の地獄へと変えていく。
「……粉々になど、させないわ。貴方も、この私も」
セレスティアは、ついに彼の目の前、死の旋風の渦中へと辿り着いた。彼女は、狂ったように荒れ狂う銀色の衝撃波の中に、自らの柔らかな身を投げ出した。そして、ガタガタと震え、自分を拒絶しようとするゼノリスの身体を、その細い、だが誰よりも力強い両腕で、包み込むように抱きしめた。
――瞬間。行き場を失っていた銀の魔力が、侵入者であるセレスティアの身体を焼き、その命を強引に奪おうと、より一層激しく牙を剥いた。
「……っ……あああ、あぁぁぁぁ……ッ!!」
セレスティアの唇から、耐え難い苦痛の呻きが漏れる。彼女の背中を銀の刃が切り裂き、白い服が赤く染まっていく。だが、彼女は決して彼を離さなかった。それどころか、彼女は自らの魂の根源にある「光」の魔力を、惜しみなくすべて開放した。
「聴いて。……貴方は独りじゃない。……貴方が暗闇の中で震えているなら、私がその闇を照らすたった一つのランプになるって……あの日、約束したでしょう?」
セレスティアの黄金の光が、荒れ狂う銀の吹雪と、ゆっくりと、深く混ざり合っていく。 それは、凍てつく冬の夜に、消えそうなほどか細く灯された暖かなランプが、降り積もる冷たい雪を、一粒ずつ丁寧に溶かしていくような、静かで、だが揺るぎない浄化の旋律だった。
彼の激しい喘ぎが、次第に穏やかな呼吸へと落ち着きを取り戻していく。白銀に染まりきっていた彼の瞳から、次第に鋭い光が消え、本来の少年の色が戻ってきた。彼を縛り付けていた銀色の拒絶の壁は、セレスティアの温かな抱擁の中で、キラキラと輝く穏やかな光の粒子となって、虚空へと消えていった。
「……セレスティア……。君は、いつも……僕の、汚いところばかり、見て……」
全身から力が抜け、彼は崩れ落ちるようにセレスティアの細い肩に頭を預けた。広間を支配していた狂気的な殺意は完全に消え去り、後に残されたのは、二人の重なり合う微かな呼吸の音だけだった。
「……羅針盤の針が、止まったわ」
ナディアが、安堵と、どこか深い感動を込めた溜息と共に呟いた。
「……無惨に引き千切られていた運命の糸が、いま、綺麗に結び直された。……セレスティア。貴方の奏でた気高い調べが、彼の魂を、この世界に繋ぎ止めたのね」
「兄さま……っ、兄さま!!」
フィリーネが駆け寄り、二人を包み込むようにして泣きじゃくった。彼女の手は、ようやく触れることのできた「生きた体温」に、安堵で激しく震えていた。彼女が流す涙は、安堵だけでなく、目の前で彼を救ったセレスティアへの、名前の付けられない微かな「痛み」を含んでいるようにも見えた。
「……ごめんなさい、みんな。……不甲斐ないリーダーで。……そして、ありがとう、セレスティア。君がいなければ、僕は今頃……」
ゼノリスが、ゆっくりと顔を上げる。彼の表情には、まだ死者のような疲労が色濃く残っていたが、その瞳には先ほどまでの「孤独」という名の枷は、もう微塵もなかった。
セレスティアは、頬の傷を隠すように、そして慈愛に満ちた聖女のような微笑みを浮かべ、彼の背中を優しく叩いた。
「……お礼なら、この監獄を無事に脱出し、学園の屋上で月を眺めながら聞かせてもらうわ。……今は、少しだけ休んで。まだ、私たちは本当の深淵には辿り着いていないのよ」
十人の絆は、この極限の地で、より強固に、より深く結びつけられた。
だが、彼らはまだ知らない。この抱擁によって生まれた「一時の完璧な調和」こそが、時計塔で見守るサイラスにとって、これ以上ないほど甘美で、かつ残酷な「不協和音」を奏でるための、最高のスパイスになるということを。
