第13章:箱庭の自由、あるいは微笑む蛇の残響
霧の回廊を抜けた先には、見慣れたはずの学園の尖塔が、朝焼けの淡い朱色の中に白く浮かび上がっていた。つい数日前まで、自分たちを閉じ込め、精神を窒息させる檻のように感じていたその景色。だが、三千年の闇を払い、帝国の遺産である魔導兵器を打ち破って帰還した今の十人にとって、その光景はどこか小さく、そして色褪せた箱庭の模型のように見えていた。
足元に広がる石畳には、夜露がしっとりと降りていた。踏みしめるたびに、泥と鉄の匂いが混じった彼らの靴が、かすかな湿った音を立てる。学園内は、磨き抜かれた床や手入れされた庭木など、相変わらずの「人工的な美しさ」に満ちていたが、死線を越えてきた彼らにとって、その清潔さはどこか空虚で、カビ臭い停滞の匂いを含んでいるように感じられた。
「……ようやく、戻ってきたんだね」
ナディアが、胸に抱いた黄金の羅針盤を壊れ物を扱うようにぎゅっと抱きしめ、白く震える吐息と共に呟いた。彼女の瞳には、死を間近に見た者だけが持つ、鋭くも深い知性が宿っている。彼女の隣では、リィンが銀色の羽衣を早朝の冷たい風にたなびかせていた。その羽衣は、もはや略奪された宝物などではなく、彼女の肉体の一部であるかのように、彼女の歩調に合わせて柔らかく波打っている。かつての、周囲の視線を恐れて肩を窄めていた少女の姿は、そこにはなかった。
「みんな、足取りはしっかりしてるな。……フィリーネ、体調が悪い人はいない?」
ゼノリスが、最後尾から仲間の様子を確認しながら声をかける。彼の声は穏やかだが、その響きには、一軍を率いる将のような静かな重みが備わっていた。
「大丈夫よ、兄さま。みんなアドレナリンが出ているわ。……でも、中に入ったらすぐに温かいものを飲ませて、強制的に休ませるから。そのつもりでいてね」
フィリーネは、血の滲んだ薬箱の取っ手を握り直し、専門家らしい厳しい、だが慈愛に満ちた視線で仲間たちを鼓舞した。
しかし、学園の重厚な鉄門の前には、彼らの帰還を「祝福」するつもりなど毛頭ない人物が、数人の護衛騎士を従えて立ちはだかっていた。
「――そこまでだ、貴様ら! 汚らわしい足でこれ以上、聖なる学び舎に足を踏み入れるな!」
甲高い、神経を逆撫でするような不快な声が、朝の清謐な静寂を無惨に切り裂いた。副学園長だった。彼はいつも以上に顔を赤くし、手にした派手な装飾の指揮棒を、まるで自分を大きく見せようとする威嚇の羽のように激しく振り回していた。その脂ぎった額には、彼がどれほどの時間、ここで彼らを待ち構えていたかを示す、醜い苛立ちの皺が深く刻まれている。
「死んだと報告されていた『不適合者』たちが、一体どの面を下げて戻ってきた! しかも、許可なく学園の結界の外へ出たばかりか、そのような出所不明の『危険物』を身に纏うとは……。不潔だ、あまりに厚顔無恥ではないか!」
副学園長のぎらついた視線が、リィンの羽衣に注がれる。その瞳の奥には、未知の力に対する本能的な恐怖と、それを上回る強欲……「帝国の遺産」という看板を手に入れたいという醜悪な独占欲が、ドロドロとしたヘドロのように渦巻いていた。
「リィン・シルフィード! その布を今すぐこちらに渡せ。それは帝国の秩序を乱し、生徒たちの精神を汚染する呪物の疑いがある。我々上層部が厳重に調査し、しかるべき処分を下すまで、お前たちは再び地下の隔離病棟で待機だ! さあ、騎士たちよ、その忌々しい布を没収しろ!」
副学園長の命令を受け、背後の騎士たちが重い鎧を鳴らして一歩前に出る。
だが、十人は動じなかった。テオが静かに、だが力強く大きな盾の柄を握り直し、金属が擦れる低い音を響かせる。ルカスは手元の魔導デバイスを操作し、副学園長の言動を冷徹に記録し始めた。カシムの足元からは、薄暗い朝の影がまるで生き物のように伸び、副学園長の足元へと音もなく這い寄っていく。
「……処分、ですって?」
リィンの声が、怒りで低く、鋭く震えた。三千年前、自分の先祖であるタクミ・シルフィードが、愛する民の命を守るために、自らの誇りを泥に塗れさせてまで繋ぎ止めた、唯一の希望の種火。その重みを露ほども知らず、ただの「危険な道具」として奪い去ろうとする目の前の男の無知と傲慢に対し、彼女の全身から透明な魔力の風が渦を巻き始めた。
「おやめください、副学園長。その言葉、聞き捨てなりませんね」
その時、リィンの前に一歩、静かに出た背中があった。ゼノリスだった。彼は剣を抜くことも、眉を吊り上げることもなかった。ただ、いつもより少しだけ、絶対的な零度の瞳で、目の前の小柄な男を射抜くように見据えた。
「貴様、ゼノリスか! 落ちこぼれのリーダー風情が、この私に意見するとは何事だ! 貴様も同罪だ、これまでの反抗的な態度、そして独断行動……退学では済まぬぞ!」
副学園長は唾を飛ばしながら叫び、手にした指揮棒をゼノリスの鼻先に突きつけた。
「……これ以上、僕たちの仲間に触れないでいただきたい。そして、その汚い棒を下げてください」
ゼノリスがそう告げた瞬間、辺りの空気が、目に見えて歪んだ。ドクン、という、重い鉄槌が大地を打ったような鼓動の衝撃が、周囲の石畳を伝わって副学園長の足元へと響いた。
ゼノリスの身体から、音もなく銀色の魔力が溢れ出した。それは前の死闘で見せた「光」とは、本質的に異なるものだった。温度を伴わない、鋭利で重厚な、まるで心臓のすぐ隣に抜き身の剃刀を突きつけられたような、物理的な「生存への脅威」だ。
「ひっ……!? な、なんだ、この……魔圧は……」
副学園長の言葉が、喉の奥でヒュウ、と引き攣れた。彼の視界は、瞬時に銀色のノイズで覆い尽くされた。周囲の音が遠のき、ただ目の前に立つ少年の視線だけが、自分の心臓を冷たい鉄の爪で握りつぶそうとしている感覚に襲われる。彼には目の前の少年の姿がもはや人間には見えていなかった。月明かりに照らされた、巨大で冷徹な銀色の獣。自分がこれまで積み上げてきた「権威」や「地位」という名の紙細工が、その獣の一息で容易く吹き飛んでいくという、絶対的な死の予感。呼吸ができない。肺の空気がすべて押し出されるような圧倒的な圧迫感に、副学園長の膝がガタガタと無様に音を立てて震え始めた。
「……僕たちは、学園の指示に基づき、最優先事項である霧の回廊の調査を完遂しました。この羽衣は、リィン・シルフィードが正当な血筋によって継承した遺産であり、学園が介入する法的、道徳的な根拠は存在しません」
ゼノリスは一歩、また一歩と、副学園長に向かって歩み寄る。彼の歩みに合わせ、銀色の魔力がさざ波のように広がり、周囲を囲んでいた精鋭の騎士たちまでもが、その本能的な恐怖に耐えきれず、ガシャンと鎧の音を立てて後退した。
