第12章:霧の回廊、奪われた風の記憶
エーテルガード学園の北端に位置する巨大な「嘆きの鉄門」が、夜明け前の薄闇の中で、三千年分の錆を擦り合わせるような重々しい軋みを上げて開いた。この門が開かれるのは、年に一度の正規騎士団の遠征か、あるいは罪人が荒野へ追放される時だけである。 今回の10人の出立は、そのどちらでもあり、そのどちらでもなかった。
早朝の冷気には、昨日まで降り続いた雨の湿り気と、北の未開拓地から吹き下ろす、乾いた土と鉄錆の匂いが混じり合っている。その境界線に、十人の影が立っていた。彼らはもう、ブカブカの制服を着せられていた一年前の子供たちではない。ルカスが地下動力室の資材を用いて徹夜で強化した、軽量かつ強靭な「魔導プロテクター」を制服の下に密かに装着し、背中には野営の道具と、地下で精製した高純度魔石のバッテリーを詰め込んだ重いリュックサックを背負っている。その立ち姿には、死地へ向かう悲壮感よりも、これから挑む未知への静かな闘志と、自分たちの足で歩けることへの高揚感が漲っていた。
「……門が開いたわ。ここから先は、学園の結界の外。……マルクスの監視の目も届かないけれど、守りの加護も一切ない、完全なる『野生』の世界よ」
ナディアが、手元の黄金の羅針盤を確認しながら呟く。針は相変わらず狂ったように北北西を指し続け、その振動は彼らの早鐘を打つ鼓動と不気味にシンクロしているようだった。
「……怖い?」
ナディアが隣のテオに尋ねると、テオは動物の耳をピクリと動かし、少し震えながらも首を横に振った。
「……ううん。怖いけど、ここにいたら、もっと大切な『感覚』が死んじゃう気がするから。……外の風は冷たいけど、嘘の匂いがしないよ」
「……上等だ。……檻の中で飼い殺しにされるより、よっぽど空気が美味い」
ガイルが大きく深呼吸をし、朝の冷気を肺いっぱいに吸い込む。彼のボサボサの茶髪は風に煽られているが、その瞳の「解析」は、すでに門の外に広がる荒野の魔素濃度や地形データを高速で計算し始めていた。
「……外気中の魔素濃度、学園内の三・五倍。……雑味が多いな。これじゃあ、繊細な魔法制御は難しいぞ。大気中のマナが暴れている。ルカス、出力調整はどうなってる?」
「……問題ないよ。地下の純度100%魔石を触媒に使っているから、外部環境の干渉は最小限に抑えられる。……むしろ、この濃い魔素を逆利用して、装備の出力を一時的にブーストすることだって可能だ。理論上はね」
ルカスが、分厚い眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら答える。彼の手には、新開発の「携行型魔導スキャナー」が握られ、周囲の地形データをリアルタイムで収集し、それを10人が持つ通信端末へと共有していた。
ゼノリスは、先頭に立ち、仲間たちを振り返った。右手の包帯の下にある「銀色の星」の刻印が、微かに熱を帯びている。それは警告ではなく、これから始まる旅への武者震いのようなものだった。
「……行こう。マルクスは僕たちが泣いて帰ってくるか、野垂れ死ぬのを期待している。……そのどちらも裏切って、僕たちは必ず『成果』を持って、胸を張って帰還するんだ」
「……うん。兄さまが行くなら、フィリーはどこへだって行くわ。……例えそこが、世界の終わりでも、フィリーがそこを新しい花園に変えてあげる」
フィリーネが、ゼノリスの左腕にしっかりと捕まりながら頷く。彼女の銀髪は朝露に濡れて輝き、その瞳は兄以外の風景を映そうとはしていなかった。
十人は、軋む鉄門を一歩踏み越えた。その瞬間、肌に触れる風の質感が劇的に変わった。学園内の結界によって整えられたマイルドな風ではなく、荒々しく、肌を切り裂くような「生の風」が頬を叩く。背後で鉄門が閉まる音が、まるで退路を断つ断頭台の音のように響いたが、誰も振り返らなかった。
彼らが目指すのは北北西。八ヵ国連合の支配領域と、北の未開拓地を隔てる自然の要害――『霧の回廊』である。そこは、三百年前の大帝国崩壊時に発生した膨大な魔力の残滓が、終わることのない濃霧となって滞留し、生態系を捻じ曲げた「魔境」と恐れられている場所だった。
荒野を進むこと数時間。太陽が中天に昇っても、周囲の景色は晴れることなく、むしろ徐々に乳白色の霧が視界を侵食し始めていた。足元の土は黒く変色し、草木はねじれ、奇妙な色の実をつけている。
「……見て。木々の形がおかしいわ」
セレスティアが、枯れ木のような森を指差す。その枝は不自然にねじれ、まるで苦悶の表情を浮かべた人間の手のように空を掴んでいた。
「……ひどい魔力汚染だ。三百年前の崩壊の傷跡が、まだ生々しく残ってやがる」
ガイルが周囲の歪んだ魔素を忌々しげに吐き捨てると、隣を歩くイリスが悲しげに瞳を伏せた。
「ええ……大地が泣いているわ。祈りだけでは届かないほど、その傷は深いのね」
「……嫌な匂いがする。……血と、腐った土と、それから……もっと古い、何かが焦げたような鉄の匂い」
テオが鼻をヒクヒクさせ、怯えたように身を縮める。彼の獣人の感覚は、この場所が生理的に受け付けない「死」に満ちていることを敏感に察知していた。
その時、先頭を歩いていたリィンが、突然足を止めた。彼女の手には、地下で見つけたあの「漆黒の小箱」が大切に握られている。その小箱が、カタカタと微かに震えているのを、ゼノリスは見逃さなかった。
「……聞こえる」
リィンが、虚空を見つめながら呟いた。
「……リィン? 何が聞こえるんだ?」
ゼノリスが駆け寄る。
「……風の音。……でも、これは自然の風じゃない。……泣いているわ。……誰かが、霧の向こうで、ずっと泣いている。……私を、呼んでいる」
彼女の言葉に呼応するように、霧の奥から「ヒュオオオオ……」という、笛のような、あるいは女性の悲鳴のような風切り音が響いてきた。それは単なる風の音ではなく、明らかに知性を持った何者かが発する「信号」のようでもあった。
「……警告ッ! 前方三百メートル、複数の生体反応!」
ガイルが鋭く叫ぶと同時に、彼が展開していた簡易結界に赤い波紋が走った。