セレスティアの抱擁によって、ようやく荒れ狂う銀の暴走を鎮めた一行。彼らが己の魂を削り取るような重い足取りで辿り着いたのは、監獄の最下層に隠された、地図にも記録にも存在しない円郭の空間――「静寂の聖域」だった。
そこは、これまでの監獄が持っていた「汚濁と死」のイメージをあざ笑うかのような、美しくも残酷な場所だった。天井は闇に溶けるほど高く、周囲を囲む壁面は一面が磨き抜かれた漆黒の鏡石で埋め尽くされている。そこに映し出されているのは、疲弊し、絶望に顔を歪めた十人の惨めな姿だ。空間を満たしているのは、光源不明の透き通った青白い光。だが、その光は生命を歓迎する温もりを一切持っていない。それは、巨大な真空の瓶の中に閉じ込められたような、一切の不純物――すなわち『生きた感情』を許さない冷徹な拒絶に満ちていた。
広場の中央には、天を貫く巨大な「水晶の柱」が一本、青白く脈打つように光り輝いている。柱の内部では、幾千、幾万という魔導回路の幾何学模様が、まるで脈打つ血管のように複雑に絡み合っていた。それは、この監獄そのものが三千年間、この冷たい闇の中で休むことなく拍動し続けてきた帝国の心臓であることを物語っていた。
「……ナディア。ここが、すべての答えなんだね」
ゼノリスはセレスティアに支えられながら、ふらつく足取りでその柱へと歩み寄る。鏡石の床を叩く彼の足音が、虚しく、そして冷たく響き渡った。
「……ええ、ゼノリス。この柱が、三千年前からこの国の『光』を作っていたの。……でも、この光は太陽のものじゃない。……もっと、ずっと、悲しい音がする」
ナディアが黄金の羅針盤を胸元で強く握り締め、目を伏せた。羅針盤の針は、この場所で完全に沈黙し、断罪の指先のように水晶の柱を真っ直ぐに指し示していた。
ガイルが右目の「解析眼」を限界まで解放し、ルカスが台座に魔導デバイスを接続して、三千年前のシステムを強引に叩き起こす。
「……っ、嘘だろ……。解析開始する。……ゼノリス、これがアドラスティア帝国の繁栄の正体だ。僕たちが教わってきた歴史なんて、ただの厚化粧だったんだよ」
ガイルの声が震え、虚空に一本の「巨大な光の楽譜」が投影された。
だが、その楽譜が描いていたのは、文明を祝福する旋律ではなかった。そこには、三千年前の帝国がどのようにして強大な魔力を維持してきたかという、吐き気を催すような「命の調理法」が記されていたのだ。
「……ゼノリス、よく見て。この光り輝く帝都を動かしていた魔力は、どこから来ていたと思う?」
ガイルの指差す図面の中では、数え切れないほどの人間が、巨大なすり鉢に入れられて磨り潰されているような、残酷な設計図が展開されていた。
「帝国はね、魔力が強いのに自分たちの色に染まらない『不適合者』を、ただの『薪』として扱っていたんだ。彼らをこの監獄に狩り集め、その命を搾り取って、帝国という巨大なシステムを動かすための燃料に変えていた。三千年前のアドラスティアは、同胞の命を燃やして走る、巨大な焼却炉だったんだよ」
セレスティアが息を呑み、フィリーネが絶望に顔を白くした。
「……薪? 人間の、私たちの先祖の命が……ただの燃料として、灰になるまで燃やされていたというの?」
フィリーネの震える問いに、ガイルは重く首を振った。
「それだけじゃない。……死にゆく者たちの魔力は、帝国への憎しみや悲しみでドロドロに汚れている。そのままでは、帝国を動かすための『綺麗なエネルギー』としては使えないんだ。……そこで、汚れを取り除くための『ろ過装置』が必要になった。……それが、君の一族だ、ゼノリス」
ガイルが投影した図面の中央に、銀色の獅子の紋章が浮かび上がる。だがその獅子は、無数の「枷」によって地面に縫い付けられていた。
