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公安  作者: 篠川織絵
通夜編
2/12

第2話 劇薬

 詩織は凍りつき、心臓が跳ねた。倒れていたのは高橋和彦(たかはしかずひこ)、父の会社の顧問弁護士であった。


 床に転がった紙コップから、コーヒーが黒く滲んでいる。ロビーの空気が一瞬で張り詰め、参列者のざわめきが低く響いた。


 高橋の周りに人々が集まり、誰かが「救急車を!」と叫ぶ。佐藤が群衆をかき分け高橋に歩み寄り、彼の脈を取る。


「亡くなってますね。それと、口からアーモンド臭が」


佐藤の言葉を聞いた製薬会社の社員たちが青い顔でざわつき出す。


(アーモンド臭。青酸カリか)


 詩織は過去の父との記憶を思い出した。父の書斎には、薬品のリストや研究資料が並び、詩織はそれを眺めるのが好きだった。


 青酸カリ――父が「研究の副産物」と呼んだ劇物。即効性の毒で、少量でも数秒で意識を失い、1分以内に死に至る。もし高橋が自殺でないなら、誰かが彼にそれを飲ませたはずだ。


 製薬会社の社長であった父の通夜で、毒殺を起こすなど犯人は正気ではない。詩織は犯人を炙りだしてやろうと思考を巡らせる。


(紙コップに入っていたコーヒーに混入していた可能性が高いな)


 ロビーの壁際のテーブルにはコーヒーマシンが置かれ、白い紙コップが整然と積まれていた。詩織は一歩踏み出し、混乱の中で状況を観察した。


 紙コップが床に転がり、コーヒーが染みが広がっている。詩織の目は、高橋の口の周りのべたつき、こぼれたコーヒーの量、なにか、ひどく不自然だった。


佐藤が詩織の隣に立ち、柔らかい声で囁く。


「あのコップ、誰が渡したんだろうね」


 詩織は記憶を巻き戻した。ロビーのテーブルでは、佐田製薬の社員数人がコーヒーを配っていた。広報部長の中村玲奈(なかむられいな)、財務部長の本田亮介(ほんだりょうすけ)、研究開発部の森下真由美(もりしたまゆみ)


 その時、玲奈は落ち着いた仕草でコップを並べ、亮介は参列者にトレイを差し出し、真由美はマシンの操作に忙しそうだった。高橋がコップを受け取る前、誰が彼に渡したのか。


(思い出せ。誰が髙橋にカップを渡したんだ)


 詩織はロビーの情景をさらに観察した。参列者の顔には動揺と好奇心が混じる。


 親族の一人はスマホで電話をかけ、別の誰かがニュースをチェックしている。

 テレビの音声が低く流れ、父の事故死を繰り返す。詩織は目を閉じ、雑音を遮った。考えるんだ。誰が、なぜ。


 詩織は深呼吸し、参列者を見渡した。玲奈は泣き崩れ、亮介は参列者に頭を下げ、真由美はマシンの横で立ち尽くす。誰かがコップを意図的に渡したなら、動機は何だ?


 詩織は高橋の役割を思い出した。彼は佐田製薬の遺産管理と、香山化学との交渉を担当。父の死後、優一と密談を重ね、佐田製薬の経営権を香山化学に譲る計画を進めていた。


 詩織は父の書斎で、その書類を見たことがある。香山化学への譲渡案と、役員人事のリスト。高橋が死ねば、計画が遅れ誰かが得をする。


(誰が?)


詩織は佐藤に目をやった。彼はロビーの隅で参列者を観察し、詩織に視線を返す。


「コップになにか入れたとしたら、どんな理由があるんだろう」


 佐藤の質問が、詩織の思考を加速させた。理由。動機だ。彼女はロビーの参列者を再び見た。


 玲奈は広報部長として佐田製薬のイメージを守り、株主総会で役員昇格を狙っていた。


 亮介は財務部長で、父の信頼厚い部下だが、最近疲れた顔をしている。


 真由美は研究開発部で、新薬の失敗を父に謝罪していた。それぞれに、動機があり得る。


 詩織は一歩踏み出し、テーブルに近づいた。コーヒーマシンの横に、コップが整然と積まれている。


 コーヒー単体では青酸カリの味を隠すのは難しいが、砂糖やクリームを加えると気づかれにくい。しかし、転がっている紙コップから溢れたコーヒーには少なくともミルクが入っているようには見えない。


 詩織は亮介を見た。彼は体調の悪そうな参列者に紙コップと水のペットボトルを差し出し、穏やかに話している。だが、詩織は彼の手元に違和感を覚えた。亮介がトレイを渡す際、一瞬コップを手に取り、向きを変えるような仕草。


 詩織は記憶を掘り起こした。高橋がコップを受け取る前、亮介がトレイを持っていた。


(亮介さん?)



 詩織は動揺を抑え、別の可能性を考えた。真由美も疑わしい。彼女は研究開発部で、薬品にアクセスできる。父の生前、新薬の失敗で会社に迷惑をかけたと謝罪していた。もし高橋がその責任を追及し、彼女の立場を脅かしたなら?


