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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第2巻 銀の残響と鉄の枷

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第11章:新しき季節、鉄の枷

 エーテルガード学園を包んでいた冬の真っ白な沈黙が、雪解け水の囁きと共に溶け去り、世界は再び色鮮やかな春の産声を上げた。学園都市を彩る街路樹は、生命の熱を帯びた瑞々しい若葉を湛え、かつて黄金の麦畑で見届けたあの命の躍動をなぞるように、至る所で色とりどりの花々が咲き乱れている。だが、その春の柔らかな陽射しさえも、白亜の巨塔を覆う冷徹な魔力の防壁に触れれば、どこか硬質な「鉄の残響エコー」を帯びて屈折するように感じられた。それは、春を寿ぐ(ことほぐ)光というよりは、檻の中を照らす冷たい監視の目のようでもあった。

 ゼノリスは、旧時計塔の最上階――自分たち「鉛の騎士団」の城である屋根裏部屋の窓辺で、早朝のひんやりとした空気に身を晒していた。12歳になった彼の身体は、この1年の歳月で驚くほどの変化を遂げている。かつて幼さの残っていた輪郭は、日々繰り返される父ロラン直伝の剣術修行と、ガンド先生による過酷な魔力演習を経て、しなやかで力強い戦士のそれへと変貌しつつあった。紺青の制服の肩幅は一段と広くなり、背も伸びた。その立ち姿には、かつて家族を背負って原生林を彷徨った頃の悲壮感ではなく、自らの足で運命を切り拓こうとする若き指揮官の静かな威厳が備わり始めていた。

 右手のひらには、清潔な白い包帯越しにもはっきりと分かるほどの、重厚な熱が宿っている。かつて「勇者」と「魔王」という相反する二つの力が暴走した際の、赤黒く爛れた火傷の痕。その中心に刻まれた「銀色の星」の刻印は、春の陽光を吸い込むたびに、まるで新しい命を得たかのように、ゼノリスの心臓の鼓動と呼応して静かに、そして重厚に拍動していた。

「……兄さま。またそんな、難しい顔をして窓の外を見てる」

 背後から響いた、鈴を転がすような透明な声。ゼノリスの頬が、無意識のうちに和らいだ。  振り返ると、そこには9歳になったフィリーネが立っていた。彼女の銀色の髪は、この1年で腰まで届くほどに伸び、朝の光を受けて目も眩むような白銀の輝きを放っている。その透明な青い瞳は、以前よりも深みを増し、ゼノリスという唯一無二の光だけを網膜に焼き付けようとする、熱を帯びた独占欲が微かに揺らめいていた。彼女はもう、ただ守られるだけの赤ん坊ではない。兄の背中を支え、時にその影に寄り添う、美しくも鋭い「星のステラ・シード」へと成長を遂げていた。

「おはよう、フィリー。……少し、風が心地よくてね。2年生としての初日。なんだか、以前の村を出た朝のような、不思議な予感がするんだ」

「予感……? 大丈夫よ、兄さま。どんな悪い予感が来たって、フィリーが全部、この時計塔ごと黄金の茨で閉じ込めて守ってあげるんだから。誰にも、指一本触れさせないわ」

 フィリーネは当然のようにゼノリスの至近距離まで詰め寄ると、その指先で、ゼノリスが巻こうとしていた新しい包帯をそっと奪い取った。露になった銀の刻印を、彼女は愛おしそうに、そして慈しむように見つめる。彼女の指先が触れた瞬間、ゼノリスの内側で荒ぶっていた二重の脈動が、凪いだ湖面のように鎮まっていく。彼女の力はゼノリスを制御する「安全装置」であり、同時に二人を分かつことのできない「運命の絆」でもあった。

「……フィリー。君も、もうすぐ新入生の歓迎式だろう? 僕の着替えより、自分の準備をしないといけない。1年生たちに、この学園の本当の主が誰か、最初に見せつけてやらないと」

「いいの。フィリーにとっての地位なんて、兄さまの隣にいられる権利と比べたら、道端の石っころと同じ価値しかないわ。……ほら、じっとしてて。一番きれいに巻いてあげる。これはフィリーの魔法なんだから」

 フィリーネは少しだけ唇を尖らせながらも、慣れた手つきで新しい包帯を巻き直していく。その仕草は、もはや妹というよりは、大切な宝物を磨き上げる職人のようでもあった。彼女が巻く包帯は、まるで彼女の抱擁そのものであるかのように、ゼノリスの手を優しく、そして強く締め付けた。

 階下の広間からは、仲間たちの賑やかな生活の音が響いてきた。

「おい、ルカス! その新しい『魔力集積器』を、俺のベッドの下に隠しただろう! おかげで夜中に時計の秒針が全部逆回転して、解析の計算がめちゃくちゃになったぞ!」

 ガイルの怒鳴り声が聞こえる。彼は12歳になり、その茶髪はより無造作に跳ね、瞳に宿る「解析アナライズ」の精度は一段と増していた。物事の本質を見抜く力は、もはや学園の教師陣でさえも一目置かざるを得ないレベルに達しているが、その短気な性格だけは以前と変わらない。

「……それは、君の寝相が悪すぎて魔力の波形が乱れるのを防ぐための処置だよ、ガイル。2年生になったのだから、もう少し自分の情緒を物理的に制御する術を身につけてほしいね。君の怒鳴り声は、精密機械のキャリブレーションに悪影響を及ぼすんだ」

 ルカスの落ち着いた、しかし皮肉を多分に含んだ声が続く。彼は13歳となり、背が一段と伸び、手にする機械もより複雑で洗練されたものになっていた。彼の指先が奏でる「機械の鼓動」は、いまや時計塔全体の防衛機構と密かにリンクし始めていた。

「二人とも、朝から元気ねえ。……はい、テオがいれたての薬草茶を持ってきてくれたわよ。冷めないうちに飲んじゃいなさい。今日は特別なスパイスが入ってるんだから」

 ナディアの明るい声と、彼女が愛用する黄金の羅針盤がカチャリと机に置かれる音がする。彼女の小麦色の肌は、冬の間もその瑞々しさを失わず、星を追う者の強い意志を瞳に宿していた。

 10人の「鉛の騎士団プルンブム・ナイツ」。彼らは昨年の激闘を経て、ただの落伍者の集まりから、固い絆で結ばれた一つの生命体へと進化していた。自分たちの「家」であるこの時計塔を掃除し、修理し、同じ釜の飯を食う。その当たり前の日常が、彼らにとっては、八ヵ国連合のどんな軍勢よりも強力な、目に見えない防壁となっていた。

 だが、ゼノリスが窓の外へ再び視線を戻したとき、学園の正門を抜けてくる一列の漆黒の馬車が目に入った。その馬車の側面には、八ヵ国連合の威光を象徴する、あの忌まわしい「八星の紋章」が刻まれている。馬車から放たれる魔力の残滓ざんしは、春の陽気を一瞬で凍りつかせるほどに冷たく、そして徹底的に計算された合理主義の匂いがした。

「……来たんだね」

 ゼノリスが低く呟いた。エレアノール学園長が、昨夜の密談で漏らしていた言葉が蘇る。  『ゼノリス、連合は暴力で失敗したヴァルガスの後任として、より厄介な毒を送り込んできました。……それは、法と数字という名のかせめる者です。武力ではない、逃げ場のない鉄の枷を……』

 ゼノリスは、自分の右手を強く握りしめた。時計塔を包む春の風が、不意に、鉄の錆びたような冷たく重い匂いを含んだ気がした。2年生。それは、ただの進級ではない。世界が自分たちを「利用価値のある資産」か「排除すべき不良債権」かを見極める、冷酷な選別の始まりだった。


 中央講堂は、新入生を迎えるための魔導灯によって、宝石箱をひっくり返したような輝きに包まれていた。白大理石の柱は磨き上げられ、天上には王国の繁栄を祝う旗が並んでいる。  だが、そこに集まった在校生たちの間には、例年のような華やいだ空気は微塵もなかった。  壇上に並ぶ教師陣の顔は一様に強張っており、学園の主であるエレアノール学園長の表情には、深い苦渋の色が滲んでいた。彼女の長い銀髪は、降り注ぐ光の中でもどこか色褪せて見え、その指先は杖を痛いほどに強く握りしめている。

