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星帝物語  作者: 藤堂 貴之
第1巻 運命の種火

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第9章: 再会の嵐、あるいは鉛の騎士団(プルンブム・ナイツ)

 「五色ごしきの演習」という名の激しい嵐が学園を通り過ぎてから、三日の月が静かに昇った。学園都市エーテルガードを包む朝の霧は、以前のような肺を凍らせる冷たさは消えていた。今はどこか新しい季節の訪れを予感させるような、柔らかな乳白色をしている。その白い霧が、旧時計塔の古いレンガの隙間にしっとりとまとわりつき、朝の静けさをより深いものにしていた。

 最上階にあるゼノリスたちの「城」――屋根裏の教室には、東の窓から差し込むお日さまの光が、まっすぐな帯となって床に届いていた。光の帯の中では、目に見えないほど小さな埃の粒が、まるできらきらとした黄金の粉のように、ゆったりとした円を描いて踊っている。その光景は、数日前のあの泥だらけの戦いが嘘だったかのように穏やかだった。

 部屋の中に満ちているのは、母ミリアが持たせてくれた薬草のお茶の、少し苦くて、けれど心から落ち着く、懐かしい香りだ。湯気がカップからゆらゆらと立ち上り、窓から入る冷たい空気と混ざり合って、白く透き通ったカーテンのように揺れている。

「……兄さま。フィリー、今日のお茶は苺のジャムをたくさん入れたいわ。スプーン三杯、ううん、五杯くらい入れてもいい?」

 ゼノリスの膝の上で、フィリーネがうとうとしながら甘えた声を上げた。彼女の銀色の髪は、朝日を浴びて白銀の糸のように輝き、ゼノリスの指にさらさらと絡みつく。フィリーネは、自分の頬をゼノリスの足にすり寄せ、まるでお気に入りの毛布にくるまっている猫のように、幸せそうな顔をしていた。

「だめだよ、フィリー。朝からそんなに甘いものばかりだと、お腹がびっくりしてしまうよ。せめてスプーン一杯にしておきなさい」

「ええー、兄さまのけち! フィリー、昨日の夜だって、兄さまが夢の中に出てきてくれるように、お祈りして、おやつを我慢したのに!」

「夢を見るのとジャムの量は、あまり関係ないと思うけど……」

 ゼノリスは困ったように笑いながら、フィリーネの柔らかな頭を優しくなでた。彼女の体からは、お日さまのようなあたたかい匂いと、微かな苺の匂いがした。そのぬくもりは、ゼノリスにとって、何よりも守らなければならない、たった一つの宝物だった。

「ふふ。……でも、ゼノリスくん。フィリーネちゃんの言うこともわかるわ。……今の私たちには、少しだけ甘い時間が必要なのかもしれないわね」

 部屋の隅にある古い木の机で、静かに本をめくっていたセレスティアが、ふっと顔を上げた。彼女の銀色の髪は三つ編みにされ、その青い瞳は窓の外の空の色をそのまま映し出している。セレスティアは、いれたてのお茶が入ったカップを手に取り、ゆっくりとした足取りでゼノリスのそばまで歩いてきた。

 彼女が動くたびに、学園の制服がさらさらとこすれる音が、静かな部屋に心地よく響く。セレスティアは、ゼノリスの隣にそっと座ると、自分の手にあるカップを彼に差し出した。

 「はい、ゼノリスくん。……あなたの分のお茶よ。お砂糖は、私が少しだけ多めに入れておいたから」

「……ありがとう、セレスティア。君がいれてくれるお茶を飲むと、なんだか体のしんから温まる気がするよ」

「……そう? 喜んでもらえて、私も嬉しいわ」

 セレスティアはそう言って、恥ずかしそうに視線を落とした。彼女の指先は、カップの縁でわずかに震えている。演習の日、ゼノリスが泥だらけになって誰かを救おうとする姿を見てから、彼女の中で彼への想いは、ただの感謝を超えた、もっと熱くて苦しいものに変わっていた。

 ゼノリスがお茶を口に運ぶ。その時、セレスティアの指先が、ゼノリスの手に微かに触れた。ほんの一瞬の出来事だったが、セレスティアの頬は、朝焼けの雲のように、ぱっと明るい桃色に染まった。彼女は慌てて手を引いたが、その瞳は、逃げるように窓の外の星の名残を探していた。

「ちょっと! セレスティア、今兄さまの手に触ったでしょう! フィリーは見逃さなかったわよ!」

 膝の上で、フィリーネがいきなり飛び起きた。彼女の青い瞳は、嫉妬の炎を燃やしてセレスティアを睨みつけている。フィリーネはゼノリスの首に後ろから抱きつき、離さないと言わんばかりに力を込めた。

「兄さまは、フィリーだけのものなんだから! セレスティア、ずるいわ! いま、兄さまのこと、変な目で見ていたでしょう!」

「へ、変な目だなんて、そんなことないわよ、フィリーネちゃん。私はただ、お茶を渡しただけで……」

「嘘よ! 聖女さまのくせに、兄さまのことを独り占めしようだなんて、フィリーが許さないわ!」

「独り占めだなんて……。私は、ゼノリスくんの力になりたいと思っているだけよ」

 セレスティアの言葉は、静かだったが、そこには譲れない意志がこもっていた。彼女はもう、自分の気持ちを隠し通すことはできないと悟っていた。ゼノリスが泥だらけになって自分たちをまもってくれたあの時から、彼女の心は、彼という太陽の周りを回る、小さな星になってしまったのだ。

「……みんな、落ち着いて。まだ朝なんだから」

 ゼノリスが苦笑しながら二人をなだめようとした、その時だった。

 屋根裏部屋へと続く、古い木の階段が、ギィ……ギィ……と、不慣れな足音を立てて鳴り響いた。それはガイルのいつもの元気な足音ではない。もっと重く、落ち着いていて、研ぎ澄まされた足音だった。

 階段のきしむ音が、一段ずつ、確実に近づいてくる。部屋の中の空気が、急激に冷たく、張り詰めたものへと変わっていった。ゼノリスは、右手の包帯を無意識に握りしめた。彼の心臓が、警告を鳴らすように、ドクン、ドクンと激しく打ち始める。

「……誰だろう。ガンド先生かな?」

 ゼノリスが立ち上がると同時に、部屋の重い木の扉が、静かに開いた。そこに立っていたのは、この学園では一度も見かけたことのない、東方の異国の服を纏った少女だった。

 彼女の髪は、夜の闇をそのまま切り取って固めたような、つややかな漆黒。その切れ長の瞳は、冷たい氷のような鋭さを持っていたが、その奥には、一切の感情を読み取らせない、深い沈黙の色が揺れていた。彼女は背中に、この学園には不釣り合いな、長い一振りの「剣」を背負っている。その剣の鞘は、使い込まれており、多くの戦いを超えてきたことを物語っていた。

