最後の審判は、彼女の微笑みから始まった
目が覚めたら、世界が終わっていた。
正確には、終わりかけていた。
僕の名前は藤原ケイ。ごく普通の高校二年生だ。いや、だった、と言うべきか。
朝、いつも通りに目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、妙に白い。
違和感を覚えてカーテンを開けると、空が割れていた。
文字通り、だ。
青空に、巨大な亀裂が走っている。
まるでガラスにヒビが入ったように。
その裂け目の向こうには、何もない。虚無だけがある。
「……は?」
声にならない声が漏れた。
慌ててスマホを手に取る。
SNSは阿鼻叫喚だった。
『空が割れてる』
『世界の終わりだ』
『神の怒りだって速報が』
震える手でニュースサイトを開く。
各国の首脳が緊急会見を開いている。
科学者たちは原因不明と繰り返すばかり。
宗教家たちは「最後の審判」だと叫んでいた。
その時だった。
玄関のチャイムが鳴った。
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「はい、終末のお知らせに参りました」
ドアを開けると、そこに少女が立っていた。
年は僕と同じくらいだろうか。
白いワンピースを着た、小柄な女の子。
長い黒髪が風に揺れている。
そして――彼女は、微笑んでいた。
「え、あの……」
「初めまして、ケイさん。私はユイと申します」
少女は丁寧にお辞儀をした。
その仕草が妙に古風で、でも自然だった。
「あの、終末のお知らせって……」
「文字通りの意味ですよ。世界は今日の正午に終わります」
彼女はあっけらかんと言った。
まるで天気予報を告げるように。
「は、はあ……?」
「信じられませんよね。でも事実です」
ユイと名乗った少女は、僕の家に上がり込んできた。
勝手にリビングのソファに座る。
僕は呆然と彼女の向かいに座った。
「あの、君は一体……」
「私は『終末管理者』です。世界を終わらせる役目を持った存在、とでも言いましょうか」
彼女はコーヒーカップを手に取った。
いつの間に淹れたんだ、それ。
「世界を、終わらせる……?」
「ええ。正確には、神様が決めたスケジュール通りに終わらせる係ですね」
ユイは楽しそうに語る。
世界の終わりを、まるで遠足の予定のように。
「でも、なんで僕のところに?」
「それはですね――」
彼女は一度言葉を切った。
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「あなたに、選択権があるからです」
「選択権?」
「ええ。世界を終わらせるか、それとも救うか」
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ユイの説明はこうだった。
この世界には「終末の鍵」というものが存在する。
それは特定の人間の魂に宿っており、その人間が「世界を終わらせる」と決意した瞬間、終末が始まる。
逆に「世界を救う」と決意すれば、終末は回避される。
「で、その鍵を持ってるのが僕だと?」
「その通りです」
ユイは頷いた。
「でも、なんで僕なんだ。僕は特別な人間じゃない」
「だからこそ、ですよ」
彼女は優しく微笑む。
「特別じゃない人間が、どう選択するか。それが神様の興味なんです」
「ふざけるな」
僕は思わず声を荒げた。
「そんな理由で、世界の命運を決めろって言うのか」
「ええ、そうです」
ユイは動じない。
ただ静かに、僕を見つめている。
「ちなみに、選択しなかった場合は?」
「正午になった時点で、自動的に終末が確定します」
つまり、何もしなければ世界は終わる。
時計を見ると、午前九時を回ったところだった。
残り時間は三時間もない。
「……世界を救う方法は?」
「簡単ですよ。あなたが『世界を救いたい』と心から願うだけ」
「それだけ?」
「それだけです。ただし条件があります」
ユイは人差し指を立てた。
「あなたの命と引き換えです」
「……は?」
「世界を救う代償として、あなたの存在がこの世界から消えます。誰の記憶からも、記録からも」
それは、つまり。
僕が生まれなかったことになる、ということだ。
「逆に、世界を終わらせる場合は?」