 彼女の隣に立つ、一人の男。それが、講堂を満たす不気味な静寂の正体だった。

 男は、ギルダー商業公国の特産である最高級の絹を用いた、汚れ一つない漆黒の燕尾服を纏っていた。髪は一分の乱れもなく油で撫でつけられ、その瞳は、生きている人間のそれというよりは、帳簿の数字を精査する冷徹な天秤のように、何の感情も映し出していなかった。彼の周囲だけが、まるで時間が凍りついたかのような、無機質な静謐せいひつに包まれている。

 マルクス・ギルダー。八ヵ国連合から「運営健全化」の名目で派遣された、新しい副学園長。

 マルクスが一歩前へ出ると、講堂の空気が物理的な質量を持って重くなった。それは、昨年のオーグ皇子が見せたような圧倒的な武力の圧力ではない。この男の背後に控える、八ヵ国連合という巨大な経済力と、絶対的な「規則」の重みがもたらす、逃げ場のない「鉄の枷」の重圧だった。

「……皆さん、おはよう。私は効率を愛する人間だ。……無駄な前置きは省かせてもらおう。エーテルガード学園は歴史ある学び舎だが、同時に、八ヵ国連合が莫大な投資を行っている『資産』でもある。……資産である以上、そこには投資に見合った成果、すなわち『効率的な英雄の育成』が求められるのは当然のことだ」

 マルクスの声は、カミソリで薄い紙を切り裂くような、不快な高音を含んでいた。彼は、講堂の最果て、日当たりの悪い席に座るゼノリスたち鉛クラスを、さも不浄な汚れを見つけたかのような、蔑んだ視線で射抜いた。その視線は、彼らを人間としてではなく、帳簿上の「赤字」として見ている。

「……しかし、昨年度の報告書を精査したところ、この学園にはあまりにも多くの『不良債権』が蓄積されていることが判明した。教育という名の下に、何の成果も出さず、ただ貴重なリソースを浪費している一部のクラスについては、早急な『適正化』が必要であると連合は判断した」

「不良債権……? 僕たちのことを言っているのか」

ガイルが隣で、今にも立ち上がりそうなのを、ゼノリスが制した。マルクスの放つ言葉には、相手を怒らせることで規則違反を誘発させ、即座に排除するための計算された冷酷さが張り付いている。ここで動けば、彼の思う壺だ。

「今日より、学園運営規則を大幅に刷新する。第一に、全クラスに対する予算配分を『成果連動型』に切り替える。……これにより、昨年度の公式試験において、ゴールドクラスに一度も正規の勝利(※非公式な演習等は除外する)を収めていない鉛クラスへの運営予算は、本日より『全額凍結』とする」

 講堂に、悲鳴に近いざわめきが広がった。

「凍結だって!? 馬鹿な……。時計塔の維持費はどうするんだ! ルカスの精密機材や、テオの貴重な薬草、これから来る季節への備え……そのすべてを、独断で奪うというのか!」

 ゼノリスは拳を握りしめた。予算凍結とは、単に生活を苦しくするという意味ではない。  魔法の鍛錬に必要な魔石の供給、古文書の研究に必要な文献の閲覧権、さらには施設の老朽化に伴う修繕といった、彼らが成長するために必要な「教育の権利」そのものを剥奪することを意味していた。

「……当然、最低限の食料供給や衛生管理といった生存環境は保障する。私たちは野蛮人ではない。……だが、第二に。学園内での『行動制限』を設ける。身分にふさわしくない場所、すなわちゴールド、シルバーの各施設への立ち入りは、教育上の秩序を乱す要因となる。鉛クラスの生徒は、授業時間以外、時計塔とその周辺エリアから許可なく出ることを禁止する」

 それは、実質的な学園内監禁の宣告だった。自由を奪い、成長の糧を絶ち、その上で「最低限の生存」という名の飼い殺しだけを許し、自尊心をじわじわと削り取っていく。それが、マルクスという男が持ち込んだ、冷たく硬い「鉄の枷」の正体だった。

 エレアノール学園長は、マルクスの言葉を遮ろうと何度も口を開きかけたが、その背後に控える連合の監視員たちが、威圧的な沈黙をもって彼女の進言を制した。八ヵ国連合の重圧は、学園長という地位さえも、一人の無力な女性へと変えようとしていた。彼女は、ゼノリスと、そしてその隣で兄の服の裾を強く握りしめるフィリーネと、一瞬だけ視線を交わした。  その瞳には、自分の力不足を心から詫びるような深い悲しみと、そして、教え子たちへの揺るぎない信頼が宿っていた。

「……ゼノリス。フィリーネ。そして、鉛のクラスの皆さん」

エレアノールが、絞り出すような、しかし慈愛に満ちた声で呼びかけた。

「学園は、皆さんの成長を信じています。……たとえ環境が変わろうとも、自らの中にある『種火』だけは、決して消さないように。……今は、自分の足元をしっかりと固め、来るべき時に備えるのです。私は、あなたたちを決して見捨てません」

 マルクスは満足げに、冷たい笑みを浮かべて壇上を去った。講堂を出たゼノリスたちを待っていたのは、他のクラスからも遠巻きにされる、冷たい孤立の風だった。予算は絶たれ、自由は奪われた。「鉄の枷」は、2年生になった彼らの首元を、音もなく、冷酷に締め付け始めていたのである。


 中央講堂での「鉄の枷」の宣告から一週間。春の陽光は、皮肉なほど穏やかに時計塔の曇った窓を叩いていたが、そこに住まう十人の心象風景は、雪に閉ざされた冬のそれよりも冷たく、凍てついた停滞に支配されていた。

 予算全額凍結という非情な措置は、目に見える形で、自分たちの「城」である時計塔の呼吸を止めていった。最初に沈黙したのは、生活の要であった魔導給湯器だった。かつてルカスが、古びた魔導回路を繋ぎ合わせ、テオの薬草の香りを乗せて十人の身体を温めてくれたあの装置は、動力源となる魔石の配給が断たれたことで、今朝、最後のため息を吐くように機能を停止した。

「……ちっ、この程度の不具合、予備の魔力触媒さえあれば五分で直せるんだ。それを、あのギルダーの犬ども……監査官の連中は『教育に不要な贅沢品だ』と吐き捨てやがった。あいつら、俺たちのことを家畜か何かだと思ってやがる」

 ガイルが、冷え切った配管を拳で叩き、やり場のない苛立ちを露わにする。十二歳になった彼の指先は、昨年よりも長く、器用に成長していたが、その手が触れるべき「未来の解析」へのアクセスは、マルクスが持ち込んだ分厚い規則集によって完全に封鎖されていた。解析アナライズの瞳が捉えるのは、ただ朽ちていく建物の衰退と、仲間の精神に蓄積していく疲労の数値だけだった。

「……ガイル、金属を叩いても魔力は戻らない。無駄な熱量の消費だ。……それよりも問題なのは、図書室の高度閲覧権限の消失だよ。僕たちが研究していた『古代帝国の重力動力学』の続きを借りようとしたら、学生証がエラーを吐いた。……知恵を奪う。それが、マルクスという男の本質的な狙いなんだ」

 ルカスが、レンズが曇り始めた眼鏡を押し上げながら、静かな、しかし氷のように冷徹な怒りを声に乗せる。彼は行動制限によって「鉛エリア」に封じ込められた自分たちの状況を、まるで観察ポッドに入れられた実験動物のように感じていた。彼にとって、知的好奇心を奪われることは、呼吸を止められるに等しい苦痛だった。

 食堂の長椅子では、セレスティアとイリスが、以前なら朝の光の中で開いていたはずの聖典を閉じ、肩を寄せ合っていた。

「……セレスティア、図書室に行けないだけじゃないわ。礼拝堂への立ち入りさえも、私たちは『不浄』として禁じられた。……祈りの場所さえ奪うのが、八ヵ国連合のやり方なのね」