 少女は、部屋の中の三人をゆっくりと見渡した。そして、ゼノリスと目が合った瞬間、彼女の瞳がわずかに動いたが、それが何を意味しているのかは誰にもわからなかった。

 少女のすぐ後ろから、学園の事務局の職員が、青い顔をして追いかけてきた。

「ま、待ちなさい、リィンさん! まだ手続きの途中ですよ! なぜ勝手にあんなエリートクラスから、こんな……こんな場所へ!」

 職員の叫び声に、ガイルが奥の部屋から顔を出した。  

「おいおい、なんだ? 朝っぱらから事務局の人間がこんな塔まで何の用だ?」

 職員は、ゼノリスたちの机の上に、震える手で一枚の公文書を置いた。  

「これを見てください! ……シルバークラスの特待生、東方のリィンさんが、本人の強い希望により、今日付けで……この鉛クラスに異動することになったんです!」

「……はあ!? シルバーから鉛へ!?」  

ガイルが、椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた声を上げた。

 シルバークラスといえば、ゴールドクラスに次ぐ、学園の超エリートたちが集まる場所だ。将来は王国の騎士団長や、高名な魔導師になることが約束されている。そこから、クズの集まりと馬鹿にされる鉛クラスへ移るなど、学園始まって以来の、ありえない大事件だった。

「……リィンさん、本当にいいのですか? あなたのこれまでの成績を考えれば、将来は約束されていたのに……。どうしてよりによって、こんな場所へ!」

 職員が必死に説得しようとするが、リィンはそれを完全に無視し、ただ静かにゼノリスを見つめ続けていた。

「……リィンさん。どうして、僕たちのクラスに? 何かの間違いじゃないのかい?」

 ゼノリスが困惑しながら尋ねるが、リィンは何も答えない。彼女はただ、唇を固く結び、その漆黒の瞳でゼノリスをじっと見つめるだけだった。そこにはお辞儀も、挨拶の言葉も、一切なかった。

「……リィンさん?」


 ゼノリスがもう一度問いかける。リィンはわずかに首をかしげ、それからゆっくりと目を伏せた。彼女のその態度は、「言えない」という拒絶ではなく、言葉そのものを捨て去ったかのような、深くて重い沈黙だった。彼女は一歩、また一歩とゼノリスに近づいた。彼女の足音は全く聞こえない。まるでお日さまの光の中を滑る影のように、あまりにも静かだった。

 ゼノリスの目の前まで来ると、彼女はただ立ち止まった。ゼノリスよりも少し低い位置にある彼女の瞳は、包帯の巻かれたゼノリスの右手をじっと見つめている。何かを言おうとする様子も、何かの合図を送る様子もない。

 リィンはそのまま、部屋の隅にある空いたスペースへと歩いていった。彼女は背負っていた剣を壁に立てかけると、そのまま床に正座し、静かに目を閉じた。

「……えっ、それだけ? 何も言わないの?」

 ガイルが呆れたように声を上げる。事務局の職員も、彼女のあまりの頑固さと不可解な態度に、首を振りながら部屋を出ていった。

「ちょっと! 何よ、あんた! 挨拶もしないで、勝手に住み着くつもり!?」

 フィリーネが、リィンの前に立ちはだかり、腰に手を当てて怒鳴りつけた。けれど、リィンは目を開けることさえしなかった。ただ、フィリーネの怒声によって乱れた部屋の空気をなだめるように、深く、静かな呼吸を繰り返すだけだった。

「無視しないでよ! 兄さま、この人、やっぱり変だわ! 追い出そう!」

「……フィリー。……彼女には、何か理由があるのかもしれない。……でも、僕たちにはそれを話すつもりはないみたいだね」

 ゼノリスは、リィンの横顔を見つめた。彼女の肌は透き通るように白く、その睫毛まつげは朝日に照らされて影を作っている。無口で、冷たい氷のような雰囲気を纏っているが、彼女が座っている場所の周りだけ、どこか「冷たい火」が灯っているような、不気味なほどの静謐せいひつさが漂っていた。

「……シルバーのエリートが、無言で鉛のクラスへ、か……。ガンド先生、また面倒な奴を招き入れやがったな」

 ガイルがニヤリと笑い、自分の解析作業に戻った。

「……リィンさん。……あなたが何を考えているのか、私にはわからないけれど。……この時計塔には、この時計塔のルールがあるわ。……それを守れないなら、私も黙ってはいないわよ」

 セレスティアが、凛とした声でリィンに告げた。けれど、リィンはやはり答えない。ただ、窓から吹き込んだ微かな風が、彼女の漆黒の髪を揺らした。

 窓の外では、黄金色の麦畑へと続く空が、どこまでも高く、澄み渡っていた。けれど、リィンのその鋭い剣の輝きが、これから訪れるであろう激動の運命を、静かに、そして誰にも気づかれないように予見しているようでもあったのである。


 その翌日も屋根裏部屋の隅では、黒髪の少女リィンが、静かにその場に座り続けていた。彼女が放つ空気は、研ぎ澄まされた刃のように冷たく、けれどどこか、嵐のあとの凪のような穏やかさを湛えていた。彼女はシルバークラスの華やかな女子寮を去り、今日からこの埃っぽい時計塔へ、そして鉛クラスの古い寮へと居場所を移した。彼女の傍には、使い込まれた一振りの剣が立てかけられ、お日さまの光を受けて時折キラリと鋭い光を放っている。

 リィンは、包帯を巻いたゼノリスの右手を、何かを確かめるように、じっと見つめていた。その視線に気づいたゼノリスが顔を上げると、彼女はわずかに目を伏せ、鈴の音のような低い声で言った。

「……その傷、まだ痛むのか」

 リィンが初めて口を開いた。

それはあまりにも突然だったため、ゼノリスも一瞬戸惑った。

「……えっ? ああ、ううん。今はもう、熱さも落ち着いているよ。セレスティアが綺麗に包帯を巻いてくれたから」

 ゼノリスが驚きながら答えると、リィンは短く「……そうか」とだけ答え、再び沈黙した。

昨日見せた徹底した無口とは違い、彼女は必要な時には、その心の内をわずかに言葉に乗せるようになっていた。けれど、その言葉の裏側にある本当の理由は、依然として深い霧の中に隠されたままだ。

「兄さま! やっぱりこの人、気に食わないわ! 挨拶もなしに上がり込んで、今日はいきなり兄さまに話しかけるなんて、一億年早いわよ!」

 フィリーネがゼノリスの腕をぎゅっと握りしめ、頬を大きく膨らませて訴えた。フィリーネの青い瞳には、自分より背が高く、どこか大人びた雰囲気を持つリィンへの、激しい対抗心が燃え盛っている。

「フィリー、そんなに怒らないで。リィンさんも、僕たちのクラスメイトなんだから。……寮も、ナディアさんと一緒になったって聞いたしね」

「ナディア? 誰よ、その人は! また兄さまを狙う女が増えるっていうの!?」

 ゼノリスが苦笑していると、ガイルが古い魔導回路の解析を中断して、椅子を大きく後ろに引いた。  

「おいおい、賑やかになってきたな。シルバークラスの天才剣士様が、俺たち鉛クラスの寮に入るなんてな。……女子寮の管理人のおばさんが、腰を抜かしてたぜ。……なあ、リィン。お前、本当に後悔してねえだろうな?」

 リィンはガイルの方へ視線を向けず、ただ真っ直ぐにゼノリスを見つめたまま、静かに答えた。  

「……私の居場所は、私が決める。……後悔など、一度もしたことはない」

 その言葉の重みに、部屋の中の空気がわずかに震えた。セレスティアは、お茶をいれる手を止め、リィンの横顔をじっと見つめていた。

(……シルバーの地位を捨てて、鉛クラスの同級生と同部屋になることを選ぶなんて。……彼女をそこまで動かすものが、ゼノリスくんの中にあるのかしら)

