表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
公安のファムファタールは暴かれたい  作者: 篠川織絵
第二章 製薬会社社長 殺人事件

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

官僚の微睡み

昼間の部下たちの喧騒が、遠い昔の記憶のように思える。


薄闇に沈んだ警備企画課のオフィスでは、一席だけが白く灯っていた。

スマートフォンの液晶が須崎(すざき)の横顔を淡く照らし、その光だけが彼がまだ帰宅していない証のように揺れている。


須崎は、小さく切れた呼吸と一緒に独り言をこぼした。


悩まされているのは、香山(かやま)が“隠し子”と紹介した佐田詩織(さたしおり)から届いた短いメッセージ──その返信文だ。


「“大丈夫ですよ”は営業メールだ……。“いいですよ”は気味が悪い……。落ち着け、俺は三十の社会人だ……」


届いた一行を見つめたまま、眉間を揉む。

あの日、名刺を渡したのは、彼女を一時的に落ち着かせるための方便でしかなかった。

本当に連絡が来るとは思っていなかった。


返信しない方が、よほど簡単で、安全だ。

だが須崎には、詩織が次にどんな行動へ転ぶのか、まるで予測がつかなかった。

相手は香山が“自分の隠し子だ”と言い放った少女だ。

扱いを誤れば、須崎自身のキャリアが一撃で破綻しかねない。


社会的体裁。

情。

倫理。

どれを優先するべきか──三つ巴で胸を引き裂いてくる。


(……どうしろっていうんだ)