イリスが、灰色の修道服の裾を強く握りしめる。

「ええ……。でもイリス、場所がなくても、私たちはここで祈ることができる。……けれど、このままでは、皆の心が乾いてしまうのが怖いの」

セレスティアの青い瞳は、絶望ではなく、仲間たちの心が「鉄の枷」によって摩耗していくことへの深い憂慮に揺れていた。

 行動制限という枷は、自由奔放な魂を持つナディアをも沈黙させていた。

「天体観測室のレンズを磨きたかったのに……。あそこの守衛さん、私たちが近づくだけで槍を向けてくるのよ。星を見るのだって、鉛には贅沢だってこと?」

ナディアは愛用の羅針盤をまさぐりながら、窓の外の青空を恨めしげに見つめていた。彼女にとって、海や空への視界を奪われることは、翼を折られた鳥と同じだった。

 その隣で、テオは小さなプランターに植えた薬草を、必死に守ろうとしていた。

「……温室の肥料も、温度調節の魔石も、全部もらえなくなった。……このままじゃ、怪我をした時に塗る軟膏も作れなくなっちゃう」

動物の耳を垂らし、不安げにプランターの土を撫でるテオの姿は、騎士団全員の「心細さ」を代弁しているようだった。

「……騒ぐな。……やいばは、静寂の中で研ぐもの」

リィンが、部屋の隅で淡々と剣を磨く音だけが、規則正しく響いていた。彼女の黒髪は、春の光を吸い込んで鋭い光沢を放っている。彼女は予算凍結で良質な砥石といしが手に入らなくなると、中庭の転がっていた石を拾い集め、自らの魔力を流し込んで即席の研ぎ石を作っていた。

「……ゼノリス。……私たちは、まだ負けていない」

リィンの言葉は短かったが、その瞳には、かつて雪山を一人で生き抜いた孤高の剣士としての、不屈の闘志が宿っていた。

「……ああ、分かっているよ、リィン。皆、すまない。僕が、もっと上手く立ち回れていれば……」

ゼノリスが声を絞り出すと、影の中からカシムが音もなく姿を現した。

「……自分を責めるのは時間の無駄だ、ゼノリス。……俺が影に潜んで調べたが、時計塔の周りには二十四時間、八ヵ国連合の監視員が張り付いている。……蟻の這い出る隙間もない。……物理的な脱出は、今の俺たちには不可能だ」

カシムの言葉は冷酷な事実だった。自由を奪い、成長の糧を絶ち、その上で最低限の「生存」という名の飼い殺しだけを許す。それがマルクスという男が持ち込んだ、冷たく硬い「鉄の枷」の真の狙いだった。

 ゼノリスは、自分の右手の刻印を強く握りしめた。

「……僕たちが『鉛』であることは、誰にも文句は言わせない。けれど、この枷に甘んじて、ただ沈んでいくのを待つほど、僕たちはおとなしい子供じゃないはずだ」

 その時だった。沈黙し、埃が舞う時計塔の窓枠に、一羽の銀色の小鳥が舞い降りた。それは、実体を持たない魔力による幻影。誰にも気づかれぬよう、学園の防御網の隙間を縫って飛んできた「密使」であった。

 小鳥はゼノリスの目の前でふわりと羽を広げ、その小さな嘴から、一枚の折り畳まれた極薄の羊皮紙を落とした。ゼノリスがそれを拾い上げた瞬間、小鳥は光の粒となって、春の風の中に溶けていった。羊皮紙には、誰の署名もなかった。だが、その端正で、どこか揺るぎない芯の通った文字の筆跡を、ゼノリスが忘れるはずはなかった。

 『ゼノリス、フィリーネ。不自由な思いをさせていることを、一人の師として、心から歯がゆく思います。……八ヵ国連合の重圧は、私から公式な助力を奪いましたが、この学園が積み重ねてきた三千年の歴史までは、彼らの数字で測ることはできません』

 ゼノリスの鼓動が、一際大きく跳ねた。それは、連合の監視に晒され、強く言い返せない自分を恥じ、それでも教え子を愛し抜こうとするエレアノール学園長からの、命がけの「助言」だった。

『旧校舎の裏手、今は枯れ果てた「忘却の古井戸」を覗きなさい。……そこは、かつて帝国の遺産を管理するために作られた地下迷宮への、唯一の入り口です。連合の監視員たちは、古い伝承を迷信だと切り捨て、その場所を調査対象から外しました。……今のあなたたちに必要な「資源」と、枷を断ち切るための「知恵」は、その暗闇の底に眠っています。……これを持っていきなさい。あなたたちの歩みを助けるはずです』

 羊皮紙の裏には、小さな銀色の鍵と、見たこともない紋章が描かれた魔導メダルが張り付いていた。そして、その紙はゼノリスが読み終えた瞬間に、青い炎となって静かに燃え尽きた。

「……学園長」

ゼノリスは、燃えカスが舞う宙を見つめ、低く呟いた。彼女は、八ヵ国連合の傀儡かいらいになることを良しとしていなかった。表舞台ではマルクスの暴走を許しているように見せかけながら、影では教え子たちが自らの手で運命を掴み取れるよう、禁断の知識とアイテムを授けてくれたのだ。

 ゼノリスはすぐに、広間に集まっていた九人の仲間たちを呼び寄せた。彼の表情に宿った、迷いのない意志の灯火を見て、ガイルも、ルカスも、そして物静かなリィンも、本能的に理解した。反撃の準備が整ったことを。

「皆、聞いてくれ。……学園長は、僕たちを見捨てていなかった。……これから、僕たちは学園のルールという名の檻を、地下から突き破る」

 ゼノリスが、学園長から教えられた「古井戸」と地下迷宮の存在、そして託された鍵とメダルのことを伝えると、それまで沈んでいた空気は一変した。

「古井戸……地下迷宮か。解析のしがいがあるじゃねえか。……よし、ルカス。予備のバッテリーをかき集めろ。地下での灯りは、お前の機械が頼りだ」

ガイルが、不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。

「……言われるまでもない。……暗闇の鼓動を聴くのは、僕の得意分野だよ。……八ヵ国連合の連中が帳簿を眺めている間に、僕たちは歴史の真実を掘り返すとしよう」

ルカスが、レンズを拭き終えた眼鏡をかけ直し、瞳を輝かせた。

「私の羅針盤なら、地下に眠る魔力の潮流を読めるわ。……ゼノリス、案内して。新しい海……ううん、新しい冒険へ!」

ナディアが羅針盤を掲げ、テオも力強く頷いた。

セレスティアとイリスは、互いの手を握り、静かに、けれど熱い決意を交わす。

 最後に、フィリーネがゼノリスの服の裾をぎゅっと握りしめた。

「……兄さま。フィリーも、一緒に行くわ。どこまでも……」

「ああ。……行こう。僕たちの本当の2年生を、ここから始めるんだ」

 時計塔を包む春の夜。鉄の枷が最も重く感じられる深夜の静寂の中、十人の影は監視の目を掻いくぐり、旧校舎の裏手に眠る「忘却の古井戸」へと、音もなく歩みを進めていった。


 学園都市エーテルガードを包む深夜の静寂は、昼間の喧騒が嘘であったかのように重く、そして冷ややかだった。春の夜風は、日中の陽だまりの余韻をすっかり奪い去り、石造りの校舎の隙間を抜けるたびに、まるで誰かのすすり泣きのような鋭い笛の音を響かせている。

 その静寂を裂くように、十の影が旧時計塔の裏口から音もなく滑り出した。彼らの足元を縛る不当な「鉄の枷」――すなわちマルクス副学園長が配置した八ヵ国連合の監視員たちは、規則正しい交代の隙を巧妙に突かれ、その視線をカシムが放った濃密な影魔法の膜によって一時的に遮断されていた。

「……急ごう。影の膜が持つのも、あと数分だ。……八ヵ国連合の連中、交代のたびに時計を合わせる几帳面さだけは一級品だからな。だが、数字を信じすぎる奴ほど、自らの視界の端に生じる『魔力の揺らぎ』には無頓着だ」

カシムが闇の中に溶け込むように囁く。十二歳になった彼の影は、昨年よりも長く、鋭く、まるで独立した意志を持つ生き物のようにゼノリスたちの足元をうごめき、八ヵ国連合の監視兵の意識を網膜の外側へと巧妙に逸らし続けていた。

 十人は、かつて誰もが不吉な場所として忌み嫌い、今は立ち枯れたいばらに覆われた旧校舎の裏手へと辿り着いた。そこは、三千年前の学園創設時から存在し、いつしか「底なしの虚無」と噂されるようになった場所――『忘却の古井戸』が、暗い口を開けて彼らを待っていた。

「……ここだ。解析アナライズするまでもなく、凄まじい魔力の淀みだぜ。地上の結界が、ここだけ物理的に歪んでやがる。学園長が言ってた通り、八ヵ国連合の連中はこれを単なる『計測エラー』だと思い込んで放置したんだろうな。目に見える金貨の重さしか計算できない連中には、一生かかっても見つけられない歴史の盲点だ」