「解析不能……いや、速すぎる! 数は……十、二十……三十体以上だ! こっちに向かってくるぞ!」
「……全周囲、防衛陣形!」
ゼノリスの号令一閃。10人は瞬時に背中を預け合い、円陣を組んだ。一年間の訓練と、地下迷宮での経験が、彼らの身体を無意識に動かしていた。言葉はいらない。呼吸一つで、互いの位置取りが決まる。前衛にゼノリス、リィン。中衛にルカス、ガイル、ナディア。後衛にセレスティア、イリス、テオ、フィリーネ。そして遊撃のカシムが、瞬時に仲間の影の中へと潜行し、奇襲の機会を伺う。
濃霧の中から飛び出してきたのは、全身が鋼のような灰色の体毛に覆われた、巨大な狼に似た魔獣の群れだった。だが、通常の狼とは明らかに違う。その体長は二メートルを超え、瞳は血のように赤く発光し、背中からは鋭利な水晶のような棘が無数に生えている。
「……『ミスト・ウルフ(霧狼)』の変異種か。……厄介だな、あの棘には麻痺毒があるぞ! かすっただけでも動けなくなる!」
テオが叫び、即座に解毒薬の瓶を構える。
「グルルルルッ……!」
先頭のリーダー格と思われる巨大な個体が、ゼノリス目掛けて跳躍した。その牙は鋭く、獲物の喉笛を確実に狙っている。速い。演習用のゴーレムとは比べ物にならない「殺意の速度」だ。
「……させない!」
ゼノリスが剣を抜こうとした瞬間、彼の横を黒い疾風が駆け抜けた。リィンだった。彼女は東方の刀を抜き放ち、目にも止まらぬ速さで狼の眉間を一閃した。
「――秘剣、疾風。……断ち切れ」
キンッ! という澄んだ音と共に、巨大な狼の身体が空中で真っ二つに裂け、霧散した。 血は出ない。魔獣は黒い煙となって消滅したのだ。霧から生まれた幻影のような存在、しかしその牙は確実に死をもたらす実体を持っていた。
「……さすが、リィン。……でも、数が多すぎる!」
一匹を倒した隙を突いて、後続の狼たちが雪崩のように押し寄せてくる。三十頭の牙と爪が、10人の円陣を食い破ろうと殺到する。
「……ルカス、アレを使うぞ! 出力制限解除!」
ゼノリスが叫ぶ。
「……了解。地下資源の有効活用を見せてやるよ! ……喰らえ、過剰出力!」
ルカスがリュックから取り出したのは、地下の魔石を組み込んだ新兵器「広域魔導閃光弾」だった。彼がそれを群れの中心に投げ込むと、目も眩むような銀色の閃光が炸裂した。
「ギャアアアアッ!」
強烈な光と衝撃波が霧を吹き飛ばし、狼たちが悲鳴を上げて視界を奪われ、混乱に陥る。 「今だ、カシム!」
「……影縫い、乱れ咲き」
混乱する狼たちの足元の影から、無数の黒い刃が突き出し、次々と魔獣を串刺しにしていく。カシムの影魔法は、光源(ルカスの閃光)が強ければ強いほど、その濃さを増すのだ。
「……セレスティア、イリス! 浄化の光を!」
「ええ! ……光よ、闇を払いなさい!」
「……灰色の安息を。眠りなさい」
二人の聖女が手を繋ぎ、光と霧の複合魔法を放つ。セレスティアの聖なる光が狼たちの魔力を浄化し、イリスの幻惑の霧が彼らの戦意を削ぎ落とす。
最後に、フィリーネが地面に手を付き、可愛らしい声で告げた。
「……ごめんなさいね。そこは、私のお庭よ」
地面から黄金の茨が一斉に隆起し、逃げようとした狼たちを絡め取り、締め上げた。
戦闘は数分で終わった。荒い息をつく10人。プロテクターには爪痕が残り、制服は泥だらけだったが、誰一人として深い怪我はなく、その目には初めての実戦を自分たちの力で乗り越えたという、確かな自信が宿っていた。
「……やったか。……学園の演習とは、殺気の質が違うな。心臓が飛び出しそうだ」
ガイルが冷や汗を拭いながら、震える手でボサボサの茶髪を乱暴にかき上げた。その瞳の奥には、恐怖を上回る解析者としての興奮が微かに混じっている。
だが、リィンだけは刀を納めようとせず、晴れかけた霧の奥をじっと睨みつけていた。 「……終わっていない。……今の狼たちは、ただの露払い。……本命がいるわ」
彼女の手の中の「小箱」が、カタカタと激しく震え出した。
霧が再び渦を巻き、一人の人影がゆっくりと現れた。それは魔獣ではなかった。ボロボロのローブを纏い、顔を奇妙な紋様の描かれた鉄の仮面で隠した、人間のような姿をした「何か」だった。その仮面の男は、倒れた狼たちの煙を踏みしめながら、リィンを見ると、歪んだ声で笑った。
「……見つけたぞ。……三千年の時を超えて、ようやく。……裏切り者の末裔。……貴様からは、忌々しい『東方』の風の匂いがする」
その言葉に、リィンの表情が凍りついた。それは、彼女が最も恐れ、そして心のどこかで最も会いたかったかもしれない、故郷からの「追っ手」の姿だった。
乳白色の濃霧は、地上数メートルを完全に支配し、視界を数歩先まで奪い去っていた。その霧はただの気象現象ではなく、肺に吸い込むたびに微かな鉄の味が混じり、皮膚を刺すような静電気を帯びている。静寂を破って現れたのは、ボロボロのローブを纏った「鉄の仮面の男」だった。彼の足元では、腐った土が不自然に炭化し、一歩踏み出すたびに「ジャリ、ジャリ」と、ガラスを噛み砕くような硬質な音が荒野に響く。
「……裏切り者の末裔だと? 貴様、何者だ」
ゼノリスが剣を水平に構え、リィンの斜め前へと踏み出した。彼の右手の包帯に隠された「銀色の星」が、一定の周期で激しく発熱を開始する。包帯越しにも、その銀光が脈打つ血管のように明滅しているのが分かった。
「……名乗る必要などない。私はただの『記録者』。……三千年前、帝国の法を破り、東方の聖域を売った罪深き一族を追い続ける、歴史の影に過ぎん」
仮面の男の声は、録音された音声を幾重にも重ね合わせたような、起伏のない金属音だった。彼はゆっくりと右手を持ち上げた。ローブの袖口からは、骨ばった指先ではなく、鈍色に光る魔導回路が埋め込まれた「義手」が姿を現す。
「……リィン・シルフィード。……お前が持っているその『小箱』の中身は、お前の先祖が守るべきだった帝国の遺産だ。……だが奴らは欲に負け、禁忌を外へと持ち出した。……その血に刻まれた負債は、三千年の利子をつけて今ここで回収される」
リィンの指先が、小箱の縁を白くなるほど強く握りしめた。箱の隙間から溢れ出した極低温の冷気が、彼女の足元の地面を同心円状に凍りつかせ、小さな氷の棘を発生させる。