「もし、無理に奪おうとされるのであれば……僕は、全力で彼女を守ります。……これは『学園の規則』への反抗ではありません。僕自身の『魂の意志』として、邪魔する者は排除します」
「あ、あああ……」
副学園長は、もはや言葉にならない悲鳴のような声を漏らし、腰を抜かして無様に尻餅をついた。彼が誇示していた豪華な指揮棒は、泥のついた石畳の上にカランと力なく転がり、その肥大化した虚飾のプライドは、ゼノリスが放つ圧倒的な力の前に、粉々に砕け散っていた。
ゼノリスがふっと魔力を収めると、張り詰めていた空気が一気に弛んだ。だが、副学園長はしばらくの間、呼吸の仕方を忘れたかのように口をパクパクとさせ、脂汗にまみれて這い蹲ったまま動けなかった。
「……行きましょう、みんな。学園での『本当の生活』を取り戻すために」
ゼノリスが振り返り、仲間に向けて、いつもの穏やかな、だが確信に満ちた笑みを向けた。 十人は、泥を舐めるようにして震えている副学園長の横を、誰一人として視線を向けることなく通り過ぎた。かつて自分たちを虐げてきた権威が、今やただの哀れな置物に過ぎないことを、彼らはその背中で証明していた。
それは、単なる「帰還」ではなかった。彼らが、これまでの「飼い慣らされるべき家畜(落ちこぼれ)」という境界線を自らの手で引き裂き、学園という箱庭の中において、誰にも侵されない「新たな自由」をもぎ取った歴史的な瞬間だった。
だが、彼らはまだ気づいていなかった。遥か上空、校舎の最上階にある時計塔の暗い窓の中から、一人の男がこの一部始終を、静かに、そして慈しむような笑みを浮かべて見守っていたことを。
「……ふふ、実に素晴らしい。期待以上の『響き(エコー)』ですね……」
その男の独り言は、風に乗ることもなく、静かに冷たい執務室の空気に溶けていった。男は特殊能力『真実の聴覚』を使い、副学園長の心臓が恐怖で早鐘を打つ音、そしてゼノリスの魔力が空気を震わせる周波数までも、快楽を感じるかのように深く、精密に聴き取っていたのである。
副学園長を文字通り石畳の上に這い蹲らせ、十人は学園の重厚な正門――かつて彼らを拒絶し、あるいは閉じ込めていた鉄の境界線――を、堂々と踏み越えた。校舎内に入った瞬間、彼らを迎えたのは、外の世界の朝焼けとは対照的な、刺すような「人工の静寂」だった。磨き抜かれた大理石の床からは、微かなワックスと消毒薬が混じり合った、鼻を突くような冬の香りが漂っている。かつては彼らを圧迫し、見下ろしているように感じられた高い天井も、死線を越えた今の視界では、どこか空々しい空洞の模型のようにさえ見えた。
「……見なさいよ。みんな、まるで幽霊でも見るような目ね」
イリスが、隣を歩くセレスティアの袖を軽く引きながら、低い声で囁いた。廊下の柱の影、半開きになった教室の扉の隙間、あるいは吹き抜けの二階の手摺から、無数の生徒たちが一行を凝視していた。そこにあるのは、以前のような剥き出しの蔑みではない。困惑、驚愕、そして何よりも「自分たちの理解を超えた領域に踏み込んだ異物」に対する、本能的な畏怖の念だった。
泥に汚れ、返り血を浴びたままの衣服。使い込まれ、無数の傷が刻まれた武具。そして何より、一人一人の瞳に宿る、圧倒的な「生の質量」。規律と虚飾に塗り固められた学園という名の箱庭の中で、十人の存在はあまりにも異質であり、残酷なほどに眩しかった。テオが背負う盾の重厚な金属音、カシムの身軽な足運び、リィンの羽衣が空気と擦れて奏でる銀の音色。それらが重なり合い、停滞していた廊下の空気を鋭く、丹念に切り裂いていく。
長い廊下の、陽光すら届かないかのように暗い向こう側から、一人の男が静かに歩いてくるのが見えた。
副学園長のように騒がしい護衛を連れているわけではない。豪華な装飾を誇示するわけでもない。ただ一人、教科書を数冊小脇に抱え、足音一つ立てずに絨毯の上を滑るように進んでくるその男の姿を捉えた瞬間、ゼノリスは直感的に足を止めた。他のメンバーも、何かに弾かれたように、呼吸を合わせるようにして動きを止める。賑やかだった周囲の生徒たちの私語も、まるで時間が凍りついたかのように、潮が引くように消え去った。
サイラス教頭だった。彼は十人の数歩手前で足を止めると、眼鏡の奥にある穏やかで、底の見えない瞳で、一人一人の顔をゆっくりと、慈しむように見つめた。その視線は、副学園長のような品定めをする卑しいものではない。まるで、数千年前に失われた古代の記述を、一文字ずつ照合していく学者のような、純粋で、かつ残酷なまでに客観的なものだった。
「……おはようございます。皆さんのご帰還、心よりお待ちしておりましたよ」
サイラス教頭はそう言うと、丁寧な所作で、一寸の乱れもなく会釈をした。その仕草には微塵の敵意も、侮蔑も含まれていない。むしろ、学園の模範的な教師としての誠実ささえ感じられた。
「……サイラス教頭先生」
ゼノリスが、短く答える。ゼノリスの全身の神経は、かつてないほどの警鐘を鳴らしていた。目の前の男からは、魔力の波動も、殺気も、呼吸の乱れすら感じられない。しかし、彼がそこに立つだけで、周囲の空気が、不自然なほどに完璧な「凪」の状態を保っている。その凪そのものが、異常なほどの異質さを放っていたのだ。
「霧の回廊の踏破、実にお見事でした。学園の三千年の歴史に、また新たな、そして最も輝かしい一ページが刻まれたことを、一教育者としてこれほど嬉しく思うことはありません。……リィン・シルフィードさん、その羽衣も、実に素晴らしい輝きですね。貴女の魂の、今の激しい『響き』によく馴染んでいます」
サイラス教頭の視線がリィンに向けられた瞬間、彼女の纏う銀色の羽衣が、微かに共鳴するように震えた。リィンは、自分の内側……意識の最深部にある、誰にも触れさせたくなかった記憶の檻を、氷のように冷たく、細い指先で優しく撫でられたような強烈な錯覚に陥り、思わず息を呑んだ。
その時、サイラス教頭の耳が、微かに、生き物のように動いた。
特殊能力『真実の聴覚』。
サイラス教頭の脳内では、十人が発するあらゆる「音」が、精密な楽譜のように解体されていた。
(ゼノリスさん、心拍数は毎分六十二。これほど凄惨な戦いの後で、この静かな拍動……。銀色の魔力が、彼の血流そのものを冷却しているようですね。実に、実に興味深い周波数だ。そしてリィンさん、貴女の鼓動は先ほどの一瞬で跳ね上がりましたね。恐怖ではなく、自身のルーツを覗き込まれたことへの拒絶……。羽衣との共鳴が、血の流れをより美しく、鋭く変えている)