「……君たちの先祖は、監獄の底に繋がれ、燃料にされた人々の『呪いや断末魔』をその身に浴び続けなければならなかった。……そして、その醜い絶叫を、帝国に心地よく響く『美しい音楽』に塗り替えて送り出す……。君の銀色の魔力は、死者の悲鳴を音楽に変えて、その罪を隠すために特化させられた、呪われた血の機能なんだよ。……記録には、そう記されている」
ゼノリスの身体から、サァァ……と血の気が引いていく。投影された図面の中の自分の一族は、あまりに惨めで、あまりに汚れていた。
「……じゃあ、僕のこの力は……。誰かの絶望を、綺麗な光に塗り替えて、隠すためのものだったのか?」
ゼノリスが、自分の両手を見つめて震える。だがその瞬間、彼の胸の奥で、産声を上げた時のあの『種火』が、鋭い痛みと共に激しく脈動した。この「汚いフィルター」という結論に、魂が真っ向から拒絶反応を示していた。
「兄さま……っ!」
フィリーネが堪らず、彼の凍てついた手を両手で包み込んだ。
「兄さまのせいじゃない……! 兄さまは、誰も殺してないよ! そんなの、間違ってる……っ!」
フィリーネの涙が、熱い雫となってゼノリスの手に落ちる。その温かさが、血塗られた真実という名の深淵に呑まれようとしていたゼノリスを、かろうじて現実の世界へと繋ぎ止めていた。彼女の瞳に浮かぶ涙は、彼への献身的な愛だけでなく、目の前で彼を支えるセレスティアとの、決して埋まることのない「距離」に対する、名前の付けられない微かな痛みを含んでいるようにも見えた。
「……ゼノリス」
セレスティアが、彼の正面に立ち、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……貴方の血が何であろうと、今ここで仲間を守ろうとしている貴方の音は、貴方自身のものよ。……三千年前の絶望という名の指揮者に、貴方の旋律を支配させてはだめ」
セレスティアの凛とした言葉は、氷のように凍てついていたゼノリスの心を、微かに震わせた。しかし、その救いの旋律が広場を満たそうとした刹那、ナディアの手の中で沈黙を守っていた黄金の羅針盤が、突如として火を噴くような勢いで回転を再開した。
「……ッ!? だめ、逃げて! 運命の糸が、私たちのすぐ後ろで『腐って』いるわ!」
ナディアの悲鳴に近い叫び。一行が反射的に振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、鏡石の壁面が、自分たちの絶望的な表情を映し出しているだけだった。
だが、その「鏡の中」が、物理法則を無視して歪み始める。鏡の中に映る自分たちの影が、本人とは違う動きを見せ、ドロリとした黒い泥のように溶け出した。壁面から染み出したその闇は、空間の音を物理的に削り取るような不快なノイズを撒き散らしながら、一箇所に集まっていく。
やがて、そのドロドロとした闇の中から、一人の男が「壁から剥がれ落ちる」ようにして、実体を持って現れた。
時計塔の主、サイラス。彼は最初からそこにいたかのように、優雅に、冷酷な拍手をしながら十人の前に降り立った。
「――素晴らしい理解力だ。どうだね、ゼノリス君。己の血の『本当の正体』を知った気分は。君が誇りと思っていたその銀色は、ゴミ捨て場の掃除機に過ぎなかったのさ。君の先祖も、そして君も、死者の悲鳴を美しい歌に変えて、帝国を喜ばせるための使い捨ての道具なんだよ」
サイラスは、手に持った黒い指揮棒を愛おしげに眺め、嘲笑を深める。
「不思議そうな顔をしているね。私がいつ、どこから来たのか、と? 答えは簡単だ。私は最初から、君たちの隣で『鑑賞』していたのさ。君たちが門を破り、重力に耐え、己の血の呪いに震えるその一部始終をね。この監獄は私にとって、我が家の書斎のようなものだ。入り口を探す必要など、どこにもない」
