1 運命の星と出会う
私はフィオレ・バニングス。十五歳くらい。
なんの変哲もない、辺境の街娘。
――――突然ですが、これから死にます。
街の南東に位置する、深い深い森の奥深く。
涼やかな風。木々の語らい。穏やかなお日様。沈む心。
背後にはそびえ立つ崖。下には土と草の感触。そして目の前には――黒い化け物の群れ。
いわゆる絶体絶命のピンチというやつですね。
なぜこんなことになっているかと言うと――シルヴィア様が、もう何日も高熱にうなされているから。
身寄りのない私を拾い、育ててくれた大切な家族のために、危険だと知りながら薬草を採りに森まで来て。
……結果、予想通り化け物の群れに追い詰められたというわけです。自業自得、です。
森の奥地であるこの崖の周辺には木が生えていない。崖を底面に、半円状に開けた空間になっている。……まるでどこかの劇場のよう。
本日の演目は人間惨殺ショー。
観客ゼロ。人間、私一人。あと全部処刑人。どこに需要があるんでしょう。神様とかかな。
目の前の化け物は、有り体に言って大きな蜘蛛だった。もちろん蜘蛛なんかじゃない。だって――人間より大きい。
丸みを帯びた黒い胴体に、こちらも黒い八本の鋭い脚。曲線を描くそれはまるで、死神が持つという断頭鎌のよう。頭部とおぼしき場所には、かしゃんかしゃん、と大きな鈍色の鋏。哀れな獲物など一息に両断できるでしょう。
圧倒的な非日常。妄想みたいな異常事態。へたり込む体は疲労困憊。これに追いかけられ続けて、もう何もかも限界だった。
――――魔獣。
感情も理性も無く。使命も本能も持たず。
あらゆる欲求を排斥し、ただ『人を殺す』ことのみを自らの機能とした魔の凝縮体。
人々の生活を脅かす、この世の害悪の具現。それがこの、蜘蛛みたいなモノの正体。
私にとってもう一人の大切な人――マイクおじさんの仇。
目的の薬草は見つからない。というか、探している余裕なんてない。今にも死にそうなので。
蜘蛛型の魔獣はもう目と鼻の先。数瞬ののちに、私はざしゅ、っとあの鋏に両断される。怖くて怖くて、もう諦めようと目を閉じかけた時。
”――――――――なんだ。この程度で諦めるのか、小娘?”
そんな、私を嘲笑う、聞き覚えのない声がしました。
当然ここには私しかいないので、きっと恐怖が生み出した幻。……だけど。
知らない声。なのにその声が本当に、ほんとーーっに! 私のことを嘲笑っていることがわかった。
だから私は、なにおーー! って。自分でも不思議なくらい腹が立ってしまったので。もう絶対、その声の人とは相容れないんだと、確信してしまったので。
私は目の前の魔獣じゃなく。その幻聴の主に、こう叫んだんです。
「私は、まだ諦めたくありません――――――!」
そうしたら。
――――真昼の空から、お星さまが落ちてきたんです。
◇
「そこのキミ。――まだ、生きてるよな?」
呆然とする。落ちてきた星はなんと星ではなく、人間だった。
目前まで迫っていた蜘蛛の魔獣。今はもう、ぐしゃり、と潰れてピクリともしない。完全なる死体。
空から落ちてきて魔獣を踏みつぶしたその人は、ぴょんと軽やかに私の前に降り立つ。
目の前に立つ人物を見る。
たった今、魔獣をとんでもない威力で踏みつけにしたとは思えないほど、自然体で立っている。
傷どころか体を痛めたふうでもない。……ちょっと怖い。――後で聞いた話ですけど、どうやら崖の上から、私が叫ぶ声を聞いて慌てて飛び降りてきたらしい。
灰色の外套を羽織っていて……あ、よく見たらさっき、
"そこのキミ。ひとりで外に出るのは危ないぞ"
街の入り口で声をかけてくれた人です。
もしかして追いかけて来てくれた、のかな。
「……ん、おーいキミ、聞こえてる? どっか痛いとか?」
驚きすぎて、話しかけられていたことに気づかなかった。慌てて声を出す。