セレスティアの胸の奥で、小さくて鋭い痛み――「焦り」という名の火が、昨日よりも少しだけ大きく燃え上がっていた。

 その時、屋根裏部屋の重い扉が、今度は「コン、コン、コン」と、正確で、どこかかたい音を立ててたたかれた。それは人間の拳が木を叩く音というよりは、金属で金属を叩いているような、無機質な響きを持っていた。

「……今度は誰だよ。昨日から、この時計塔の呪いが解けたのかな?」

 ガイルが面倒めんどうくさそうに立ち上がり、扉を開けた。そこに立っていたのは、すすけた茶色の制服を纏い、鼻の頭に黒い油の汚れをつけた、ひょろりと背の高い少年だった。彼の胸元には、ブロンズクラス(三等階級)を示す、少し古ぼけた銅の色をした校章が光っている。彼の目には、分厚いガラスの眼鏡がかかっており、その奥にある瞳は、部屋の中の人々よりも、壁の隅にある大きな時計の歯車の動きに釘付けになっていた。

「……失礼。……ここが、あの『鼓動』の源か? ……僕の持っている機械マシンが、朝から狂ったように針を揺らしているんだ」

 少年は、手元にある不思議な形の金属製の機械を見せながら言った。その機械には、細い針がいくつも付いており、今はゼノリスの方を向いて、激しく左右に震えている。

「……君は、誰だい?」

 ゼノリスが立ち上がって尋ねると、少年はようやく眼鏡の奥の瞳をゼノリスへと向けた。  「……ルカス。ブロンズクラス所属の2年だ。……僕は機械の心臓を研究している。……君が、あの演習で、僕の自信作を泥に埋めた、ゼノリス・ルーツだね?」

「ブロンズクラスの上級生……。ああ、あの時の大きな人形を操っていた……」

 ゼノリスの顔が、わずかに緊張で強張こわばった。けれど、ルカスの瞳には、怒りの色は全くなかった。そこにあるのは、純粋な、そして少し不気味なほどの好奇心だった。

「……謝る必要はないよ。むしろ、僕は感謝しているんだ。……君の放ったあの『泥の波』に飲み込まれた瞬間、僕の人形の動力源が、ありえないほどの高密度な魔力反応を示した。……鉄の塊に、君の光が命の火を灯したんだ。……僕は、その正体が知りたくて、ここに来たんだ」

 ルカスは、ゼノリスの許可も得ずに部屋の中に入ってくると、ゼノリスの包帯を巻いた右手の周りを、じろじろと観察し始めた。  

「……不思議だ。学園の記録では、君の魔力量は『5』となっている。……けれど、この機械の針は、君を『巨大な永久機関』だと指し示している。……ねえ、君。その手を少しだけ、僕の機械に触れさせてくれないか? ……どんな音がするのか、僕の耳で直接聴いてみたいんだ」

「おいおい、勝手に上がり込んで、変なことを言うなよ」


 ガイルがルカスの肩を掴んで引き離した。  

「ここの主は俺たちだ。……ブロンズの奴が、なんの用だ。……お前たちの国のオーグ皇子様は、自分の部屋で泣いてるって話だぜ?」

「……オーグ殿下のことなら、どうでもいい。……彼は、鉄の硬さしか信じていない。……僕は、鉄のその先にある『鼓動』を探しているんだ。……ブロンズクラスの連中は、僕のことを狂っていると言うけれど、君なら、僕の言っていることがわかるはずだ」

 ルカスはガイルの手をひょいとかわすと、今度は部屋の隅で静かに座っているリィンに目を向けた。

「……おや、シルバークラスの『黒い剣士』までいるのか。……君の剣も、いい音がしそうだね。……後で、僕の特製の油で磨かせてくれないか?」

 リィンは、ルカスの不躾ぶしつけな言葉に、わずかに眉をひそめた。

「……断る。……私の剣に、油はいらない」

「ふむ。冷たいね。……でも、その冷たさも、いい潤滑になりそうだ」

 ルカスは一人で納得したように頷くと、勝手に部屋の隅に自分の機材を広げ始めた。

「もう! 油臭あぶらくさい眼鏡くんまで入ってきたわ! 兄さま、この部屋、どんどん汚れていくわよ!」

 フィリーネがぷんぷんと怒りながら、部屋の空気を入れ替えようと大きな窓を力いっぱい開けた。その瞬間だった。

「――あ、危ない!」

 セレスティアが叫んだ。開け放たれた窓の外、何十メートルもの高さがあるはずの空中に、一人の人影ひとかげが浮かんでいたのだ。いや、浮かんでいるのではない。その人影は、窓枠に器用に足をかけ、ひらりと部屋の中に飛び込んできた。

 強い風と共に、部屋の中に舞い込んだのは、日焼けした小麦色の肌を持ち、波打つような青い髪をした少女だった。彼女は、まるで海を渡る旅人のような軽やかな布を纏い、腰には奇妙な形の、黄金色に輝く羅針盤をぶら下げていた。

「……ふう、やっと着いたわ! 星が指し示した場所は、やっぱりこの高い塔だったのね!」

 少女は部屋の真ん中で大きく伸びをすると、潮騒のような爽やかな笑顔をゼノリスに向けた。彼女の体からは、油の匂いではなく、遠い海から運ばれてきた、塩の香りと、突き抜けるような青空の匂いがした。

「……君は、空から来たのかい? ここは、地上からとても高い場所なんだけど……」

 ゼノリスの驚きの問いに、少女は「あはは!」と、明るい鈴の音のような声で笑った。  「違うわよ。私はナディア。今日からこの『鉛』クラスに仲間入りすることになった、船乗りの娘よ。……昨日の夜、空に大きな『銀色の流星』が流れるのを見たの。……星読みの私が、その光の主を追わないわけにはいかないでしょう?」

 ナディアはゼノリスに歩み寄ると、物怖ものおじせずに彼の顔を至近距離で覗き込んだ。  

「……ふーん。あんたが、あの光の持ち主? ……見た目は、どこにでもいそうな普通の男の子なのね。……でも、あんたの目の中に、海よりも深い闇と、お日さまよりも熱い黄金が見えるわ。……あんた、とんでもない運命を背負っているわね」

 ナディアはそう言うと、ゼノリスの手を勝手に取って、ぎゅっと握りしめた。

「決めたわ! 私は今日から、あんたの船の乗組員クルーになるわ! ……あんたがどこへ向かおうとしても、私の羅針盤が正しい道を教えてあげる!」

「船員? でも、僕は船なんて持っていないよ。それに、ここを離れて海に行く予定もないんだ」

「今は、ね。でも、あんたみたいな光を持つ人は、いつか必ず大きな海へ出ることになるわ。……その時まで、私がここで星を読んで、あんたの進むべき道をまもってあげる。……あっ、そうそう。リィンっていう女の子、あんたが同部屋のパートナーね。よろしく!」

