第10章:冬を待つ十の灯火(エピローグ)
白亜の広間を揺るがした銀色の余韻が静まり、エーテルガード学園には、洗い流されたような静寂が戻っていた。かつてゼノリスたちが過ごした黄金の麦畑では、春には雪解け水が小川を歌わせ、夏には力強い日差しが大地を焼いていた。いま、時計塔の古い石壁を撫でていく風は、そんな季節の巡りを象徴するように、夏の湿り気を帯びた熱を連れ去り、少しだけ乾いた秋の匂いを運んできている。
ゼノリスは、旧時計塔の屋根裏部屋で、大きな木製の窓枠を拭いていた。雑巾を絞るたび、バケツの中の水が波紋を描き、指先に心地よい冷たさを伝える。それは、かつて村で農作業の合間に井戸水で顔を洗ったときのような、懐かしくも厳しい現実の感触だった。
「兄さま、そっちの窓はもう大丈夫? こっちの床、フィリーがピカピカにしたよ」
フィリーネが、お揃いの白い布を手に、ゼノリスの隣で一生懸命に膝をついていた。彼女のふわふわとした銀色の髪は、差し込む午後の光を透かし、その瞳は雨上がりの空をそのまま映したような、澄み切った青色を湛えている。嵐の夜の恐怖を乗り越え、兄を支えようとする彼女の笑顔は、冷え始めた部屋の中に、小さな陽だまりのような温もりをもたらしていた。
「ああ、助かるよ、フィリー。……でも、あんまり無理をしないで。まだ少し、足の傷が痛むだろう?」
ゼノリスが声をかけると、フィリーネは首を振って、誇らしげに胸を張った。
「ううん、もう平気。兄さまが治してくれたんだもん。それに、ここは私たちの新しい『お城』なんだから、きれいにしなきゃ」
部屋のあちこちからは、絶え間なく生活の音が響いていた。ガイルが重い木材を運び込み、ルカスが複雑な数式を呟きながら、ひび割れた床板に新しい釘を打ち込んでいる。
「おい、ルカス。そこはもっと深く打ち込め。冬の冷え込みで木が反ったら、隙間風で凍えることになるぞ」
ガイルが額の汗を拭いながら、不敵な笑みを浮かべる。
「……計算は完璧だ、ガイル。僕は隙間風の風速まで考慮して設計している。それよりも、君の打ち方は力任せすぎて、木材の繊維を傷めているね。これでは冬の乾燥に耐えられない」
ルカスが眼鏡の縁を押し上げ、冷淡だが確かな信頼を込めて言い返した。
二人のやり取りを、ナディアが窓際で海図を広げながら楽しげに眺めている。
「仲がいいわね。……でも、ルカスの言う通り、この時計塔は少し風通しが良すぎるわ。次の満月の頃には、もっと風が鋭くなるはず。……ねえ、リィン。あなたなら、冬の寒さをどう凌ぐ?」
壁を背にして剣を研いでいたリィンは、視線だけをナディアに向けた。
「……火を絶やさないこと。……それだけ」
彼女の言葉は短かったが、その瞳には、かつて雪に閉ざされた冬の沈黙を耐え抜いた者のような、深い経験の色が宿っていた。リィンは研ぎ終えた剣を鞘に収めると、音もなく立ち上がり、ゼノリスの磨き上げた窓の汚れを指先でそっと拭った。その動作は、まるで傷ついた鳥の羽を整えるような繊細さを持っていた。
掃除が終わる頃には、空は濃い藍色に染まり、時計塔の温度は一段と下がっていた。テオが部屋の隅に設けた小さな竈で、火を焚き始める。パチパチとはぜる薪の音は、静まり返った図書館でページをめくる音のように、優しく、けれど確実にそこに「生」があることを主張していた。
「……今日は、僕が学園の裏庭で見つけた薬草のスープを作ったんだ。……少し苦いかもしれないけど、体は芯から温まると思う」
テオがおずおずと、十人分の不揃いな木皿にスープを注いでいく。かつてブロンズクラスで「臭い」と蔑まれた彼の薬草は、いまこの部屋では、誰よりも仲間を労うための、唯一無二の香りに変わっていた。
「いい匂いじゃない。ナディアが持ってきた干し肉も入れましょうよ。少しは豪華になるわ」
ナディアが笑いながら、旅のカバンから塩気の強い肉を取り出した。カシムが影の中から取り出した、砂漠の国で使われる珍しい香辛料が、スープの味を一層深く、複雑にしていく。
十人が円を描くようにして床に座り、スープを口に運ぶ。それは、転校した初日にたまたま隣り合わせた者同士が、ぎこちなくお弁当を広げるときのような、少しの緊張と、それを上回る不思議な一体感に満ちた時間だった。
「……ねえ、兄さま。これ、あのときのスープみたいだね」
フィリーネがふと思い出したように呟いた。かつて村を去る前夜、母ミリアが作ってくれた温かなスープ。あのときは逃亡の不安で喉を通らなかったけれど、いまここで仲間と飲むスープは、じんわりと五臓六腑に染み渡っていく。
セレスティアとイリスは、スープの温かさに顔をほころばせながら、静かに言葉を交わしていた。
「……聖教国では、こんなふうに皆で一つの鍋を囲むことなんて一度もなかったわ。常に誰かの視線があり、作法を気にして……」
セレスティアの言葉に、灰色の修道服を纏ったイリスが深く頷く。
「……ええ。地位も名誉も関係なく、ただ隣にいる人の温もりを感じる。……これこそが、私たちが一番遠ざけられてきたものなのかもしれないわね」
カシムは影に身を潜めるのをやめ、実体としてスープを啜っていた。
「……毒は入ってないようだな。……俺の故郷じゃ、食事は常に疑いながら食べるものだったが……ここでは、その必要はなさそうだ」