「サイラス……! お前、僕たちをここまで『誘導』したのか……ッ!」
ゼノリスが、怒りに震える声で問う。
「誘導? いや、私はただ楽譜を書いただけだよ。君たちはその通りに演奏してくれた。真実を知り、己の血を呪い、最高の不協和音を奏でる準備を整えてくれた……。この監獄はね、ゼノリス君。君のような『特別な調律師』が、極限の絶望に染まった時のみ、真の機能を覚醒させるのだよ」
サイラスが不敵な笑みを浮かべ、漆黒の指揮棒を高く振り上げる。
「さあ、最終楽章だ。君たちの死を以て、この監獄を三千年の眠りから目覚めさせよう。我が一族が待ち望んだ、究極の破滅の旋律をね!」
その瞬間、水晶柱から噴き出した真っ黒な光が、広場を地獄のような銀色の吹雪へと変えていった。すべてを飲み込むような絶望が迫る中で、けれどゼノリスは、サイラスが語る「真実」の中に、説明のつかない奇妙な「ズレ」を、鋭く感じ取っていた。
語られる言葉は論理的で、示された記録も残酷なほどに正しい。だというのに、彼の耳に届くサイラスの「音」は、どうしようもなく歪んで聞こえた。その本能的な疑いが、凍りつきそうだったゼノリスの心に、静かだが確かな反撃の火を灯した。
真っ黒な光が水晶の柱から噴き出し、広間を埋め尽くす銀色の吹雪と混ざり合う。それは、三千年分の怨念が物理的な質量を持って襲いかかる、逃れようのない死の嵐だった。
「ハハハ! 絶望せよ、ゼノリス君! 君の血は悲鳴を啜り、汚れを隠すためにある。その誇り高き銀色が、実はただの掃除機に過ぎなかったと知った今、君に何が奏でられるというのだ!」
サイラスの哄笑が、嵐の咆哮を裂いて響き渡る。
ゼノリスは膝をつき、己の腕を強く噛んで意識を繋ぎ止めていた。視界はどろりとした黒に侵食され、心臓の鼓動が、提示された「汚れた真実」に同調しようと、不快なリズムを刻み始める。
(……僕の力は、汚れを隠すための道具……? この呪われた血が、僕の正体……なのか……?)
「――違います!!」
その時、ゼノリスの耳に、嵐さえも突き抜ける凛とした少女の叫びが届いた。
「兄さま、顔を上げてください! サイラスの言葉に耳を貸してはだめ!!」
フィリーネだった。彼女は凄まじい風圧に身を削られながらも、薬の入った鞄から一つの瓶を取り出し、地面に叩きつけた。
瞬間、周囲に清涼な香りが立ち込め、淀んだ黒い魔力が一瞬だけ霧散する。
「私が……私が、兄さまの痛みを半分だけ引き受けます! だから、思い出して。……兄さまが私を救ってくれた時の、あの温かくて、眩しくて……星みたいに綺麗な光を!!」
フィリーネがゼノリスの背中にしがみつき、その細い腕で彼を強く、狂おしいほどに抱きとめた。彼女の涙がゼノリスの項を濡らし、そこから伝わる確かな体温が、凍てつきかけていた彼の魂を激しく揺さぶった。
「……あぁ。……そうだった。……僕の『音』は、こんな、腐った音じゃない」
ゼノリスの瞳に、再び鋭い光が宿る。彼はゆっくりと立ち上がり、嘲笑を浮かべるサイラスを真っ向から見据えた。
「サイラス……。お前の奏でるその『完璧な真実』には、致命的な欠落がある」
「何だと……?」
サイラスの眉が、不快げにぴくりと動く。
「……お前は、僕の一族を『死者の悲鳴をろ過するフィルター』だと言ったね。……だが、それは論理的に矛盾しているんだ。……不純な怨念を美しい旋律に書き換えるには、何よりもまず、その調律師自身が『一点の濁りもない純粋な響き』を、魂の根源に持っていなければならない。……泥水で泥水を洗うことなど、できはしないんだ!」