サイラス教頭は、誰にも気づかせぬ速さで、彼らの情報を「組織」へと送るための分析を完了させていく。言葉による対話など、彼にとっては情報を引き出すための単なるトリガーに過ぎなかった。
「副学園長が正門で少々騒がしかったようですが、どうか気になさらないでください。彼は……少々、物事を『表面』の形や規則でしか捉えられない方ですから。本質を見極めようとする皆さんのような方の足元を掬うには、あまりに言葉が軽すぎましたね」
サイラス教頭は再び微笑むと、十人が通れるように、音もなく廊下の脇へと退いた。 「さあ、どうぞお通りください。まずはゆっくりと、その泥を落とし、失われた魔力を癒やされるのがよろしいでしょう。学園は、皆さんのような優れた才能を歓迎する場所であるべきですから。皆さんの奏でる『音色』が、これからもこの箱庭に美しく響き渡ることを、切に願っておりますよ」
ゼノリスたちは、サイラス教頭の横を通り過ぎた。すれ違う瞬間、ガイルだけが、自分の解析魔力が弾かれるような、奇妙なノイズを感じて眉を寄せた。ナディアは黄金の羅針盤が、サイラス教頭のそばでだけ「北」を指さず、ぐるぐると不規則に回転しているのを見て、その羅針盤を胸元へ強く押し込めた。
カシムが、通り過ぎた直後に低い声で吐き捨てた。
「……何だ、今の奴。副学園長より、ずっと反吐が出る。背中がずっと、冷たい針で刺されてるみたいに粟立ってやがる」
「ああ。……僕も同じだ」
ゼノリスは振り返らずに答えた。
自由をもぎ取り、勝利を掴んだはずだった。だが、背後から見送るサイラス教頭の、あの柔らかな言葉は、まるで逃げ出すことのできない巨大な蜘蛛の巣のように、自分たちの未来をすでに絡め取っているかのような、得体の知れない重圧を伴っていた。
丁寧な言葉、穏やかな微笑み、そして完全なまでの理解者のフリ。その裏側に潜む、学園長すら関与できない巨大な組織の影。サイラス教頭は今、彼らの会話、呼吸、歩幅の一つ一つを、完璧な「標本」として自分の記憶回路に刻み込んでいたのである。
「……ふふ、実に。実に、良い音です」
十人の背中が遠ざかった後、サイラス教頭は誰に聞かせるでもなく、静かに、そして深淵のような独り言を漏らした。その声は、廊下の冷たい空気の中に、波紋一つ立てずに溶けて消えた。
副学園長という目に見える「過去の障壁」を力ずくで跳ね除け、不気味な静寂を纏ったサイラス教頭との邂逅を経て、十人はようやく、自分たちが手に入れた「自由」という名の瑞々しい果実を、その手で確かめることができていた。学園上層部による監視が解かれた今、彼らにとっての日常は、まるでモノクロの世界に色が差し込んだかのように、鮮やかな輝きを取り戻していた。
「……さて、フィリーネに言われた通り、まずは各々、一番落ち着く場所で休むことにしよう。無理は禁物だ。僕たちはもう、『次』の戦いの中にいるんだからね」
ゼノリスの言葉を合図に、十人はそれぞれの「魂が安らぎを求める場所」へと散っていった。
学園の最深部、高い窓から差し込む陽光が埃のダンスを照らし出す図書室。ガイル、ルカス、そしてナディアの三人は、かつては閲覧すら許されなかった古文書の山に囲まれていた。
「おい、ガイル。さっきから右目がチカチカうるさいぞ。モールス信号でも送ってるのか?」 ルカスが、手元の魔導デバイスを分解しながらニヤリと笑った。
「……黙れ、ルカス。解析魔力の出力調整をしているだけだ。この『シルフィードの秘儀書』……記述が多層構造になっていて、普通に読んだだけでは意味が通らない。右目の魔力を脳に直結させないと解読できないんだ」
「へぇ、脳に直結ね。ショートして中身が揚げパンになっても知らないよ? ほら、この基板だって、無理に電流を流すと一瞬で真っ黒だ。人間も機械も同じだっての」
「……フン、貴様のガラクタと一緒にされるのは心外だな。それよりルカス、その手に持っている兵器の残骸、さっきからネジを回す方向が逆だ。三千年前のネジは、魔力の逆流を防ぐために左回りで締まるものが多い」
「げっ、マジかよ!? どおりで固いと思ったぜ。……ガイル、お前たまには役に立つな!」
「……『たまには』は余計だ。それより、その出力ギアの摩耗具合を見ろ。三千年前の技術者は、わざと摩耗しやすい素材を使って、定期的なメンテナンスを強制させることで、兵器が暴走するのを防いでいた形跡がある。今の帝国のように、『一度作れば放置』という傲慢さがないんだ」
「なるほどな……。つまり、こいつは『愛された機械』だったってわけか。熱いぜ、三千年前の職人魂! 俺もこのギア、当時の素材に近い合金で打ち直してやるよ」
二人のやり取りを、ナディアが羅針盤を見つめながら静かに見守っていたが、彼女はふと窓の外の星を指差した。
「ふふ、二人とも元気ね。……ガイル、その古文書の三ページ目、星の配置図があるでしょう? それ、羅針盤が指している『真北』と少しズレているわ。当時の天体図が今と違うのか、それとも……」
「……ナディア、鋭いな。これは天体図じゃない。当時の『魔力の地脈図』だ。地脈の流れに沿って星を配置して見せている。これを使えば、帝国の隠し施設がどこにあるか逆算できるかもしれないぞ」
「わぁ、流石は僕らの解析王! よーし、俺も負けてられないな。このパーツを組み直して、ナディアの羅針盤にリンクさせる新型の探知機を作ってやる。三千年前の魔力波長にしか反応しない、最高のやつをな!」
「期待しているわ、ルカス。……でも、二人とも。机を油とインクで汚すと、後でフィリーネに一時間コースの説教をされるわよ?」
「……それは一番のホラーだな」
学園の北側に広がる深い原生林では、テオ、カシム、そしてゼノリスの三人が汗を流していた。
「とらまえたッ! ……あ、あれ? また影か!」
テオがカシムの背後から手を伸ばすが、そこにあったのは黒い霧のような影の残像だった。
「ひっひっひ! 遅いぜテオ! 盾が重すぎて足が地面に埋まってるんじゃないか? 象さんの散歩かと思ったぜ!」
遥か頭上の枝から、カシムが逆さまにぶら下がって顔を出した。
「言うじゃないか、カシム。……だが、これならどうだ!」
テオが大盾を地面に叩きつける。衝撃波が土を跳ね上げ、カシムの足場を揺らした。
「うおっと!? 揺らすのは反則だろ、おい!」
「戦場に反則なんてない。……ほら、ゼノリス。お前も座ってないで混ざれよ。リーダーが一番なまってんじゃないのか?」
ゼノリスは木陰で剣の手入れをしながら、笑って首を振った。
