第3話 裳末杏太郎はウェアダニットにしか興味がない
唐突かつ非現実的なワードが最中の口から飛び出る。裳末は一瞬面食らった後、すぐに顔全体に《《くだらない》》という感情を貼り付けた。
「それって悪魔の証明のパロディのつもり? だったらこっちに勝ち目はないじゃん。僕、勝てない勝負って嫌いなんだよね」
悪魔の証明。
遡れば中世ヨーロッパの法学に由来する言葉であるが、現代においてはもう少し広いニュアンスで使われることが多い。
その概念を一言で表すのなら、《《ないものをないとは証明できない》》という言葉に尽きる。
存在するものを《《存在する》》と証明するのは簡単だ。その存在を見つけてくることさえできれば証明は完了する。
しかし、存在しないものを《《存在しない》》と証明するのは難しい。なぜなら、仮に方々手を尽くしたのにそれが見つからなかったとしても、《《まだ見つかっていないだけでどこかに存在する》》のかもしれないという可能性は捨てきれないからだ。
故に、《《悪魔の証明》》。
存在しない悪魔を、存在しないと証明するのは難しい。最中の持ちかけた勝負はそんなアンフェアな性質を持っている。
だが、にべもなく断られたというのに、最中の強気な態度は変わらなかった。
「まあまあ、話は最後まで聞いてよ。この《《吸血鬼の証明》》には、ちゃんと答えが用意してあるって言ったら?」
最中は挑戦的な目で、裳末を下からのぞき込む。
「まさか、一介の高校生が考えた謎かけに答えられる自信がないわけじゃないよねえ?」
ここで裳末杏太郎という、どうしようもない大人の性質を説明しておく。
裳末杏太郎は、自信過剰な凡人である。凡百の人間並みの知性と才能しかないくせに、自分のことを周囲とは違う格上の存在だと思い込む、斜に構えた中高生のようなメンタルをこの年までひきずっている無様な男である。
当然、これまでの人生で自分より格上の存在と出会ったことがないわけではないが、《《そう》》と気付いた瞬間、即座に自分の視界からシャットアウトすることによって、ちっぽけなプライドを守ってきた矮小な人間である。
そのくせ、現実と理想の齟齬への苛立ちですくすく育った巨大なコンプレックスを持て余している、どこにでもいる平凡な敗北者である。
そんな彼が、大嫌いな『自分よりも賢いガキ』に挑発されて、平静を保っていられないのは仕方のないことであった。
「へえ、言うじゃん。相当自信がおありのようだけど、僕がそんな安い挑発に乗ると思った?」
「挑発なんてしてないし。俺はただ、和菓子せんせにはちょっと難しいカナー? って言ってるだけだし」
「はあ?」
ここに来ても裳末はまだ自分は冷静であると思い込んでいた。実際は、一回りどころか二回りは年下である生徒の手のひらの上でコロコロと転がされているのだが、一向に気付く気配もない。
裳末はじっと最中をにらみつけると、うなるように宣言した。
「いいよ、やってやろうじゃん」
「やりぃ! せんせ大好き!」
「……あっそ、僕は大嫌いだよ」
にっこにこになって喜ぶ最中の姿に、徐々に落ち着いてきた裳末は改めて大きなため息をつく。
「ところで『不在証明』って俗に言うアリバイのことだけど、僕は《《吸血鬼のアリバイ》》じゃなくて、《《吸血鬼がいないこと》》を証明すればいいんだよね?」
「えっ、そうなんだ。知らなかった」
素直に無知を告白する最中に、裳末は微妙な顔になる。何しろ、裳末自身は絶対に自分の間違いを認めない嫌な人間であったので。妙に博識なところがある最中が不在証明=アリバイであると知らないというのは少々意外ではあったがそれもいいとする。
「で、証明するのはアリバイじゃなくていいんだね?」
「うん! 《《吸血鬼はこの学園に存在しない》》って、俺が卒業するまでに証明できればせんせの勝ち。できなければ俺の勝ち。簡単でしょ?」
最中は自分の唇に指を当てて、にまにまと笑う。絶対に何か仕掛けがあるのは明らかだったが、一度やると言ってしまったのだから仕方ない。裳末はしっしっと手首を振りながら尋ねた。
「はあ、まあ付き合ってはあげるけどさ。当然、何の手がかりもくれないわけじゃないんだよね?」
「もちろん。せんせ、うみがめのスープって分かる?」
うみがめのスープ。
出題者に回答者が質問を重ねることによって真相を探る、水平思考ゲームだ。
回答者は「それは●●ですか?」といった、はい、いいえで答えられる質問をし、出題者はそれに、はい、いいえのみで答える。
裳末は少し考えてそれを思い出したらしく、ぼんやりと斜め上を見ながら言った。
「あー、あのネットにかぶれた大学生が好きそうなゲーム?」
「せんせ、本当にろくな学生生活送ってこなかったんだね……」
言及するたびに学生という身分をけなす裳末に、最中は同情の眼差しを向ける。
「今時は色んなとこでレクリエーションとしてもやってるからね? 小学校とか、サークルとか」
「ふーん、世も末だね」
「おっ、裳末だけに?」
「……僕さあ、人の言葉を勝手にダジャレだと思い込んで、勝手に滑ったのをフォローしてくる人間大嫌いなんだよね」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと面白かったよ!」
「地獄に落ちてほしい……」
裳末は地を這うような低い声で唸る。だが、残念ながら、最中には一切響いていない。にこにこと上機嫌そうに笑いながら、最中は話を先に進めた。