 ナディアは、部屋の隅にいるリィンに向かって親指を立てた。リィンは、自分より一回り小さいナディアを見つめ、静かに頷いた。

「……ああ。……迷惑は、かけないようにする」

「あはは! 硬いこと言わないの! 私たち、今日から鉛クラスの『問題児もんだいじ』同士じゃない!」

 ナディアの明るい笑い声が、埃っぽい教室の中に響き渡った。無口なシルバークラスの剣士、油にまみれたブロンズクラスの変人、そして空から降ってきた海洋公国の船乗り。たった一日の間に、ゼノリスを巡る「新しい風」が次々とこの時計塔に吹き込み、屋根裏部屋は、まるでお祭りの前日のような賑やかさと、混沌とした空気に包まれていた。

 セレスティアは、増えていく仲間たちを見渡しながら、少しだけ寂しそうに、けれどどこか嬉しそうに微笑んだ。

「……ゼノリスくん。……あなたの周りには、やっぱり人が集まってくるのね。……まるで、冷たい世界の中で、ここだけがあたたかな暖炉の火を灯しているみたいだわ」

「セレスティア……。僕はただ、みんなと一緒に、穏やかに過ごしたいだけなんだよ。……でも、これからは賑やかになりそうだね」

「ええ。……リィンさんの静かな空気も、ルカスさんの機械の音も、ナディアさんの潮の香りも。……全部、私たちがまもりたい日常の一部になるのね。……私は、聖女としてではなく、一人のクラスメイトとして、この場所をまもっていきたいわ」

 ゼノリスは、自分の手を握るフィリーネとナディアの手の温もりを感じ、部屋の隅で目を閉じているリィンの存在を感じながら、静かに、けれど熱く誓った。

(……何がきても、この場所をまもる。……この新しい仲間たちと一緒に)

 その時、部屋の隅で古い時計が、ボーン、ボーンと、お昼の訪れを告げる鐘を鳴らした。  それは、少年の運命が、新しい歯車を噛み合わせて動き出したことを、誰よりも高らかに祝っているようだった。


 屋根裏部屋の賑やかさは、お昼を過ぎても収まる気配がなかった。新しくやってきたナディアは、窓際に自分の大きな荷物を広げ、まるで自分の家のようにくつろいでいる。ルカスはルカスで、古い時計の歯車の隙間に頭を突っ込み、油まみれの手で何かを書き留めていた。  リィンはやはり、静かに目を閉じたまま、その場を動かない。けれど、彼女がそこにいるだけで、部屋の隅に一本の冷たい杭が打ち込まれたような、独特の落ち着きが生まれていた。

 ゼノリスは、そんな仲間たちの様子を見ながら、少しだけ頭が痛くなるのを感じていた。  それは、嫌な痛みではなかった。新しいクラスメイトが一度に増えて、どう接していいかわからない、転校生が来た日の教室のような、そわそわとした落ち着かない痛みだ。彼は自分の右手の包帯を、無意識に指先でなぞった。

 その時だった。部屋の入り口に、いつの間にか一人の少年が立っていた。扉が開く音も、足音もしなかった。まるで、最初からそこに影として張り付いていたかのように、彼は音もなく現れた。

「……あ、あの。ここが、鉛クラスの教室、で合ってる?」

 消え入りそうな、か細い声だった。そこにいたのは、自分よりもさらに二回りは小さく見える、獣の耳を持った亜人あじんの少年だった。彼の髪はふさふさとした茶色で、大きな瞳は怯えた小動物のように絶えず左右に揺れている。彼の手には、いくつもの小さな瓶が詰まったカバンが握られていた。

「……僕はテオ。薬草を育てるのが好きで……でも、ブロンズクラスでは、僕の作る薬が臭いって言われて。ここに、来いって、言われたんだ」

 テオはお辞儀をしながら、今にも泣き出しそうな顔をした。その表情は、仲良しグループの中で自分だけ話の輪に入れず、靴の先を見つめている子供のようだった。ゼノリスは、自分の幼い頃の記憶が、胸の奥をチクリと刺すのを感じた。

「いらっしゃい、テオくん。……ここは、どんなに臭い薬を作っても、誰も文句なんて言わないよ。……ねえ、ガイル?」

「ああ。俺の油の匂いと混ざれば、どっちが臭いかわからなくなるしな」

ガイルが椅子を回しながら、ひらひらと手を振った。

 テオがホッとしたように息を吐いた、その背後の影の中から、もう一人の少年が這い出すように姿を現した。

「……へえ。仲良しごっこかよ。反吐へどが出るな」

 その少年は、全身を真っ黒な服で包み、首元まで布で隠していた。

彼の名はカシム。砂漠の国から来た情報屋の息子だという。彼の瞳は、冷めたお粥を見つめるような、乾いた光を宿していた。彼は部屋の真ん中に立つことを嫌うように、壁を背にして立った。

「……学園の偉い奴らが、俺の影魔法を気持ち悪いって言って、ここに放り込んだ。……お前らが何を企んでいるのか、影の中からじっくり見させてもらうぜ」

カシムの言葉には棘があった。けれど、それは「これ以上近づくな」という、自分をまもるためのバリアのようにも聞こえた。仲間に裏切られた後、二度と誰も信じまいと誓った夜の、あの強がりに似ていた。

「仲間に加わるのは勝手だけど、兄さまを困らせるようなら、フィリーが追い出しちゃうんだから!」

フィリーネがぷんぷんと怒りながら、新しい二人の顔を交互に見た。

 これで、九人。部屋の中は、もはや足の踏み場もないほどに賑やかになっていた。


部屋の扉が、今度はゆっくりと、錆びた鉄がこすれるような重苦しい音を立てて開いた。  西日に照らされた入り口に立っていたのは、セレスティアと同じ、透き通るような白い肌をした少女だった。けれど、彼女が纏っているのは、聖教国の誇らしい白ではなく、罪を背負った者が着るような、すすけた灰色の修道服だった。

 イリス。かつて聖女候補としてセレスティアと競い合い、教会の不正を暴こうとして、逆にすべてを奪われた少女だ。

「……久しぶりね、セレスティア。……あなたが、こんな『ゴミ捨て場』にいるなんて、驚きだわ」

 イリスの声は、冷たい氷の板を叩くような響きがあった。セレスティアは、驚きで手に持っていた古い本を床に落とした。バサリと乾いた音が、静まり返った教室に響く。

「イリス……! どうして、あなたがここにいるの?」

「……追放されたのよ。光を失った私には、もう行く場所なんてどこにもないわ。……それを、あのヴァルガスが、……副学園長が『拾ってやる』と言ったの」

 イリスは、自嘲気味に唇を歪めた。彼女の言葉から、学園長エレアノールを追い落とそうと画策する副学園長の影が見え隠れした。

「学園長があなたたちを大切にまもろうとしているのが、副学園長は気に食わないみたい。……だから、学園の汚点や厄介者をこの塔に全部集めて、まとめて処分しやすくしたのよ。……箱の中に一つでも腐ったリンゴがあれば、全部捨ててしまえるから」

 イリスの瞳には、深い絶望が刻まれていた。それは、クラス替えで一人だけ仲の悪いグループに入れられたときのような、あるいは先生から「お前はどうせ失敗する」と決めつけられたときのような、足元がふわふわと浮いて、どこにも自分の居場所がないような不安の色だ。

