第13話:問いに続く道
第7章『問いに続く道』
年末の外来は、いつも以上に慌ただしかった。
検査も予約も入院調整も詰まっていて、スタッフの足音が廊下に響く。
そんな中で紹介状を持ってやってきたのが、Kさんだった。
「家の片づけをしていて、ちょっと浮腫んでるかなって思って…
そういえば最近、尿も減ってる気がするって夫に言われて。
近くの医院に行ったら、“すぐ大きな病院で診てもらって”って言われて…」
静かな語り口の中に、緊張と不安がにじんでいた。
私は、その言葉の端々から手がかりを拾いながら、
可能性をひとつずつ絞っていった。
「何かある」――そう感じたときには、すでに頭の中で検査の順番が組み上がっていた。
採血、CT、他スタッフへの連携の指示。
出てきた結果に、私は息をのんだ。
“後腹膜線維症”。
聞き慣れない人が多いかもしれないけれど、
放っておくと尿の通り道が塞がって、腎臓が壊れてしまう。
一度ダメになれば、一生透析を受け続けなければならない病気。
間に合った。
そう思った。
入院中、Kさんはいつも明るく私を迎えてくれた。
「先生、こんにちは」
「今日もよろしくお願いします」
「先生が気づいてくれたから、本当に助かったんです。命の恩人ですよ」
その言葉を聞いた瞬間、思わず笑ってしまった。
うれしかった。
患者さんからのそんな言葉は、何度聞いても、ちゃんと嬉しい。
受け止めている。ちゃんと届いている。
私は、Kさんの命を救えたのかもしれない。
でも、正直なところ、心の奥で「自分は当然のことをしただけ」、それが仕事。
それが医師としての責任。
それ以上でも、それ以下でもない、と感じる自分もいる。
「自分は、理想としていた医師になれているか?」と問われると、
素直にうなずけない自分がいる。
どんなに「ありがとう」と言われても、
“これでよかった”と自分で思えるまでには、まだ何かが足りないような気がしてしまう。
ずっと理想を高く掲げてきた分、
そこに届いているか確信が持てないだけだ。
けれど、何度もKさんに感謝されるたびに、
私は気づかされた。
“命のために行動できる自分”を、
もう少しだけ、誇ってもいいのかもしれないと。
Kさんは今も外来に通ってくれている。
「先生に会えるの、楽しみにしてるの」
そう言ってくれる声に、私は自然と笑みが溢れる。
まだまだ、わからないことばかりだ。
でも、そう言ってくれる人がいる。
それだけで、今日もまた、白衣に袖を通す理由になる。
同じ時期、私はもうひとつ、大きな経験をしていた。
その日は、朝から空気が少し違っていた。
病院の廊下を歩く靴音も、白衣の袖を通す感触も、いつもより静かだった。
「今日の手術、先生ひとりでやってみようか」
上司はさらっと言ったけれど、その言葉が胸に重く残った。
もう任せられるレベルだと判断されたことも、
その重みもちゃんとわかっていた。
手術とは、技術だけじゃない。
患者さんが自分を信じて預けてくれている、その“命の一部”に触れるということ。
術野に入ると、思考が研ぎ澄まされていく。
準備してきた手順が、緊張の奥で淡々と体を動かしてくれる。
一つ一つ、無理なく進んでいく工程。
私は、黙って集中していた。
術後、患者さんが目を開けて言った。
「先生、ありがとう。全然痛くなかったよ。
また次もお願いしますね」
その笑顔と言葉が、ふわっと心に沁みた。
誰にも言わなかったけれど、
更衣室の鏡の前で、深く、静かに息をついた。
泣きはしなかったけれど、胸の奥があたたかくなった。
自分の手で、最後まで責任をもってやり遂げた。
それだけは、自分で認めたいと思えた。
昔から、一人でやることには慎重だった。
なんでも全部自分で抱え込むような性格ではなかったし、
困っていたら助けを求めることだってする。
でも、いざ「自分に任される」ということには、
どこかプレッシャーを感じてしまうところがあった。
それはきっと、自分自身に厳しすぎるからだ。
ミスを許せない、自分の中の基準が高すぎる――そんな自分の“癖”。
でも今日は、背負った。
逃げなかった。
そして、無事にやりきった。
帰り道、ふと、昔のことが浮かんだ。
電車のホームを並んで歩いた、あの日の景色。
よしきが、何気なく問いかけたあの言葉。
──「あきは、どうして医者になりたいの?」
その問いは、今もちゃんと残っている。
心の奥で、まだずっと響いている。
今日、それに答えられたかはわからない。
でも、少なくともひとつだけ思えたことがある。
“私は今日、自分の意志で、誰かの命に向き合った”
完璧じゃなくてもいい。
迷いながらでも、手探りでも、
私は誰かの命と人生に、ほんの少しだけ寄り添うことができているのかもしれない。
あの頃、よしきに聞かれた問いに、
こうして誰かと向き合う日々の中で、
その答えは、すこしずつ見えかけてきている気がする。
私は今日も、医師としてここにいる。
揺れながらも、歩きながら――
医師としての毎日は、誰かの役に立ちたいという思いと、これが自分の本当に望んでいた未来なのかという迷いの中で揺れながらも、確かに積み重なっていました。
命に向き合うということは、感情の揺れやプレッシャーも抱えながら、それでも立ち続けること。
「ありがとう」という言葉や、手術を終えたときの小さな笑顔が、
少しずつ、私の中にあった“理想の医師像”との距離を埋めてくれるようでした。
そして――
よしきにかけられた問いに、今日の自分なら、少しずつ返していける気がしています。