「……違う。……そんな記録、私の家には……」
「黙れ。……東方の風は、もはやお前を家族とは認めない。……審判の時だ」
仮面の男が義手の指を弾くと、周囲の霧が急速に渦を巻き、一枚の巨大な円盤状の刃へと圧縮された。それは空気を切り裂く高音を発しながら、十人の喉元を一文字に切り裂かんと飛来する。
「――帝国式・風蝕刃、射出」
「防げ!」
ゼノリスが銀色の魔力を剣身に流し込み、斜め上方へと跳ね上げた。
キンッ! という、巨大な鐘を叩いたような衝撃が腕を伝い、ゼノリスの膝がわずかに折れる。足元の土は衝撃波で一瞬にして半径二メートルにわたって弾け飛んだ。
「……重い!? 重力魔法を並列化しているのか……! 一撃一撃の質量が桁違いだ!」
「……解析完了! 奴の魔法構成に八ヵ国連合の標準言語は一切使われていない! 三千年前の『帝国式・直接接続回路』だ!」
ガイルが叫び、空中に展開した半透明の魔導パネルを指先で弾く。彼の瞳には、男の周囲で明滅する不可視の魔導数式が、無数の黄金の残像となって映し出されていた。
「ルカス! 奴のコアは左胸の第三接合部だ。三秒に一度、冷却のためにシールドがコンマ五秒だけ薄くなる。……タイミングは僕が合わせる!」
「了解。……地下の純度100%魔石、リアクターに直結。……出力400パーセント、定格限界を超えて回すよ。……魔導ジャミング、照射開始!」
ルカスが、自身の眼鏡を中指で強く押し込み、携行型妨害装置のレバーを最大まで引き上げた。装置の中から「キィィィィィィ」という高周波音が響き、地下動力室から持ち出した禁断の資源が青白い火花を散らす。
「……小癪な。学園の塵共が、帝国の技術を不当に模倣しているか」
仮面の男は動じることなく、義手を地面へと向けた。
「――第二階梯、地脈の牙、起動」
地面から、鋼鉄のような硬度を持つ土の槍が、十人の足元を狙って一斉に突き出した。
「影の膜、展開!」
カシムが床を蹴り、自身の影を巨大な黒い円盤へと変えて仲間の足元へと滑り込ませた。土の槍は影に飲まれ、別の場所へと転送される。
「……ゼノリス、長くは持たない。……奴の魔力量は、こっちの予備バッテリーを使い切る方が早いぞ!」
後衛では、イリスが膝を突き、地面に右手を置いていた。
「……皆、聞いて。……この男の背後……霧の向こうに、巨大な『穴』が見えるわ。……それは物理的な穴じゃない。……この世界から切り離された、三千年前の『不在の空間』よ……」
イリスの「灰色の瞳」は、男が守護している空間の歪みを、生理的な嫌悪感と共に捉えていた。セレスティアもまた、聖典を開き、真実を映す青い瞳で男を見据える。
「ゼノリス! 彼は人間じゃないわ! ……三千年前の刑吏の意志を転写された、自律型の魔導兵器よ。……核を完全に破砕しない限り、霧から魔力を補給して何度でも修復される!」
「……なら、核を露出させるまでだ。……リィン、準備はいいか」
ゼノリスが横を向くと、リィンは小箱を懐に収め、愛刀の柄を握りしめていた。彼女の吐息は白く、周囲の気温はすでに氷点下まで下がっている。
「過去の亡霊が何を言おうと、今の君の剣は、僕たちを守るための誇りだろう! リィン・シルフィード、風を見せてくれ!」
「……ええ。……私は、もう目を逸らさない」
リィンが一歩踏み出すと、彼女の足元に溜まっていた冷気が爆発的な勢いで前方へと噴出した。
「――絶・零。……昇華」
彼女が刀を抜き放つ。その刃は、周囲の霧を瞬時に凍らせ、仮面の男へと続く直線の「氷の滑走路」を作り出した。
「……行くぞ!」
ゼノリスが氷の上を滑るように加速する。仮面の男が防御壁を構築しようとするが、ガイルの解析とルカスのジャミングが、その回路を寸前で妨害し、無数のノイズを叩き込んだ。
「……な、何!? 計算が……合わん……!?」
「――銀色の残響! 全力、収束!」
ゼノリスの剣が、男の左胸の「冷却孔」へと正確に吸い込まれた。剣先が鋼鉄を貫く「ギギギ」という嫌な音が響き、次の瞬間、ゼノリスの銀色の魔力が男の内部で炸裂した。
「……ぐああああっ!? この光……オリジンの、純粋なる……旋律だと!? 三千年前、アポカリプスを……引き起こした……!」
仮面の男が絶叫し、その鉄の仮面に、一気に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。亀裂からは血ではなく、砂のように乾いた闇の粒子が吹き出した。
「……カシム、仕上げを!」
「……了解。影葬……眠れ」
影の中から音もなく飛び出したカシムの短剣が、男の喉元から仮面の裏側へと突き刺さった。
男の身体は、崩れ落ちる砂の城のように形を失っていき、最後の一片が霧の中に溶けて消える間際、彼は呪詛のようでありながら、どこか解放されたような、静かな声を残した。
「……扉は、開かれた。……お前たちの求める『真実』は、この下……三千年前の恥辱を詰め込んだ『禁断の遺跡』の中で、お前たちを貪り喰らうだろう。……来い、呪われし子供たちよ……」
男が完全に消滅した瞬間、足元の荒野が、腹に響くような激しい地響きと共に振動を開始した。乳白色の霧が、竜巻に吸い込まれるようにして急速に晴れていく。そこに姿を現したのは、高さ十メートルを超える、鋼鉄製の巨大な二連扉だった。それは、地上の八ヵ国連合が決して見つけることができず、マルクスの帳簿にも決して記載されることのなかった場所。三千年前の帝国が、略奪した世界の記憶と、手に負えなくなった「異質な力」を隔離・封印するために築き上げた地下巨大施設――『禁断の遺跡:アイアン・ラビリンス』の入り口であった。
「……これね。羅針盤が狂ったように回っていたのは……この、地下に眠る巨大な魔力の渦を感じていたからなんだわ」
ナディアが羅針盤を胸元に抱きしめ、荒い呼吸を整えながら言った。鋼鉄の扉には、ゼノリスの右手の刻印と、そしてリィンが持つ小箱の意匠を複雑に組み合わせたような、「星と風が絡み合う紋章」が刻まれ、静かな、しかし確かな燐光を放っていた。