 ゼノリスは、イリスの言葉を聴きながら、自分の右手の包帯を強く握りしめた。

「……ゴミ捨て場、か。……僕たちをそんなふうに見て、笑っている人がいるんだね」

「そうよ。……あなたたちと一緒に、私もここで消されるだけ。……それが、私に与えられた最後の役目なんですって」

 イリスの肩が、微かに震えていた。彼女の態度は冷たかったが、その中には「誰かに助けてほしい」という、言葉にできない悲鳴が混ざっていた。

 セレスティアは、震える足でイリスに歩み寄った。

「……いいえ、イリス。副学園長が何を言おうと、関係ないわ。……ここは、誰かに決められた場所じゃない。……私たちが、自分たちの足で立って、自分たちでまもると決めた『城』なのよ」

 セレスティアは、イリスの冷たい手を、両手で包み込むように握りしめた。その温もりは、冷え切った冬の朝に、お湯の入ったカップを握ったときのような、ジンわりとした優しさを持っていた。

「ようこそ、鉛クラスへ。……今日から、私たちは仲間よ。……あなたが何を背負っていても、ここではただのクラスメイトなんだから」

 イリスは、信じられないものを見たかのように目を見開いた。彼女の目から、一筋の涙が、灰色の服にシミを作って落ちた。それは、ずっと張り詰めていた糸が、誰かの優しい一言でプツリと切れたときのような、静かな涙だった。

 これで、十人。エリートからも、一般の生徒からも「いらないもの」として弾き出された少年少女たちが、この古い時計塔の屋根裏部屋に、一つの星座のように結集した。


「よし! 全員揃ったところで、今日はお祝いだ!」

ガンド先生が、どこからか大きな木箱を抱えて部屋に入ってきた。

 箱の中には、焼きたての黒パンと、たくさんの大きな林檎、そして特製の苺のハチミツ漬けが詰まっていた。部屋の真ん中に大きな布を広げ、十人の少年少女たちが、肩を並べて座る。

 リィンは無言のまま、手際よくパンを切り、全員に配っていった。ナディアは林檎を丸かじりし、ルカスはパンを片手に、もう片方の手で機械をいじっている。テオはおずおずとハチミツを舐め、カシムは隅っこで黙々と食べていた。

「兄さま、あーんして! これが一番おいしいところなんだから!」

フィリーネが、ゼノリスの口元にハチミツを運ぶ。

「おい、フィリー。ゼノリスは自分で食べられるだろ。……っていうか、俺の分が少ねえぞ!」  ガイルが笑いながらフィリーネとパンを取り合った。

 その光景は、大家族の食卓のようだった。今までずっと一人で食事をしてきたイリスやテオにとって、隣に誰かがいて、誰かの笑い声が聞こえるこの時間は、何よりも得がたい宝物のように感じられた。美味しいものを食べたとき、胃のあたりがジンわりと温かくなる、あの幸せな感覚だ。

 ゼノリスは、みんなの笑顔を一人ひとり見渡した。

(……ああ。……僕は、この光景をまもるために、ここにいるんだ)

彼の右手の刻印は、今は痛みもなく、ただ静かなぬくもりを保っていた。

 けれど、そのあたたかな時間を切り裂くように、学園の下から、不気味な音が響いてきた。


 ガシャリ。ガシャリ。

それは、平和な食卓には全く似合わない、冷たい鉄の鎧が擦れ合う音だった。

 時計塔の下に、真っ黒な馬車が数台、止まるのが見えた。馬車には、大陸を支配する「八ヵ国連合」の、禍々(まがまが)しい紋章が刻まれている。

「……来たな」

ガンド先生の表情から、笑いが消えた。彼の銀色の仮面が、夕暮れの光を反射して、鋭く光った。

 屋根裏部屋の空気が、一瞬で凍てついた。

「ゼノリス、フィリーネ。……あいつらの狙いは、お前たちだ」

 ガンド先生の声は、低く、重かった。窓の外を見ると、馬車の中から、豪華な毛皮けがわを纏った一人の男が降りてきた。その男の顔を見た瞬間、ゼノリスは息を呑んだ。

(……あいつは。……かつて僕たちの村を焼き、あの商人……!)

 かつて味わった、泥水を飲まされるような屈辱と、逃げ惑った夜の恐怖が、ゼノリスの脳裏にドス黒く蘇った。右手の刻印が、何かに怯えるように、激しく、鋭く脈打ち始めた。


 屋根裏部屋のテーブルに残された、食べかけのパンと苺のハチミツ漬け。つい数分前までそこにあったはずの、胃のあたりがジンわりと温かくなるような平和な時間は、窓の外から響いた馬車の音一つであっけなく切り裂かれた。

「兄さま、行かないで。……あの黒い馬車、嫌な匂いがするわ」

 フィリーネがゼノリスの服の裾を、ちぎれんばかりの力で握りしめた。彼女の指先は、雪に触れたあとのように冷たく震えていた。八歳の彼女にとって、階下に現れた不気味な訪問者は、自分たちがようやく見つけた「宝箱」を無理やり奪いに来る、得体の知れない「大人の理不尽」そのものに見えているのかもしれない。

 階段を上がってくる足音が聞こえる。それは、ガンド先生のような軽やかな音ではなく、重い鉄の板を地面に叩きつけるような、硬くて威圧的な音だった。扉が乱暴に開かれた。そこに立っていたのは、学園の事務局ではなく、全身を重厚な鉄の鎧で包んだ連合の兵士たちだった。彼らが身にまとうマントには、大陸を支配する「八ヵ国連合」の、禍々(まがまが)しい紋章が刻まれている。

「鉛クラスの生徒たち。直ちに中央広間へ来い。……ヴァルガス副学園長と、連合の使者がお待ちだ」

 兵士の声は、錆びた扉が嫌な音を立ててきしむような響きを持っていた。ゼノリスたちは顔を見合わせ、立ち上がった。屋根裏部屋を出て、中央の建物へと続く長い廊下を歩く。  普段なら何気なく通り過ぎる廊下だが、今はその距離が、果てしなく遠く感じられた。すれ違うゴールドクラスやシルバークラスの生徒たちが、汚れたものを見るような目でこちらを見て、わざとらしく道を空ける。その視線は、服を汚して帰ってきた子供を見て、「自分たちとは違う世界の住人だ」と決めつけて遠巻きに眺める、あの冷たさに似ていた。

 ゼノリスの隣を歩くナディアは、いつもよりずっと口数が少なく、腰の羅針盤を握る手に力が入っていた。ルカスは、自分の足音のリズムが微妙に狂っていることを気にするように、何度も眼鏡の位置を直している。リィンは、ただ無言で、ゼノリスの斜め後ろの影に寄り添うように歩いていた。彼女の歩みには、お辞儀一つしないあのかたくなな沈黙が宿っている。それは、嵐の中を真っ直ぐに飛ぶ鳥のような、鋭い覚悟を感じさせた。


 学園の中央にそびえる大広間に足を踏み入れた瞬間、ゼノリスたちはそのまばゆさに目を細めた。何千もの魔石が埋め込まれたシャンデリアが、真昼のような光を広間全体に振りまいている。けれど、その光はあたたかくはなかった。病院の真っ白な待合室で、自分の名前が呼ばれるのを待っているときのような、呼吸をするのさえはばかられる、落ち着かない緊張をいてくる。