「は……はいっ。大丈夫……ですっ……」
「ん~。ちょっと擦りむいてるな。転んだりしたか?」
魔獣と対峙したままちらり、と。ぱっと見て私の状態を把握する灰色の人。
フードを被っているので、やはり顔はよく見えない。
声の感じからすると女性のような……
「少し我慢するように。――すぐに片付ける」
そう言って魔獣に向き直り――その手には、何かが握られていた。
「……え!?」
それは、白い剣だった。
滑らかな曲線を描く片刃の剣。長さは……だいたい灰色の人の腕と同じくらい。不思議なことに白い光が仄かに瞬いている。
その上、その剣には握る部分がなかった。つまり、剣身しかない。
灰色の人が握っている部分には、刃がないようには見えるけれど……痛くないのかな。
だけどそれ以上に異様なのは、いつの間にかその剣が出現していたこと。
……どこに持っていたんでしょう。少なくとも、白く光る剣なんて持っているようには見えなかった。
「さて、と」
灰色の人が剣を握る手に力を込めた時。
こちらの様子を伺うように止まっていた魔獣の群れ。その数、十数体。それらが一斉に動き出した。
響き渡る金属音。あまりの不快さに思わず耳を塞ぐ。
灰色の人に一番近い魔獣が一気に肉薄し、その鋭い脚を灰色の人へ――
「あぶな……!」
い、と言う間もなく、魔獣の体が真っ二つになっていた。
……動きがまったく見えなかった。灰色の人は一瞬で魔獣の下に潜り込んで、右手に持つ剣の一振りで魔獣を両断した……のだと思う、たぶん。
さらに二体、魔獣が迫る。
片方は脚二本による薙払い、もう片方は鋭い脚を前方に向けた刺突――って器用な蜘蛛ですね、魔獣ですけど。
迫り来る点と線の暴威。しかし、それも灰色の人の体に掠りもしない。
先ほどとは対照的に、今度は私でも目で追えるくらい緩やかな動き。何せ、攻撃が届く寸前まで動こうとしなかった。
あわや、魔獣の脚が灰色の人を切り裂き、貫こうとした瞬間。
「――――ぁ」
ふわり、と跳び上がった。
時間が引き延ばされてしまったのか、と錯覚するほどのゆっくりとした跳躍。もちろん、ただの錯覚。だけど……
魔獣の大きな体すら超えるほどの高さまで、一息で舞い上がる体躯。生きるか死ぬかの瀬戸際とはとても思えない、なんの力みもない自然な挙動。とてもゆっくりに見えてしまったのは、それが目を奪われるほどに美しく、私の心に焼き付いてしまったからでしょう。
その地点を攻撃が通過する、と事前に分かっていたかのように、灰色の人は余裕を持って寸での所で回避する。必殺の一撃を避けられた二体の魔獣は……勢い余って互いに激突した。
ガキン! という音と共に、もつれ合って身動き出来なくなる魔獣。灰色の人はその隙を見逃さない。
回避は優美、されど反撃は苛烈にして無慈悲。二体の魔獣の上空から落とされるのは、断頭の白刃。
白い剣が二度閃いたかと思うと、魔獣の首と思われる部分がどさり、と地面に落ち――そのまま絶命した。
跳び上がった時と同じく、ふわり、と着地する。そこへ四体目の、頭部の鋏による突撃が迫る。だけど、それも。
「邪魔だ」
避けることなく、真正面から迎え撃つ灰色の人。――いえ、迎え撃つ、というか。
着地と同時に華麗に一回転。自らを噛み砕かんとする魔獣の頭部に向けて、右脚による回し蹴りを思い切り叩き込む。
大気を震わす衝撃音。ドガン! と足で蹴っただけとはとても思えない音がした。
「うそ……」
私の目に、信じられないものが映る。さっきから信じられないことばかりだけれど。
なんと蹴り飛ばされた魔獣の頭部はぐしゃり、と潰れる――どころか鋏ごと砕け散る。黒と鈍色の破片を撒き散らしながら、その大きな体は宙を舞い吹き飛んでいった。いったいあの細い足のどこにそんな力が……?
