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公安  作者: 篠川織絵
通夜編
7/12

第6話 アプリコット


「ねぇ、誰と電話してるの?」


 詩織(しおり)が振り返ると、そこにいたのは穏やかに微笑む佐藤(さとう)と、しかめっ面の田中(たなか)だった。外の夕暮れが窓越しに赤く滲み、2人をシルエットのように浮かび上がらせている。


 田中は佐藤の後ろに立っていたが、一歩踏み出した。革靴とタイルが擦れる乾いた音が響く。


 車に乗っているときは気づかなかったが、彼は佐藤より身長が高く、黒縁の眼鏡から覗く瞳は鋭く威圧感がある。その鋭い眼光は私を捉え、背筋が凍った。


「君の学校についてだが、修加(しゅうか)学院に決まった。佐藤は大学が忙しいから私が保護者として対応する。」


 なんだ、驚かせるなよ、と思い安堵した。あの修加学院の事だろうか。それならば、私が元々通っていた私立よりも偏差値が高い。


「修加学院ですか?私が元々通っている中学よりも偏差値が高いのですが」


 その上、修加の中等部の外部枠は多くない。中学受験での修加は私立最難関で倍率は約5倍。よく編入生の枠が取れたと思う。


「君の叔父さんが修加につてがあるみたいでね。ここからだと1番近いし良かったじゃないか。」


 そう言ったのは佐藤だった。軽い口調で笑う彼の声が静かなエントランスの静けさに反響した。つまりコネ入学か。つくづく叔父には頭が上がらなくなってしまった。


「分かりました。では田中さん、よろしくお願いします。」


「ああ。また日程が決まり次第連絡する。」


 田中が低い声で答えた瞬間、彼がポケットからスマホを取り出してなにかを確認する仕草が目に入った。


 無言のまま、私を一瞥する。彼は本当に佐藤と友達なのか、ふと疑問に思った。佐藤は大学生らしいが、田中はスーツを着ていて、仕事終わりのように見える。


 大学の後輩と先輩なのかもしれないが、普通、仕事終わりの先輩に葬儀場まで送迎してもらった上に、女子中学生の送迎を押し付けて去っていくか?それを頼めるほど仲の良い間柄なのか。


「あ、これ鍵の代わりのカードだよ。603号室。あとなにかあればここに電話して。」


 佐藤は部屋のキーと共に、紙に書かれた佐藤と田中の電話番号とメッセージアプリのIDを手渡してくる。


「分かりました。また編入日が分かったら教えてください。」


 確かに佐藤と田中は違和感がある。タイプの違う2人、学生と社会人。


 大学で知り合った後輩と先輩にしては佐藤と田中の年齢が離れすぎなようにも見える。


「分かった」

「またね」


 そう去っていこうとする佐藤に聞いた。


「佐藤さんってどこの大学通ってるんですか?」


 佐藤からすると、自分の容姿に興味を持った女子中学生の面倒な質問に聞こえたかもしれない。けれど彼の事を知りたかった。


「僕?僕は明条大学に通ってるよ」


 明条か、思ったよりも賢いな。明条大学は私大の中でもトップクラスとまでは行かないが、上から数えて片手の中に収まるほど偏差値の高い大学だ。この軽薄そうな男でも明条に受かるのか。人は見かけによらないな、と思っていたら佐藤がそれを察したようだ。