 広間の突き当たり。一段高い場所に置かれた豪華な椅子に、一人の男が深く腰掛けていた。  ヴァルガス・ヴィンセント副学園長。彼は、丁寧に整えられた銀髪を光らせ、獲物の隙を伺う蛇のような瞳で、ゼノリスたちを見下ろしていた。

「……ようやく来たか。相変わらず、鉛の者たちは足取りが重いようだな」

 ヴァルガスの声は、研ぎ澄まされたカミソリのように鋭く、広間の静寂を切り裂いた。  彼は、エレアノール学園長が留守であることをこれ幸いと、この場所を自分の野心のための舞台に作り変えていた。彼の横には、自分を大きく見せようとして肩をいからせたゴールドクラスの教師たちが、揉み手をしながら控えている。その姿は、自分の力ではなく、上司の顔色をうかがうことで地位を守ろうとする大人の、嫌な卑屈さを感じさせた。

「……副学園長。僕たちを呼び出した理由はなんですか?」

 ゼノリスが、震える声を喉の奥で抑え込んで尋ねた。

「理由、か。……君たちがこの学園の、美しく保たれた秩序を乱していることは、もはや明白だ。……特例で入学させた八歳の娘が、演習で制御不能な光を放ったという報告も届いている」

 ヴァルガスは椅子の肘掛けを指でトントンと叩いた。その規則正しい音は、テストの残り時間を知らせる時計の音のように、聞いている者の心を無闇むやみに焦らせる。

「学園長は甘すぎる。……爆弾を屋根裏に隠しておいて、安全だと言い張るようなものだ。……だから、連合の使者に直接、君たちの『今後』を決めてもらうことにした」

 ヴァルガスが冷たく手を叩くと、広間の脇にある厚手のベルベットのカーテンが開いた。  そこから、一人の男がゆっくりと、影を連れて現れた。

 現れたのは、金糸で縁取られた重そうな毛皮を纏い、指にはいくつもの宝石を輝かせた、丸々と太った中年の男だった。男が歩くたびに、高価な香水の匂いと、どこか腐った肉のような嫌な匂いが混ざり合って漂った。


 その顔を見た瞬間、ゼノリスの心臓が、冷たい深い水に飛び込んだときのようにドクンと大きく波打った。喉の奥がカラカラに乾き、指先から血の気が引いていく。忘れるはずがない。七年前のあの穏やかな麦畑の傍で、フィリーネの怪我を治した自分の光を見て、どろりと濁った欲に染まった瞳でこちらを見つめていた、あの男。自分たちの村を連合へ売り渡し、黄金色の日常を灰に変えた張本人――商人のガズだった。

「……ああ。……お元気そうで何よりですな、ルーツ家の坊ちゃん」

 ガズは、脂ぎった顔に、ねっとりとした笑みを浮かべて近づいてきた。彼の声は、湿った土を這いずり回る虫の音のように、嫌悪感を伴ってゼノリスの耳に入ってきた。

「……なぜ、お前がここにいるんだ」

 ゼノリスの声は、低い怒りに震えていた。

「あはは、ひどい言いようですな! 私は今や連合の補給を一手に任される、立派な商人ですよ。……学園に『帝国の種』が芽吹いたと聞きましてな、連合の旦那方が心配されているのですよ。……特に、そちらのお嬢ちゃんについてはね」

 ガズはゼノリスの右手の包帯を、さも汚いものを見るかのような不躾ぶしつけな視線で指差した。

「……その傷も、相変わらずのようで。……かわいそうに。……あのまま泥の中で一生を終えていればよかったものを、なぜわざわざ、日の当たる場所に出てきたのです?」

「……僕たちは、ただのクラスメイトとしてここにいるだけだ。……あんたに指図される筋合いはない」

 ゼノリスが言い返すが、ガズは意地の悪い笑みを深めるだけだった。彼はそのまま、ゼノリスの背後に隠れていたフィリーネに、獲物を鑑定するようなねっとりとした視線を向けた。

「……そして、お嬢ちゃん。……彼女こそ、連合が喉から手が出るほど欲しがっている『奇跡』の源だ。……演習で見せたあの銀色の光。……あれは、小さな女の子が持っていていい力ではない。……連合が厳重に管理し、有効に利用させてもらわねばなりませんな」

 ガズの言葉は、まるで商品の良し悪しを値踏みするように、冷淡だった。フィリーネは、腐った果物を踏んでしまったときのような、露骨な嫌悪感を顔に浮かべ、ゼノリスの背中に強くしがみついた。

「兄さま、このおじさん嫌よ。……すごく、嫌な匂いがするわ」

「……ガズ。……フィリーネは僕の妹だ。……あんたが売り飛ばしていい『物』じゃない」

 ゼノリスが一歩踏み出した。彼の右手の包帯の下で、三つ目の星の種火が、怒りに呼応するようにジリジリと熱を帯び始めた。その熱さは、夏の日差しに焼かれたアスファルトの熱さよりも、さらに深く、鋭く、彼の魂を震わせていた。

「……ほう、まだ抗うつもりですか。……ヴァルガス副学園長。……連合の要求は、すでにお伝えした通りです」

 ガズは、ヴァルガスの方を向き、いやしい笑みを浮かべた。ヴァルガスは冷たく頷き、ゼノリスたちに最後通牒を突きつけた。

「……フィリーネ・ルーツ。……彼女の身柄を連合に引き渡せ。……それが、この学園の平和を維持するための、唯一の条件だ。……断れば、君たち十人全員を、反逆者として即座に投獄する。……この『泥』の集まりに、拒否する権利などないのだよ」

 広間の中に、窒息しそうな沈黙が広がった。それは、高い崖の上に一人で立たされ、背中を押されるのを待っているときのような、逃げ場のない絶望だった。

 ゼノリスは、唇を強く噛み締めた。自分の不甲斐なさが、喉の奥で苦い薬のような味を立てていた。

(……僕は、また。……七年前のあの夜と同じように、まもれないのか?)

 けれど、その絶望を切り裂いたのは、仲間の声だった。

「……解析の結果、あんたのその提案、ゴミ箱に捨てるのも勿体ないくらいのクズだな、おっさん」

ガイルが、一歩前へ出て、不敵な笑みを浮かべた。その言葉は、凍てついた広間の空気に、最初の一筋の亀裂を入れたのである。


 ヴァルガス副学園長の顔が、怒りでどす黒く染まっていく。彼は、自分の完璧な計画に、泥を投げつけられたかのような屈辱を感じていた。一方、商人ガズは、脂ぎった顔をひきつらせ、ガイルを睨みつけた。

「……小僧。今、なんと言った? この私に向かって、クズだと?」

 ガズの声は、怒りで低く震えていた。ガイルは鼻で笑い、耳にかけた解析用の眼鏡を指で直した。

「ああ、そう言ったんだよ。あんたのその汚い取引は、計算するまでもない。ゴミ箱に捨てるのが一番お似合いだ。……フィリーネを渡せば平和になる? 笑わせるな。あんたはただ、高く売れる商品を、タダで手に入れたいだけだろう?」