その時だった。

奥の廊下から、革靴がタイルを叩く乾いた音が近づいてくる。

須崎は反射的にPCを立ち上げ、独り言の痕跡を消そうとした。


「──なぁに悩んでるの? 須崎くん」


柔らかく間延びした声が背中を撫でた。

幽霊のように、どこからともなく現れたのは香山だった。

肩にはブランケットを掛け、まるで夢の残り香を引きずったような歩き方で近づいてくる。


「まだ帰られてなかったんですか」


香山は半歩浮いたような足取りで近づき、須崎の隣の席にためらいなく腰を下ろす。

その甘い匂いのする寝起きの気配が、オフィスの冷気をやわらかく乱した。


「仮眠室で寝てたらね、少し寒くて……。車にブランケット取りに行って戻ったら、須崎くんの声が聞こえたんだ」


媚びたような甘ったるい声。

香山はデスクに頭を伏せて、微睡んだ顔を須崎に向けた。


「で? 相手は?」


香山が視線を上げ、微笑む。


「……聞いてたんですか?」


もっとも見せたくない相手に、もっとも見せたくなかった状態を見られた。

三十の大人が一通のメッセージで狼狽えている──時計の秒針の刻む音やけに大きく聞こえた。


香山は不服そうに眉を緩めた。

二十八歳の男がすれば殴られても文句の言えない顔だ。けれで、彼だけは“可愛い”と片づけられてしまう。

その理不尽さに須崎は頭の中でだけ舌打ちをした。


「人聞きの悪いこと言わないでよ。通りがかりにたまたま聞こえただけさ」


香山の言う“偶然”ほど信用ならないものはない。

この二ヶ月が、それを嫌でも教えてくれた。


「……じゃあ、忘れてください」


無理な願いだと分かっている。

それでも、自身の醜態を今日に置き去りにしてほしかった。


「須崎くんの悪いとこはさ、会うかどうかも決めてないのに、急いで返信しようとするところだよ」


忘れてほしいという願望など、香山には端から届かないらしい。

だがその指摘だけは、核心に触れるほど正しい。

須崎は反論の余地さえ失った。


彼は眼鏡を外し、目頭をそっと指で押さえる。

横で香山が体を起こし、頬杖をつく。


「眼鏡外してもあんまり変わらないね。君は──」


須崎までもを眠りの淵に誘うような、か細い囁きだった。反射的に香山とは反対側へ椅子をわずかに引いた。


「……用件をお願いします」


努めて冷静さを装うが、須崎の心の内側は理解の追いつかない混乱でざわめいていた。


「……そんなに下がらなくてもいいのに。つれないね、須崎くん。僕の声がそんなに怖い?」


香山はふいに立ち上がり、肩のブランケットを整えながら背を向けた。

足取りは緩やかだが、どこか“こちらの反応を測る”ような余白がある。


「お疲れ様です」


声を震わせないよう平坦に絞り出す。


「おやすみ──くらい言ってくれても良いんじゃない?」


振り返りもせず放たれる、甘さと棘があるともとれない曖昧な声。


須崎は喉の奥が妙に乾き、同じ言葉を繰り返した。


「……お疲れ様です」


「頑固だなぁ」


香山は、戯れを一つ終え満足した猫のように、振り返る事なく去っていく。

あの気まぐれさは、甘えるでも媚びるでもなく、須崎には、その背中を見送るほか術がなかった。


須崎は、その背中が闇に溶けていくのを眺めるしかなかった。






庁舎の外に出た瞬間、夜気が肌を刺した。

駐車場の薄暗い照明の下で、須崎はスマホを取り出す。

送信ボタンを押した直後の画面には、詩織への承諾の文面が淡く光っている。


(……送ってしまった)


胸の奥に、小さく沈むような感覚が残った。


車に乗り込み、ドアを閉めた。

たちまち世界が密閉され、静寂が車内に満ちる。


エンジンをかけた瞬間、スマホが震えた。

詩織からの返信──住所が短く並んでいる。


須崎は眉を寄せ、画面を注視した。


「……──区…...三丁目の……八……」


番地を口に出しながら、カーナビに入力していく。

指先がわずかに震えるのは、寒さのせいなのか、それとも別の理由か。


(ここの喫茶店か......)


ナビが検索を終え、目的地が地図上に表示される。

小さな赤いピンが、日曜日の行き先を淡々と示していた。


助手席でスマホが鈍く震えた。

画面には「父」という文字が浮かんでいる。

ただそれだけで、胸の奥に沈んでいた何かが一気に沸き立つ


須崎は、憎悪に似た熱を喉の奥で押し殺した。

指先は微動だにしない。

返す義務も、情も、もうどこにも存在しなかった──。





◯◯◯





深夜の仮眠室には、非常灯と月明かりが混ざり合うように落ちていた。

誰も使わない時間が長いのか、空気の層の中に細かな埃がゆっくり漂っている。


奥の寝台に、香山が一人で横たわっていた。

光に照らされた肌は白く染められ、細い髪はベッドに流れるように落ちていた。

白いイヤホンを耳に差し込んだまま、肩に掛けたブランケットを抱きしめるように丸まっている。


寝息は浅い。

眠っているというより、ただ“横に置かれている”だけの体のようだった。


棚にはペットボトルの水が一本。

封を切った形跡はなく、キャップだけが緩く斜めに閉まっている。

その無造作な角度だけが、ここが生活の一部ではなく──“帰れない人間の一時避難所”であることを示していた。



イヤホンにつながった端末は、信号機のように、無言で点灯と消灯を繰り返している。


先ほどまで、死んだ人間のように動かなかった香山が、ゆっくりと膝を抱え込んだ。

耳から滑り落ちたイヤホンが、床の上で小さく転がる。


「.....お腹すいたな......」


独り言というより、

誰に向けるでもない温度の抜けた声だった。


香山はしばらく、薄暗い天井をぼんやりと見つめていた。

起き上がる気配はない。

食べ物を買いに出る気配もない。

ただ、空腹という事実だけを確認するように、

指先がブランケットの端を無意味に撫でる。


非常灯の緑が、

香山の頬の影をゆっくりと濃くした。


静かな部屋の中で、

落ちたイヤホンだけが、拾われぬまま冷えていく。


この光景を知っている者は、翌朝の庁舎には誰もいない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