 詩織は真由美に目をやった。彼女はマシンの横で立ち尽くし、参列者の動きをじっと見ている。詩織が近づくと、真由美は微笑んだ。


「詩織ちゃん、大丈夫? こんな時に、辛いよね」


「真由美さん。コーヒーって誰が淹れてたか分かりますか?」


 詩織の質問に、真由美は一瞬目を逸らした。


「えっと、私と玲奈さんと亮介さんで、みんなで準備したよ。忙しかったから」


「高橋さんのコップ、誰が渡したか覚えてますか?」


真由美の顔が硬くなった。


「さあ? 分からないな。みんなに配ってたから」


詩織は真由美の声の震えを感じた。彼女は何か隠している? 詩織はさらに質問しようとしたが、佐藤が肩を叩いた。


「詩織ちゃん、ちょっと落ち着いて。コップ以外で、変なことなかった? 例えば、誰かが高橋さんと話してたとか」


 佐藤の言葉に、詩織はハッとした。高橋が倒れる前、彼は誰かと話していた。詩織は記憶を辿った。


 ロビーの隅で、高橋が書類を手に、亮介と短く言葉を交わしていた。亮介は書類をちらりと見て、頷いた。


(亮介さんが書類を?)


 詩織はちらりと盗み見した書類の内容を思い出した。財閥への経営権譲渡案。亮介は財務部長として、その計画に深く関与していた。もし彼が計画に反対し、高橋を排除したかったなら。


  だが、詩織は別の記憶を呼び起こした。通夜の終了後、玲奈が高橋に近づき、書類を手渡していた。玲奈の顔は硬く、短い会話を終えると、彼女はトレイに戻った。


(玲奈さんも書類を渡していた)


 詩織は頭の中で点を繋げようとした。コップ、書類、動機。誰かが高橋を殺した理由は、佐田製薬の未来に関係する。


詩織は父の書斎で見た書類を思い出した。役員人事のリストに、玲奈の名前がなく、高橋が彼女の昇格に反対していたと父が漏らしていた。


詩織は佐藤に尋ねた。


「動機って何なんでしょう。高橋さんが死ねば、誰が得するんでしょうか。 」


佐藤は微笑み、肩をすくめた。


「思い出して。誰かが高橋さんと揉めてたとか」




 佐藤の言葉で、詩織は彼女は玲奈と高橋の会話を思い出した。通夜の開始前、玲奈が高橋に書類を手渡し、硬い表情で話していた。詩織は聞き取れなかったが、玲奈の声に苛立ちがあった。


 書類は財閥への譲渡案と役員人事。高橋が玲奈の昇進を阻み、彼女の野心を潰したなら?


 詩織は父の言葉を思い出した。「詩織、物事は見た目で判断するな。理由を、論理を追いなさい」


 彼女は決意を固め、テーブルに近づいた。コップの山を眺め、頭を整理した。亮介がコップを渡した可能性。真由美が薬品を知っている事実。


(玲奈が……何をしていた?)


 佐藤が口を開く。


「そういえは玲奈さんが書類を読んでいた高橋さんにコーヒーを手渡していたんだけど、高橋さんはそれを一口飲んでうげって顔をしてトレイに乗っていた違うコーヒーを交換してたよ」


 詩織の頭の中で点と点が繋がり、高橋とよく一緒に仕事をしていた亮介に尋ねる。


「高橋さんってもしかしてブラックコーヒーしか飲めない?」


「よく分かったね。彼コーヒーにミルクや砂糖が入ってると飲めないんだ。」



 詩織は慌ててテーブルに近づき、トレイをじっと見た。玲奈がコップを積んだトレイ。その中に、一つだけミルクが入っており、縁に白い結晶が付着したコップがあった。


 彼女はトレイに手を伸ばし、結晶の付いたコップを手に取った。玲奈がハッとして近づいてくる。


「詩織ちゃん、何してるの?」


「このコップ、高橋さんが飲めないとトレーに戻したやつですよね。この縁についたキラキラしたものはなんですか?」


 詩織の声は静かだったが、ロビーのざわめきを切り裂いた。玲奈の手が震え、拳を握りしめる。


「そんな……ただの砂糖よ」


「たしかに砂糖も入っていると思いますが、実は青酸カリも入っているんじゃないですか?」


玲奈は焦ったような顔をして答える。


「なわけないじゃない!高橋くんの近くに転がっているカップと違うカップなのに」


「先ほど、コーヒーを高橋さんに配っていたあなたを見ていた人から聞きました。まず、あなたは書類に目を通している高橋さんに、コーヒーを手渡したそうですね」


「そうよ。それが床に転がってるカップに入ったコーヒーよ」


「いいえ、違います。高橋さんは玲奈さんから手渡したコーヒーを一口飲んで、おえっとした顔をしたらしいですね。それでトレイにカップを戻して新しいコーヒーを手に取った。」


