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ちょっと散歩に行くだけ

 すべてが寝静まったかのような静けさが漂う真夜中に、俺たちは藁のベッドから起き上がった。窓からは月光が差し込んでおり、旅立つには絶好の夜だと言える。


『なあ、本当に行くのか? 俺は一年くらい待っても構わねえぞ』


『退屈な暮らしにはもううんざりだからね。危険なら承知の上だよ』


 この世界を一緒に見て回ろう。俺たちはそう約束し、ともに旅に出ることになった。そもそも離れることは叶わないのだが。


 なぜ旅立つのが危険な夜なのか。それはネルルの両親に気づかれないように出発するためだ。あの後ネルルの両親が帰ってきたのだが、それはもう鬱陶しいほどにネルルをかわいがっていた。いわゆる親バカというやつだ。そんな二人はまだ十歳のネルルが旅に出ることなど、決して許さないだろう。


『まったく、ダリルとメランヌがかわいそうになるぜ。こんなお転婆娘を生んじまったんだからな』


 ダリルがネルルの父親で、メランヌが母親だ。


『そそのかした本人が言うことじゃないんじゃない?』


『仕方ねえだろう? 俺はきっと悪魔なんだからな。いい子をたぶらかすのが俺の仕事さ』


 ネルルはくすくすと笑いをこぼす。


『そうだよね。私はいい子だもん。今まで真面目に畑の世話をしてきたんだし。少しのわがままくらい許されるべきだよね』


 部屋から出たネルルは、廊下を進んですぐに別の部屋のドアを開ける。そこにはタンクトップにパンツというだらしない姿の男が、豪快ないびきをかきながら、床に横たわっていた。ネルルの父親、ダリルだ。ダリルの隣には藁のベッドがあり、彼の代わりに立派な剣が、そのベッド上で寝ている。


『相変わらず寝相が悪いんだから。お父さんは』


 ネルルはダリルが起きそうにないのを確認すると、邪悪な笑みを浮かべ、ベッドの上の剣を手に取った。


『おいおい、使えんのか?』


『さあ? でも自衛の手段は必要でしょ』


 こうして立派な剣をさらったネルルはその部屋を後にした。それから台所によって、いくらかの食料と水をお手製の皮のバッグに詰めると、ようやく出発の準備が整った。


『楽しみだね、クルル』


『ああ、楽しみだ』


 血が煮えたぎるような興奮が、体の底から湧き上がってくる。ネルルの口元には、自然な笑みが浮かんでいた。俺に体があったなら、きっと同じように笑っていることだろう。


 そしていよいよ、俺たちは外の世界への扉を開けた。


 冷たく澄んだ風が吹き抜け、ネルルの髪を逆立てる。空を見上げると、紺色の下地に、宝石のような星たちが瞬いていた。満月の光に照らされた雲が流動し、俺たちに自然の美しさを感じさせる。しかし、月の光に照らされていたのは、雲だけではなかった。


 輝かしい夜空の下で佇む、一つの人影。黒いコートを羽織り、とんがり帽子をかぶったその姿は、物語に出てくる魔女そのものだ。


「あら、ダメじゃない。いい子はもう寝る時間よ」


 青い長髪をなびかせながら、その魔女は振り返った。なごやかに微笑んではいるが、視線は鋭く、射貫かれているかのように感じる。さすがはネルルの母親。凄まじい迫力だ。


「ちょっと散歩に行くだけだよ。お母さん」


「ちょっとって、どこまで行くつもりかしら?」


 ネルルは俺にしか分からないほど微妙に体勢を整え、深呼吸をした。


「ちょっとはちょっとだよ。世界一周くらいかな」


 そう言い切ると、ネルルは身を屈め、走り出そうとした。しかしその瞬間、バリィッと空間を切り裂くような音とともに、メランヌが伸ばした指先から稲妻が走る。それは一瞬にして、ネルルの足元に深い穴を築いた。


「そこから前に進むというのなら、死ぬ覚悟をしなさい」


 ただの脅しではないことは、足元から漂ってきた煙が証明している。


『おい、どうする? 無茶苦茶だぜ。お前の母ちゃん』


『どうするも何も、どうにかするしかないでしょ』


 不敵に笑うネルルと、余裕の表情のメランヌが対峙する。見ているだけの俺にも、電流が流れているような緊張が伝わってきた。互いに微動だにしない。どうやらネルルには、何か狙いがあるようだった。


