15.5 幕間 眠れない夜
ルミナがこの家に滞在するようになってから、すでに一週間ほど経過していた。
「…………ルミナ様。申し訳ありませんが、これを、受け取ってはもらえないでしょうか」
日課となった夜の『応急処置』と、取り留めのない雑談。
ルミナ自身も気づかないうちに楽しみになってきていたそれに興じていると。シルヴィアは、急に沈んだ声を出した。
いや。実際のところ、今日のシルヴィアは『少し元気がない』とルミナは感じていた。ゆらゆらと揺れる影絵の蝋燭は、いつにもまして細い。ルミナは胸のざわつきを押さえつつ受け取ったものに目を落とすと、それは。
「これは……日記、ですか?」
数冊の日記帳だった。具体的に言うと四冊。表紙に記された二つの数字を見る限り、一冊で三年分の記録を残しておける連用日記のようだった。つまり、十二年分。
「これは私があの子と出会う少し前から現在までの日記です。他愛のないことしか書いてないページも多くありますが……」
「いえ、それ以前に。――――どうして、これをオレに?」
その問いに。
「…………最近、あの子が――フィオレが。私によそよそしい態度をとるのです」
シルヴィアは今にも泣きそうな、崩れ落ちてしまいそうな、そんな、かすれた声で答えた。
「ルミナ様も気づいておられるのでは……?」
「ええ、まあ。なんか様子がおかしいな、とは」
そう、気づいていた。
例えば、朝の挨拶の時とか。例えば、食事時の視線の動きとか。
例えば、買い物帰りの、『ただいま』を言うフィオレがシルヴィアを見ていないこととか――
ルミナはちゃんと気づいていた。他にももう一つ気づくことはあり、そちらもなるべく、その背を押してやりたいとルミナは思っていたが――今は。
「別にケンカをしてるわけじゃないですよね。理由に心当たりは?」
「一つだけ……あります。恐らくあの子は――――見えて、いるのでしょう」
「………………」
二人は同じ結論に至る。
フィオレの魔術の才能はルミナも知るところだ。というよりも、異常だった。
今まで一切魔術に触れてこなかったくせに、一目見た魔術をあっさり起動して見せる。その変異式刻印はルミナをすら驚愕させるほどの速度。その精密さは彼の師匠に匹敵する、と言っても過言ではないとルミナは断じていた。そして。
「まだ、本人に直接は聞いてないんですが。どうやらフィオレ――――初見の変異式でも理解できるみたいです。一切、その変異式の知識がなくても」
本来、変異式とは人間には理解不能な記号の羅列だ。ルミナやシルヴィアのように、他人が起動する魔術の変異式を捉える特別な目を持っていたとしても、それは『見える』だけ。知識がなければ理解できない。
だが。ここ数日の魔術講義において、フィオレは見たことないはずの変異式ですら、その用途を看破しているふしがあった。
「フィオレ、あまり自分から喋る方ではないので何とも言えないですけど。だとしたら……」
「きっとあの子は気づいてしまったのでしょう。私が――病気ではない、ということに」
故にフィオレはソレから目を逸らした。
――――もうすでに手遅れだと、嫌でも突きつけられてしまうから。
「ルミナ様。私、あの子に真実を打ち明けようと思います」
「いいんですか?」
「もちろん、よくありません。それを伝えてしまったら、あの子がどういう行動に出るかなど目に見えています。本当なら最期まで、隠しているつもりだった。…………ですが」
震える声。シルヴィアはやせ細った両手で顔を覆い、嗚咽をこらえながら胸の内を吐き出した。
「辛いのです……あの子に、あんな態度をとらせてしまったことが。あんな、今にも泣きそうな顔で、それを必死に隠そうとする姿を見るのが、死ぬことよりも――辛くてたまらない」
「シルヴィアさん……」
「どうかお願いいたします、ルミナ様。こんな弱い私のことは軽蔑していただいて構いません。ですがもし全てが終わったあと、あの子がその選択をするようならば。――あの子を、支えてあげてほしい」
渡した日記はその時のためのものなのだと、シルヴィアは深く頭を下げた。
それを受けて、ルミナは。
「――――少し、考えさせてください」
この場で答える軽率を愚かだと判断した。
「約束します。必ず答えを出すと。ただそれは、そう簡単に決めていいものじゃないと思いますから。シルヴィアさんには、不安な思いをさせますけど……」
「ああ、いいのです。無理を言っているのはこちらのほう。むしろ申し訳ありません。出会って間もない貴方様にこんな……」
それこそ気にしなくていい、とルミナは笑う。困った時は助け合いだ、と。
それを聞き、シルヴィアもつられて笑う。
「本当に優しい方ですね。貴方様に出会えたこと、この世界の神々に感謝いたします。―――――――――様」
「いやそんな大げさな――今、なんて言いました?」
一瞬、ルミナは流しかけた。だが、聞き間違いではなく。
――――今、この人は。
こちらに来てから一度も明かしたことのない、自分のフルネームを言い当てなかったか――――?
「な、なんで、それを……」
「お、おや? もしや合っているのですか? 当てずっぽうのただの勘、だったのですが」
「は――勘!? いやいやいや、有り得ないですってそれ!」
そう、有り得ない。
その名前はこの世界の人間であれば、絶対に出てくることのないもの。当てずっぽうであったとしても、何らかの理由がなければ不可能のはず。
「シルヴィアさん、そう思った理由って……」
「え、えーと……それは、なんといいますか……」
奇跡的にルミナの名前を言い当ててしまったシルヴィアは、なぜか歯切れが悪い。まるでそれを指摘するとルミナを怒らせるのでは、とおそれるような態度。ますますルミナには検討もつかない。
そして、結局。
「……私、もう眠くなってきました。おやすみなさい」
「え? あ、ちょっと!」
まるでイタズラがバレそうになった子供のように、毛布を頭から被って寝るフリをしてしまった。
「…………はあ」
どうやらこれは諦めるしかない、とルミナはため息をつく。
今日のところは引き下がり、おやすみなさいと言いつつ部屋を出ようとして。
「――――」
ふと、思い直す。ドアへと向かいかけた体を翻し、再び椅子に座る。
「……あー。もしかしたら、余計なお世話かもなんですけど」
そして毛布で隠した顔を少しだけ覗かせるシルヴィアに手を差し出し、
「――――眠るまで、手を握ってますよ」
その揺らぐ瞳を真っ直ぐ見つめた。
「…………本当に。貴方様という人は」
「すみませんね。マイクさん、て人じゃなくて」
「あの子から聞いたのですか?」
「まあ、二人の会話から。そうなのかなって」
シルヴィアはおずおずと、差し出された手を握る。冷えた手が、優しい温もりに包まれる。
「……ええ、そうです。マイクは私の運命の人。ふふ、ロマンチックでしょう?」
垣間見える悲しみ。それには気づかないふりをし、そうですね、とルミナは返す。
「ああ、そうだ。シルヴィアさん、今度誕生日なんですよね。その時にオレの"とっておき"をお見せしますよ。きっと、気に入ると思います」
「ああ……それは、楽しみですね……」
眠れない夜。二人は他愛のない話を繰り返す。
愛しい誰かの思い出話。荒唐無稽なおとぎ話。
それらは安らかな寝息が一つ、夜に溶けるまで続いた。




