第12話:現実を歩く
第6章『現実を歩く』
手紙を書いたあと、妙に静かだった。
カーテンのすき間から朝の光が差し込み、寝室の壁にうっすらと模様を描いている。
隣では、子どもが小さな寝息を立てている。
一晩中起きていたわけじゃないのに、気持ちだけが走り続けていた気がした。
深く、静かに、自分の奥に沈んでいたものに触れた夜だった。
机の上の便箋は、書きかけのまま。
でも、あれでよかった。
出す宛てもない手紙だけど、書いたことで彼に話せた気がして、心の中に小さな余白ができた。
私はそっと布団を抜け出し、静かに立ち上がった。
現実は、いつもの朝を始めようとしていた。
朝の空気は澄んでいて、窓の外の木々がやわらかく風に揺れていた。
洗濯物を畳みながら、ふと夢の中のよしきの言葉がよみがえる。
「あきは太陽みたい」――
そう言ってくれた声が、胸の奥で静かに灯る。
朝ごはんの支度をし、子どもたちが順に目を覚ます。
娘が「ママじゃなきゃイヤ〜」と甘えてくる。
夫にバレないように“二度寝ごっこ”をして、一緒に布団にくるまった。
こういう時間が、きっと“しあわせ”っていうんだろうなと思う。
育児にマニュアルはない。
甘えと自立、心配と見守りのバランスに、いつも手探りで向き合っている。
今朝も、娘の“イヤイヤタイム”が始まった。
時間が迫るなか、どうしたらいいかわからず、私はただ抱きしめていた。
時計を見るのをやめて、娘の体温だけを感じていた。
けれど、ふいに自分の目から涙がこぼれていた。
どこかがつらかったのか、焦っていたのか、
それとも、誰かに「大丈夫だよ」って言ってほしかったのか。
理由は、うまく言葉にならなかった。
そのとき――
不意によしきの声が、記憶の奥からふっと浮かんだ。
「泣いてる顔も、ちゃんと見せて」
思い出しただけで、少し笑ってしまうような、
恥ずかしくて優しい、あのときの声。
あの声が今の私に響いたのは、
そんなふうに言ってくれる存在が、どこかで必要だったのかもしれない。
彼はもう、遠いところにいるけれど。
それでも、あの記憶が今の私をそっと支えてくれることがある。
朝は慌ただしく過ぎていく。
出発時間に滑り込み、どうにか日常のスケジュールを回す。
正解なんてない。
だから、こうして手探りで、揺れながら、
私は“母”として、“医師”として、“あき”として、今日を生きている。
お気に入りの香りを身にまとい、深呼吸して、玄関を出た。
太陽の光が、静かに背中を照らしていた。
また手紙を書きたくなる日が来るかもしれない。
もし、また夢で会えたら――
そのときは、新しい夢の話を聞いてもらいたい。
そしてふと願う。
いつか夢じゃなく、現実のどこかで、
自分の気持ちを素直に話せる誰かと出会えたらいい。
たとえ、それがよしきじゃなくても。
私は、私の人生を生きている。
それで、いい。
まだ少し揺れながらでも。
私は、今日を選んでいる。
夢から目覚めた朝、現実が少しだけ柔らかく感じられました。
それは、自分の気持ちを言葉にできたから。
誰にも届かなくても、手紙に綴ったことで、
ずっと胸の奥にしまい込んでいた感情と、ようやく向き合えた気がします。
母として、医師として、そして「私」として。
揺れながらも、私は今を生きている。
正解のない毎日の中で、
“誰かのため”だけじゃなく、“自分の気持ち”にもちゃんと耳を澄ませながら、
これからも歩いていきたいと思います。