残った魔獣たちの動きが急に変わる。
灰色の人から距離を取り始め、魔獣たちはその大きな体を反転させた。
敵わないと悟って逃げるのかな、と思いきやそうではなかった。
胴体の、おそらくお尻にあたる部分を灰色の人に向け……
「――!?」
お尻部分が光り出したかと思うと、光る帯のようなものが高速で射出された。光る帯は灰色の人に絡みつき、その体を雁字搦めに縛り上げてしまう。
私を襲う既視感。どこかで見たことがあるような、ないような。くるくる回る頭が答えを導き出した。
そう、あの魔獣の形状。対象を縛る帯……いえ、糸。そこから導き出されるあの魔獣の正体は――――ズバリただのでかい蜘蛛です!
――なーんだそうだったんですか。魔獣かと思ってましたけどホントは蜘蛛さんだったんですね! あー、怖がって損しちゃいました――ってそんなわけないでしょう! そもそもただの蜘蛛だとしても、でかすぎて怖いです!
私、大混乱。なに考えているんだろう……と自分でも呆れていた。
そんなことよりピンチでは。左腕側は無事のようだけれど、それ以外の右腕も両脚も、白い剣までも絡め取られてしまっている。
魔獣が後ろ向きのまま、あの人にじりじりと迫り始め、焦る私。だけど灰色の人はつまらなそうに、
「へぇ。その見た目は伊達じゃない、ってことか? ……だったら」
左手で光る帯の一本を掴んだかと思うと。
「蜘蛛は蜘蛛らしく――――無様に潰れてろ!」
思いっきり引っ張り、その先に繋がっていた魔獣ごと高く振り上げた。
……もう、驚きすぎて疲れました。深く考えるの止めよう……と私、思考放棄。
灰色の人は振り上げた魔獣を、まるで玩具で遊ぶ子供みたいに振り回し、そのまま別の魔獣の上に叩き下ろす。
ガシャン! 硝子同士がぶつかったかのような音がして、二体の魔獣はもろともに砕けて潰れてしまった。
「ははっ、脆すぎっ!」
笑いながらも、体に巻き付いた光の帯を素手で引きちぎり、拘束を解く。
……今一瞬、触れられた帯が燃えていたような。あれはまさか……?
灰色の人は止まらない。
魔獣にどれほど脚を振るわれようが、鋏を向けられようが、蜘蛛の糸に捕らわれようが関係なく、魔獣を切り刻んでゆく。
そのさまはまるで踊るよう。黒白交わる舞踏会のはじまりはじまり。
ざあざあと熱狂する木立の歓声。鋏の楽団が奏でる不協和音のなかを、灰色の死神は舞い踊る。
軽やかな踏み込み。目を奪う剣先。心震える死の舞踏。
それはまばたき一つするごとに。呼吸を一つ忘れるほどに。
無慈悲な死神はたおやかに、身の程知らずな参列者どもを冥府へと叩き落していく。
「――……綺麗」
あまりにも凄惨な光景。だというのに私には、魔獣の黒い体を切り裂く白い軌跡が、闇夜を駆ける星のように見えてしまって。ただただ、見惚れることしかできなかった。
そうして灰色の人が、十体ほど魔獣を打ち倒したとき、
「……さすがに、多すぎだろ」
うんざりしたように呟いた。いつの間にかさらに魔獣が集まって来ている。
その数、一、二、三……数えきれないけど多分二十体くらい。その上、遠くの木々の隙間にもそれらしき影が見える。蠢く蜘蛛型の魔獣たちの姿は生理的な嫌悪感を呼び起こす。
さっき切り裂かれた魔獣と合わせて、三十体以上の魔獣がこの森に潜んでいたということ……? 私、よくここまで辿り着けましたね。
私の傍まで灰色の人が戻ってくる。
……どうするつもりなんでしょう。いくら何でもあの数はこの人でも……と不安になる。
そんな心配をよそに、何事かを呟いている。
「向こうにも……ちょっと範囲外だな……」
その声に含まれているのは焦りではなく。ただ単純に、
「……あー、めんどくさくなってきた。もう全部吹き飛ばすか。また生えてくるだろ」
面倒で仕方がないと言うような――って、え? この人、今なんて言いました?