 ガイルの言葉は、まるで隠していたテストの悪い点数を親に見つけられたときのような、逃げ場のない真実を突いていた。ゼノリスは、ガイルの背中を見つめ、自分の震えていた指先に、再び力が戻ってくるのを感じた。

「……そうだ。フィリーネは僕たちの家族だ。……あんたたちの道具じゃない」

 ゼノリスが、一歩前に出た。彼の右手の包帯の下で、三つ目の星の鼓動が、じりじりと熱を上げている。それは、ずっと我慢していた熱いスープを、ついに一口飲んだときのような、喉が焼けるような覚悟の色を帯びていた。

「だまりなさい、鉛の分際で!」

ヴァルガスが、椅子の肘掛けを力任せに叩いた。

「これは学園の、そして世界の平和のための決断だ! たった一人の子供のために、学園全体を危険にさらすつもりか!」

ヴァルガスの怒鳴り声は、広間の壁に跳ね返り、十人の少年少女たちの耳を刺した。それは、掃除をサボったことを叱る先生の声というよりは、自分の思い通りにならない現実に当たり散らす、子供のような身勝手な響きがあった。


「……世界の平和、か。……ずいぶんと安い言葉を使うのね」

 ナディアが、腰の羅針盤をカチリと鳴らした。彼女の青い髪が、広間に吹き込む隙間風に揺れる。

「私の故郷の海では、一番弱い奴を海に捨てて助かろうとする船乗りは、二度と陸には戻れないわ。……あんたの言っていることは、ただの『逃げ』よ。……そんな汚い船には、私は絶対に乗らない」

 ナディアの言葉は、冷たい海水を浴びせられたときのように、ヴァルガスの言葉を冷たく洗い流した。続いて、ルカスが眼鏡を光らせ、一歩前へ出た。

「……不条理だ。……僕の計算では、フィリーネさんを渡したあとのこの学園は、支柱を失った建物のように、すぐに崩れ落ちる。……一度魂を売った場所には、もう何も残らないからね。……僕は、壊れた機械マシンに用はない」

 ルカスの言葉は、硬い金属を叩いたときのような、冷たくて正確な響きを持っていた。

 部屋の隅で影に潜んでいたカシムも、闇の中から姿を現した。

「……影は嘘を吐かない。……あんたの心の中は、ドロドロに腐った沼のようだぜ、副学園長。……そんな沼に、俺たちの太陽を引きずり込ませるわけにはいかないな」

 亜人の少年テオも、震える手でカバンを握りしめながら、必死にゼノリスの隣に立った。

「……僕の作る薬は、ときどき凄く苦いけれど。……あんたの言葉は、それよりもずっと毒が強い。……フィリーネちゃんは、僕が……僕たちがまもるんだ」

 そして、灰色の修道服を纏ったイリスが、ヴァルガスを真っ直ぐに見据えた。

「……ヴァルガス様。……あなたが私をここへ送った理由は、わかっています。……でも、計算違いでしたね。……私はここで、本当の『光』を見つけてしまったから」

 セレスティアは、イリスの手をしっかりと握りしめた。

「……そうです。私たちは、もう一人ではありません。……あなたが何を奪おうとしても、私たちの心にある絆だけは、消せはしませんわ」

 十人の少年少女たちが、ゼノリスとフィリーネを囲むように、一つの盾となって立ちはだかった。その光景は、真っ暗な夜道で、小さな街灯の下に身を寄せ合う家族のように、もろく、けれど何よりも尊いものだった。


 ヴァルガスの怒りは、ついに爆発した。

「ええい、衛兵! この不届き者たちを今すぐ捕えろ! 抵抗するなら、その場で叩き斬っても構わん!」

ヴァルガスの号令とともに、広間の周囲に控えていた連合の兵士たちが、一斉に剣を抜いた。ガシャリ、という冷たい鉄の音が、白亜の天井に反響する。

 兵士たちが距離を詰め、最初の一人がゼノリスに迫った、その瞬間。

 ――キンッ、という、耳の奥まで突き刺さるような高い音が響いた。

 気づいたときには、ゼノリスの前に、漆黒の髪をなびかせた少女が立っていた。リィンだ。  彼女はいつの間に抜いたのか、その鋭い剣の鞘で、兵士の剣を完璧に受け止めていた。

 リィンはやはり、何も語らない。彼女の瞳は、冬の夜空のように静かで、けれど一切の油断もない光を宿していた。彼女はゼノリスを振り返ることもなく、ただ一歩、兵士たちを押し返すように前に出た。

 リィンが足を動かすたびに、床の上の埃が微かに舞い、彼女の周りだけ空気がピンと張り詰める。彼女は剣を振るうのではなく、ただそこに立つだけで、「ここから先は一歩も通さない」という、絶対の壁となっていた。

「……リィン、さん」

ゼノリスがつぶやく。リィンはわずかに首をかしげ、視線だけをゼノリスの右手に向けた。  それは、まるで「心配するな」と、言葉にならない声で語りかけているようだった。

 リィンのその沈黙の守護に勇められ、ナディアやルカスたちも、それぞれの戦い方で構えた。ナディアが羅針盤から青い風を巻き起こし、ルカスが隠し持っていた小さな機械から目つぶしの煙を噴き出させる。カシムの影が兵士たちの足元に絡みつき、テオが眠り薬の入った粉末を空中に撒いた。

「何をしている! 相手は子供だぞ! 寄ってたかって、さっさと捕まえんか!」

ヴァルガスが狂ったように叫ぶが、兵士たちは十人の放つ圧倒的な連帯感に、たじろいでいた。それは、小さなアリの群れが、巨大な獣に立ち向かっているのを見ているような、信じがたい光景だった。


「……おのれ、おのれぇ……!」

ガズは、脂ぎった手を握りしめ、自分の商売が失敗しようとしていることに、激しい焦りを感じていた。彼は、ゼノリスの中に眠る「帝国の残照」が、自分の想像を遥かに超える強さであることを、今さらながらに悟り始めていた。

「ゼノリス・ルーツ! お前は、自分のせいでこの学園が灰になってもいいのか! 家族をまもるために、他人を犠牲にする。……それは、お前が嫌っていた『略奪者』と同じことではないのか!」

 ガズの汚い叫びが、ゼノリスの胸をえぐった。それは、泥だらけの手で、自分の綺麗な服を汚されたときのような、やりきれない嫌な感覚だった。

 ゼノリスは、俯いた。

(……僕が、みんなを不幸にしているのか? ……僕が、ここにいなければ……)

そんなゼノリスの弱気を、フィリーネの小さな手が、力強くかき消した。

「兄さま、だめよ! あの人の言葉を聞いちゃだめ!」

 フィリーネが、ゼノリスの顔を両手で包み込んだ。彼女の瞳は、お日さまの光を透かしたような、澄み切った青をしていた。

「フィリーは、兄さまと一緒にいたい。……みんなと一緒がいい。……誰が何を言おうと、フィリーは兄さまを信じてるんだから!」

 フィリーネのその言葉が、ゼノリスの心の奥底で眠っていた、最後の鎖を断ち切った。  喉の奥で、ずっと詰まっていた塊が、熱い溶岩のように溶け出した。

「……ガズ。お前の言う通り、僕は略奪者かもしれない」

 ゼノリスが、顔を上げた。その瞳からは、迷いの色が消え、代わりに黄金と闇が、かつてないほど激しく混ざり合っていた。

「でも、略奪されるのを黙って見ているだけなのは、もうおしまいだ。……僕は、自分たちの手で、自分たちの明日を奪い返す!」

ゼノリスの右手を強く締め付けていた白い包帯が、内側から噴き出す銀色の熱に耐えきれず、一瞬で真っ白な灰へと変わった。あらわになったのは、赤くただれた火傷の痕。しかしその中心にある「三つ目の星」の刻印から、これまでのどんな魔法とも異なる、静かな銀色の光が溢れ出した。