ガイルが、指先で空間の揺らぎをなぞりながら不敵に笑う。彼の瞳は闇の中でも黄金の火花を散らし、古井戸の底から這い上がってくる古代帝国の魔力の残滓ざんしを、冷静に、かつ正確に数値化していた。

 ゼノリスは、右手の白い包帯を強く握りしめた。井戸のふちに立つと、右手のひらの刻印が、地底の深淵から呼びかける鼓動と呼応するように激しく熱を帯びた。それは警告などではない。長い間離れていた故郷を思い出したかのような、切実で重厚な、魂の共鳴であった。

「僕が行こう。……フィリー、離れないで」

「分かってるわ、兄さま。フィリーの光で、八ヵ国連合の暗い檻なんて全部、苺色の朝に変えてあげる。暗闇なんて、兄さまの隣にはふさわしくないもの」

九歳になったフィリーネが、ゼノリスの左手をぎゅっと握りしめる。彼女の銀髪が闇の中で微かな燐光を放ち、冷え切った周囲に淡い安らぎと熱を広げていった。

 ゼノリスは、エレアノール学園長から密かに託された「銀の鍵」を取り出した。それは月光を浴びて、まるで生きているかのように白銀の光を脈打たせている。彼はそれを、井戸の側面にある、苔に覆われた目立たない小さな窪みへと迷わず差し込んだ。カチリ、という重厚な金属音が、深夜の静寂に響く。次の瞬間、井戸の底を塞いでいた巨大な石蓋いしぶたが、三千年の眠りを解く地鳴りのような響きと共に、ゆっくりと、しかし確実に回転し始めた。

「……開いたよ。……ルカス、灯りを頼む」

ゼノリスの合図と共に、ルカスが自作の「広域魔導投光器」を起動させた。

「……任せてくれ。予算凍結で新しい魔石は買えなかったけれど、リィンが中庭の廃材から作ってくれた研ぎ石の粉を触媒にして、レンズの出力を限界まで跳ね上げてある。……この光なら、八ヵ国連合が帳簿の裏に隠そうとした歴史の真実まで、根こそぎ照らしてみせるよ」

 放たれた強烈な白光が、井戸の内部を真っ向から暴き出した。そこには、現在の魔導建築の常識では考えられないほど精密に削り出された、螺旋状の階段が深淵へと続いていた。壁面には、帝国の栄華を象徴する星々の浮き彫りが施され、それらは三千年前の彫刻師の息遣いを感じさせるほど、鮮明に、瑞々しく残っている。

 十人は一列になり、慎重に階段を降りていった。一歩、また一歩と深淵へ潜るたび、地上の空気――あの八ヵ国連合が押し付けた「鉄の枷」の匂いがする、息苦しい束縛の空気――が遠ざかり、代わりに、古い書物のような、乾いていながらも圧倒的な歴史の重みを孕んだ香りが肺を満たしていく。

「……ねえ、イリス。聞こえる? 石が……この場所そのものが歌っているわ。聖教国の厳格な礼拝堂でさえ聴いたことのない、とても古くて、けれど透き通るような清らかな歌が」

 セレスティアが、白大理石の壁にそっと指先を触れながら、夢見るように呟いた。  「……ええ、セレスティア。これは祈りじゃないわ。もっと強いもの……かつての先人たちの意志の残響よ。三千年前、この学園を建てた人たちの、世界を正しく調律しようとした、激しいほどの願いがここに閉じ込められている」

イリスもまた、灰色の修道服の裾を翻しながら、闇の奥に眠る気配を、聖女としての鋭い感性で捉えていた。

 ナディアが、手元の黄金の羅針盤をじっと見つめ、驚きに目を見開いた。

「見て、ゼノリス! 針が……針が止まらずにぐるぐると回っているわ! ここは地磁気の外側。いいえ、魔力の潮流そのものが、この井戸の底を中心に巨大な渦を巻いているんだわ。まるで、地下に眠る別の海を航海しているみたい!」

 テオは、動物の耳をピクピクと動かし、周囲の匂いを慎重に嗅いでいた。

「……ここは、地上の枯れた匂いとは違う。……土の奥深くで、何かがずっと、温かいまま眠っている匂いがするんだ。……怖いけど、どこか懐かしい匂い」

 階段を降り切った先に広がっていたのは、想像を絶する巨大なドーム状の空間だった。  そこは、無数の魔導回路が青い血管のように壁一面を這い、その中心には、巨大な「心臓」を思わせる魔導炉が鎮座する、古代帝国の『地下動力室』であった。その壮大さは、地上の白亜の校舎さえも、この場所を隠すための単なる蓋に過ぎないと思わせるほどだった。

 だが、その圧倒的な平穏を破るように、空間の四隅から「カチ、カチ……」という不気味で硬質な歯車の噛み合う音が響き渡った。

「……警戒しろ! 解析アナライズ完了……来るぞ!」

ガイルの声が空間に響くのと同時に、暗闇の中から、青白い魔力の炎を瞳に灯した、数体の魔導人形ゴーレムが姿を現した。それは、地上のゴールドクラスが授業で扱う訓練用人形でさえ太刀打ちできないほどの、洗練された殺戮の美学と、強固な装甲を宿した帝国の防衛機構であった。

「……未登録の生体反応を感知。……侵入者……排除……」

無機質で冷徹な声がドーム内に反響し、魔導人形がその鋭い鋼の腕を、ゼノリスたちに向けて容赦なく振り上げた。

「……八ヵ国連合の枷から逃れたと思ったら、今度は本物の古代の鋼かよ。ゼノリス、どうする! 迎撃するか!」

ルカスが投光器を盾のように構え直し、リィンもまた、研ぎ澄まされた刃を無言で引き抜いた。

 ゼノリスは、もう一つの預かりもの――エレアノールから託された「魔導メダル」を強く握りしめた。メダルに刻まれた複雑な紋章は、迫り来る魔導人形の瞳と同じ、深い青色に輝き始めていた。

「……戦う必要はない。このメダルは、僕たちを『排除すべき侵入者』としてではなく、『正当な後継者』として承認するための鍵なんだ。……学園長が僕たちを信じてくれた、その証明なんだ!」

 ゼノリスが魔導メダルを高く掲げ、自らの右手の刻印から溢れ出す、剥き出しの銀色の残響をメダルへと注ぎ込んだ。瞬間、地下空間全体が、目も眩むような銀色の閃光に包まれた。

 魔導人形たちの動きが、物理的に停止した。彼らの瞳の炎は、侵入者を拒絶する赤から、沈思の青へ、そして最後にはゼノリスの星と同じ輝きを放つ「銀色」へと塗り替えられていった。

「――認証完了。マスター・ゼノリス。および、九人の正当なる随伴者。……三千年の待機フェーズを終了します。……地下動力室、および備蓄資源の管理権限を移行。……ようこそ、帝国の落とし子たちよ」

 防衛機構の声は、先ほどまでの冷酷さを完全に消し、どこか慈愛に満ちた、遠い祖先からの祝福のような響きを帯びていた。

「……管理権限の移行? ってことは、この場所は……この莫大な宝の山は、全部僕たちのものなのか?」

テオが、信じられないといった様子で、山積みにされた物資を見渡す。

「……ええ、そうみたい。見て、皆! あの棚の奥を!」

ナディアが指差した先には、現在の世界市場では金貨数万枚を積んでも手に入らないような、最高純度の魔石が、まるでただの石ころのように山を成していた。八ヵ国連合が予算凍結という名目で奪い去ったものの、何千倍、何万倍もの価値がある「真の資源」が、そこには眠っていたのである。

 ゼノリスは、安堵と共に深く息を吐き、右手の熱を確かめた。

「……学園長。……ありがとうございました。……これで、僕たちは八ヵ国連合の枷に屈することなく、自分たちの道を進める」

 不当な支配によって翼を捥がれたはずの十人が、地上で何不自由なく贅沢にふけっているゴールドクラスの連中さえも決して知り得ない、帝国の真の心臓部を手に入れた瞬間だった。地上のマルクスが、予算という名の数字の檻で彼らを締め上げている間に、ゼノリスたちは地下に「自分たちの城」を、そして「自分たちの帝国」を築き始めようとしていたのである。

 だが、そのまばゆい光の裏側で。地下迷宮のさらに深い闇が、ゼノリスの銀色の光を吸い込むようにして、不気味に、そして静かに揺らめいていた。その深淵には、学園長さえも、あるいはオリジンさえも知らない、ゼノリスの宿す「勇者」と「魔王」の力を根底から揺るがす、もう一つの「禁忌」が眠っていることを、彼らはまだ知る由もなかった。