「これから先、聖母子学園では奇妙な事件が起きる。和菓子せんせはその犯人である吸血鬼が存在していないことを証明する。俺は、和菓子せんせの質問にうみがめのスープ形式で答えてヒントを出す。こういうルールでどう?」
「ふーん、じゃあ早速、一個質問してもいい?」
ルールを把握して早々に、裳末は問いかける。
「《《その吸血鬼の正体は君》》?」
あっさりと口に出されたのは、このゲームの核心を正面から突く問いだった。最中は一瞬あっけにとられた後、子供っぽくぷくっと頬を膨らませる。
「せんせー、ずっるーい!」
「ずるくないよ。君の言うルールには犯人について直接尋ねてはいけないなんて書いてないでしょ」
「そうだけどさー。そんなの聞かれちゃったらゲームになんないし、そもそも風情がなさすぎるでしょ。だからせんせー、友達いないんだよ!」
ぎゃんぎゃん喚いて不服を表明してくる最中に、裳末はうんざりとした顔で耳を塞ぐ。
「あーもう、わかったよ。ルール付け加えていいから。これだから子供の駄々は困るんだよね」
「先に大人げない質問したのは和菓子せんせだからね?」
あくまで自分は巻き込まれただけの被害者ですという面を崩さず、裳末はやれやれと息を吐く。最中はそんな彼をじとりと見ていた。
「やれやれって言いたいのは俺のほうなんだけど」
「文句があるなら僕、ゲームから降りてもいいんだよ?」
「ほんと大人げないよね……。じゃあ、『吸血鬼の実在についての直接的な質問に、暮吉最中は答えなくてよい』。これでどう?」
最大限の譲歩を提示し、最中は裳末をにらみつける。裳末は自分が優位に立った状態でする会話が大好きなので、最中を見下してふふんと鼻を鳴らした。
「いいよ、その条件で。まあ、それを抜いてもこのゲームは僕の勝ちが決まってるようなものだけど」
相変わらず上から目線で、裳末は勝ち誇る。その自信の理由がつかめず、最中は怪訝な顔になった。
「えー、どこから来るのその根拠のない自信」
「根拠? あるに決まってるでしょ。ほら」
裳末は立ち上がると、机に置かれた四つのモニターの電源を入れた。そこに表示されたのは、リアルタイムで流れるこの学園の監視カメラの映像だった。
ここ、私立聖母子学園高等部は、少し変わった事情のある生徒が多く通う全寮制の高校である。
有名芸能人の子供、大御所政治家の関係者、プロ野球選手に内々定しているスポーツ特待生。
彼らに共通しているのは「万が一にもスキャンダルを起こしてはいけない」という一点だ。
それゆえに彼らはこの学園に押し込められた。『生徒の完全庇護』というお題目で校内ほぼ全ての場所に監視カメラが設置され、四六時中監視され続けるこの聖母子学園に。
表向きは、生徒の安全のためのセキュリティがしっかりしている上に、超高度なIT技術を授業に取り入れている難関私立校という立場であるので、無論、事情を知らない一般人のほうが絶対数は多い。
しかし、最中はいわゆる《《こちら側》》の生徒であったので、裳末の言わんとすることはすぐに理解できた。
「万能カメラ様に頼るって? 一体この学校に全部でいくつのカメラが設置されてると思ってんの?」
「そうだね。だけど、逆に言えば『|どこで事件が為されたか《ウェアダニツト》』さえ分かれば僕の勝ちになる」
「ウェアダニット? フーダニットでも、ハウダニットでも、ホワイダニットでもなく?」
フーダニット。誰がそれを為したのか。
ハウダニット。どうやってそれを為したのか。
ホワイダニット。どうしてそれを為したのか。
どれも、ミステリーの物語構造を示す言葉だ。だが、裳末はそのどれでもなく、ウェアダニットのみを探ると言う。
「フーダニットは無視していい。なぜなら犯人は君だから。ホワイダニットはどうでもいい。なぜなら僕は興味がないから。ハウダニットは後回しでいい。なぜならこの学園の全ては監視されてるから。ゆえに、肝心なのはウェアダニット。それさえ分かれば、事件の真相はカメラが捉えてるからね」
面倒そうにつらつらと裳末は語る。対する最中の内心は《《面白くない》》という感情に満たされつつあった。
「……フーン?」
どうやらこの教師は、これから起きる事件の現場がカメラに写ってさえいれば、簡単に謎なんて解けるとこちらを侮っているらしい。
安楽椅子探偵という言葉はあるが、ここまで自信過剰な安楽椅子探偵も珍しいだろう。
しかし、と最中は考える。
ここでもう一つ自分がアクションを起こせば、裳末に屈辱的な敗北を味わわせることができるのではないか、と。
「やれやれ、しっかたないなあ。じゃあ今回は特別大サービスしちゃおっかな?」
「はあ?」
言うが早いか、最中は手元のスマホからモニターにアクセスし、そこにとある教室の映像を映し出した。
右下に表示されているカメラの名称は『2年B組』。本来であれば、最中が出席しているはずの数学の授業だ。
映像の中では数学教師の中戸が、黒板に数式を書いて説明していた。彼はあまり字が綺麗なほうではないようで、癖の強い文字を読み取ろうと生徒たちは四苦八苦しているようだ。
――不意に、画面の右端に何かが映り込む。ゆらゆらと揺れる黒いローブをまとった怪しい人影だ。
生徒のうち、数名がそれに気付いて、徐々に教室はざわめきはじめる。その人影を指さしてささやきあったり、わざわざ眼鏡を外して確認する生徒もいる。
「……せーんせっ!」
「うわっ」
食い入るようにその映像を見ていた裳末の目の前に、ひょっこりと最中が顔を出す。
「ほら、答えてみなよ、せんせ。ウェアダニットはもうここにある。さて――この事件はどうやって為されたのか?」