「疑ってる、って顔だね。ひどいなぁ」


彼は軽く笑って財布から学生証を取り出した。


「ほら、これで信じてくれる?」


 彼が私似見せる学生証には佐藤の顔写真がついている。学部は法学部法学科。有効期限にも問題はなく、質感や印字にも違和感のある箇所はない。


 この学生証をみるに佐藤は本当に大学生なのかもしれない。


「じゃあまたね」


「ありがとうございました」


 彼と田中はエントランスを出て、駐車場の暗がりに消えていく。田中が最後にこっちを振り返って、無言で一瞥してきたのが見えた。私は何気なく軽く手を振った。


 これで佐藤が大学生である事はほぼ確定した。ただ田中との関係についてが問題だ。


 田中の素性が分からなければ2人がどこで知り合ったかを推測するのは難しい。


 私は少し歩きエレベーターに乗ったあと、6階のボタンを押した。エレベーターの金属壁に映る自分の顔がぼんやりと見える。


 頭の中であの2人を思い出した。軽薄そうで顔の整った佐藤と、堅物そうで冗談の通じなさそうな田中。


 2人がサークルなどで知り合ったとして、仲良くなるイメージが湧かない。


 佐藤は学生証の有効期限からして今3年生。


 佐藤が大学1年のとき、田中が大学4年のときに出会ったと仮定して、田中は新卒2年目か。新卒2年目にしては少し老けた顔な気がした。


 いや、明条大学なら浪人生な可能性もある。2年浪人していたとして、26歳か。正直、もっと上でもおかしくない雰囲気だ。


 田中はどこに勤めているのだろうか。スーツからして会社員のようだったが。


 あの2人の関係を詳しく知るためには、田中の正体が鍵になるのかもしれない。佐藤と田中を繋ぐなにかがあるはずだ。


 今度田中に会ったら、2人はどこで知り合ったのか、どこに勤めているのか怪しまれない程度に探りを入れてみよう。


 エレベーターが6階に着いて扉が開いて、廊下に出ると603号室のドアが見えた。


 私はカードキーをぎゅっと握りつぶすように持って、部屋に向かった。


 叔父のコネで修加に通えるのはありがたいが、あの2人の存在が頭から離れず、部屋に入っても落ちつけそうにない。




◯◯◯




 詩織と別れたあと、須崎(すざき)香山(かやま)は駅前のオーセンティックバーに流れ着いた。


 薄暗い店内にジャズのウッドベースが低く響き、棚に並ぶボトルが暖かいオレンジの照明を鈍く反射させている。


「今日は迷惑をかけたな」


「全然、大丈夫ですよ」


 須崎はモルトウィスキーのニートを嗜みながら答える。少し酔いが回っているのか耳が赤くなっていた。

 

 カウンターのスポットライトが彼の顔に柔らかい影を落とし、普段の真面目さがどこか緩んで見える。


 香山はマティーニの水面を揺らしながら今日のことを思い出す。優一が詩織を押し付けてきたのにはある程度予測がついた。


 ひとつめはは単純に嫌がらせだ。優一は香山が警察庁に入庁したことを良く思っていない。詩織がいれば単純に必要な労力が増える。


 ふたつめは彼女に探偵ごっこをさせて、香山の周りを掻き回したいのだろう。いや、後者も嫌がらせだが。


「あ、そういえば彼女の制服って香山さんが用意するんですか?」


 香山は、はっとした顔をする。あの男からのメールには編入手続きだけはやっておく、と書かれていた。学校に通うなら制服が必要だ。もう10年は制服を着てないため忘れていた。


「適当に用意すればいいだろ」


「修加の制服、確か女子は既製品ないので無理ですよ」


「よく知ってるんだな」


「高校のときの彼女が、ジャストサイズすぎて少しでも太ると着れないって嘆いてました」


 須崎は昔のことを思いだしたのか苦い顔をした。彼は意外と女性に人気がある。本人がそれに気づいているのかは知らないが。


「昔から須崎はモテるよな」


「嫌味ですか...」


 香山は須崎の言葉に目を細めた。確かに香山は生まれてからこのかた色んな人にアプローチされてきた。けれど、それはモテているのではない。香山の美しい顔に執着しているだけだ。