 銀色の粒子は広間全体へ一気に広がり、目に見える物理的な変化を引き起こした。

ゼノリスたちを取り囲んでいた連合の兵士たちの動きが止まった。彼らが構えていた重厚な鉄の剣は、まるで何倍にも重さが増したかのように、ガシャリと音を立てて大理石の床にめり込んだ。兵士たちは自分の剣の重さに耐えきれず、その場に膝をついた。彼らの纏う黒鉄の鎧さえもが、自らの重みで彼らを地面に縫い付けていた。

ヴァルガス副学園長の背後に控えていたゴールドクラスの教師たちが放とうとした魔法が消滅した。複雑な幾何学模様を描いていた魔法陣は、銀色の光に触れた瞬間に、まるでお湯に落とした砂糖細工のように形を失い、霧散した。広間を満たしていた魔力の「圧」が、ゼノリスの放つ銀色の静寂によって完全に中和されたのだ。

 銀色の粒子に包まれたガイル、セレスティア、リィンたちの体からは、それまで感じていた不安や重圧が消え失せていた。リィンの剣先には銀色の熱が宿り、彼女が軽く足を踏み出すだけで、床の石材が音もなく両断された。カシムの影は物理的な質量を持ち、兵士たちの手足を鋼鉄の鎖のように拘束した。

 ゼノリスは、脂汗を流して座り込んでいるガズを冷たく見下ろした。

「……ガズ。お前の言う通り、僕たちはこの学園の底に沈む鉛だ」

 ゼノリスの声は、低いが広間の隅々まで明瞭に響いた。

「でも、この鉛はお前の金貨よりも重い。……お前たちの理屈で、僕たちの明日を測ることはもうできない」

 ゼノリスが右手を軽く振り抜くと、銀色の衝撃波がガズとヴァルガスの足元を叩いた。  それは爆発するような熱ではなく、骨の髄まで響くような冷たく重い衝撃だった。広間の大理石には、ゼノリスを中心とした巨大な星の紋章が刻まれ、その「重み」によって連合の兵士たちは指一本動かすことができなくなった。

 ヴァルガス副学園長は、目の前の光景を信じられないといった面持ちで、震える指をゼノリスへ向けた。

「……馬鹿な……。数値化できる魔力を超えている……。これが、あの嵐の夜の……!」

 ゼノリスの放つ銀色の光は、広間にあった「強者の論理」を完全に粉砕し、力関係を逆転させていた。そこにある事実はただ一つ。鉛とさげすまれた少年が、誰にも動かすことのできない「絶対的な拒絶」を、世界に対して示したということだった。


 ゼノリスの右手の刻印から溢れ出した銀色の粒子は、広間の空気を物理的に書き換えていった。大理石の床に刻まれた銀色の星の紋章は、その境界線に触れるすべての「敵意」を重圧へと変換する。商人ガズは、自分の体が泥の中に引きずり込まれるような錯覚に陥り、脂汗を流しながら床に這いつくばった。彼が必死に握りしめていた宝石入りの杖は、自らの重みに耐えきれず、乾いた音を立てて砕け散った。

「……ああ、私の財宝が……! ルーツ家のガキが、なぜこれほどの……!」

 ガズの叫びは、ゼノリスの放つ銀の静寂に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。一方、ヴァルガス副学園長は、自分が拠り所にしていた「学園の権威」という盾が、目の前の少年が放つ光の前では塵に等しいことを悟った。彼は椅子から転げ落ち、かつて自分が蔑んだ「鉛の生徒」たちの足元まで無様に転がった。

 その時、広間の巨大な正門が、外側から静かに、けれど力強く押し開かれた。逆光の中に現れたのは、長い銀髪を風にたなびかせた一人の女性。学園長エレアノールだった。彼女の背後には、武装を解いた学園の近衛騎士たちが控えており、広間の異常事態を即座に制圧する準備を整えていた。

「……そこまでです、ヴァルガス。そして連合の使者の方々も」

 エレアノールの声は、嵐のあとの静かな海のように落ち着いていた。彼女の不在を突き、学園の生徒を他国に売り渡そうとした罪を指摘されたヴァルガスは、その場で副学園長の職を解任された。連合の使者として潜り込んでいたガズもまた、エレアノールの命を受けた近衛騎士たちによって、広間の外へと引きずり出されていった。


 敵対する者たちが去り、広間に残されたのは、銀色の光を静かに収束させていく十人の少年少女たちと、彼らを見守るエレアノールだけだった。エレアノールは、ゼノリスたちの前まで歩み寄ると、聖母のような慈しみをもって、一人ひとりの顔を見つめた。

「……よく、自分たちの手で未来を守り抜きましたね。あなたたちは今日、学園の歴史上、最も異質で、最も高潔な集団として認められました」

エレアノールは、広間の隅々にまで届く声で宣言した。

「あなたたちは今日から『鉛の騎士団プルンブム・ナイツ』です。学園の底辺ではなく、学園を底から支える最後の盾として、その名を誇りなさい」

「鉛の騎士団……」

ゼノリスがその名を噛み締めるように呟いた。これまで「クズ」や「落ちこぼれ」と呼ばれてきた彼らにとって、その名は、自分たちのこれまでの痛みをすべて肯定してくれる、何よりも輝かしい言葉だった。


 白亜の広間を出た十人は、夜のとばりが下りた学園内を、肩を並べて歩いていた。  つい先ほどまでの激しい緊張が嘘のように、廊下を渡る風は心地よく、彼らの熱くなった頬を撫でていく。遠くに見える旧時計塔の屋根裏部屋には、消し忘れた魔法灯の小さな明かりが、彼らを待っているかのようにぽつんと灯っていた。

「……帰ろう。僕たちの、城へ」

 ゼノリスの言葉に、仲間たちが静かに頷く。フィリーネはゼノリスの右手をそっと握り、リィンはその後ろを影のように見守りながら歩く。勝利の喜びよりも、今はただ、仲間と一緒にあたたかなお茶を飲みたいという、ささやかで切実な想いが、彼らの胸を満たしていた。

 だが、彼らはまだ知らない。この勝利が、大陸全土を揺るがす巨大な波紋の、ほんの最初の一滴に過ぎないことを。そして、ゼノリスの銀色の光がはらむ『希望』と『危うさ』。それが、これからの彼らにいかなる試練をもたらすのか。その答えを、彼らはまだ持ち合わせてはいなかった。

 時計塔の扉を開けると、そこには懐かしい埃の匂いと、仲間たちの気配があった。十人の少年少女たちの、本当の意味での「学園生活」は、この静かな夜から始まろうとしていた。

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