 地下動力室を満たしていた銀色の閃光が、ゆっくりと微粒子状に霧散していく。再び訪れた静寂。そのドーム状の巨大な空間には、三千年の眠りから目覚めた古代帝国の魔導炉が発する、地鳴りのような重低音が響いていた。それは、地上のマルクスたちが押し付けた「鉄の枷」によって凍りついた時計塔の死のような沈黙とは対照的な、猛々しく、かつ荘厳な命の拍動であった。

「……信じられない。この魔石の純度……。不純物が一切混じっていない、完全な正六面体の結晶だわ。たった一つで、時計塔の全設備を一年は稼働させ続けられる。それが、まるで海辺の打ち捨てられた石ころみたいに、無造作に山積みにされているなんて」

ナディアが、棚に並んだ最高純度の魔石に、震える指先でそっと触れる。彼女の持つ黄金の羅針盤は、もはや北を指し示す本来の役割を放棄していた。あまりに濃密な、そして方向性の定まらない魔力の潮流によろこび震えるように、その針は火花を散らしながら、目視できないほどの速度で回転を繰り返していた。

「……ああ。これがあれば、八ヵ国連合が課した予算凍結なんて、滑稽な茶番劇にすらならない。……だが、問題はどうやってこれを地上に持ち出すかだ。マルクスが配置した八ヵ国連合の監視員たちは、ネズミ一匹の出入りも見逃さないように、入り口に魔力感知式のゲートを固めている。この規模の純度を持つ魔石は、その存在自体が『波紋』となって空間を揺らす。単に隠して通ることは不可能だ」

ルカスが、レンズの曇りを指先で丁寧に拭いながら、冷徹な口調で指摘した。彼の瞳の奥では、管理権限を移行した魔導人形たちの内部構造データが高速でスクロールしていたが、その思考の半分は、八ヵ国連合の監視網をいかにして無効化するかという、高度な隠蔽シミュレーションに費やされていた。

「……なら、運ぶのをやめればいいのさ。……おい、ルカス。この動力室の管理権限があれば、地下の配線を時計塔の古導管に直結できるはずだ。……違うか?」

ガイルが不敵な笑みを浮かべ、壁面を這い回る巨大な魔導回路の接合部を指差した。解析アナライズの瞳が、三千年前の複雑極まる設計図を、現在の時計塔の朽ちかけた構造へと瞬時に重ね合わせていく。

「……なるほど。地上の魔力メーターに記録されない『裏の回線』を復活させるというわけか。……ガイル、君にしては悪くない、非常に狡猾な発想だ。……やってみよう」

ルカスの指先が、古代のコンソールの上で驚異的な速さで踊り始めた。

「まず、地上の八ヵ国連合が設置した新型の魔力検知器センサーを欺く必要がある。奴らは、供給エネルギーの『総量』と『波形』の不一致を、一秒間に百回の周期で監視している。……ガイル、君は検知器の監視パルスを読み取ってくれ。僕はそのパルスとパルスの間に、地下からの魔力を逆位相ぎゃくいそうのノイズとして滑り込ませる」

「任せろ。……解析開始。……奴らのセンサーは、三秒に一度、スキャンのために魔力の出力を一瞬だけ落としている。……次のスキャンの直後、コンマ三二秒の間だけ、魔力の指向性が反転する『空白』がある。そこが僕たちの潜り込むべき、たった一つの隙間だ」

ガイルの瞳に、黄金の演算コードが激しく流れる。ルカスはそれに呼応し、古代の重厚なレバーをミリ単位の精度で操作した。

「バイパス接続、シークエンス一開始。……リィン、君が用意した研ぎ石の粉を、導管の接合部に撒いてくれ。その微細な金属粉が、魔力の漏出を物理的に歪ませ、八ヵ国連合のセンサーに『古い導管の自然摩耗』だと誤認させる触媒になる」

 低く、重い機械音と共に、古い石壁の内部を、血管を流れる鮮血のような青い光が駆け抜けた。それは地上で八ヵ国連合が監視している魔力メーターには一切反映されない、歴史の闇を走る「盗まれた血脈」の復活であった。

「接続、成功だ。……これで、時計塔は八ヵ国連合に一切悟られることなく、三千年前の心臓から無限の熱を得ることができる。……マルクスが予算帳簿の数字を削って悦に浸っている間に、僕たちの城は『完全無欠の魔導要塞』へと作り替えられるよ」

ルカスが眼鏡の奥の瞳を、勝利を確信した魔術師のように鋭く光らせた。

 ゼノリスは、そんな二人を頼もしく見つめながら、フィリーネと共にドームのさらに奥へと足を進めた。動力室の背後には、さらに細い通路が網の目のように伸びていた。それは単なる管理用通路ではなく、何か「極めて不都合な真実」を隠匿するための、意図的な迷路のようにも見えた。壁に刻まれた星の紋章は、深部へ進むほどに密度を増し、空気の重圧もまた、皮膚を突き刺すような鋭さを帯びていく。湿った石の匂いの中に、かすかに、何かが焦げたような、あるいは古びた血のような鉄臭さが混じり始めた。

「……兄さま、こっち。……何か、懐かしい匂いがする。……ううん、懐かしいけど、すごく、すごく悲しい匂い」

フィリーネが、ゼノリスの手を引いて暗い廊下を進む。彼女の「星のステラ・シード」としての直感は、この地下迷宮の最深部に沈殿している、歴史のおりを正確に捉えていた。その瞳は、暗闇の中でゼノリスと同じ銀色の輝きを増していく。

 辿り着いたのは、一つの簡素な、しかし異様な存在感を放つ石室だった。動力室のような華やかな魔導装飾はなく、ただ中心に一つの漆黒の石造りの祭壇があり、その上に一つの「黒い小箱」が置かれていた。小箱の表面には、三千年の時を経てなお、一切の腐食を寄せ付けない呪術的な封印が、幾重にも絡みつくように施されている。

「……これは……?」

ゼノリスが祭壇に指を伸ばそうとした瞬間、背後で微かな、氷がひび割れるような音がした。振り返ると、そこには無口な剣士、リィンが立ち尽くしていた。彼女の瞳は、いつもの凪いだ湖のような静寂を完全に失い、激しく、痛々しいほどに揺れていた。その視線は、祭壇の上の小箱に、まるで魂を根こそぎ吸い込まれたかのように釘付けになっていた。

 リィンは、何かに導かれるように祭壇へと歩み寄り、震える手で封印を解いた。小箱の蓋が開くのと同時に、石室内の酸素が凝固するほどの極低温の波動が噴き出した。その中に収められていたのは、一本の「折れた剣の切っ先」だった。それは漆黒の鋼で打たれ、表面には東方の古い文字で『絶・ぜつ・れい』という不吉な銘が刻まれている。

「……なぜ……ここに……。……私の故郷……シルフィード東方霊樹国の、歴史から消されたはずの、禁じられた奥義の……残骸ざんがい……」

リィンの声は、冬の枯葉が擦れるような、絶望的なかすれ方をしていた。

 その瞬間、石室の物理法則が書き換えられた。

「……ッ! 急に冷気が……! 息が、できない……!」

ゼノリスが叫ぶ間もなく、リィンの足元から床が真っ白に、幾何学的な模様を描いて凍りつき始めた。彼女の身体から溢れ出したのは、これまでの演習で見せていた「技術としての魔法」ではない。三千年前、大帝国によって略奪され、封印された故郷の怨念に呼応した、制御不能な「純粋な破壊」としての絶対零度の魔力であった。

「……返せ。……私たちの風を……私たちの誇りを……帝国に、これ以上奪わせはしない……」

リィンの瞳から光が消え、濁った影が差した。彼女の呟きは、もはや現世の誰に向けられたものでもなかった。だが、その凍てつく刃の先は、無意識のうちに「帝国の遺産の象徴」であるゼノリスへと向けられていた。

「――絶・零。……すべてを、無に還せ」

彼女が空間をぎ払った瞬間、物理的な実体を伴った極低温の波動が、空間そのものを凍らせながらゼノリスへと襲いかかった。石室の壁が凍結による膨張で悲鳴を上げ、四散した氷の刃が、ゼノリスの頬を深く切り裂く。