「僕はいいよ。二人の動きを見ているだけで、いい訓練になる。……カシム、今の着地、右足の影に魔力を残しすぎている。もっと完全に消さないと、解析持ちの相手には位置を特定されるよ。……テオも、盾を叩きつける直前に左肩が下がる癖がある。相手にタイミングを教えているようなものだ」
「う、鋭いな……。流石はリーダー。……よし、テオ! もう一回だ。次は影すら見せないぜ!」
「こい、カシム! 今度は盾を使わずに、素手で捕まえてやる! お前の身軽さを封じ込めた後で、じっくりとフィリーネの特別診断(説教)に連れて行ってやるからな!」
「それは勘弁してくれ! 全力で逃げるぜ!」
学園の南西の隅、蔦の絡まる古い温室と、それに続く秘密の薬草園。そこではフィリーネが、湿った土の匂いとハーブの芳香に包まれて、心底幸せそうに立ち働いていた。
「……いい子ね。三日見ない間に、こんなに大きな蕾を膨らませて。寂しかったわね、ごめんなさい」
フィリーネは、小さな薬草の苗にそっと指先で触れ、その根元に自らの魔力を込めた水を注いだ。戦場では驚くべき速さで止血を行い、仲間の命を繋ぎ止めてきた彼女の指先だが、今、植物に向けられるその手つきは、壊れやすいガラス細工を扱うような繊細さと慈しみに満ちている。
やがて、フィリーネは手際よく乾燥させた葉を調合すると、いれたてのカップをまずはリィンの手元へ差し出した。
「はい、リィン。これは『風読み草』のブレンドティー。今の貴女に一番必要な、精神を安定させる効果があるわ」
「ありがとう、フィリーネ。……なんだか、すごく落ち着く香り。心が解けていくみたい……」
リィンが両手でカップを包み込み、その温もりに安堵の吐息を漏らす。
その様子を隣で羨ましそうに眺めていたイリスが、わざとらしく溜息をついて横槍を入れた。
「ちょっと、フィリーネ。私のは? 私だって、さっきの特訓で光の魔力をかなり消耗したんだけどな」
イリスが冗談めかして唇を尖らせると、フィリーネは腰に手を当てて、呆れたように笑った。
「もう、イリスったら。貴女はさっきまで訓練場で光の収束訓練をあんなに根詰めてやってたじゃない。今は魔力を無理に足すより、まず昂ぶった精神を休めるのが先よ。……でも、セレスティアは少し顔色が青いわね。貴女には、特別な『潤いの雫』を多めに入れてあげましょう」
「ふふ、ありがとう。……でも、一番変わったのはリィンね」
セレスティアがカップを受け取りながら、穏やかな眼差しをリィンに向けた。
「こうして皆とお茶を飲んでいても、もう羽衣の影に隠れようとしない。瞳にちゃんと、自分を信じる光が宿っているわ」
「……ええ。皆が、私の居場所を作ってくれたから」
リィンは、肩にかかった銀色の布を、自らの肌を愛おしむようにそっと撫でた。
「私、この学園が少しだけ好きになれたかもしれない。この風が、私に『笑ってもいいんだよ』って教えてくれている気がするの」
「いい顔になったわね、リィン。……ねえ、その風の力、今度私にも詳しく教えてくれない?」
イリスが、鋭くも知的好奇心に満ちた瞳でリィンを見つめた。
「私の光の術式は、直進性は高いけれど、どうしても敵に軌道を読まれやすいの。もし貴女の風で光を屈折させたり、残像を作ったりできれば、私の治癒魔法ももっと安全に戦場へ届けられるようになるはずよ」
「えっ、私の風がイリスさんの光の役に立てるなら……喜んで! その時はお返しに、その鋭い光の魔力を、羽のように柔らかく編み上げるコツを教えてください。私、力を込めるのは得意になったけど、優しく扱うのはまだ難しくて」
「いいわよ、任せて。私の特訓は集中力の限界を試すから、精神的にはかなりハードだけど……きっと自分の力に、もっと自信が持てるようになるわよ」
イリスが不敵に、だが確かな親愛を込めて微笑む。
「ふふ、頼もしいわね。……でも特訓の前に、今はまずこのお茶を楽しみましょう。フィリーネが作ってくれた、この穏やかな時間をね」
セレスティアの言葉に、四人は顔を見合わせて笑った。
四人の少女たちの間には、戦友としての絆を越えた、姉妹のような温かな親愛の情が満ちていた。リィンが小さく頷き、お茶を一口すする。そのわずかな仕草に、彼女たちが死線を越えて手に入れた「日常」の重みが凝縮されていた。
穏やかな時間は、重厚な鐘の音によって終わりを告げた。地下の第7訓練場。そこには、鋼のように引き締まった屈強な体躯を持つ教官――ガントが、太い腕を組み、微動だにせず鋭い眼光で待ち構えていた。
「――遅いぞ、お前たち。霧の回廊を抜けたからといって、一端の魔導師になったつもりか!」
ガントの低い、だが腹に響く声が訓練場を制圧する。
「今日の講義は『属性干渉による共鳴破壊』だ。……お前たちが遺跡で何を見てきたかは知らんが、学園の教科書にあるような、火は水に弱いといった単純な『相克』だけで魔法を語る時代は終わった。実戦で生き残りたいなら、魔力の『本質』を理解しろ」
ガントはそう言うと、訓練場の中央に巨大な障壁を展開した。それは半透明の立方体で、表面には複雑な魔導文字が激しく流動し、触れることすら拒絶するような圧倒的な圧力を放っていた。
「見ろ、この特級障壁『ダイヤモンド・シェル』を。物理破壊は不可能、魔法反射率は98%だ。まともに魔力をぶつければ、反射した自分自身の魔法で消し炭になる。……だが、どんなに強固な物質にも必ず『固有振動数』が存在する。魔力とは、突き詰めれば『波』だ。その波を完璧に同期させ、さらにその波形を内部から反転させてみろ。……ゼノリス、リィン。前へ出ろ。お前たちなら、理屈は分かっているはずだ」
二人が障壁の前に歩み寄る。ガントの視線は厳しく、だが期待に満ちていた。
「リィン! お前のその羽衣……三千年前の『風のルーツ』があるなら、ただ風を吹かせるだけでは三流だ。風とは振動そのものだ。ゼノリスの『銀色の魔力』を核にし、その純粋な波長をお前の風で増幅させろ。いいか、同調が1ミリ秒でもズレれば、障壁の反動でお前たちの魔力回路は逆流し、体内の血管はすべて弾け飛ぶ。……全神経を研ぎ澄ませろ。始めろッ!」
静まり返る訓練場。ゼノリスがリィンの右手にそっと触れた。
「……リィン、僕を見て。僕が銀色の魔力で、障壁の『核』となる周波数を見つけ出す。君はその振動に合わせて、一番鋭く、一番自由な風を叩き込んで」
「……うん、任せて、ゼノリス。貴方の音なら、私、目をつぶっていても聞こえるから」
ゼノリスの体内から、冷たくも熱い銀色の魔力が溢れ出した。それはリィンの腕を通じて羽衣へと伝わり、銀の布が目も眩むような輝きを放ち始める。ゼノリスの解析が障壁の「隙」を見つけた瞬間、リィンの風が一本の透明な針となって放たれた。
キィィィィィィィン……!