「……行こう。マルクスの任務なんて、もうどうでもいい。……ここに、僕たちが何者なのか、その答えがあるはずだ」
ゼノリスは、泥と煤に汚れながらも、かつてないほど力強い光を宿した仲間たちの瞳を見渡した。そして、三千年の時を経て再び目覚めた重厚な扉へと、ためらうことなくその手をかけた。
三千年の眠りを破り、左右へと分かれた巨大な鋼鉄の門。その隙間から溢れ出してきたのは、ただの風ではなかった。それは、氷のように肌を刺す冷気と、古い紙が朽ちたような匂い、そして機械を動かすための古い油の匂いが混ざり合った、不自然なまでに乾いた空気だった。大帝国が最も栄えていた時代の空気が、そのまま真空の檻に閉じ込められていたかのような。一歩足を踏み出すだけで、肺の奥がツンと痛み、三千年前の重みが身体にまとわりつくのを感じた。
「……ここが、アイアン・ラビリンス。霧の回廊の底に、こんな巨大な鉄の街が埋まっていたなんて」
ナディアが、黄金の羅針盤を両手で包み込むように持ち、震える声で呟いた。羅針盤の針は、もはや北を指し示す本来の役割を忘れてしまっていた。針はまるで怯えているかのように、この建物の中心……さらに深く、底の見えない暗闇の方向を指して、激しく火花を散らしながら震えている。
通路の壁は、光を吸い込むような鈍い黒色の金属で覆われていた。天井からは、一定の間隔で青白い光を放つ「魔導灯」がぶら下がり、十人の足元を無機質に、そして冷たく照らし出している。床は鏡のように磨き上げられ、数千年の年月が経っているはずなのに、塵一つ落ちていない。
「……不気味なほど清潔だね。ついさっきまで、誰かがここで作業をしていたみたいだ」
ルカスが、足を止めて床に膝をついた。彼は指先で金属の接合部をなぞり、その冷たさに眉をひそめる。ルカスの持つ魔導スキャナーは、壁の奥で今なお脈打つ、膨大なエネルギーの流れを捉えていた。それはまるで、眠っている巨大な怪物の血管のようだった。
さらに進むと、通路の両側に巨大な透明な筒が、見渡す限り並んでいる広場に出た。 そこにある光景に、十人は息を呑み、足を止めた。筒の中には、色鮮やかな刺繍が施された絹の織物、見たこともない奇妙な形の木製楽器、宝石が散りばめられた異国の剣、そして神事に使うのであろう不思議な動物の仮面が収められていた。しかし、それらは大切に飾られているのではなかった。一つ一つの筒の横には、帝国の文字で「どの国から、いつ、どのように奪ったか」という冷徹な記録が刻まれていた。さらに、その品物を動かすための「分解図」や、使われている素材の「分析データ」までが細かく記されていたのだ。
「……あ、あれは……星読みの一族に伝わる、幻の天体盤だわ……」
ナディアが、一つの筒の前で崩れ落ちるように膝をついた。そこには、彼女の故郷でも数百年前に失われたはずの家宝が、無残にネジや歯車の一つまでバラバラに解体され、標本のように並べられていた。
「私たちの祈りの道具を、あいつら……ただの機械としてバラバラにしたんだわ。何のために……こんな、ひどいことを……」
ナディアの握りしめた拳が、怒りと悲しみで白く震えていた。
「……こっちには、精霊の森の種がある。でも、もう芽吹く力はないよ。魔力を全部、無理やり吸い取られちゃってる」
テオが、枯れ果てた植物の標本を見つめ、犬のような耳をぴたりと伏せた。そこにあるのは「宝物」ではなかった。帝国が周囲の国を滅ぼしたときに奪ってきた知恵や文化を、ここで「解剖」し、自分たちの力として取り込もうとした、残酷な実験の跡だった。帝国がなぜこのようなことをしたのか、その本当の理由はまだ誰にも分からなかったが、目の前にあるのは、数えきれないほどの国の「命」が踏みにじられた証拠だった。
一行がさらに奥へと歩を進めると、通路は不自然に広くなり、ドーム状の巨大な広間に行き当たった。そこには、他のものとは明らかに扱いが違う、ひときわ大きな黒い石の祭壇があった。その祭壇の上に置かれていたのは、風に揺れる銀色の糸で編まれたような、一着の「薄い羽衣」だった。その衣からは、今なお周囲の空気を優しく揺らすような、不思議な風の魔力が漏れ出している。
「……ッ! あ……あれは……!」
リィンが、悲鳴に近い声を上げて駆け出した。
「リィン、待て! 罠があるかもしれない!」
ゼノリスが制止しようと手を伸ばすが、彼女の耳には届いていなかった。リィンはその祭壇の前で立ち止まり、その羽衣を食い入るように見つめた。
「……間違いない。我が国、シルフィード東方霊樹国の宝……『風読みの衣』。建国のとき、初代の王様が星から授かったと言い伝えられていた、私たちの魂そのもの。なぜ、こんな暗い場所に……」
リィンの手が、震えながら祭壇に触れようとした、その時だった。
ガガガガガガッ! と、天井で巨大な歯車が噛み合うような重い機械音が響き渡った。 「全員、離れろ! 上だ!」
ガイルの叫びと同時に、天井のハッチが開き、四本の巨大な「鉄の腕」を持った、カニのような不気味な魔導兵器が降り立ってきた。それは先ほどの仮面の男とは違い、会話の余地など一切ない、侵入者を排除するためだけに造られた帝国の防衛システムだった。
『――未登録の生体反応を確認。対象を排除し、サンプルの採取を開始します』
感情のない合成音声と共に、魔導兵器の四本の鉄腕が赤く熱を持ち、凄まじい音を立ててリィンを薙ぎ払おうとした。
「させるか!」
ゼノリスは石床を蹴ってリィンの前へと飛び込み、銀色の魔力を剣に込めると、その重い一撃を真っ向から受け止めた。
ギィィィィィィィィン! という、金属同士が激しく擦れ合う高い音が広場に響き、ゼノリスの腕の骨にまで鈍い衝撃が走る。
「リィン、下がって! こいつは、学園の訓練用とは比べ物にならない……本物の『人殺しの機械』だ!」
「イリス、やるわよ!」
「……ええ、わかっているわ」
後衛にいたセレスティアとイリスが、同時に前に出た。セレスティアが「真実の瞳」で兵器の攻撃の軌道を瞬時に読み取り、イリスが「灰色の霧」を発生させて、兵器の熱感知センサーを惑わせる。
「――光の防壁、展開!」
「――灰の帳、視覚を濁したまえ」
