官僚の微睡み
昼間の部下たちの喧騒が、遠い昔の記憶のように思える。
薄闇に沈んだ警備企画課のオフィスでは、一席だけが白く灯っていた。
スマートフォンの液晶が須崎の横顔を淡く照らし、その光だけが彼がまだ帰宅していない証のように揺れている。
須崎は、小さく切れた呼吸と一緒に独り言をこぼした。
悩まされているのは、香山が“隠し子”と紹介した佐田詩織から届いた短いメッセージ──その返信文だ。
「“大丈夫ですよ”は営業メールだ……。“いいですよ”は気味が悪い……。落ち着け、俺は三十の社会人だ……」
届いた一行を見つめたまま、眉間を揉む。
あの日、名刺を渡したのは、彼女を一時的に落ち着かせるための方便でしかなかった。
本当に連絡が来るとは思っていなかった。
返信しない方が、よほど簡単で、安全だ。
だが須崎には、詩織が次にどんな行動へ転ぶのか、まるで予測がつかなかった。
相手は香山が“自分の隠し子だ”と言い放った少女だ。
扱いを誤れば、須崎自身のキャリアが一撃で破綻しかねない。
社会的体裁。
情。
倫理。
どれを優先するべきか──三つ巴で胸を引き裂いてくる。
(……どうしろっていうんだ)
その時だった。
奥の廊下から、革靴がタイルを叩く乾いた音が近づいてくる。
須崎は反射的にPCを立ち上げ、独り言の痕跡を消そうとした。
「──なぁに悩んでるの? 須崎くん」
柔らかく間延びした声が背中を撫でた。
幽霊のように、どこからともなく現れたのは香山だった。
肩にはブランケットを掛け、まるで夢の残り香を引きずったような歩き方で近づいてくる。
「まだ帰られてなかったんですか」
香山は半歩浮いたような足取りで近づき、須崎の隣の席にためらいなく腰を下ろす。
その甘い匂いのする寝起きの気配が、オフィスの冷気をやわらかく乱した。
「仮眠室で寝てたらね、少し寒くて……。車にブランケット取りに行って戻ったら、須崎くんの声が聞こえたんだ」
媚びたような甘ったるい声。
香山はデスクに頭を伏せて、微睡んだ顔を須崎に向けた。
「で? 相手は?」
香山が視線を上げ、微笑む。
「……聞いてたんですか?」
もっとも見せたくない相手に、もっとも見せたくなかった状態を見られた。
三十の大人が一通のメッセージで狼狽えている──時計の秒針の刻む音やけに大きく聞こえた。
香山は不服そうに眉を緩めた。
二十八歳の男がすれば殴られても文句の言えない顔だ。けれで、彼だけは“可愛い”と片づけられてしまう。
その理不尽さに須崎は頭の中でだけ舌打ちをした。
「人聞きの悪いこと言わないでよ。通りがかりにたまたま聞こえただけさ」
香山の言う“偶然”ほど信用ならないものはない。
この二ヶ月が、それを嫌でも教えてくれた。
「……じゃあ、忘れてください」
無理な願いだと分かっている。
それでも、自身の醜態を今日に置き去りにしてほしかった。
「須崎くんの悪いとこはさ、会うかどうかも決めてないのに、急いで返信しようとするところだよ」
忘れてほしいという願望など、香山には端から届かないらしい。
だがその指摘だけは、核心に触れるほど正しい。
須崎は反論の余地さえ失った。
彼は眼鏡を外し、目頭をそっと指で押さえる。
横で香山が体を起こし、頬杖をつく。
「眼鏡外してもあんまり変わらないね。君は──」
須崎までもを眠りの淵に誘うような、か細い囁きだった。反射的に香山とは反対側へ椅子をわずかに引いた。
「……用件をお願いします」
努めて冷静さを装うが、須崎の心の内側は理解の追いつかない混乱でざわめいていた。
「……そんなに下がらなくてもいいのに。つれないね、須崎くん。僕の声がそんなに怖い?」
香山はふいに立ち上がり、肩のブランケットを整えながら背を向けた。
足取りは緩やかだが、どこか“こちらの反応を測る”ような余白がある。
「お疲れ様です」
声を震わせないよう平坦に絞り出す。
「おやすみ──くらい言ってくれても良いんじゃない?」
振り返りもせず放たれる、甘さと棘があるともとれない曖昧な声。
須崎は喉の奥が妙に乾き、同じ言葉を繰り返した。
「……お疲れ様です」
「頑固だなぁ」
香山は、戯れを一つ終え満足した猫のように、振り返る事なく去っていく。
あの気まぐれさは、甘えるでも媚びるでもなく、須崎には、その背中を見送るほか術がなかった。
須崎は、その背中が闇に溶けていくのを眺めるしかなかった。
庁舎の外に出た瞬間、夜気が肌を刺した。
駐車場の薄暗い照明の下で、須崎はスマホを取り出す。
送信ボタンを押した直後の画面には、詩織への承諾の文面が淡く光っている。
(……送ってしまった)
胸の奥に、小さく沈むような感覚が残った。
車に乗り込み、ドアを閉めた。
たちまち世界が密閉され、静寂が車内に満ちる。
エンジンをかけた瞬間、スマホが震えた。
詩織からの返信──住所が短く並んでいる。
須崎は眉を寄せ、画面を注視した。
「……──区…...三丁目の……八……」
番地を口に出しながら、カーナビに入力していく。
指先がわずかに震えるのは、寒さのせいなのか、それとも別の理由か。
(ここの喫茶店か......)
ナビが検索を終え、目的地が地図上に表示される。
小さな赤いピンが、日曜日の行き先を淡々と示していた。
助手席でスマホが鈍く震えた。
画面には「父」という文字が浮かんでいる。
ただそれだけで、胸の奥に沈んでいた何かが一気に沸き立つ
須崎は、憎悪に似た熱を喉の奥で押し殺した。
指先は微動だにしない。
返す義務も、情も、もうどこにも存在しなかった──。
◯◯◯
深夜の仮眠室には、非常灯と月明かりが混ざり合うように落ちていた。
誰も使わない時間が長いのか、空気の層の中に細かな埃がゆっくり漂っている。
奥の寝台に、香山が一人で横たわっていた。
光に照らされた肌は白く染められ、細い髪はベッドに流れるように落ちていた。
白いイヤホンを耳に差し込んだまま、肩に掛けたブランケットを抱きしめるように丸まっている。
寝息は浅い。
眠っているというより、ただ“横に置かれている”だけの体のようだった。
棚にはペットボトルの水が一本。
封を切った形跡はなく、キャップだけが緩く斜めに閉まっている。
その無造作な角度だけが、ここが生活の一部ではなく──“帰れない人間の一時避難所”であることを示していた。
イヤホンにつながった端末は、信号機のように、無言で点灯と消灯を繰り返している。
先ほどまで、死んだ人間のように動かなかった香山が、ゆっくりと膝を抱え込んだ。
耳から滑り落ちたイヤホンが、床の上で小さく転がる。
「.....お腹すいたな......」
独り言というより、
誰に向けるでもない温度の抜けた声だった。
香山はしばらく、薄暗い天井をぼんやりと見つめていた。
起き上がる気配はない。
食べ物を買いに出る気配もない。
ただ、空腹という事実だけを確認するように、
指先がブランケットの端を無意味に撫でる。
非常灯の緑が、
香山の頬の影をゆっくりと濃くした。
静かな部屋の中で、
落ちたイヤホンだけが、拾われぬまま冷えていく。
この光景を知っている者は、翌朝の庁舎には誰もいない。