鼓膜を劈くような高周波。次の瞬間、無敵を誇る特級障壁が、まるで見えない手に解体されるように、砂となって消え去った。
「……ふん。2.8秒だ。ギリギリだな」
ガントは厳しく言い放ったが、その瞳の奥には、かつての「不適合者」たちが成し遂げた偉業に対する、深い敬意が宿っていた。
「各自、今の感覚を刻み込んでおけ。魔力は『出力』ではない、『調和』だ! お前たち10人全員が同じ旋律を奏でられた時、お前たちは学園そのものを超える力となる。今日の講義はここまでだ。解散!」
その熱狂と衝撃は、時計塔の窓辺に立つサイラス教頭の耳へと、精密なデータとして届いていた。彼は眼鏡を静かに押し上げ、瞳を閉じる。
(……素晴らしいですね。図書室での知的な高揚、森に響く野性の鼓動、薬草園での親愛、そして訓練場での激しい共鳴。十人の『音』が、これほどまでに美しく重なり合っている……)
サイラスの耳が、生き物のように微かに動き、遠く離れた彼らの心音を個別に拾い上げる。 (……ゼノリスさんの『静寂』。リィンさんの『再生の風』。……組織が求めているのは、この完璧なアンサンブルが、絶望によって『不協和音』へと変わる瞬間です。私は、その音を聴き逃すわけにはいかないのです)
サイラスは再び眼鏡をかけ、静かに執務机に向き直った。夕暮れの風が、彼の微笑みを静かに暗闇へと溶かしていった。
学園という巨大な機構は、一度傾き始めた天秤を止める術を持たない。かつて「不適合者」として最底辺に置かれていた十人の地位は、ガントの特別講義での驚異的な成果を経て、もはや無視できない「未知の脅威」へと変貌していた。
中央廊下を歩けば、石壁に掲げられた歴代学園長の肖像画さえもが、その冷たい瞳で彼らを値踏みしているように感じられる。かつて嘲笑を投げかけていた生徒たちは、彼らの姿を認めると、モーセが海を割るように道を開けた。だが、その視線に含まれているのは、親愛ではない。自分たちが必死に守り、縋り付いてきた「公国の秩序」を根底から覆しかねない怪物を見るような畏怖。そして、血統という唯一の拠り所を汚されたことへの、泥のように濁った嫉妬だ。
「……見たか、さっきの演習。平民のゼノリスが、特級障壁を塵に変えたそうだぞ」
「あり得ん。あれは古代アドラスティアの遺失魔導……公国の重臣ですら再現できぬ秘術のはずだ。あんな落ちこぼれたちが、どこでそんな禁忌を……。きっと、魂を売ったに決まっている」
ひそひそと、だが毒を含んで交わされる陰口。それは、かつての栄華の欠片を握りしめて震える、弱者の叫びに他ならなかった。
十人が専用ラウンジへ向かう中央廊下の曲がり角、そこに「壁」が立ちはだかった。豪華な金糸の刺繍が施された3年生専用の制服を纏い、胸元にはアドラス公国連合の合議制を象徴する、七色の宝石を配した勲章を下げた男――ヴェルドラ公爵家の嫡男、アルリックである。
彼はヴェルドラ家の家紋が入った扇子を傲然と広げ、数人の取り巻きを背に従えて、十人の行く手を阻んだ。
「止まれ、身の程知らずの2年生ども。少しばかりガント教官に気に入られたからといって、この学園、ひいてはアドラス公国の序列が揺らぐと勘違いされては困るのだよ」
アルリックの冷笑は余裕を装っていたが、扇子を持つ指先が微かに震えているのを、ゼノリスは見逃さなかった。その瞳の奥には、自分たちが信じてきた「血統の優位性」が崩れ去ることへの、剥き出しの焦燥が貼り付いている。
「ゼノリス、君のことだ。平民でありながら『銀色の魔力』などという、出所も知れぬ不吉な力を使い、あまつさえリィン嬢のような古き清き、大アドラスティア帝国正統の血筋をたぶらかす。……帝国時代の格式を今に伝えるヴェルドラの名にかけて、その不遜な振る舞いは見過ごせん」
カシムが影の中から一歩踏み出し、苛立ちを露わにしようとしたが、それを制したのはイリスだった。彼女は一歩前に出ると、冷ややかな、それでいて理知的な眼差しでアルリックを真っ向から射抜いた。その姿勢は、治療を施す時の執刀医のように、迷いなく「患部」を特定している。
「ヴェルドラ公爵家のアルリック先輩。貴方の仰る『序列』とは、三百年前に滅びた帝国の家名のことですか? それとも、現在のアドラス公国における、中身のない議席の数のことですか?」
「なっ……貴様、何を……!」
「残念ながら、私の知る『序列』は、戦場においてどれだけ仲間を救い、勝利に貢献できるかという実利の一点のみで決まります。……アルリック先輩。貴方は昨年の合同演習で、味方の前衛が崩壊する中、自身の魔力を温存するために真っ先に後退されたそうですね。その誇り高き『帝国の末裔』という看板は、逃げ足の速さにこそ発揮されるものなのでしょうか?」
廊下の空気が物理的な重さを伴って凍りついた。周囲の生徒たちが、アルリックの逆鱗に触れたことを察して、青ざめながら息を呑む。
「貴様……3年生である私に対し、公国の秩序を汚すつもりか!」
「秩序、ですか? 私たちはただ、学園が求める『力』を証明したに過ぎません。……もし不満があるのなら、家柄ではなく、次の合同実戦演習でその実力を見せてください。その時は、私が貴方の『高貴な光』を、ただの灯火にまで無力化して差し上げますから」
イリスの背後で、フィリーネがくすくすと笑い、リィンが静かに、だが力強く頷く。ゼノリスはただ無言で、嵐を静止させるような重厚な威圧感を放っていた。
「……行こう。先輩方は、過去の夢を見るのにお忙しいようだ」
ゼノリスの短い一言。十人はアルリックたちの横を、一瞥もくれずに通り過ぎていった。残されたアルリックは、屈辱と恐怖に震えながら、ただ拳を握りしめることしかできなかった。彼が誇る「帝国」は教科書の中の死体だが、目の前の十人が放つ「帝国」は、今まさに彼を飲み込もうとする濁流そのものだった。
その日の深夜。専用ラウンジでは、ルカスが魔導回路の調整を、ガイルが古文書の解読を、そしてナディアが羅針盤の清掃を静かに行っていた。彼らにとって、この時間は戦いの泥を落とし、互いの絆を確認するための神聖な儀式でもあった。