二人の聖女が放つ魔力の壁が、兵器の放つ赤い熱線を間一髪で弾き返し、前衛のゼノリスたちに攻撃の隙を作り出した。
「解析完了! 奴の装甲は三層構造だ。魔法を弾く加工がされている! 物理的な『一点突破』で関節を狙うしかない!」
ガイルが叫び、自分の位置から見える兵器の弱点を特定する。
「ルカス、奴の右前脚の接合部を狙え! 動きを止めるんだ!」
「了解。過剰出力・ボルト、発射準備!」
ルカスが、スキャナーに魔石を無理やり押し込み、青白い電撃弾を放った。それが魔導兵器の脚部に命中し、激しい火花と黒い煙が上がる。機械の動きが一瞬だけ止まり、ガガガと異音を立てた。
「今だ、ゼノリス!」
カシムが影から飛び出し、兵器の背後にある魔力供給ケーブルを短剣で一文字に切り裂いた。
ゼノリスがトドメの一撃を叩き込もうと、石床を強く踏みしめて低く踏み込んだ、その時だった。彼は、激しく火花を散らす兵器の巨体の向こう側……広場の最奥の壁に刻まれた、巨大な「壁画」を視界の端に捉えてしまった。
そこには、三千年前の帝国の役人に対し、東方の宝である「風読みの衣」を自らの手で差し出している、一人の若い男の姿があった。その男の顔、瞳の形、そして独特の髪の跳ね方は、今、隣で戦っているリィンに驚くほど似ていた。そして壁画の下には、当時の言葉で、逃げ場のない事実が刻まれていた。
『東方の賢者、自らの民の命と引き換えに、星の宝を帝国へ献上す』
「……命を救うために、魂を捨てた……?」
ゼノリスの思考が、その一文の持つ残酷な重みに捕らわれ、一瞬だけ止まった。それは「略奪された被害者」という悲劇ですらなかった。自分たちの意志で、生きるために、誇りを手放したという「屈辱の証明」だったのだ。戦場において、その一瞬の動揺はあまりにも長すぎた。視界を奪われて暴れていた魔導兵器の、もう一本の巨大な鉄腕が、死神の鎌のようにゼノリスの脇腹を狙って振り抜かれた。
「――危ない、ゼノリス!」
リィンが絶叫し、自らの身体を投げ出すようにしてゼノリスを突き飛ばした。
ドゴォッ!! という重い衝撃音が広場に響き渡る。
リィンの華奢な身体が、冷たい金属の壁に向かって弾き飛ばされ、激しく叩きつけられた。
「リィンッ!!」
ゼノリスの叫びが、鉄の迷宮の天井に虚しく響いた。壁から崩れ落ちるリィンの傍らでは、壁画の男が、今もなお宝を差し出し続けている。帝国は知っていたのだ。「奪われた」のであれば恨みは力に変わる。だが「自ら差し出した」という事実は、時を超えて子孫の心を内側から削り、誇りを奪い続ける。それこそが、三千年前の帝国が仕掛けた、逃れることのできない「真実の罠」であった。
「……リィン! 目を開けてくれ、リィンッ!!」
ゼノリスの叫びが、冷たい金属の壁に跳ね返り、高い天井へと虚しく吸い込まれていった。 腕の中のリィンは、力なく首を垂れ、その白い肌を鮮やかな赤色がじわじわと汚し続けている。金属の壁に叩きつけられた衝撃は、彼女の華奢な身体にとってあまりに大きすぎた。意識を失った彼女の唇からは、時折、苦しげな小さな吐息が漏れるだけだった。
「……傷口が深いわ。すぐに血を止めないと……。セレスティア、手を貸して!」
イリスが真っ先に駆け寄り、迷うことなく灰色の修道服の裾を大きく引き裂いた。それをリィンの脇腹の傷口に強く押し当てる。セレスティアも震える手で聖典を広げ、精一杯の治癒の光をその傷口へと注ぎ込んだ。
「……お願い、光よ。リィンさんを……彼女の命を繋ぎ止めて……!」
二人の聖女が放つ魔力は、冷たい遺跡の空気の中で必死に明滅していた。だが、遺跡そのものが魔力を吸い取っているかのように、治癒の光は思うように広がらない。
ゼノリスは、自分の手のひらに伝わるリィンの血の熱さと、その背後の壁画を交互に見た。 そこには、三千年前のあの日、今のリィンと同じ顔をした男が、帝国の役人に宝を差し出している姿が静かに描かれている。怒りと、困惑と、そして自分の一瞬の動揺が彼女を傷つけたという激しい後悔。それらがゼノリスの胸の中で冷たい泥のように渦巻いていた。
その時だった。広場を支配していた不快な機械音がピタリと止まり、辺りに妙な静寂が訪れた。 四本腕の魔導兵器が動きを止め、その中央にある赤いランプが、まるで瞬きをするように規則正しく明滅を繰り返す。
『――生体データの照合、完了。……東方霊樹国の直系血族であることを確認しました。……解体プログラムを一時停止し、解説モードへ移行します』
天井のスピーカーから、感情の抜け落ちた女性のような声が響いた。
「……誰だ!? どこで僕たちを見ている!」
ゼノリスが剣を構え直し、声のした方向を睨みつける。だが、そこには無機質な金属の壁があるだけだった。
『私は本施設の管理記録体。……リィン・シルフィード殿。貴女の先祖、タクミ・シルフィードが三千年前に帝国と交わした「生存契約」に基づき、当時の記録を再生します』
「……契約だと? ……リィンの先祖が、帝国と何を約束したって言うんだ!」
ガイルが、右目の解析をフル回転させながら、壁の奥に潜む魔導回路の動きを追う。彼の視界には、施設全体の魔力が、攻撃的な形から「情報を伝えるための波形」へと書き換わっていくのが見えていた。
『契約内容。……東方の秘宝「風読みの衣」の譲渡。および、東方霊樹国のすべての技術情報の提供。……その対価として、帝国は東方の民、三万四千八百二名に対する「永続的な生存」を保証しました』
「……三万人以上の、命……」
ルカスが、スキャナーを持つ手を止めて呟いた。
「それって……宝を売ったんじゃなくて、国民の命を助けるための、ぎりぎりの選択だったってことか?」
『……肯定。当時の帝国軍は、東方霊樹国の国境を完全に包囲していました。……タクミ・シルフィードは、無駄な戦いによる人口の減少を避けるため、自ら国の魂である宝を差し出し、帝国の一部となる道を選んだのです。……これは当時の計算において、最も「効率的」な解決とされています』
スピーカーからの声は、淡々と、しかし残酷な事実を告げ続ける。