「あなただけは最後まで意識を保ったまま、世界の終わりを見届けることができます」
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僕は窓の外を見た。
空の亀裂は、さらに広がっている。
街では人々が逃げ惑っているのが見えた。
「なあ、ユイ」
「はい」
「君は、どっちを選んでほしいと思ってる?」
ユイは少しだけ考えるような仕草をした。
そして、静かに答える。
「私は、ケイさんの選択を尊重します」
「それは、管理者としての立場?」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「一人の人間として、です」
「君も、人間なのか」
「半分だけ、ですけどね」
ユイは寂しそうに笑った。
「私の母は人間でした。父は神の使い。だから私は、どちらの世界にも完全には属せない」
「……それで、この役目を?」
「ええ。中途半端な存在だからこそ、公平に判断できると思われたんでしょう」
彼女の瞳に、一瞬だけ影が差した。
それは孤独の色だった。
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僕はソファから立ち上がった。
外に出る。
ユイもついてきた。
街は混乱していた。
車のクラクションが鳴り響き、悲鳴が聞こえる。
でも、不思議と暴動は起きていない。
コンビニの前では、店員が無料で商品を配っていた。
公園では、家族が抱き合っている。
歩道橋の上では、カップルがキスをしていた。
「みんな、最期の時間を大切に過ごしてるんだな」
「ええ。人間は、終わりを前にすると本質が現れます」
ユイが呟いた。
「醜い部分も、美しい部分も」
「君は、どっちが多いと思う?」
「……半々、でしょうか」
僕たちは公園のベンチに座った。
空の亀裂は、もう空の半分を覆っている。
「なあ、ユイ」
「はい」
「世界を救ったら、君はどうなるんだ?」
ユイは驚いたような顔をした。
「私、ですか?」
「ああ。君の役目は終わるんだろ?」
「……そうですね。私も消えることになります」
「やっぱりか」
「でも、それでいいんです。それが私の役目ですから」
彼女は微笑んだ。
でも、その笑顔はどこか寂しげだった。
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時刻は十一時を回った。
残り一時間を切っている。
「ケイさん、そろそろ決めてください」
「……ああ」
僕は立ち上がった。
深呼吸をする。
正直に言えば、迷っていた。
世界を救えば、僕は消える。
でも、何億という人々が生き続ける。
世界を終わらせれば、僕は残る。
でも、全てが無になる。
どちらが正しいのか。
いや、そもそも正しさなんてあるのか。
「なあ、ユイ」
「はい」
「君は、生きたいと思ったことはある?」
ユイは目を丸くした。
「生きたい、ですか」
「ああ。役目とか関係なく、ただ生きていたいって」
彼女は少しの間、黙っていた。
そして、小さく頷く。
「……あります」
「どんな風に?」
「普通の女の子として。学校に通って、友達と笑って、恋をして」
ユイの声が震えた。
「でも、それは叶わない夢です。私は生まれた時から、この役目のためだけに存在していますから」
「そんなの、おかしいだろ」
僕は叫んだ。
「君だって、生きる権利がある。役目なんかに縛られる必要はない」
「でも――」
「君は、本当は世界が終わってほしくないんじゃないのか?」
ユイは俯いた。
肩が小刻みに震えている。
「……分かりません。分からないんです」
彼女の目から、涙が零れた。
「私は、何のために生まれてきたんでしょう。世界を終わらせるため? それとも救うため?」
「違う」
僕は彼女の肩に手を置いた。
「君は、君として生きるために生まれてきたんだ」
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時刻は十一時四十五分。
残り十五分。
空の亀裂は、もう空全体を覆っていた。
虚無が、じわじわと世界を侵食している。
「ケイさん、時間です」
「ああ、分かってる」
僕は、決めた。
自分の選択を。
「ユイ、君に頼みがある」
「何でしょう」
「世界を救った後、君も一緒に生きてくれないか」