ゼノリスの叫びに呼応するように、彼の胸の奥で、あの『種火』が、爆発的な熱量を持って膨れ上がった。
「帝国が僕の一族を繋ぎ止めたのは、僕たちが汚れていたからじゃない! ……どれほど深い絶望の泥沼に突き落とされても、決して色褪せることのない『星を穿つ気高き光』を恐れたからだ!! ……君が示した記録は、その真実を隠すために、帝国が、あるいは君自身が塗りつぶした卑劣な嘘だッ!!」
「……っ、ゴミ共が……分かったような口をッ!!」
サイラスが顔を歪め、漆黒の指揮棒を虚空へと叩きつけるように振り下ろした。水晶の柱から放たれた黒い雷光が、ゼノリスの心臓を貫こうと一直線に伸びる。
「――解析完了だ! 全員、俺の魔力軌道に同調しろ!!」
ガイルが叫び、右目の「解析眼」から青白い演算の光を放った。
「ルカス、その黒い雷の三時方向にノイズを叩き込め! ナディア、運命の交差する『一点』を指し示せ!!」
「言われなくても分かってるよッ!!」
ルカスが魔導銃のトリガーを限界まで引き、特殊な「魔力攪拌弾」を斉射した。黒い雷光がその弾丸と接触し、物理法則を無視した火花を上げながら軌道を大きく逸らす。
「今よ、ゼノリス!! 運命の針は、今この瞬間に重なったわ!!」
ナディアが黄金の羅針盤を天に掲げる。針が指し示す先は、水晶柱の根元――そこには、サイラスの虚像と実像を繋ぎ止める、唯一の「音の歪み」があった。
「カシム、テオ! 道を空けろ!!」
ゼノリスの声に、二人の戦士が同時に動いた。
「オラァッ!! 三千年分の恨みごと、俺の盾ごと叩き壊してやるよッ!!」
テオが巨大な盾を構えて突進し、迫り来る怨念の障壁を力尽くで押し開く。
「……隙だらけだぜ、指揮者殿!」
カシムが影から躍り出し、嵐の隙間を縫うような神速の剣筋で、サイラスの足元の鏡石を粉砕した。
さらに、イリスが極大の魔法陣を空中に展開する。
「……あなたの『黒い光』の周波数は、すでに記録したわ。……この結界内で、不協和音はすべて相殺される!」
イリスが干渉波を放つが、サイラスの周囲に渦巻く怨念の嵐は物理的な障壁となっており、仲間の魔力がゼノリスの元へ届くのを頑強に阻んでいた。このままでは、力が一点に集中する前に霧散してしまう。
その物理的な壁を前に、リィンが静かに、だが誰よりも速く動いた。彼女は背中の羽衣を翻し、一瞬でサイラスの懐深くへと肉薄する。
「……邪魔な雑音は、私が斬る」
リィンが腰の愛刀に手をかけた瞬間、羽衣が青白く発光し、彼女の身体能力を極限まで加速させた。目にも止まらぬ神速の抜刀術。放たれたのは魔法ではなく、研ぎ澄まされた鋼の斬撃だった。
――斬、斬、斬ッ!!
空間ごと切り裂くような鋭い三連撃が、サイラスの周囲を覆う怨念の防壁を物理的に切り刻み、抉り開けた。嵐の中に、一瞬だけぽっかりと「真空の道」が生まれる。
「……道は開けた。みんな、今よ!」
リィンが斬撃の余韻を残したまま叫ぶ。彼女が物理的に切り拓いたその「最短距離」を、一人の聖女が駆け抜けた。
「ゼノリス、私の光を……貴方の『種火』の薪にしなさい!!」
セレスティアが、自らの全魔力を込めて、ゼノリスの背中へと両手を添えた。黄金の聖なる光が、ゼノリスの銀色の魔力と混ざり合い、それはかつてないほどの、純白の輝きへと変貌していく。
十人の力が、一つの意志、一つの旋律となってゼノリスという中心点へ束ねられた。
「これが……僕たちの、本当の共鳴だッ!!」
ゼノリスが叫ぶとともに、彼が放ったのは剣でも杖でもなかった。それは、自身の内側から溢れ出す「星を穿つ産声(種火)」そのものだった。
ドォォォォォォォォォン!!