だが、その静寂を、一筋の不協和音が切り裂いた。音もなく、ゼノリスの私室のドアの下に差し込まれた、一通の羊皮紙。封蝋はないが、紙質はアドラス公国の公文書すら凌駕する、大アドラスティア帝国時代の製法を再現した極上品だった。
「……兄さま。これを見て」
フィリーネが震える指でそれを拾い上げ、ラウンジの中央テーブルに置いた。
ゼノリスが手紙を手に取った瞬間、部屋の中に甘ったるい、それでいて鼻の奥を刺すような花の香りが広がった。
『親愛なるゼノリス様、そして新時代の息吹を纏う十人の仲間たちへ。諸君が図書室で、森で、そして訓練場で見せた「旋律」は、この学園が三百年かけて失った真の調和でした。つきましては、公国の法にも縛られない、真の「特別任務」を提案したい。明朝、時計塔の最上階にてお待ちしております。――学園教頭、サイラス・ヴォーン』
「……サイラス教頭からの呼び出し? 嫌な予感がするぜ」
カシムが窓枠から飛び降り、獣のような警戒心を剥き出しにする。
「あの眼鏡の男、笑っているのに目が一ミリも動いていない。アルリックのような分かりやすい無能より、ずっと底が知れないよ」
「……それだけじゃないわ」
イリスが手紙を光に透かし、その繊維に刻まれた微細な魔力回路を指先でなぞった。
「このインク。ただの香料じゃない……『精神弛緩』の術式が、極めて高度な技術で編み込まれている。招待状という形をとった、洗練された『拘束具』よ。……私たちがこの手紙をどのタイミングで、どのような体温で読んでいるかさえ、彼は『聴いて』いる可能性があるわ」
部屋を包む空気が、一気に重くなる。
「……行こう。彼が何を奏でようとしているのか、僕たちが直接確かめるしかない。……逃げても、あの時計の音からは逃げられない気がするんだ」
ゼノリスの決意。それは、手に入れたばかりの束の間の安らぎが、より深い闇への入り口であったことを、本能的に悟った者の言葉だった。
翌朝。十人は時計塔の最上階、教頭室へと足を運んだ。螺旋階段を一段上がるたび、外界の鳥のさえずりは遠ざかり、代わりに「ギチ、ギチ……」という、巨大な時計の歯車の回転音だけが、まるで巨大な鋼鉄の心臓が刻む拍動のように響く。
最上階の重厚な扉を開くと、そこには朝日を背に受け、優雅に茶をいれているサイラスの姿があった。彼は眼鏡を指先で押し上げ、十人が入室した瞬間、満足げに口元を歪めた。
「ようこそ。……昨夜はよく眠れましたか? 皆さんの心音が、昨日の演習直後よりもさらに澄んだ、鋭い『不協和音』に変わっている。……実に、素晴らしい」
サイラスの『真実の聴覚』は、十人が立ち位置を決める際のわずかな衣擦れさえも、完璧な旋律として標本化していた。
「さて、単刀直入に本題に入りましょう。……皆さんに、学園外での『特別実地任務』を依頼したい。場所は、公国北方の辺境――通称『忘却の監獄』。かつて大アドラスティア帝国時代に、制御不能となった禁忌の魔導具や、歴史から消されるべき『音』が封印された、呪われた聖域です」
「……なぜ、公国の正規騎士団ではなく、僕たちにそんな危険な場所を?」
ゼノリスが問う。その声は、サイラスの威圧感に一歩も退いていない。サイラスは、至極丁寧な動作でカップを置いた。
「理由は単純です。……あそこに封印された『音』は、アルリックさんのような過去の亡霊たちでは、聴くことすら叶わず狂い死ぬでしょう。……ですが、今の皆さんなら、あそこの『不和』を御し、帝国の真の遺産を回収できる。……そうでしょう?」
サイラスの背後の影が、一瞬だけ、巨大な蛇のように鎌首をもたげた。それは十人が手に入れた「自由」の代償として支払わされる、死と再生を伴う試練の始まりだった。
学園の正門へと続く「栄光の回廊」。朝露に濡れた石畳が、昇り始めた太陽の光を反射して銀色に輝いている。そこには、旅装を整えた十人の姿があった。彼らが背負っているのは、単なる食料や武具ではない。自分たちが「不適合者」と呼ばれ、泥を啜るような思いで耐え抜いてきた二年生としての一年間の記憶と、それを塗り替えるために手に入れた、剥き出しの「真実」である。
「……よし、荷物の最終確認だ。ルカス、魔導通信機の同期は済んでいるか?」
ゼノリスが仲間の顔を見渡し、静かに問いかけた。彼の背中に帯びられた銀剣は、早朝の冷気を吸い込んで、主の決意に共鳴するように微かな鳴動を返している。
「万全だぜ、リーダー。ガイルが解析した古代アドラスティア語の周波数を、この魔導回路の深層に焼き付けてある。公国の法術が届かない『忘却の監獄』の中だろうが、俺たちの『声』が途切れることはねえ。……もっとも、俺たちの絆が途切れなきゃ、だけどな」
ルカスが、胸元に下げた自作の通信デバイスを指先で叩いて不敵に笑う。
その隣で、ガイルは分厚い手帳をめくりながら、右目の解析魔力を静かに明滅させていた。
「……地脈の乱れによるノイズも想定内だ。あそこは時間が止まっている。公国の法術は三百年分の劣化を起こすだろうが、僕たちが図書室で、そして実戦で学んだ『生きた魔導』なら、あそこの沈黙を穿てるはずだ。……ルカス、そのデバイス、右の出力ギアが0.01ミリ遊びがある。後で調整してやるよ」
「へっ、相変わらず細かい野郎だぜ。……頼むわ、解析王」
その背後では、フィリーネとイリスが、医療嚢の中身を指差し確認していた。
「……イリス、光の魔力を封じ込めた増幅薬は足りている? 忘却の監獄は、精神的な摩耗が激しいと聞くわ。魔力的な枯渇が起きれば、肉体的な治癒も追いつかなくなる」
フィリーネの問いに、イリスは鋭い手つきでアンプルの瓶をベルトのホルスターへ差し込みながら頷いた。
「ええ。物理的な外傷処置は貴女が、魔力的な欠損の浄化は私が。……二重の防護線に抜かりはないわ。フィリーネ、貴女が調合してくれたあのハーブの鎮静剤も、多めに持ったわよ。……リィン、貴女の羽衣の状態はどう? 風の加護が揺らいでいない?」
「……大丈夫。風は、ずっと私のそばにいてくれる」
リィンが、肩にかかった白銀の羽衣をそっと撫でる。その布地は、今や彼女の体温と一体化し、朝風を吸い込んでは柔らかな光の粒子を放っていた。かつて、一族の呪縛に怯え、独りで影に隠れていた少女の瞳には、今や仲間を守り抜くという静かな、だが決して消えることのない戦意が宿っている。