「……リィン、目を覚ますんだ!」

ゼノリスは、逃げなかった。彼はリィンの虚ろな瞳の奥に、かつて黄金の麦畑を焼かれ、居場所を奪われ、雨の夜に一人立ち尽くしていた、あの日の自分自身の姿を見たからだ。

 ゼノリスは右手の白い包帯を力任せに引き剥がし、赤黒い火傷の跡の中心で白熱する銀色の星の刻印を前方へ突き出した。

「――銀色の残響エコー共鳴シンクロ開始! すべてを、受け入れろ!」

彼の絶叫と共に、右手のひらから溢れ出したのは、冷酷な凍結を溶かし、狂った旋律をあるべき姿へと調律する、銀色の波動だった。衝突。リィンの放つ「すべてを絶絶ぜつぜつし凍らせる力」と、ゼノリスの放つ「すべてを包み込み許容する力」が、空間の中央で激しく激突し、火花ならぬ「氷の花」を周囲に撒き散らした。

 キィィィィィィィィン! という、頭蓋骨を直接揺さぶるような、凄まじい高音が石室を満たす。銀色の光が、リィンの放つ冷気を一ミリずつ、泥臭いまでの粘り強さで押し返していく。それは力によるねじ伏せではない。ゼノリスの放つ銀色の波形が、リィンの絶望に満ちた波形に寄り添い、その荒ぶりを鎮め、共鳴するための「愛」に近い旋律を奏でているかのようだった。

「……リィン。君の痛みは、僕の痛みだ。……三千年前の帝国が何を奪ったにせよ、今、ここで生きている君を縛る権利なんて、歴史の亡霊にも、八ヵ国連合の役人にも、誰にもありはしないんだ!」

ゼノリスは凍てつく波動を素手で掴み取るようにして押し返し、リィンの懐へと肉薄した。超低温の冷気が彼の肌を瞬時に焼き、右手の刻印が耐え難い激痛を上げる。だが、彼はその痛みさえも、リィンの抱える孤独の代償として受け入れ、止まらなかった。

 銀色の光がリィンの華奢な身体を包み込んだ瞬間、彼女の背後に揺らめいていた帝国の呪わしい残影が、浄化されるように霧散していった。数秒の後、リィンはハッとしたように我に返り、手に持っていた刃の破片を床に落とした。

「……ゼノリス。……私、今……何を……。……ごめんなさい、私は……」

「大丈夫だ、リィン。……過去が、少しだけ大きな声で君を呼び戻そうとしただけだよ。……でも、今はもう、ここは三千年前の牢獄じゃない。僕たちが、僕たちでいられる場所だ」

ゼノリスは、床に落ちた漆黒の破片を拾い上げ、再び小箱に丁寧に収め、それをリィンの冷え切った手に握らせた。

「鉄の枷」という現在の抑圧を突破するために足を踏み入れた地下迷宮。だがそこで彼らが見つけたのは、現在の八ヵ国連合さえも矮小わいしょうに見えるほどの、帝国の深すぎる闇と、自分たちの血脈に刻まれた呪わしい過去の断片であった。しかし、同時に彼らは、その闇さえも分かち合える「絆」という名の確かな熱を手に入れていた。

「……行こう、皆。……ルカス、ガイル。バイパスの状況は?」

「完璧だよ。地上の八ヵ国連合の監視員たちには、時計塔のエネルギー活動は『必要最低限の維持モード』として記録されているはずだ。……まさか、自分たちの足元で帝国の太陽が再燃したなんて、夢にも思わないだろうね」

ルカスが不敵に微笑み、親指を立てた。その横でガイルは不敵に口角を上げた。

 深夜の旧校舎。古井戸から這い出してきた10人の瞳には、地下の闇よりも深い、熱い覚悟が宿っていた。ルカスは指先で自らの眼鏡の位置を直し、ガイルは不敵に笑って仲間たちを見渡した。リィンの手には、あの漆黒の小箱が「誇り」の欠片として握られていた。それは、彼女が向き合わねばならない、最大の「試練」への、静かなる挑戦状であった。


 地下迷宮からの「帝国の心臓」の接続から三日が過ぎた。学園都市エーテルガードには、春の長雨と共に冷たい北風が吹き荒れていたが、旧時計塔の内部には、季節を無視した「奇妙な楽園」が広がっていた。

「……ふぅ。生き返るわね。お湯が無限に出るなんて、実家にいた頃以来だわ」

ナディアが、湯気立つバケツのお湯で顔を洗いながら、満足げな吐息を漏らす。その肌は血色が良く、瞳は活力に満ちていた。本来なら、八ヵ国連合による予算凍結と魔石供給の停止により、時計塔は凍てつく石の棺桶と化しているはずだった。だが、ルカスとガイルが構築した「裏バイパス」は、地下動力室の莫大な熱エネルギーを、八ヵ国連合の監視メーターに一切感知させることなく、時計塔の隅々へと循環させていた。

「……室温調整、二十二度で固定。湿度は五十五パーセント。……テオの薬草園の成長速度が、通常の三倍を記録しているよ。古代の魔力には、生命力を活性化させる成分が含まれているのかもしれないね」

ルカスが、湯気の立つ紅茶――これもテオが温室で育てた最高級茶葉だ――を啜りながら、手元のデータシートをチェックする。

 だが、この「あまりに快適すぎる環境」こそが、最大の弱点でもあった。時計塔の外観はボロボロのままだが、窓から漏れ出る空気や、生徒たちの肌艶はだつやは、どう見ても「兵糧攻めに遭っている落伍者」のそれではない。

 その時、見張りをしていたカシムの影が、広間の床から音もなくせり上がった。

「……ゼノリス、来たぞ。……正門から黒塗りの馬車が三台。……マルクスだ。それに、八ヵ国連合の『監査官』たちを引き連れている」

 広間の空気が一瞬で凍りついた。監査。それは予算凍結の効果を確認し、鉛クラスが惨めに衰退している様をあざ笑うための、あるいはさらなる規則違反(隠し魔石の使用など)を摘発するための、マルクスの悪意に満ちた訪問だ。

「……まずいな。今の室温や魔力残滓を見られたら、地下の『裏バイパス』が一発でバレる。……隠蔽工作の時間がない」

ガイルが舌打ちをする。ルカスも焦燥に表情を硬くした。魔力供給を急に切れば、その落差で配管が悲鳴を上げ、逆に怪しまれる。

 ゼノリスが立ち上がり、決断を下そうとしたその時。これまで部屋の隅で静かに祈りを捧げていた、灰色の修道服の少女――イリスが、音もなく歩み出た。

「……大丈夫よ、ゼノリス。……この塔の『真実』は、私が隠すわ」

「イリス? でも、どうやって……」

イリスは薄く、寂しげな笑みを浮かべた。

「……セレスティアは『真実』しか映せない。だから、嘘がつけない。……でも、私は違うわ。一度教会を追放され、泥にまみれた『灰色の聖女』だもの。……清貧を装うことくらい、息をするより簡単よ」

 イリスが両手を広げると、彼女の指先から灰色の霧のような魔力が溢れ出した。それは光り輝く聖魔法ではなく、認識を曖昧にし、華やかなものを古びて見せる「幻惑イリュージョン」に近い儀式魔法だった。

「――灰のとばり、貧しき者の祈り。……すべてを、色褪せさせたまえ」

 魔法が発動した瞬間、温かかった広間の空気が、肌寒く湿ったものへと「錯覚」させられた。ピカピカに磨かれた床は埃っぽく見え、ナディアの艶やかな肌さえも、やつれて見え始めた。