 そよ風が吹く。それはだんだんと強くなってきたかと思えば、突風になった。ネルルの短い髪は逆立ち、メランヌの長い髪は流されて、彼女の顔を覆い隠す。それが始まりの合図となった。


 ネルルは地を強く蹴った。立ちふさがるメランヌを通り抜け、旅の第一歩を踏みだすために。メランヌはまだ、視界を確保できていない。彼我の距離は、およそ20メートル。その半分を通り過ぎたところで、突風が止み、メランヌの目がネルルを捉えた。


 メランヌの手が光り、帯電する。それでもネルルは止まらない。いっそ無警戒に、ただ前進する。12メートル、10メートル、8メートル。距離が縮まる。そして、7メートルの境界を跨ごうとしたとき、メランヌがわずかに笑ったような気がした。


『来るぞ!』


 俺が叫んだ直後に、雷撃が走った。その数は三本。一本目を屈んで躱し、二本目は半身になって避けた。そして三本目が、目前に迫る。躱しきれない。


 そう思った俺は、ネルルを侮っていたのだろう。側転しつつ、さらに手を放し宙に身を投げ出すことによって、ネルルは華麗に雷撃を躱すことに成功した。


 ギリギリの攻防だったというのに、ネルルの表情から余裕は消えない。むしろ、スリルを楽しんですらいるように見えた。これなら、俺は何もせずとも心配なさそうだ。そう思ったのもつかの間のこと。俺はネルルの真後ろに、雷光を纏う球体が前触れもなく現れるのを目撃する。


『跳べ!』


 咄嗟に叫んだ俺の声に反応して、ネルルが跳ぶ。その直後、雷球はネルルのいた場所に直撃し、二人の視界を覆い隠すほどの砂ぼこりをまき散らした。


「さて、一緒に帰りましょ……!」


 砂ぼこりが晴れた後に現れたのは、月光を背に剣を振りかぶるネルルと、驚愕に目をむいて固まるメランヌだった。しかし、さすがと言ったところか。メランヌはすぐに硬直から抜け出し、雷撃を放つ。


「ごめん。お母さん」


 ネルルが左の手を伸ばすと、その指先から青白い光が迸った。二筋の光が衝突し、一瞬の閃光を残して消え去る。そしてネルルは、無防備なメランヌに剣の横腹を叩きつけた。


『……消えた?』


 剣を叩きつけられたはずのメランヌの姿が見えない。いたはずの場所には、黒い霞だけが残っている。


「砂ぼこりを利用したのは私だけじゃなかったってことだね」


 ネルルがそう呟くと、背後から手を叩く音が聞こえてくる。振り向くとそこには、汚れの一つすら見当たらない姿のメランヌがいた。


「うん、合格よ。見事な術と身体能力だったわ」


『合格? 俺たちは試されてたってことか?』


『私が一人でも生きていける力があるか試したってところかな。まったく心配性が過ぎるよ』


 ネルルはそう言うが、十歳が独り立ちなんて心配するのが当然だろう。


「ただ、一つおかしなことがあったのよね。ネルル、なんで私の雷球を避けれたの? 真後ろからの不意打ちで、避けれるはずがなかったのだけれど」


 俺が教えた時のことか。そこに気づくとは、さすがはネルルの母親だ。


「ただの感だよ」


 ネルルは笑って誤魔化した。メランヌは訝し気にネルルを見るが、あまりにも自然なため、ネルルの言い分に納得してしまったようだ。


「鋭い感ね。でも、一つだけ覚えておきなさい。常に最悪の状況を想定する。それが旅人の鉄則よ。私が魂術で分身とすり替わることを考えついたのも、万が一避けられて、距離を詰められたときのことを想定したからよ」


 メランヌはネルルの目を見つめながら、真剣な声音で言った。


「分かった。気を付けるよ。……それじゃあ、行ってくるね」


 メランヌの助言を胸に刻んだ俺たちは、暗い森へと進んでいく。振り返ると、沈みかけている月が、家とメランヌに重なって影を作っていた。


「じゃあね。私の家……」


 ネルルのか細い囁きが、夜の風にさらわれる。メランヌは大きく手を振っていた。それに小さく手を振り返して、俺たちは再び前を向くのだった。 


 


 





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