困惑する私には目もくれず、再び魔獣の群れに向き合う灰色の人。
左手を前方に掲げた瞬間。
見えない力が、灰色の人を中心に膨れ上がった。
「――――っ!? こ、これ……」
周囲の空気が渦を巻いている。それは間違いなく、目の前のこの人が起こした現象だと確信する。
私はこれを……いえ、この世界の人なら誰でも知っている。
世界に満ち溢れる力、魔力を用いて超常の現象を引き起こすもの。
――――魔術。人がこの世の害悪の具現たる魔獣に対抗するために編み出した、戦闘技術の一つ。
さっき光の帯を引きちぎった時、燃えているように見えたのも……きっとそう。
つまりこの灰色の人は魔術師、ということで。
大気がうねる。灰色の人のもとに圧縮されていくのを感じる。
森にある全ての木々がざわめいていると思うほど、激しい音を立てていく。
魔獣の群れも動きが完全に止まっていた。奴らに感情なんてないはずなのに、目の前に立つ存在が圧倒的なものだと理解しているのかもしれない。
私自身は魔術に詳しいわけではないけれど……明かりを灯す程度の魔術なら、一応使える。
だけど、それと今この場で巻き起こっている現象は、まるで次元が違うものだった。
まさしく、超常の神秘。極限まで鍛え上げられた、魔術の頂――――
「――――――」
ズキリ。視界にノイズ。頭蓋に火花。
痛みに目が鮮明になる。世界が薄膜を開いていく。理解できないものが、理解できるようになる。
……不思議。私の理解を遥かに超えた魔術のはずなのに。……何かが足りないような気がした。
まるで……そう。必要な工程を一つ、省いたような……
「さあ、それじゃあ」
灰色の人が告げる。何故かちょっとだけ、楽しそうに。
「自然破壊、いってみようか――――――――――――!」
瞬間、圧縮された大気が解放される。
前方に向けた左手の先に、破壊の旋風が吹き荒れた。
魔獣たちはあまりの暴風に身動き一つ出来ず、大気の斬撃にその身を晒している。
皮肉な話。蜘蛛を模した魔獣達は、獲物を捕らえるどころか。逆に空気の檻に囚われ、無慈悲な真空波に噛み砕かれてゆく。
私の周囲にはほとんど風がない。なぜだろうと思っていたけれど、よく見たら私を囲うようにして、光る薄い膜のようなものが出来ていた。
恐らくこれも、この人の魔術。私のことを守ってくれていたらしい。
次第に暴風が止まってゆく。あれだけいた蜘蛛型の魔獣は、一体残らず八つ裂きになっていた。
もうこの辺りに、動いている魔獣は存在しない。
そう、つまり私は。
あの絶体絶命の状況から。なんと生還出来てしまったのです。
……だけど私は別のことが気になっていて。
「これは、その」
さっき、灰色の人が呟いた言葉の真意。
私が駆け抜けてきた森を見れば、それがよくわかった。
破壊の嵐に晒された森は、魔獣どころの騒ぎではなく。切り裂かれた枝葉が散らばる、見るも無残な姿に変わり果てていた。もはや枯れた森みたい。そして私はというと。
「――――流石に酷いのでは?」
助けられておきながら、まるで他人事みたいな言葉を暢気に口にしていたのでした。そして。
「さって終わった終わった。そこのキミ。今、傷の治療を――って、おい!」
極度の疲労と、極限状態からの解放。そこに目を覆いたくなるような森の惨状を突きつけられた私は。
精神的な負荷に耐えきれなくて、放り投げるように意識を手放していく。
――――私を抱き起こす、美しい少女の顔に見惚れながら。




