雨の日の庁舎前
庁舎の自動ドアが滑るように開き、湿気を含んだ夜の空気が須崎の頸になぶるようにまとわりついた。
アスファルトを叩く雨音は、規則も変化もない単調なリズムで世界を埋めている。
須崎は小さく息を吐き、鞄から黒い折り畳み傘を引き抜いた。
雨そのものが嫌いなわけではない。ただ、濡れたスーツをクリーニングに出す、その一手間だけが煩わしい。
傘を開き、車へ向かおうと歩き出した――その瞬間、視界の端で動く影に足が止まった。
スカートが雨を吸い、布地が脚に張りついている。
この土砂降りの中、傘も差さず、迷いなくこちらへ歩いてくる女。
妹か。
それとも職場の誰かか。
目の悪い須崎は一瞬そんなことを考えたが、次の瞬間、思考はあっさり覆された。
一昨日の、名も知らぬ少女だった。
黒髪は濡れて頬に貼りつき、年齢の読めない瞳は夜の街灯をぼんやり映している。
そのくせ口元だけは、挑発を隠しもしない笑みが浮かんでいた。
須崎のシャツは傘の内側まで湿気を吸い、皮膚へぴたりと貼りついた。
「……君、傘も差さずにこんな場所で何をしている」
雨の冷たさよりも、少女の笑みの温度の方が不穏だった。
須崎はためらった末、自分の傘を少女へ差し出した。意味があるとは思っていない。
少女はすでにびしょ濡れで、髪先から滴る水音が舗道に小さな円を広げていた。
それでも、差し出さずにはいられない。
彼の中にある“正しさ”は、たとえ茶番でも貫かれるべきものだった。
傘の影に入った少女は、唇の端をゆっくり吊り上げた。
冷えた愉悦が、その瞳に宿る。
「ここで、あの人を待っていたと言ったら……信じてくれます?」
声は甘く、内容だけが棘を含んでいた。
須崎は、少女が“言い訳”を差し出しているのだと理解した。
上司の“知人女性が庁舎前にいた”という、ありふれた逃げ道。
それでも彼は、不快感を隠さない。
「その台詞が出てくる時点で、信用はできない。香山さんを呼んでくる」
須崎は庁舎へ引き返そうとし、傘を少女に渡そうとした。
だが彼女は指一本動かさない。
「幼稚、だと言いたいの?」
濡れた睫毛の影から投げられる声は、冷ややかで、妙に静かだった。
「そうだ。君のしていることは“人の良心を試す遊び”だ。大人の真似をしたいなら、まずその癖をやめろ」
少女は鼻で笑い、濡れた指先を彼へ差し出す。
「じゃあ、はっきり言いますね。今日、あの人に会いたくないんです。どこか連れて行ってくれませんか? おじさん」
一拍遅れて、空気がきしむ。
須崎の眉がわずかに動いた。
「……君な」
呼吸を一つ整え、声の温度を下げる。
「大人を挑発して、優越感に浸るのは勝手だ。だが、この国には“偶然死ぬ”人間が思っているより多い。
軽率な行動を取れば、君も、その一人になりかねない」
少女は目を瞬き、言葉の意味を嚙みしめるように須崎を見上げた。
「……脅してます?」
「忠告だ。俺が“そっち側の人間”じゃなくて、運が良かったな」
その瞬間、少女の瞳から、雨とは違うものが一筋、零れ落ちた。
「やっぱり……優しいんですね」
声は笑っているのに、笑い声にはならなかった。
ちょうどその時、別の部署の職員が二人の前を通りかかり、好奇の視線を一瞬だけ向けて去った。
須崎は少女を庁舎前から離し、近くの屋根付きの広場へ連れて行く。
ベンチに座らせると、自分は距離を置いて座った。
「……君は、なぜそんな真似ばかりする」
少女は俯き、濡れた髪が頬に張りつくまま、小さな声を落とした。
「なにか……変えてみたかったんです」
挑発の色は消え、表情はひどく不器用な悲しみに変わっていた。
須崎は静かに答えた。
「そのやり方では、悲劇にしか向かわない」
少女は顔を上げ、今度はかすれた声で反論する。
「悲劇から、幸せが生まれることだってあるじゃないですか」
「それは相対的な“幸せ”だ。不幸続きの人間が宝くじの当選金で数日だけ浮かれるようなものだ」
少女は黙る。
雨に濡れた舗装の黒が、街灯に照らされて滲むように揺れている。
須崎は続けた。
「君と香山さんの関係は知らない。だが、危険な行動を取れば、彼だって心配するだろう」
“香山”。
その名前が少女の肩をわずかに震わせる。
「……あの人が私を心配する?
そんなわけありません。罪悪感と体裁で引き取っただけです」
「罪悪感?」
「他に理由なんてないでしょう」
少女は立ち上がり、屋根の外へ出て雨を浴びる。
振り返り、暗い瞳のまま言った。
「私、あの男と傷を舐め合って生きていくのがお似合いなんです。……迷惑、かけました」
背を向けようとしたその肩に、須崎の声が追いつく。
「待て」
須崎は鞄を探り、銀色の名刺ケースから一枚引き抜いた。
傘と一緒に少女へ押し付ける。
「名刺だ。何かあればこの番号に連絡しろ。傘は返さなくていい」
少女は名刺を見つめたあと、雨の中で小さく、今度は確かな笑顔を見せた。
「……優しいんですね、須崎さん。あ、自己紹介し忘れてましたね。私──佐田詩織って言います」
その笑顔だけが、妙に幼かった。
少女は傘を差し、深く頭を下げて歩き出す。
正しいかどうかは分からない。
社会的に見れば間違いとも言い切れる。
だが、少女が生きて帰れるのなら――
少なくとも須崎の中では、それが“正しい”のだと思えた。