『……しかし、当時の帝国の法律において、戦わずに降伏した者は「誇りを捨てた者」として、最も低い身分に置かれました。……彼はその汚名を一生背負い続け、子孫たちもまた、今日に至るまで「裏切り者の家系」として、歴史の影で蔑まれ続けることになったのです』
「……そんな……。そんなの、あんまりだよ」
テオが、涙を浮かべて拳を固く握りしめた。
「……みんなを助けようとしただけなのに。なんで、三千年経っても許してもらえないんだよ!」
ここで、ゼノリスの脳裏に一つの考えがよぎった。「退却する」という選択肢だ。リィンは重傷を負い、敵は三千年前の未知の兵器。今この場を離れ、学園へ戻って治療を優先し、戦力を整え直すのが、戦術としては「正しい」はずだ。だが、その思考を遮るように、施設の声が再び響く。
『――補足。リィン・シルフィード殿は現在、契約違反の状態にあります。……契約外の「失われた小箱」を所持しているため、対象を「回収すべき重要サンプル」として再定義します。……これより、サンプルの完全な確保、および抵抗者の排除を再開します』
「サンプル……だと?」
ゼノリスの身体が、怒りで小さく震えた。
「リィンは……彼女は、お前たちの実験道具じゃない。ましてや、回収されるべき荷物なんかじゃないんだ!」
ゼノリスは悟った。ここで背を向けて逃げれば、この「施設」……いや、帝国という巨大なシステムは、どこまでもリィンを追い続けるだろう。ここで逃げることは、三千年前のあの日、リィンの先祖が選ばざるを得なかった「効率的な生存」という名の屈辱を、再び彼女に選ばせることと同じだ。「生き延びるために、誇りを捨てる」のは、もう終わりにしなければならない。
「……みんな、聞いてくれ。逃げる道はない」
ゼノリスの声は、静かだが鋼のような強さを持っていた。
「ここで退けば、リィンはずっと『裏切り者の末裔』という呪いに縛られたままだ。三千年前のあの日から一歩も進めない。……僕たちがここでこの機械を壊し、あの壁画の記録を塗り替えなければ、彼女の明日は来ないんだ」
「……ふん、言ってくれるじゃないか」
カシムが影の中から一歩前に出た。その瞳には、ゼノリスと同じ強い光が宿っている。 「俺も、人の命を数字で数えるようなやり方は気に入らねえ。……やるぜ、リーダー」
「……僕も同感だ。学園の大人たちも、この遺跡の意志も、結局は自分たちの都合で僕らを利用しているに過ぎない。……ルカス、準備はいいか。三千年前の『効率』という名の正義を、僕たちの手でぶち壊すぞ」
ガイルが、右目の解析機能を最大まで引き上げた。ルカスもまた、震える手で魔石を装置に叩き込み、力強く頷く。
ゼノリスの身体から、銀色の魔力がこれまでになく激しく溢れ出した。それは、ただの力の放出ではない。不条理な歴史と、人を道具としてしか見ない世界に対する、魂の叫びだった。
「……行くぞ! リィンが守りたかったものを、今度は僕たちが守り抜くんだ!!」
施設の赤いランプが激しく点滅し、魔導兵器が再びその四本の鉄腕を振り上げた。だが、10人の心にはもう、迷いも、逃げ腰の弱さもなかった。鉄の迷宮の冷たい静寂を、彼らの決意の咆哮が、今まさに塗り替えようとしていた。
「――フィリーネ! リィンを頼む! 聖女二人を、君の知識で支えてやってくれ!」
ゼノリスの叫びが、広場全体を震わせる激しい地響きの中に響き渡った。フィリーネは一瞬だけ、恐怖でその細い肩を震わせた。目の前で火花を散らす巨大な魔導兵器、そして血を流して倒れている親友。しかし、彼女は逃げなかった。常に持ち歩いている使い込まれた革の薬箱を、迷いなくその場に広げる。
「任せて、兄さま! ……セレスティア、イリス、手を止めないで! お二人の魔力で傷口の表面を閉じている間に、私がこの錬金薬を体内に直接流し込みます!」
フィリーネは冷たい金属の床に膝をつき、血に濡れたリィンの脇腹の制服を、慣れた手つきで切り開いた。
「出血が多すぎる……血圧が急激に下がって、このままだとショック状態で心臓が止まってしまう。セレスティアは心臓を温める光を絶やさないで! イリスは脳への血流を守るために、冷たい霧の膜で頭部を保護して! 私はこの『龍の血の雫』を使って、無理やり細胞を叩き起こすわ!」
フィリーネは小さな青い瓶の栓を歯で引き抜き、黄金色の液体をリィンの唇の間から少しずつ流し込んだ。それと同時に、傷口に特製の止血剤を塗り込んでいく。聖女二人の祈るような光と、フィリーネの冷静な医療処置。三人の連携が、リィンの青白かった頬に、奇跡のようにわずかな赤みを取り戻させていく。
『――防衛レベルを最終段階、レベル5へ移行。……侵入者の「完全なる消去」を再開します』
施設の無機質な声が響くと同時に、広場の中心に鎮座していた四本足の魔導兵器が、これまでとは比較にならないほどの駆動音を立てて立ち上がった。金属の脚が床を深く削り取り、巨大な身体からは、周囲の空気を歪ませるほどの熱風が吹き出す。背中のハッチが勢いよく跳ね上がり、中から無数の小さな鉄の弾丸が、逃げ場のない広場全体へと、暴風のような勢いで降り注いだ。
「逃がさないよ! 影の壁、最大展開!」
カシムが床に両手をつき、全身の魔力を限界まで絞り出した。十人を囲むようにして、ドーム状の巨大な影の防壁が立ち上がる。
ガガガッ、ガンガンッ! と、重い鉄の雨が影を削り取る高い音が、閉鎖された広場に反響する。
「……くっ、ゼノリス! 影が、どんどん薄くなっていく! 奴の攻撃、弾丸一つ一つに、こちらの魔力を分解して食らい尽くす回路が仕込まれてやがる!」
カシムの額から、大粒の汗が床に滴り落ち、彼の呼吸は次第に荒くなっていく。
「ルカス、奴の熱源を特定したぞ! 左右の関節にある冷却ファンが回る、わずかコンマ二秒。その瞬間にだけ、中心の制御回路が露出する! そこを叩くしかない!」
ガイルが、右目の解析パネルを指先が血に滲むほどの速さで叩き、得られたデータをルカスの装置へと次々に転送する。
「……了解だ、ガイル! 地下の魔石、コアに直接接続! 装置が焼き切れて爆発しても、文句は言うなよ!」
ルカスが、自身の震える手で装置のレバーを最大まで力任せに押し込んだ。装置の先から、青白い高圧の電撃が幾筋も走り、魔導兵器の強固な装甲を焼き焦がしながら、その巨大な金属の身体を一瞬だけ強引に硬直させた。