 香山の中身などはどうでもいい。美しい人形のような扱いなのだから。香山はいつからか人に執着されるのが怖くなって、特定の誰かと親密な関係を持つことを避けてきた。


「嫌味じゃないよ。君は僕と違って誠実だし、義務は果たすし、いい男じゃないか」


 胸ポケットから煙草を抜き取り、ライターの小さな火を近づけた。白い煙が細く立ち上り、店内のなかで漂う。普段はあまり吸わない方だが、今日は本数が多い。


「やっぱり嫌味ですね」


 須崎は苦笑いしながらつまみをつまむ。


「彼女とかいないのか」


 実をいうと香山は須崎の恋愛事情をほぼすべて知っている。なぜなら、警察庁は機密性の高い情報を扱う職業であるために、定期的に部下の身辺調査をするからだ。


「半年前に...ただ、あなた私以外に好きな女がいるんでしょって言われて振られて今は...」


「君が浮気性だったなんて意外だな」


 半年前に付き合っていた彼女についても香山はよく知っていた。残念ながら、彼女の両親は公安が潜っている新興宗教団体の信者だった。


「いや、浮気ではないんですけど」


「女性は僕たちよりそういうことに過敏だ。他の女性の話題を出しただけで疑ってくる人だっている」


 須崎は項垂れていた。最愛の彼女と別れさせたのは、目の前にいる香山である。それに須崎は気づけていないが。


「自分ずっと好きな人がいるんです」


「好きな人がいるのに彼女を作るのが悪いんだろう」


「だって...」


 彼が小さい声でなにか呟いたがジャズの音色に紛れてよく聞こえなかった。自分のグラスも須崎のグラスも空になっていたので彼に聞く。


「須崎、次なに飲む?」


「甘いのがいいです」


 彼は意外だが甘党だ。ただ彼自身それを良しと思っていないのか、最初だけウィスキーを頼むことが多い。


 近くでそれを聞いた初老のバーテンダーが提案する。


「アプリコットフィズはいかがですか。アプリコットブランデーとレモンジュースを使った甘く飲みやすいカクテルなのですが。」


「ではそれでお願いします」


 一瞬なににしようか迷ったが、無難なものを頼んだ。


「じゃあ僕はモヒートで」

「かしこまりました」


 バーテンダーは手際良くカクテルを作っていく。


「で、なんだって?」

「いや...えぇ...」


 須崎は酔って頭がまわっていないのか口ごもる。自分は仕事以外で何年、女と触れ合ってないんだろうと考えつつ、2本目の煙草を箱から取り出そうとして、なんとなく、須崎に聞いた。


「吸うか?」


「あ...もらいます」


 須崎も普段は吸わないので、その返答を意外に思いながらライターと箱を彼に寄せた。須崎は箱から取り出した白い筒をくわえて火をつける。


 香山も2本目を吸おうと箱から出して唇で挟んだ。ライターの火をつけようとするがつかない。


「ガス切れか。須崎こっち向いて」


 煙草をくわえた須崎の顔がこちらを向く。自分は顔を近づけて彼がくわえていた煙草の先端に自分の煙草を押し付けゆっくりと息を吸った。


「着いた、着いた」


 煙を吐き出して彼の方を見ると固まっていた。照明が暗いため気づかなかったが耳だけではなく顔全体が赤くなっている。


「お待たせいたしました。モヒートと、アプリコットフィズです」


 バーテンダーが静かにカクテルを滑らせてきた。モヒートのミントが清涼な香りを放ち、アプリコットフィズの橙色が照明に映えてグラスの中で揺れた。


 氷が小さくカチンと鳴り、ジャズのメロディに一瞬だけ重なった。ここで答えてくれたら、調べる手間が少しだけ省けるのにと香山は思う。


「それで須崎の好きな女性って誰なんだ?」


 自分の目を疑った。須崎の頬を涙が一筋つたっている。照明に照らされたその滴が、アプリコットフィズの橙色に落ちて小さな波紋を作った。


「......ん......す」


 彼が俯きながら発したか細い声は店内に流れているジャズに紛れた。どうせ交際を始めたら知ることになるので深くは追求しなかった。


「まあ、須崎なら大丈夫だよ。」


 そんな根拠のない慰めを口にすると、須崎は涙を堪えるように顔をあげ、恨めしそうな顔で香山を見る。


 ジャズのウッドベースが低く唸り、須崎の言葉を永遠に隠してしまう。煙草の煙が香山と須崎の間を漂い、薄い壁のようにに立ち塞がった。

ちなみにカクテルには、そのカクテルの特徴や逸話にちなんだカクテル言葉がついているのですが、


マティーニは、『棘のある美しさ』

モヒートは、『心の渇きを癒して』


アプリコットフィズもぜひ調べてみてください。

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