第4話 縊死
慎之介は薄暗い埃の舞った部屋から早足で立ち去る。
こちらの棟は普段使用されていないのか、まったく人の気配を感じなかった。ひんやりとした廊下には大きな窓がいくつも並び、雨が絶え間なくガラスを叩いている。
少し歩いた先にあった手洗い場の銀色のノブを回した。小さい窓が1つしかなく中は暗い。
蛍光灯を点灯させ、鏡の前でゆっくりと黒いネクタイを解く。震える指でシャツのボタンを2つ外すと自分の細い首があらわになる。
鏡にうつる慎之介には優一が力任せにつけた絞め跡が残っており、心底不愉快な気持ちになった。
天井を見上げ火災報知器がないのを確認すると、胸ポケットから煙草とライターを取り出す。
唇で白い筒を挟み、その先にライターの小さな炎をつけた。深呼吸をするようにゆっくりと息を吸い、溜息とともに白い煙を吐き出す。
今から詩織と須崎がいるマンションに行かなければならないというのに。優一と顔を合わせ、すでに気力を失いかけていた、
慎之介とて抵抗しようと思えばできたが、身動きしにくい体勢で下手に動いて、自己愛の強い優一に傷をつけたら何をされるか分からない。
あの男は現在の財閥界の重鎮である。下手に怒らせると身内である慎之介すら交渉材料として他国に売り飛ばしかねない。
とりあえず、詩織の件をどうにかしなければ。
急に面識のない女子中学生と2人きりにされている須崎も彼のことだ、きっと困惑しているだろう。
人差し指と中指の間で煙を燻らせながら、プライベート用のスマホを取り出して須崎に電話をかけた。
「もしもし、詩織ちゃんは?」
まずは須崎の近くに彼女がいるかを知りたかった。彼女が近くにいれば、うかつに本名は呼べない。
あの男が自分の内情を探るために詩織を送り込んだ可能性すらある。
「お疲れさまです、今エントランスで香山さんの事を待ってるので近くにいません」
「ああお疲れ、須崎がいて助かったよ。俺もそっちに行かなきゃいけないな」
須崎は僕より2歳年上だが、よく出来た部下だ。
自分の無茶な頼みを文句ひとつ言わず聞いてくれるし、こちらが牽制したら深くは詮索してこない。
「迎えが必要なら行きますよ」
今日は雨だ。タクシーを捕まえるのも面倒だった。
「じゃあお言葉に甘えて」
煙草の火を消し、鏡の中の疲れた顔をした自分と目合った。この顔にすらも今は微かな苛立ちを感じる。
それから1人で淡々と身なりを整えて葬儀会場を出ると、須崎が迎えに来てくれていた。
「雨の中何度もすまないな」
助手席に乗り込みネクタイとボタンを外す。梅雨のせいか湿度が高くシャツが肌に張りついて気持ち悪い。
須崎は一瞬だけこちらを見て、目を見開いた。
「全然構い...。なんですかその首の跡...!?」
須崎なら気にはしても聞いてこないだろうと思ったが、これはそうにも行かないらしい。
「先方が首を絞めるのが好きでね。人間は気道をふさがなくても、頸動脈を絞めれば血流が阻害されて失神するほど苦しいんだ」
慎之介は左手で頬づえをつき窓の外を眺めながら答えた。
須崎に自分の身内にネクタイで首を絞められた、と言うわけにもいかず適当な事を言って誤魔化す。
ふと、視界に入った空は晴れてきていた、雲の隙間から日差しがのぞいている。
ちなみに優一は加虐趣味だ。いつも慎之介に苦しそうな顔をさせて、満ち足りたような気味の悪い顔をしている。
「自分も失神するまで絞められたことあるので分かります」
須崎がさらっと怖いことを言うので、慎之介は座席に預けていた身体を中途半端に起こしてたじろいだ。
西陽がフロントガラスから差し込んで、隣にいるにも関わらず彼の顔は逆光に隠され表情が読み取れない。
さすがに慎之介だって失神するまで誰かに絞められた事はない。怖いもの見たさに、嫌な好奇心ががわいた。
「それは仕事で?」
自分達は職業柄、潜入調査をする機会がある。自分はそこで何度かめられた事がある。
なぜなら捜査対象に一定数男女問わずあの男と同じような嗜虐趣味の人間がいるからだ。
けれど、そういう危険な役回りは須崎よりも小柄で親しみやすい顔をしている慎之介の方が向いているので、須崎に振ることはなかった。
「いえ」
須崎は素っ気ない返答をする。
仕事で無いなら女関係か。いや、須崎は貞操観念が高い。
それに、付き合っている女性が失神するほど須崎の首を絞める気もしない。
須崎は細身だが、身長は自分より高い。彼のような大柄な成人男性を失神させるほど上手く絞めるのは難しい。
慎之介は嫌な答えに辿り着き、「だったら...」と言いかけると、普段は気難しそうに顔をしかめて敬遠されがちな須崎が少年のように目を輝かせた。
「香山さん!狐の嫁入りですよ!」
窓の外を見ると、さっきまでの重い雲が切れて、夕暮れのオレンジ色の光が細かい雨粒をキラキラ照らしていた。フロントガラスに滴が流れ落ちて、たおやかな雨音が車内に響く。
「綺麗だな」
まあいい。真実がどうであれ須崎が今苦しんでいないなら、それで。
慎之介はスマホに視線を落としメールを開くと、先ほどまで穏やかだった表情が一変した。
「は?」
慎之介はやや加虐趣味ですが、須崎さんはノーマルです。