その時だった。ゼノリスの右手の刻印が、これまでにないほど強く、白銀の光を放ち始めた。その光は、まるで意志を持っているかのように、祭壇の上に置かれた「風読みの衣」へと、目に見えない光の糸で繋がっていく。
「……羽衣が、震えてる……?」
ナディアが、光の矢を番えたまま目を見開いた。三千年の間、帝国の暗闇に閉じ込められ、ただの「略奪品」として無残に研究されていた銀色の羽衣が、ゼノリスの銀色の魔力に呼応するようにして、淡いエメラルド色の風を纏い始めたのだ。
「リィンの先祖が、これを帝国に差し出したのは……誰かを絶望させるためじゃない! 自分の民を、愛する者の命を救うためだったはずだ! なら……今こそ、その想いを、彼女を救うための力に変えてくれ!」
ゼノリスが石床を強く踏みしめ、氷の上を滑るような速度で祭壇へと手を伸ばした。 背後から魔導兵器が、真っ赤に熱を帯びた「鉄の腕」を振り下ろすが、テオが自身の身を投げ出すようにしてゼノリスの前に飛び込み、その一撃を自らの盾で受け止めた。
「リーダー! 行けぇ!! 俺の盾は、仲間を助けるためにあるんだ!」
衝撃でテオの腕の骨がきしむ鈍い音がしたが、彼は歯を食いしばり、一歩も引かなかった。
ゼノリスの手が、ついに銀色の羽衣に触れた。その瞬間、不気味で無機質な遺跡の中に、草原を駆け抜けるような心地よい「本当の風の音」が吹き抜けた。
「……風が……歌ってる……?」
意識を失っていたリィンの唇が、微かに、しかし確かに動いた。羽衣はゼノリスの手を離れると、まるで意志を持つ生き物のように宙を舞い、傷ついたリィンの身体を優しく包み込んだ。銀色の糸が彼女の肌に触れた瞬間、聖女二人の光とフィリーネの薬が何十倍にも強まり、彼女の脇腹にあった深い傷口が、一瞬にして、跡形もなく消え去っていった。それどころか、失われたはずの彼女の魔力が、羽衣を通じて急速に満たされていく。
「リィン……!」
ゼノリスが叫ぶ。ゆっくりと目を開けたリィンの瞳には、もはや過去の迷いも、血筋への呪いもなかった。彼女は羽衣を纏ったまま、自分の傍らに落ちていた「小箱」を、その細い手で静かに手に取った。箱の中から、三千年前のあの日からずっと折れたままだった、あの刃の破片が宙に浮き上がる。
「……お父様、お母様。私に、一歩踏み出す勇気を貸してください」
リィンが立ち上がると同時に、折れた刃が、羽衣から溢れ出した風の魔力を一気に吸い込み、透明な「風の刀身」を作り出した。それは、三千年の屈辱と悲しみを乗り越え、シルフィード一族の誇りが、真の姿を取り戻した瞬間だった。
「ゼノリス、行きましょう! 三千年前の絶望を、私たちの手で、今度こそ終わらせるために!」
「ああ! 行こう、リィン! 僕たちの未来を切り拓くんだ!」
二人が同時に石床を強く踏みしめた。一方は銀色の閃光、一方はエメラルド色の突風。魔導兵器が必死に赤い熱線を放ち、周囲の金属壁をドロドロに溶かしながら暴れるが、覚醒した二人のスピードにはもはや追いつけない。
「――銀色の残響!!」
「――シルフィード・バースト!!」
ゼノリスの剣と、リィンの風の刃。二つの力が一つに重なり、魔導兵器の中央にある、あの不気味に赤く光る核へと真っ向から突き刺さった。
バキィィィィィィィィィン!! という、世界そのものが割れるような凄まじい衝撃音が広場に響き、兵器の巨大な金属の身体が、内側から弾けるようにしてバラバラに砕け散った。
広場に再び、静寂が訪れる。壊れた機械から上がる小さな火花と、僅かな煙の匂いだけが、暗い遺跡を赤く照らしていた。
「……やったのか?」
ルカスが、煤と機械油で汚れた顔を上げ、震える声で呟いた。
リィンは、自分の身体を包む羽衣の温もりと、手に握った風の刃をじっと見つめていた。その瞳からは、一筋の涙がこぼれ落ち、冷たい金属の床に小さく弾けた。それは悲しみの涙ではない。三千年の時を経て、ようやく「自分自身の誇り」を取り戻したことへの、安堵の涙だった。
静寂が、広場を厚く、重く支配していた。つい先ほどまで死を振りまく凶器であった魔導兵器は、今は無残に引き裂かれた鉄の死骸となり、時折、パチパチと神経が焼けるような乾いた音を立てて火花を散らしている。広場に漂うのは、鼻を突く焦げた機械油の匂いと、熱せられた金属が急速に冷えていく際の「キン……」という高い金属音。しかし、その不快な匂いを押し流すように、リィンの纏う銀色の羽衣からは、どこか懐かしい、雨上がりの草原を駆け抜けるような清々(すがすが)しい風が絶え間なく溢れ出していた。
「……終わったんだな。本当に」
ガイルが、震える指先で酷使した右目の熱を鎮めるように目元を深く押さえながら、力なくその場に腰を下ろした。彼の解析用の魔導端末は、過負荷で白煙を上げているが、その瞳にはやり遂げた者だけが持つ、鋭くも穏やかな光が宿っていた。
「みんな、動かないで! 怪我の再確認をするわよ!」
フィリーネの声が、静まり返った広場に響く。彼女はまだ、自分自身の勝利に浸る余裕などない様子で、使い込まれた薬箱を抱えて仲間の間を走り回った。
「テオ、その腕の痺れを見せて! カシム、魔力の枯渇で意識を飛ばさないで。セレスティア、イリス、リィンの容態の最終確認を……!」
彼女のテキパキとした指示が、極限まで張り詰めていた十人の心を、少しずつ現実に引き戻していく。フィリーネがテオの腕に冷たい湿布を貼り、カシムに強壮剤の小瓶を差し出すその仕草の一つ一つが、生きてこの場にいることの実感を彼らに与えていた。
「……見て。兵器の残骸の向こうに、何かあるわ」
イリスが、リィンの肩を支えながら、広場の最奥を指差した。そこには、これまで見てきた無機質な金属装置とは明らかに異なる、不思議な「光の円柱」が床からせり出していた。それは青白い光を放ちながら、まるで深い眠りから覚めた生き物のように、ゆっくりと、かつ力強く明滅を繰り返している。
十人は、吸い寄せられるようにその光の柱へと歩み寄った。リィンが、羽衣を揺らしながらその前に立つ。彼女が手に持った「風の刃」が、円柱の光と共鳴するように激しく輝きを増していく。