広間を震わせる衝撃波が、サイラスの黒い指揮棒を完膚なきまでに打ち砕いた。悲鳴を上げたのは、サイラスだけではない。三千年間、帝国の闇を支え続けてきた水晶の柱に、致命的なまでの亀裂が走り、中から眩いばかりの、だが浄化された光が溢れ出した。
「馬鹿な……我が一族が、三千年もかけて完成させた楽譜が……不適合者のゴミ共に、書き換えられるだと……ッ!?」
サイラスの身体が、崩壊する空間と共に薄れていく。彼の表情は、もはや嘲笑ではなく、理解不能なものへ恐怖に染まっていた。
「……サイラス。……お前の音楽には、誰も守りたいという想いがなかった。……だから、僕たちの共鳴(音)に負けたんだ」
ゼノリスの言葉を最後に、水晶柱は凄まじい轟音と共に爆散した。
「崩れるぞ! 全員、脱出だ!!」
カシムが叫び、十人は崩落する監獄の中を、出口に向かって駆け出した。
静寂が、荒野を包み込んでいた。背後の崖は完全に崩れ去り、かつてそこにあった「忘却の監獄」は、もはや塵の一粒さえ残っていない。ただ、遠くで崩落の余韻を伝える地鳴りが、夜の底に小さく消えていくだけだった。
「……終わったのね。本当に」
ナディアが、月明かりを反射して淡く輝く黄金の羅針盤を、愛おしむように見つめた。狂ったように回っていた針は、今は静かに北を差し、物語がひとつの区切りを迎えたことを告げている。
一行は、崩壊の圏内から十分に離れた小高い丘の上で、泥のように疲れ果てた身体を横たえていた。
「兄さま、これ……飲んでください」
フィリーネが、震える手でポーションの小瓶を差し出した。彼女の外套はボロボロになり、頬には煤がついていたが、その瞳だけはゼノリスを気遣う優しさに満ちていた。
「……ありがとう、フィリーネ。おかげで助かった」
ゼノリスが瓶を受け取ると、彼女は安心したようにその場にへたり込んだ。
「……怖かったです。兄さまが、私の知らない遠いところへ行っちゃいそうで……。でも、やっぱり兄さまは、私の兄さまでした」
彼女はゼノリスの袖を小さく掴み、そのまま眠りに落ちるようにまどろみ始めた。
「……ゼノリス。貴方が見つけたあの音、大切になさい」
セレスティアが、月光を背負って静かに歩み寄ってきた。
「記録は塗り替えられ、過去は忘れ去られる。けれど、魂に刻まれた音色だけは、誰にも奪えない。……貴方の内なる『種火』は、今夜、本当の意味で芽吹いたのよ」
ゼノリスは夜空の星を見上げた。サイラスが見せた残酷な嘘。自分の血脈への呪い。それらは消えたわけではない。だが、隣で眠るフィリーネの温もりと、仲間の信頼がある限り、自分はもう、どんな不協和音にも呑まれない。その確信だけが、彼の胸の中で静かな灯となっていた。
一方、崩壊した監獄から遠く離れた、帝国の中枢に位置する「時計塔」。
だが、主を失ったその執務室に、かつての優雅な静寂はなかった。
サイラスの姿は、学園から消えた。デスクには、書きかけの不気味な楽譜と、粉々に砕け散った指揮棒の破片だけが残されている。学園側は、彼が「潜入調査中の事故で死亡した」と発表するだろう。
「……真実を知る資格があるのは、地獄を生き延びた者だけだ」
傷ついた頬を撫でながら、男は闇の中で独り、狂おしいほどの歓喜に震えていた。
「さあ、次の楽譜を用意しよう。……ゼノリス君。君が学園を離れ、この世界の残酷な真実のすべて知ったその時……究極のフィナーレで再会しようじゃないか」
男の影が、闇の中に溶けて消えた。