「失礼だね。僕の調合に毒なんて混ざるわけがないだろう」
テオが頬を膨らませて反論し、部屋の中に小さな笑いが起きた。
リィンは相変わらず無口だったが、ゼノリスの皿に自分の干し肉をそっと置いた。 「……食べろ。……大きくならないと、守れない」
その言葉は短かったが、彼女なりの最大限の激励であることを、ゼノリスは理解していた。
翌朝、ゼノリスは一人で学園長室を訪れた。重厚な扉を開けると、エレアノール学園長は、朝日を背にして立ち、窓の外をじっと見つめていた。
「……ゼノリス。昨夜の風の音を、どう感じましたか?」
彼女の問いに、ゼノリスは少し考えてから答えた。
「……何かが新しく始まるような、少しだけ冷たいけれど、背筋が伸びるような音でした」
エレアノールは静かに振り返り、机の上に置かれた一通の黒い紋章入りの書簡を指し示した。
「その通りです。ヴァルガスを解任したことで、学園内の秩序は一旦保たれましたが、外の世界はそうではありません。八ヵ国連合は、あなたの力を『世界の均衡を乱す不確定要素』と見なしました」
彼女の言葉は、氷の粒が肌に触れたときのような、鋭い緊張感を伴っていた。
「あの銀色の光。それは世界をあるべき姿に『調律』する力。かつて帝国が秘匿し、そして恐れた力です。……あなたがそれを選んだ事実は、もはや消せません」
ゼノリスは、自分の右手をじっと見つめた。包帯の代わりに薄い皮膚が刻印を覆っているが、その奥で眠る熱は、脈打つたびに確かな質量を持って、彼の魂を揺さぶっていた。それは、冬の朝に冷たい空気の中で大きく息を吸い込んだときのような、逃れられない生の実感だった。
「卒業までの五年間。私はあなたたちに、この学園という名の『シェルター』を提供します。……けれど、連合の圧力は、冬の寒さのようにじわじわと、あなたたちの周囲を凍てつかせていくでしょう。……それでも、あなたは進むのですか?」
エレアノールの瞳には、慈しみとともに、過酷な未来を見据える厳しさが宿っていた。それは、大切な生徒をわざと突き放すような、深い愛情の裏返しでもあった。ゼノリスは、迷うことなく頷いた。
「……一人だったら、途中で倒れていたかもしれません。……でも、今の僕には、あの屋根裏部屋を共に掃除し、スープを分け合える仲間がいます。……彼らとなら、どんなに冷たい雪が降っても、立ち止まらずにいられる気がします」
ゼノリスの言葉に、エレアノールはわずかに口角を上げた。
「……そうですね。十人の星が揃った今、あなたはもう、黄金の麦畑で震えていた孤独な少年ではない。……いきなさい。あなたの選んだ仲間たちが待っています」
再び訪れた夜。時計塔の屋上には、冷たい月光が降り注いでいた。十人の「鉛の騎士団」は、肩を並べて夜の学園都市を見下ろしていた。
「……きれいだね。……村にいた頃は、こんなにたくさんの光を見たことなかった」
ゼノリスが呟くと、フィリーネがその手をぎゅっと握りしめた。
「兄さま。約束、覚えてる? ……大人になっても、ずっと一緒だって。……どこか遠くへ、行っちゃったりしないって」
ゼノリスは、フィリーネの頭を優しく撫でた。かつて黄金の麦畑で交わした指切りの感触が、手のひらを通して鮮明に蘇る。あの時は、二人きりの小さな約束だった。けれど今、その周りには、同じように「いらないもの」とされながらも、自らの意志で輝こうとする仲間たちがいた。
「ああ、約束するよ。……卒業するまで。……いや、その先もずっとだ。……僕たちは、この場所で一緒に強くなるんだ。誰にも邪魔させはしない」
ゼノリスの誓いに、ガイルがニヤリと笑って、夜空を指差した。
「ああ。俺たちの『鉛の城』を、誰も壊させやしないさ。誰かが攻めてくるなら、返り討ちにするまでだ」
「……防御魔法の効率化については、僕に任せてほしい。冬の間に完璧なシステムを構築してみせるよ」
ルカスが眼鏡を光らせて付け加えた。
ナディアが羅針盤を掲げ、カシムが影の中から月光を反射させた。リィンは何も言わずに、ただゼノリスの隣に立った。彼女の肩から伝わる確かな体温が、秋の夜風の冷たさをかき消してくれる。
彼らは知っている。これから秋が深まり、冬の凍てつく寒さがやってきても。たとえ八ヵ国連合という巨大な力が、自分たちの光を消そうと襲いかかってきても。この屋根裏部屋に集まった十の火は、決して消えることはない。
空を見上げれば、無数の星々が、冷たい空気の中で鋭く瞬いていた。それは、自分たちを監視する者の冷酷な瞳であると同時に、自分たちがこれから目指すべき、銀色の希望の輝きでもあった。
「いくよ。……僕たちの、明日へ」
ゼノリスが右手を夜空へ向けて、そっと握りしめた。拳の中には、世界を焼き尽くすための破壊の炎ではなく、仲間の冷えた指先を温めるための、優しく、けれど決して消えることのない、熱い灯火が宿っていた。
これこそが、絶望の淵で拾い上げた、たった一つの希望。運命を焼き直し、新しい時代を導くための、『運命の種火』。
遠くで、新しい季節を告げる一番星が、銀色の光を放って強く輝いた。物語は、いま静かに、けれど確実に、次なる巡る季節へと、その歩みを進めていく。