十人が正門へと歩き出すと、校舎の窓や回廊の至る所から、他の生徒たちがその様子を盗み見ていた。かつては「掃き溜めの十組」と蔑まれた2年生たちが、今や学園最強の教官であるガントの信頼を一身に受け、教頭直々の特別任務に就く。その事実は、公国の伝統と血統という名の「偽りの天井」に安住していた他の生徒たちにとって、暴力的なまでの衝撃となっていた。
「……本当に行くのか。あの『忘却の監獄』に」
「狂ってる。公国の正規騎士団ですら、三百年前に封印されたあそこには近づこうとしないのに」
そんな声を切り裂くように、回廊の影から一人の男が現れた。3年生のアルリックである。彼は昨日イリスに論破された屈辱を隠すように、青ざめた顔でゼノリスを睨みつけた。 「……ゼノリス。貴様たちが……いや、お前たちが生きて戻れるとは思っていない」
アルリックは「貴様」と言いかけ、反射的に言葉を飲み込んだ。目の前のゼノリスが放つ、音のない威圧感に、言葉の刃が折られたのだ。
「……アドラス公国の秩序を汚したまま野垂れ死ぬことだけは許さん。……ヴェルドラの名にかけてな。お前たちが戻ってきた時、私がそのメッキを剥がしてやる」
その言葉に、ゼノリスは歩みを止めることなく、ただ一瞬だけ視線を向けた。
「……アドラス公国の秩序、ですか。……アルリック先輩。僕たちは、その『秩序』が目を背けてきた真実を拾いに行くだけです。……先輩が守ろうとしているものが、ただの砂上の楼閣でないことを祈っていますよ。……では、失礼します」
冷徹なまでに静かな宣告。アルリックは反論の言葉を失い、ただ去りゆく十人の背中を見送るしかなかった。同じ学園の制服を纏っているはずなのに、彼らの歩みは、もはや公国という小さな枠組みを超え、かつての「大アドラスティア帝国」の巨影に近づこうとしているように見えた。
門を抜ける直前、影のように現れた男がもう一人いた。ガントである。彼は腕を組み、仁王立ちで、だがその瞳には確かな信頼を宿して十人を待っていた。
「――待て、お前たち」
重厚な声。ゼノリスたちが足を止める。
「ガント先生。……わざわざ見送りに?」
「ふん。……お前たちの面構えが、恐怖で引き攣れていないか確認しに来ただけだ」
ガントはそう言うと、懐から古い革袋を取り出し、ゼノリスに投げ渡した。中には、無色の魔石が数個入っている。
「それは『呼吸する魔石』だ。監獄の深層では、大気中の魔力が淀み、呼吸すらままならなくなる場所がある。……行き詰まったら、それを砕け。十秒だけ、大アドラスティアの清浄な空気を再現してくれる」
「……先生。ありがとうございます」
「礼はいらん。……いいか、お前たち。あそこは『過去の墓場』だ。だが、死者に引きずられるな。……お前たちは生きて、新しい音を刻むためにあそこへ行くんだ。……死んで戻ってきたら、私が直々に地獄へ行って、腕立て一万回を命じてやるからな」
「ははっ、それは絶対にごめんだぜ!」
カシムが笑い、10人はガントに深く一礼した。
十人の姿が地平線の彼方へと消えていくのを、サイラス教頭は時計塔の最上階から、無音の空間の中で「聴いて」いた。
(……心地よいですね。学園の門を抜けた瞬間、彼らの奏でる『音』が、一気に野性と覚悟を帯びて膨れ上がった。……それは、静かな水面に投げ込まれた石が、波紋を広げていくような……期待に満ちた振動です)
サイラスはいれたての茶を一口啜り、卓上に広げられた「監獄の図面」を指先でなぞった。その指先が触れた箇所から、黒い魔力の波紋が広がり、図面が赤く変色していく。
(……さあ、行ってらっしゃい。忘却の監獄――そこは、大アドラスティア帝国が最後に残した、最も美しく、最も残酷な『不協和音』の標本箱です。……諸君がそこで何を見つけ、何を失い、どのような悲鳴を奏でてくれるのか……。私のコレクションに加わるその日を、楽しみに待っていますよ)
サイラスの眼鏡の奥で、感情の欠落した瞳が、獲物を待つ蛇のように静かに輝いた。風が吹き抜け、巨大な時計の歯車が「ゴツン」と一つ、重い音を立てて時を刻んだ。それは、十人にとっての「平穏」という幕が完全に降り、真の闘争が始まったことを告げる弔鐘のようでもあった。
学園という、高く強固な壁に守られた「箱庭」を離れた瞬間、十人が最初に肌で感じたのは、世界が本来持っている剥き出しの静寂だった。アドラス公国の中心部から北へと延びる石畳の街道は、かつては帝国の繁栄を象徴する大動脈であったはずだが、今や数時間も歩けば次第に亀裂が目立ち始め、やがては土と雑草に飲み込まれた「過去の遺物」へと姿を変えていく。
一行は、かつて自分たちが死線を越え、不適合者としての運命を跳ね除けるきっかけとなった試練の地――『霧の回廊』を背後に残した。一年前には絶望の入り口に見えたその場所も、今の十人にとっては、単なる地理的な通過点に過ぎない。しかし、その回廊を越えた先にある光景は、彼らの想像を絶する荒廃に満ちていた。
傾きかけた太陽が、地平線を毒々しいまでの朱色に染め上げ、長く伸びる影が廃墟の街並みを飲み込んでいく。十人は、かつて帝国の国境警備隊が使っていたと思われる、半ば崩落した石造りの監視塔の跡地を今夜の野営地に定めた。
「……よし、今日はここで火をおこそう。これ以上暗くなると、周囲の地形解析に誤差が出る」
ゼノリスが、使い古された革の手袋を脱ぎながら指示を出した。その声は、かつての迷いを振り払い、リーダーとしての静かな重みを湛えている。
「了解だぜ、リーダー。カシム、お前は天辺から周囲の熱源を監視してくれ。テオ、悪いが土台の補強を頼む。この石壁、見た目以上に魔力が抜けてて脆そうだ」
ルカスが手際よく荷物を下ろし、魔導デバイスの感度を調整する。カシムは「言われなくても分かってるっての」と軽く手を振ると、重力を無視したような身軽さで監視塔の天辺へと駆け上がっていった。ガイルは崩れた壁の隅に座り込み、手元に広げた古い地脈図と、右目の解析魔力を同期させていた。
「……ルカス。ここから北へ三キロ、魔力の流れが極端に停滞しているエリアがある。監獄の『影』が、既にこの辺りまで浸食している証拠だ。夜間の防護結界、出力を三割上げておけよ。公国の安物じゃなく、さっきのガント先生の魔石を核にするんだ」