ユイは首を横に振った。
「それは無理です。ルールですから」
「ルールなんて、破ればいい」
「でも――」
「いいか、よく聞いてくれ」
僕はユイの両肩を掴んだ。
「僕は今から世界を救う。でも、それは君のためでもあるんだ」
「私の、ため……?」
「ああ。君に、生きてほしいから」
ユイの目が見開かれた。
「君は、もう十分に役目を果たした。だから、これからは自分のために生きてくれ」
「そんなこと、できません……」
「できるさ。君が望めば」
僕は彼女の手を握った。
「君は、生きたいんだろ? だったら、生きろ」
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時刻は十一時五十九分。
残り一分。
僕は目を閉じた。
心の中で、強く願う。
『世界を、救いたい』
その瞬間、体が光に包まれた。
温かくて、優しい光。
意識が遠のいていく。
でも、不思議と怖くなかった。
むしろ、清々しい気持ちだった。
最期に聞こえたのは、ユイの声だった。
「ケイさん、ありがとう――」
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目が覚めると、僕は公園のベンチに座っていた。
「え……?」
体を確認する。
消えていない。
僕は、ここにいる。
空を見上げると、亀裂は消えていた。
青空が広がっている。
「ケイさん!」
声がして振り向くと、ユイが走ってきた。
息を切らせて、でも笑顔で。
「ユイ……? 君も、消えてない……?」
「はい! 奇跡が起きたんです!」
彼女は嬉しそうに言った。
「ケイさんの願いが、ルールを超えたんです。世界を救いたいという願いと、私を生かしたいという願い、その二つが重なって――」
「だから、二人とも生き残った……?」
「ええ! 神様も、これには驚いたみたいです」
ユイは涙を流しながら笑っていた。
「ありがとうございます。私を、生かしてくれて」
「礼なんていいよ。君は生きるべき人間なんだから」
僕も笑った。
心の底から、嬉しかった。
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それから一週間が経った。
世界は元通りになった。
空の亀裂のことは、多くの人が「集団幻覚」だったと結論づけた。
科学では説明できない現象は、人々は忘れたがるものだ。
でも、僕とユイは覚えている。
あの日、世界が終わりかけたこと。
そして、奇跡が起きたこと。
「ケイさん、これ美味しいです!」
ユイは幸せそうにクレープを頬張っている。
彼女は今、僕の家の近くのアパートで暮らしている。
神様(らしき存在)が、色々と手配してくれたらしい。
「来週から、僕と同じ学校に転入するんだろ?」
「はい! 楽しみです」
彼女の笑顔は、あの時とは違う。
役目に縛られた笑顔じゃない。
心からの、本物の笑顔だ。
「なあ、ユイ」
「はい?」
「これから、どんな風に生きたい?」
ユイは少し考えてから、答えた。
「普通に、生きたいです。笑って、泣いて、怒って」
「それ、十分普通じゃないか」
「そうですね」
彼女はくすりと笑った。
「でも、一つだけ普通じゃないことがあります」
「何だ?」
「私、ケイさんのことが好きです」
突然の告白に、僕は固まった。
「え、あ、その……」
「返事は急ぎません。でも、これだけは伝えたかったんです」
ユイは真っ直ぐに僕を見つめた。
その瞳には、迷いがない。
「ケイさんが私に生きる理由をくれました。だから今度は、私がケイさんの隣で生きたいんです」
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世界は終わらなかった。
でも、僕の日常は確実に終わった。
そして、新しい日常が始まった。
ユイという少女と共に歩む、特別な日常が。
空を見上げる。
青空が、どこまでも広がっている。
世界は美しい。
生きているって、素晴らしい。
そう思えるようになったのは、きっと彼女のおかげだ。
「ケイさん、行きましょう!」
「ああ、待ってくれ」
僕は彼女の後を追いかけた。
この世界で、彼女と共に。
最後の審判は、彼女の微笑みから始まった。
そして、僕たちの物語も、そこから始まったのだ。
**【完】**




