プロローグ 三十六計逃げれば地獄
撤退、とんずら、わき目もふらず。
後退、転進、エスケイプ。
逃走は、俺が唯一頼りとする武器だった。
大した才能もなく、またカネもない自分が持ちうる最高の業物。
それは軽く、鋭く、どんな敵にも負けることはない。
生存こそが生命の本懐にして勝利と言うならば。
これほどの性能を誇る武器はほかにはあるまい。
振るう際の心の痛みなど無視すればいいだけ。
惨めな死者には目もくれず、今日も俺は世界最強の凱歌を上げる。
……だが悲しいかな、どんな名剣であれ磨耗は避けられない。
そして守るものの出来た俺には、それを握る資格すらなくなってしまった。
それもまた人生か、と身の丈にあった戦いに臨み。
身の丈にあった勝利をおさめていく日々。
気の合う仲間たち。いつもと変わらぬ他愛のない仕事。
人のカタチをした災害。耳をつんざく仲間の悲鳴。
助けを乞う声と、それを無視して反転する足。
出来の悪い喜劇のような疾走の先に見えたのは。
逃げ続けた末に、ついに追いつかれた、報いの姿。
……ああ、彼女は。
家を出る直前、なにを言おうとしていたのだろう。
心が割れる音しか聞こえない。
どうして嬉しそうにお腹をさすっていたのだろう。
床がアカくてなにも見えない。
俺にはもう、本当になにもわからなくて。だから。
これまでと変わらず、惨めな敗北者として。
――――最悪の現実から逃げ出した。