「……すごい。……物理的には何も変わっていないのに、五感が『ここは貧しい』と誤認している」

ルカスが驚愕して眼鏡の位置を直す。

「……来るわ。……みんな、演技をする必要はないの。ただ、私の後ろにいて」

イリスが扉の前に立ち、その背にゼノリスたちを庇うようにしてひざまずいた。

バン! と乱暴に扉が開かれた。入ってきたのは、漆黒の燕尾服を纏ったマルクスと、魔導感知器を手にした数名の監査官たちだった。

「……ごきげんよう、鉛の諸君。……予算凍結から数日、さぞや寒くてひもじい思いをしていることだろうと、慈悲深い私が様子を見に来てやったのだが……」

マルクスは鼻にハンカチを当て、部屋の中を見回した。彼の目には、イリスの魔法によって「薄暗く、寒々しい廃墟」と化した時計塔の姿が映っていた。

「……ふん、予想以上に酷いな。カビ臭い。……おい、魔力反応はどうだ?」

監査官が感知器を振る。

「……微弱です。生活に必要な最低限の魔力さえ観測できません。……彼らは、本当に何も持っていないようです」

イリスの「灰色の魔力」が、地下からの奔流のようなエネルギーを、完璧に「ノイズ」として覆い隠していたのだ。

マルクスは満足げに口元を歪めたが、その視線が、ふと壁際の配管――地下からの熱を供給しているパイプ――に止まった。

「……妙だな。あのパイプ、熱を持っているように見えるが? ……隠し魔石でも使っているんじゃないか?」

 マルクスが疑いの目を向け、パイプへと歩み寄る。そこを調べられれば、物理的な熱量までは誤魔化せない。ゼノリスが身構えた瞬間、イリスがマルクスの足元にすがりついた。

「……お待ちください、副学園長」

イリスの声は、震えていた。それは演技なのか、それとも彼女自身の過去のトラウマなのか、区別がつかないほど切実な響きを持っていた。

「……そこには、私たちが寒さを凌ぐために集めた、燃えカスの灰が詰まっているだけです。……教会を追われた身の私が、最後にすがれるのは、このようなゴミだけなのです。……どうか、これ以上、私たちの惨めさを暴かないでください」

イリスは、自らの「没落した聖女」という汚名を、最強の盾として利用した。彼女の瞳からこぼれ落ちる涙と、灰色の服の汚れ。それは「誇り高い騎士団」の姿ではなく、マルクスが見たがっていた「敗北者」の姿そのものだった。

 マルクスは、足元のイリスを冷ややかな目で見下ろし、鼻で笑った。

「……はっ、なるほどな。元・聖女候補生が、ゴミにしがみついて泣くか。……いいだろう。ゴミを調べるほど、私も暇ではない」

マルクスは興味を失い、きびすを返した。

「……精々、その灰の中で震えているがいい。それが君たちにはお似合いだ」

 扉が閉まり、馬車の音が遠ざかるまで、イリスは動かなかった。完全に気配が消えたことをカシムが確認すると、イリスはふらりとその場に崩れ落ちそうになった。

「イリス!」

ゼノリスが駆け寄り、彼女を支える。イリスの顔色は蒼白だった。高密度の幻惑魔法と、そして何より、自らの尊厳を投げ打って仲間を守った精神的な消耗が、彼女を襲っていた。  「……ごめんなさい、ゼノリス。……かっこ悪いところ、見せちゃったわね」

「何を言っているんだ。……君が守ってくれなかったら、僕たちは終わりだった。……君は、最高の聖女だよ」

「……聖女、か。……ふふ、ありがとう」

イリスは弱々しく笑うと、セレスティアの手を借りて長椅子へと運ばれていった。彼女の灰色の背中は、今までよりもずっと大きく、頼もしく見えた。


騒動が落ち着き、仲間たちがイリスをねぎらう中、ゼノリスは一人、窓辺で自分の右手を握りしめていた。マルクスの前で何もできず、イリスに頭を下げさせた無力感が、彼の胸を締め付けていた。

「……苦しい顔をしているのね、ゼノリス」

不意に、澄んだ鈴のような声が隣でした。セレスティアだった。

その「真実を映す青い瞳」は、ゼノリスの心の奥にある罪悪感を、鏡のように正確に映し出していた。

「セレスティア……。僕は、リーダー失格だ。……リィンを過去と戦わせ、イリスには泥を被らせた。……僕は、皆に守られてばかりだ」

 セレスティアは首を横に振った。そして、躊躇ためらいがちに、しかし確かな意志を持って、ゼノリスの震える右手に自分の手を重ねた。彼女の手はひんやりとしていたが、そこには嘘のない、純粋な体温があった。

「……違うわ。私の眼には見えるの。……イリスも、リィンも、あなたのために『何かをしたい』と思って動いている真実が。……あなたがリーダーだから、皆、自分の意志で傷つくことを選べるのよ」

セレスティアは、ゼノリスの瞳を真っ直ぐに見つめた。

「……私は、イリスのように上手く嘘はつけない。……だから、私はあなたに『真実』だけを伝え続けるわ。……あなたは弱くない。あなたは、私たちが命を懸けるに値する希望の星だと」

その言葉は、予言めいた重みを持ってゼノリスの心に響いた。セレスティアが初めてゼノリス個人に対して見せた、明確な「信頼」と、淡い「思慕」の輪郭だった。ゼノリスは、重ねられた手の温もりを感じながら、深く息を吐いた。胸のつかえが、少しだけ溶けていくのを感じた。

「……ありがとう、セレスティア。……君の言葉は、どんな魔法よりも勇気をくれるよ」

 窓の外では、春の嵐が吹き荒れている。だが、時計塔の中は暖かかった。それは地下からの熱だけではない。イリスの献身と、セレスティアの真実、そして10人の絆が灯す熱が、鉄の枷に抗う確かな炎となっていたからだ。

しかし、彼らはまだ気づいていなかった。マルクスが去り際に残した視線が、単なる侮蔑だけではなく、ある種の「違和感」を鋭く捉えていたことに。そして、地下迷宮のさらに奥深くで、あの「折れた剣」に呼応するように、もう一つの巨大な影が目を覚まそうとしていることに。


 イリスの決死の機転によって、マルクス副学園長による冷徹な監査を退けた夜。

学園都市エーテルガードは、春の嵐を告げる冷たい雨に沈んでいたが、旧時計塔の最上階には、嵐が過ぎ去った後のような、奇妙で温かな静寂が満ちていた。

 石造りの暖炉では、薪ではなく、ルカスとガイルが地下から引き込んだ「古代の熱源」を利用した魔導ヒーターが、静かな唸りを上げて赤い光を放っている。その熱は、隙間風の多い屋根裏部屋を、まるで高級ホテルのラウンジのような快適な温度――摂氏二十二度、湿度五十五パーセント――に保っていた。本来ならば、八ヵ国連合による予算凍結で魔石の供給を絶たれ、凍えるような寒さの中で夜を過ごすはずだった彼らにとって、この暖かさは単なる物理現象以上の意味を持っていた。それは、理不尽な「鉄の枷」に対する、ささやかだが痛快な勝利の証だったのだ。

「……ふぅ。生き返るわね。お湯が無限に出るなんて、実家が没落する前以来だわ」

長椅子に横たわったイリスが、テオが差し出した特製の回復薬湯ポーション・スープを両手で包み込み、ほうっと白い吐息を漏らす。彼女の顔色はまだ蒼白く、指先は小刻みに震えていたが、その瞳には仲間を守り抜いた者だけが持つ、静かな誇りが宿っていた。

「……無理をするからよ、イリス。あれだけの規模の幻惑魔法を、しかも副学園長の目の前で維持し続けるなんて……魔力回路が焼き切れてもおかしくなかった」

セレスティアが、心配そうに眉を寄せながら、イリスの汗ばんだ額を清潔なタオルで拭う。かつて「聖女」の座を巡って競い合った二人の少女の間には、もはや嫉妬や劣等感といった壁は存在しなかった。そこにあるのは、光と影のように互いを補い合う、共犯者めいた深い信頼だけだった。

「……でも、あなたの演技は完璧だったわ。あの計算高いマルクスでさえ、『没落した聖女の涙』という物語には勝てなかった。……あなたは、私には決してなれない、優しくて強い嘘つきね」

「……ふふ、最高の褒め言葉ね、セレスティア」

イリスが弱々しく、けれど悪戯っぽく微笑むと、周りにいたナディアやテオもつられて表情を緩めた。

 だが、その輪から少し離れた窓辺に、ゼノリスは一人で立っていた。雨に煙るガラス窓の向こう、闇にそびえる「学園長塔」の明かりを見つめる彼の横顔は、室内の暖かさとは裏腹に険しかった。監査はしのいだ。だが、それは一時的な勝利に過ぎない。マルクスという男は、数字と効率を神と崇めるギルダー商業公国の怪物だ。一度狙った獲物を、「隠蔽工作」ごときで逃がすような甘い狩人ではないことを、ゼノリスの「異質なゼノリス」としての本能が告げていた。

「……これで終わるはずがない。奴は、僕たちが『何かを隠している』ことに気づいたはずだ。……内部で干上がらせるのが無理だと悟れば、次はもっと直接的で、逃げ場のない手を打ってくる」