玲奈が詩織を鬼にような形相でにらんだ。詩織が淡々と続ける。


「あなたは髙橋さんがブラックしか飲めないことを分かっていて、砂糖とクリームが大量に入ったコーヒーを書類に注意が逸れている高橋さんに差し出したんじゃないでしょうか?」


「なんで、そんなことしなきゃいけないのよ」


「だって、砂糖とクリーム入りが苦手な高橋さんに手渡せばカップを渡し間違えたといって、青酸カリ入りのカップを回収できますから。そして、今床に落ちている高橋さんが落としたカップからは青酸カリが検出されないはずです」


優一の声がロビーに響く。


「彼女の動機はなんなんだ?」


詩織は少し深く息を吸って、手に汗を握りながら説明する。


「高橋さんが死ねば、佐田製薬の香山化学への譲渡が遅れる。その上、あなたが役員になれる可能性が上がる。父が生きていた頃、昇格の話が出てたのに高橋さんが反対してましたよね」


群衆がざわめきが更大きくなる。佐藤が詩織の背後に立ち、囁いた。


「いいね、詩織ちゃん。方法と動機が繋がった。あとは、青酸カリの入手経路と彼女が認めるかどうかだね」


佐藤が詩織に耳打ちした内容を聞いたかのように、玲奈が金切り声を上げる。


「そもそも私がどこで青酸カリを入手できるっていうのよ!」


 数日前に終わった展示会で玲奈が薬品を扱い、研究部門からサンプルを受け取っていたことを詩織は知っている。彼女は一気に畳みかけた。


「数日前に終わりましたが、広報が率先して開催した化学の謎展示会で、様々な薬品が展示されていましたね。なかには危ない劇物まで。そのなかに青酸カリがありました。広報部長のあなたならそれにアクセスすることは可能だったと思います」


 詩織は玲奈のバッグを見た。展示会で使った資料やサンプルを、彼女がいつもバッグに入れているのを思い出した。詩織は賭けに出た。


「バッグの中に、展示会のサンプル容器があるんじゃないですか。見せてください」


玲奈が一歩後ずさる。参列者のざわめきが強まり、詩織の声がロビーを支配した。玲奈はバッグを握りしめていたが、亮介が静かに近づき、彼女の肩に手を置いた。


「玲奈さん。やっていないなら、やっていない証拠を見せるべきです」


 亮介の声に、玲奈の手が緩んだ。バッグから小さなプラスチック容器が滑り落ちる。無記名の容器だったが、展示会の薬品管理シールが貼られていた。


 詩織は父の書斎で見た資料を思い出した。青酸カリは研究用に小分けされ、シールで管理される。


「私は……佐田製薬を守りたかっただけ!」


 玲奈の叫びがロビーに響いた。参列者が息を呑み、詩織は一瞬目を閉じた。玲奈の声は震え、涙が頬を伝う。


「高橋は会社を香山化学に売るつもりだった! 私たちの研究、努力、全部無駄にするつもりだった! 私は……ただ、佐田製薬の未来を取り戻したかった!」


 詩織は玲奈を見つめた。彼女の動機は、父の会社への愛だったのかもしれない。でも、それが人を殺してよい理由にはならない。


「それだけじゃないですよね。あなたは役員になりたかった。自分の未来も守りたかった」


 詩織の言葉に、玲奈が崩れ落ちた。


「どうして……子供のくせに……」


 優一が手を叩き、参列者を落ち着かせた。


「詩織くん。よくやった、後は警察に任せなさい」


 詩織は玲奈の涙を見ながら、胸の奥で何かが締め付けられるのを感じた。彼女は父の会社を愛していたのかもしれない。しかし、彼女が犯した罪は許されない。



 警察が到着し、玲奈は連行された。容器は後で検査され、青酸カリの痕跡が確認されたらしい。


 ロビーは静けさを取り戻し、照明の光が薄く揺れた。参列者は散り散りに帰り始め、雨の音だけが残る。


 詩織は祭壇の前に立ち、父と母の遺影を見上げた。父の鋭い目、母の優しい笑顔。どちらも、もう触れられない。


 それでも詩織は生きていかねばならない。2人をこれ以上悲しませることがないように。


 詩織が感傷に浸っていると、背後から佐藤が声をかけてきた。


「実家はマスコミに囲まれてるだろうから、今日はマンションの方に帰ろう。外で僕の友達が待ってるから送ってくよ」


 製薬会社の社長が事故死し、その社長の通夜で顧問弁護士が亡くなった。そんな事件が起きたあとだ。一度実家に帰りたかったが、いまは帰れたものではない。


 佐藤の後ろから優一が現れ、佐藤に声を掛ける。


「詩織君を友達に預けたら、一度戻ってこい」


美しい佐藤の顔が一瞬歪んだような気がした。


「痛いのは嫌だなぁ」


佐藤は優一の方を振り向き、わざとらしく人差し指を顎に持っていく。その仕草はどこか艶めかしかった。


(顔が良すぎるのも大変だな)

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