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公安のファムファタールは暴かれたい  作者: 篠川織絵
第一章 麗しい官僚の隠し子

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7/10

最後くらい人間として

玄関の鍵が静かに回った。



日はまだ昇っておらず、冷たい空気が鼻腔を刺す。

酒と香水が溶け合った微かな匂いが、靴音とともに部屋に入り込んだ。


誰もいないはずのリビングから、人の気配する。


香山(かやま)は一瞬、誰かが侵入したのかと錯覚したが、ソファの上でブランケットにくるまり、本を開いている詩織(しおり)の姿を見つけて肩の力を抜いた。


「まだ起きてたんだ。こんな薄暗い場所で本なんか読んでると、目を悪くするよ」


そう言いながらも、香山は電気をつけることなく、スーツのジャケットをハンガーに掛け、ソファへ歩み寄った。


彼は詩織の隣に腰を下ろし、彼女の膝に開かれている本に目をやる。

ページの上にはドイツ語。薬学の専門書ーー。


「中学生が読む本じゃないね」


詩織はしばらく黙っていたが、やがて本を閉じた。

「遅かったですね」


昨夜とはうって変わって、冷たい敬語だった。


香山はふっと笑い、リモコンを取ってニュースをつける。

「仕事が長引いてね」


「その割には、遊んできた匂いがします」


「大人になれば、お酒を飲むことも仕事のうちになるんだよ」


詩織は伸びをして立ち上がり、窓を開けた。

朝の冷たい風がカーテンを揺らし、夜の残り香を押し流す。


「大人は娯楽さえも仕事のうち、芸の肥やしとかって言い訳しますよね」


香山は、その後ろ姿を見つめながら尋ねた。

「僕、そんなに臭い?」


「はい。信用できない大人の匂いがします」


「酷いなぁ」


香山は端正な顔で微笑んだ。

けれど、その笑いは少し虚ろに見えた。


「——そんなことより、あの男に伝えておいてください。“私の編入先を早く決めてくれ”って」


詩織は父が亡くなって以降、学校にも通えず、実家にすら帰れていなかった。


「あぁ、そうだったね。忘れてたよ」


「いつか私が”どこかに”嫁ぐとしても、義務教育すら修了してない女とは、誰も結婚してくれません」


香山が軽い口ぶりで言った。

「僕が教えてあげようか?」


詩織は冷たい目を香山を見た。

「”義務教育”って知ってます?それすら知らないなら、この国の制度に携わらないでください」


沈黙。

彼女は視線を逸らさない。

香山はグラスの縁を指でなぞり、わずかに笑った。


「僕自身、学はある方の人間だと思うけど。修加学院(しゅうかがくいん)育ちだし、大学はこの国の最高学府だし」


詩織は呟いた。

「ーー幼稚園受験、大学も文系のくせに」


香山がそれに反応する。

「詩織ちゃん、どこかのお受験ママみたいだね」


「それも、修加学院(しゅうかがくいん)から外部受験する意味が分かりません」


「そりゃそうだよ。幼稚園受験させる親なんて僕たちに、学力を養って欲しいわけじゃなくて、人脈形成をして欲しいんだから」


「なるほど。人脈形成から逃げるために勉強したんですね」


香山はふっと笑う。

その笑いには、感情の温度がまるでなかった。


「……努力も、逃げ方の一種だと思うけど?」


詩織は首を傾げる。

「言い訳が得意なんですね」


「官僚と政治家はいかに喋らないかが大事なんだ」


「開き直りまで美徳なんですね」


香山は答えなかった。

テレビの中ではキャスターが夜明け前のニュースを読み上げている。

誰かの汚職と辞任。無機質な声。


詩織が淡々と続ける。


「一般人が官僚になればエリートですが、あなたみたいな人間がなったところで堕落にすぎません」


詩織は、香山を見て続けた。


「それに、わざわざあの男の盤面に自ら弱い駒として立ちに行くのにも、私は理解できないです。

逃げたいならその顔を活かして芸能界にでも入れば良いと思いますよ、今からでも」


香山はソファに身を預けた、瞳には政治ニュースが映っている。


「僕、顔だけは良いからね」

彼が、目を細めた。

「でも、最後くらい、人間として死にたいって思うんだよ」


詩織は鼻で笑った。

「あなたは一般人にも、芸能人にも、上級国民にもなり切れてない、どこにも居場所がない人間にしか見えませんけど」



香山は目を細めた。

彼の視線は画面の向こうを見ているようで、何も見えてはいなかった。


「詩織ちゃん、随分と選民思考(せんみんしこう)なんだね。いっそ、あの男に取り入って跡を継いだらどう? 繁栄するよ」


詩織は一瞬だけ言葉を探すように視線を泳がせ、それから静かに答えた。

「私が男なら、現実的にありですね」


「詩織ちゃんに足りないのは性別だけか。羨ましいな」


彼の声には冗談めいた響きがあったが、目元には笑いがなかった。


詩織は軽く息を吐き、淡々と返す。

「顔も家柄も性別も学歴も、すべて持ち合わせた男に言われると少し腹が立ちますね」


香山はグラスの氷を指先で転がした。

カランという乾いた音が、広い部屋にひとつだけ響いた。


「普通が一番強いよ」


その声は静かで、どこか遠い場所に置き去りにされたようだった。詩織は黙った。目の前の男はどこをどう取っても”普通”の範疇から外れていたからだ。


答えが見つからない詩織を見て、香山は話題を変えた。

「ねぇ、詩織ちゃんはさ、3と4どっちが好き?」


「数学の話ですか?」


「ううん。好みの話」


「強いて言えばーー4ですかね」


「気が合うね。僕も4の方が好きだよ」


カーテンの隙間から差し込む朝の光が、香山の頬を撫でた。彼の瞳には、何も映っていなかった。

備考:私立修加学院(偏差値76)

  幼稚園から大学まである一貫校

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