「三割かよ……。分かった。解析王の言う通りにしてやるよ」
焚き火の炎が爆ぜ、オレンジ色の光が十人の顔を交互に照らし出す。フィリーネが手際よく用意した、干し肉と乾燥ハーブのスープの香りが漂い始めた頃、セレスティアは一服の安らぎを携えて、焚き火の傍らで地図を睨みつけていたゼノリスの元へ歩み寄った。
彼女は、公国の名門貴族らしい気品を失うことなく、それでいて幾多の修羅場を潜り抜けてきた理知的な女性としての、無駄のない洗練された動作で、スープの入った二つのカップを差し出した。
「……少しは目を休めたら? 貴方の瞳、解析に集中しすぎて熱を帯びているわよ」
「……セレスティア。ああ、ありがとう。……少し、これからの予測を立てておきたくてね。監獄の内部構造が、公国の古い記録とあまりに違いすぎるんだ」
「記録はあくまで『過去』のもの。あそこは生きている……あるいは、死ぬことを許されなかった怨念が形を成している場所よ。紙の上の文字を信じすぎるのは、貴方らしくないわ。もっと、自分の『直感』を信じなさい」
セレスティアはゼノリスの隣に、肩が触れ合うか触れ合わないかの、だが確かに互いの体温を感じられる距離で腰を下ろした。焚き火の熱を受け、彼女の聡明で凛とした横顔が、柔らかくもどこか神秘的に浮かび上がる。彼女は、ゼノリスが地図を持つ指先を微かに震わせているのを、誰よりも早く、そして正確に察知していた。それは寒さゆえではなく、彼が背負う「リーダー」という孤独な重責と、未知の深淵に対する本能的な忌避感からくるものだ。
「……ゼノリス。貴方は、自分が思っている以上に、私たちを導くことに必死になりすぎているわ」
「……そうかな。僕は、ただ皆を死なせたくないだけだよ。二年生になって、ようやく手に入れたこの絆を、失うのが怖いんだ」
「それは『信頼』とは少し違うわ、ゼノリス。……貴方は、自分の心臓を削って火を灯そうとしている。でも、私たちは貴方の薪じゃない。共に火を囲み、共に闇を払う仲間よ。……それとも、今の私は、貴方を支えるにはまだ足りないかしら?」
セレスティアは、空いている方の手をそっとゼノリスの拳の上に重ねた。その掌は驚くほど温かく、かつて学園で孤独に「不適合者」として扱われていた頃の、凍てついていた彼の心根を静かに解きほぐしていく。彼女の瞳には、状況を冷静に分析する魔導師としての冷徹な観察眼と、一人の少女として彼に寄せる、深く、それでいて気高い愛情が同居していた。
「……セレスティア。君にいさめられると、自分がどれだけ独りよがりだったか気づかされるよ。……ありがとう。君がいなければ、僕は今頃、ただの折れた銀の刃になっていたかもしれない」
「ふふ、そんな弱気な貴方も、私には新鮮よ。……でも、その言葉、忘れないで。貴方が道を照らすなら、私は貴方の背中を支える盾になる。……独りで、あの監獄の闇に飲み込まれないと約束して」
セレスティアが満足げに微笑み、ゆっくりと手を離したその時。監視塔の上にいたカシムが、獣のような鋭い叫び声を上げた。
「――全員、構えろ! 空気がおかしい!」
カシムの叫びと同時に、ナディアの黄金の羅針盤が、聞いたこともないような甲高い金属音を立てて激しく逆回転を始めた。
「……星が、消えた?」
ナディアが空を仰ぎ、戦慄に目を見開く。つい先刻まで見えていたはずの満天の星々が、北の空から這い寄ってきた「絶対的な漆黒」に塗り潰されていく。それは雲などではない。空間そのものが欠落したかのような、悍ましい虚無の帳だった。
「キィィィィィィィン……!」
耳を劈くような高周波。
「……やめて。……聴きたくない……!」
リィンが耳を塞ぎ、地面にうずくまった。彼女の白銀の羽衣が、持ち主の恐怖に反応して、まるで警告灯のように激しく明滅し、風が渦を巻いて砂塵を跳ね上げる。
「リィン、しっかりして! 何が聞こえるの!?」
フィリーネが彼女を抱きかかえるが、リィンの瞳は虚空を見つめたまま焦点が合わない。 「……三百年分の、呼吸。……閉じ込められた声たちが、あそこから漏れ出している。……『忘れてはいけない』……『私たちを消させない』って、何万もの声が重なって……!」
地平線の彼方、闇の中にぼうっと浮かび上がったのは、巨大な石造りの要塞――「忘却の監獄」の不気味な輪郭だった。そこから発せられる魔力の波動は、もはや公国の軟弱な魔導理論では説明がつかないほど歪で、暴力的なまでに強大だった。焚き火の炎が青白く変色し、重力が数倍になったかのような圧迫感が、野営地の十人を襲う。
「……これが、サイラス教頭の言っていた『不協和音』の正体か。監獄に入る前から、僕たちは既に『試練』の中に取り込まれているんだな」
ゼノリスが銀剣を抜き放ち、その刃で周囲の重圧を切り裂く。銀の火花が闇を噛み破り、ようやく仲間たちは呼吸を取り戻した。
その阿鼻叫喚とも言える状況を、時計塔の最上階から、サイラス・ヴォーンは「最高級の旋律」として堪能していた。
彼の目の前には、十人の生命エネルギーをリアルタイムで波形化する魔導グラフが、空中に幾重にも浮かんでいる。
(……ああ、素晴らしい。リィンさんの純粋な恐怖、ゼノリスさんの鋭い覚悟、そして……セレスティアさんの、あの慈愛に満ちた調べ。……それらすべてが、監獄の放つ死の波動と衝突し、見たこともないような複雑で美しい和音を奏でている……)
サイラスは、至極丁寧な所作で指先を動かし、空中の波形を標本箱に収めるようになぞった。
(……さあ、演奏を始めましょうか。二年生という、最も美しく脆い季節にある諸君。大アドラスティア帝国が遺した、歴史のゴミ捨て場で……諸君が何を選択し、どのような絶望の声を私に届けてくれるのか。……私の『真実の聴覚』が、そのすべてを余さず記録してあげましょう)
サイラスが卓上の黒い駒を一つ、監獄の地図の中央へと静かに置いた。その瞬間、遥か北方の地で、三百年もの間、固く閉ざされていた監獄の巨門が、重厚な軋み声を上げて開き始めた。それは、十人を飲み込むための、巨大な「忘却」という名の獣の顎のようでもあった。