ゼノリスが低く呟いた、その時だった。

 キィィィィィィ……ン。

部屋の隅、ナディアの机の上から、耳鳴りのような異常な金属音が響き渡った。

「……ッ! ちょっと、これを見て!」

ナディアの悲鳴に近い声が空気を裂く。彼女の手元にある黄金の羅針盤が、狂ったように振動していた。それは地下動力室で見せた「魔力への歓喜の回転」ではない。針が一本の赤い線のように凝固し、時計塔の分厚い石壁を突き抜けて、ある一点をかたくなに、そして執拗しつように指し示しているのだ。

「……北北西。……方位角三三五度。……学園の敷地じゃない。もっと遠く……『霧の回廊』の向こう側を指しているわ」

ナディアの顔色が一瞬で青ざめる。星読みの一族にとって、羅針盤がこれほど強く、不吉な「警告」を発するのは、生命に関わる危機、あるいは運命を歪めるほどの巨大な厄災が迫っている証拠だった。

「……霧の回廊だと? そこは、八ヵ国連合の支配領域と、北の未開拓地の境界線……公式には『立ち入り禁止』の緩衝地帯じゃないか。高濃度の魔素溜まりがあって、凶暴な魔獣の巣窟になっている場所だぞ」

ガイルがソファから身を乗り出し、茶髪をかきむしりながら眉をひそめる。

 その不吉な予感を裏付けるように、バサリ、という重い羽ばたきの音と共に、一羽の漆黒の使いカラスが、雨に濡れた窓枠に舞い降りた。それは生き物ではなかった。目がルビーのような赤い魔石で造られ、羽の一枚一枚が黒い金属で精巧に模造された、八ヵ国連合製の「伝令魔導機」だった。カラスは無機質な赤い目でゼノリスを一瞥すると、足に結び付けられていた黒い筒状の書簡を床に落とし、錆びついた蝶番ちょうつがいのような不快な鳴き声を残して、雨の夜空へと飛び去った。

 筒が床を転がる音が、雷鳴のように重く響いた。ゼノリスがそれを拾い上げる。その冷たさは、まるでマルクスの指先そのもののようだった。震える手で封を開け、中の羊皮紙を広げる。そこには、感情の一切ない事務的な文字で、彼らの運命を決定づける命令が記されていた。


【特別任務通達】

宛先: 鉛クラス代表 ゼノリス・ルーツ殿  

発令者: 八ヵ国連合駐在武官 兼 副学園長 マルクス・ギルダー

 本文: 先日の監査において、貴殿らの生活環境における不可解な魔力数値の乖離かいりが確認された。当学園運営委員会は、貴殿らが不正な手段を用いている疑いを払拭するため、また刷新された「成果連動型予算」の正当な受給資格を証明する更生こうせいの機会として、以下の特別任務を命ずる。

 任務内容: 北北西『霧の回廊』深部における、未確認魔導反応(コード:ブラック)の調査および鎮圧。

期限: 本日より三日以内。  

条件: 学園からの物資支援、および教師の帯同は認めない。現地での自己調達および単独解決のみを成果とする.

罰則: 任務失敗、逃亡、または受託を拒否した場合、鉛クラス所属の十名全員を「学園規則第十三条:敵前逃亡」および「八ヵ国連合への反逆罪」とみなし、即時退学および投獄処分とする。


 ゼノリスが読み上げると、広間に鉛のような沈黙が落ちた。最初に反応したのは、ガイルだった。

「……ふざけるな! 霧の回廊の調査なんて、正規の騎士団でも一個小隊で挑むようなA級任務だぞ! それを、まだ2年生になりたての俺たちに、しかも支援なしでやれだと!? 物理的に不可能だ、計算するまでもない!」

彼は机を叩き、コップの紅茶が跳ねるのも構わずに怒りを露わにした。

「……これは任務じゃない。……合法的な『処刑宣告』だね」

ルカスが眼鏡の奥の瞳を凍らせ、淡々と、しかし底知れぬ怒りを込めて言葉を継ぐ。

「……マルクスは、学園内で僕たちを干上がらせるのが無理だと悟ったんだ。だから、外へ放り出して魔獣の餌にする。……あるいは、僕たちが拒否して退学になるのを待っている。……どちらに転んでも奴の利益になる。合理的すぎて反吐が出るよ」

「……怖い……」

テオが動物の耳を伏せ、震える声で呟いた。

「霧の回廊は……獣の匂いがしない場所なんだ。……生き物の気配がない、死の世界の匂いしかしないって、おじいちゃんが言ってた……」

 絶望感が、温かいはずの部屋を冷たく塗り替えていく。だが、その沈黙を破ったのは、地下迷宮で「過去」と対峙した少女だった。

「……でも、行くしかないわ」

リィンが、静かに立ち上がった。その手には、地下迷宮で見つけたあの漆黒の小箱が、まるでお守りのように強く握られている。

「……ここにいて、マルクスの飼い殺しになるのを待つくらいなら、私は外へ行く。……それに、マルクスが私たちを『外』へ追い出そうとするなら、それを利用すればいい。……外には、私たちが知るべき世界の『続き』があるはずだから」

彼女の黒い瞳は、もはや揺れていなかった。そこにあるのは、死地へ向かう剣士の覚悟だった。

 リィンの言葉に、カシムも影の中から音もなく姿を現した。

「……同意だ。……地下で見た帝国の闇。それが地上でどう形を変えているのか、俺たちの目で確かめるいい機会だ。……それに、俺の影魔法なら、霧の中での戦闘は有利に運べる。俺が先陣を切ろう」

 ゼノリスは、仲間たちの顔を一人ひとり見渡した。恐怖がないと言えば嘘になる。足は震え、心臓は早鐘を打っている。だが、そこにはもう、去年の春のような「守られるだけの子供」の顔はなかった。彼らは地下で帝国の遺産を受け継ぎ、互いの弱さを補い合い、理不尽な大人たちに知恵と牙で抗う術を知った「鉛の騎士団」なのだ。

ゼノリスは羊皮紙を強く握りしめた。

「……分かった。この喧嘩、買おう。……マルクスは僕たちを捨て駒にするつもりだろうけど、逆に証明してやるんだ。鉛の騎士団は、学園の檻の中でも、外の嵐の中でも、決して折れないことを」

「……フィリーも行くわ。兄さまの行く場所が、フィリーの世界だもの。……霧の回廊に咲く毒花だって、フィリーが全部ジャムにしてやるわ」

フィリーネがゼノリスの腰に抱きつき、その青い瞳に、兄を守るための危険なほどの決意を灯す。

「……よし。時間は夜明けまでだ。全員、総力戦の準備にかかれ!」

ゼノリスの号令と共に、10人は弾かれたように動き出した。

「ルカス、地下の魔石を携帯用に加工できるか? 安定性は無視していい、火力が欲しい!」  「了解。リミッターを解除した『過剰出力型オーバードライブ』の魔導バッテリーを三つ作る。……使い捨てだけど、一撃で岩盤を砕く威力にするよ」

ルカスが工具箱を広げ、地下から持ち帰った純度100%の魔石にノミを当てる。

「ナディア、霧の回廊の海流……いや、気流を読んでくれ。最短ルートじゃなくて、一番安全なルートだ」

「任せて! 羅針盤が狂ってるなら、星と風の匂いで道を作るわ!」

ナディアが巨大な羊皮紙を広げ、猛スピードで地図を描き始める。

「リィン、テオ。武器と薬の在庫確認を。……セレスティア、イリス。君たちの祈りで、僕たちの装備に加護を」

「……ええ。最高の祝福をかけるわ」

聖女二人が手を繋ぎ、銀色の騎士たちの剣やマントに、淡い光の防護膜を織り込んでいく。


 雨音は激しさを増していたが、時計塔の窓から漏れる明かりと、10人の熱気は、夜明けまで消えることはなかった。「鉄の枷」は外れない。八ヵ国連合という巨大な敵は、彼らを押し潰そうとしている。だが、彼らはその枷の重さを、大地を踏みしめるための「いかり」に変え、初めて学園という揺り籠を飛び出し、広大で残酷な世界へと足を踏み入れる。

 ナディアの羅針盤の針は、震えることなく北北西を指し続けていた。そこには、彼らを待ち受ける新たな強敵、未知の魔獣、そしてリィンの「折れた剣」やカシムの「影」に呼応する、運命の出会いが待っている。

 雨の匂いに、鉄と血の匂いが混じり始めた。少年たちの本当の戦いが、今、幕を開ける。

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