『――全防衛システムの沈黙を確認。……最終管理権限が、正当なる血脈へと移行しました。……これより、最終記録の開示を開始します』
頭上の空間に、古い映写機が空気を揺らすような、半透明の光の映像が浮かび上がった。 そこに映し出されたのは、壁画に描かれていたあの男――リィンの先祖、タクミ・シルフィードの姿だった。彼は帝国の冷たい石壁に囲まれた部屋で、たった一人、使い古された羽ペンを走らせていた。映像の中の彼は、私たちが知る「裏切り者」としての卑屈な表情など微んも浮かべていなかった。その瞳は、三千年の時を超え、今ここに立つリィンたちを真っ直ぐに見据えているかのようだった。
『……もし、私の血を引く者が、この迷宮の嘘を自らの力で打ち破り、ここに辿り着いたのなら。……どうか、聞いてほしい』
映像の中のタクミが、静かに、だが重みのある声で語り始める。
『帝国は、私たちの「記憶」を奪おうとしている。……宝を奪い、技術を解体し、私を「命が惜しくて国を売った卑怯者」として公式に記録することで、東方の民から自尊心を根こそぎ奪い、二度と立ち上がる意志を持たせないように仕向けているのだ。……だが、彼らは致命的な計算違いをしている』
タクミは、手元にある銀色の羽衣を愛おしそうに撫でた。
『この「風読みの衣」には、私がある仕掛けを施した。……持ち主が絶望し、帝国の嘘に屈している間は、これはただの美しい布に過ぎない。……だが、いつか志を共にする仲間と出会い、自分の足で歴史の闇を暴こうとする勇気を持った時、この衣は、私が封印した「東方の真実の記憶」を解放するだろう』
ゼノリスは、隣で震えるリィンの肩にそっと手を置いた。映像の中のタクミは、最後に、どこか晴れやかな笑みを浮かべた。
『……我が愛しき子孫よ。君が今、そこに仲間と共に立っているのなら、私の三千年に及ぶ孤独な戦いは、ようやく報われる。……帝国が奪ったのは、書き換えられた紙の上の記録に過ぎない。……君たちの心にある「誰かを守りたいという誇り」までは、彼らは決して奪えなかったのだから』
光の映像が、夜明けの霧が晴れるようにゆっくりと消えていく。それと同時に、広場を覆っていたあの重苦しい「呪い」のような圧迫感が消え去り、壁に刻まれていた「裏切り」の言葉が、浄化の光に焼かれるようにしてボロボロと崩れ落ち、塵となって消えていった。
「……おじい様……!」
リィンが、その場に膝をついて、顔を覆った。彼女の脳裏に、奪われていた記憶……幼い頃、両親が寝物語に聞かせてくれた、あの「風の歌」の本当の旋律が、濁流のように流れ込んできた。それは、自分の一族が決して「卑怯な裏切り者」ではなく、誰よりも深く民を愛し、三千年後の子孫が再び羽ばたける日を信じて、あえて泥を被った英雄であったという、温かく、力強い記憶だった。
「……よかった。本当に、よかったわね、リィンさん」
セレスティアが、リィンの背中を優しくさすりながら、自らも安堵の涙を零した。フィリーネも、薬箱を抱え直しながら、何度も大きく頷いている。
「……三千年も、この冷たい場所でずっと待っていたのね。あなたの先祖も、この羽衣も。……そして、それを迎えに来るあなたを」
「……さあ、行こう。ここにはもう、君たちを縛り付けるものは何もない」
ゼノリスが、跪くリィンに向かって、右手を力強く差し出した。
リィンはその手を取り、ゆっくりと、だが確実に自分の足で立ち上がった。彼女の瞳には、もはや一欠片の迷いもなかった。そこにあるのは、自らのルーツを誇りとして受け入れた、一人の気高き王女のような光だった。
十人が遺跡の外へと続く、長い長いらせん階段を上り始めると、背後で「アイアン・ラビリンス」の巨大な門が、その役目を終えたことを告げるように、重厚な音を立てて再び封印されていくのが聞こえた。
外に出た瞬間、十人は同時に目を細めた。あれほど深く、五感を狂わせていた「霧の回廊」の霧が、嘘のように跡形もなく晴れ渡っていたのだ。空には、夜明け前の澄み切った紺碧の色が広がり、東の地平線からは、金色の陽光がゆっくりと、だが力強く顔を覗かせている。
「……見て。私たち、いつの間にかこんなところまで来ていたんだね」
ナディアが、新しく軽快に動き出した黄金の羅針盤を胸に抱き、遠くにたなびく険しい山脈を指差した。霧が晴れたことで、世界は一気にその全貌を露わにしていた。そこには、教科書で習っただけの「管理された八ヵ国」の姿はなく、まだ誰も足を踏み入れていない、荒々しくも美しい、本当の大地が広がっていた。
「……帝国が三千年もかけて隠し通したかったのは、この『自由な景色』だったのかもしれないな」
ガイルが、解析魔力の余韻で微かに疼く右目を細め、その目元をそっと指先でなぞりながら、遠くを見つめて呟いた。
「世界は本当は、こんなに広くて、こんなに眩しいんだ。……僕たちが教わってきた歴史の外側には、まだまだ取り戻すべき『本当のこと』が眠っているに違いない」
ゼノリスは、隣に立つリィンの横顔を見た。朝日を浴びた彼女の銀色の羽衣は、まるで星屑を散りばめたように輝き、その髪は新しい風に遊ばれていた。
「……リィン、体調はどうだ?」
「ええ、不思議なくらい体が軽いわ。……おじい様たちが、命を懸けて守り抜いたこの風が、私を支えてくれているのを感じるの」
リィンは、これまでにないほど清々(すがすが)しい表情で、ゼノリスに向き直った。 「ゼノリス。……私、もう自分を恥じたりしない。……学園に戻って、私や家族を『裏切り者』と指差した人たちに、堂々と教えてあげるわ。……私たちは、三千年前からずっと、希望を繋いできたんだって」
「ああ。……僕たちの旅は、まだ始まったばかりだけど……この十人なら、どんなに厚い霧だって、どんなに冷たい鉄の扉だって、必ず打ち破っていける」
昇りゆく朝陽が、十人の影を長く、強く大地に描き出す。霧の回廊を抜けたその先には、未知なる冒険と、彼らを待ち受ける過酷な運命が控えている。だが、奪われた記憶を取り戻し、絆を深めた彼らの一歩一歩は、三千年の停滞した歴史を、今まさに新しく塗り替えようとしていた。




