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初めてだったからさ

 丸太が積み重ねられてできている家の壁に、大きな姿見が立てかけられている。その姿見はこんな森に囲まれた掘っ立て小屋にはふさわしくないような、綺麗な装飾が施された立派なものだ。


 そしてその姿見には、深窓のお姫様だと言われても信じてしまいそうなほどの、青髪の美少女がうつっていた。満月のように美しい黄金色の瞳と、優し気な眼差しが特徴的で、髪は短く切り揃えられている。これが俺だとは、現実とは信じがたいものだ。


「私の体だけどね」


 鏡にうつる少女は、楽し気に笑った。


『俺の体でもあるじゃねえか』


「でも動かせるのは私だよ?」


 それを言われると、否定できないんだよな。俺はこの少女の視覚と聴覚を借りているようなものだし。


「反論できないね」


『うるせえ。いずれ俺が体を乗っ取ってやる。大体お前は何なんだ』


「私はネルルだよ。あなたは?」


『俺は枢木、枢木……何だったっけか』


 やっぱり下の名前がどうしても思い出せない。カッコよくてイカした名前だったはずなんだが。


「じゃあ今日からあなたはクルルね」


『勝手に人の名前を変えるんじゃねえ』


 こいつ、見た目は優し気な美少女なのに、なかなか厄介な性格をしてやがる。


「名前、完全には思い出せないんでしょ? でも、大丈夫だよ。本当に大切なのはその人を形作る中身であって、心だから。名前なんてさ、その心に従って歩んだ人生という物語の、題名のようなものに過ぎないよ」


 その言葉は、名前というアイデンティティを忘れてしまった俺の心に深く響いた。ネルルは思いのほかいいやつかもしれない。


『……そうだな! ありがとよ。名前の半分は忘れちまったが、どうでもよくなってきたぜ』


「そうでしょ。だからクルルでいいよね」


 良いことを言うと思ったが、これが狙いだったか。まあ、クルルという名前も悪くないかもな。


『良いだろう。今日から俺はクルルだ』


「うん。よろしくクルル。ところでさ、その話し方なんとかならない?」


『なにか変だったか?』


「なんか頭の中に直接響いてくる感じで落ち着かないんだよね」


 頭の中に響いてくる? そういえば、俺が口を動かすことはできないわけで……。俺は一体どうやって話しているんだ?


『あ、あーーー。てす、てす。こちら枢木、聞こえるか? 侵略者よ』


「耳を塞いでも聞こえるよ。もしかしたら、念話ってやつかも」


『ねんわ? なんだそれ』


「言葉を発さずに思っていることを伝える技術のことだよ。魂術士の人たちがよく連絡手段に用いる方法だね」


『そんなことができるのか。すごいな』


 俺が知っている知識ではありえないことだ。そもそも生まれ変わって少女になってること自体が俺の理解の及ばないことだから今更ではある。


「あなたが今やっていることなんだけどね」


『そうだな。俺はすごいな』


「ほんとに、クルルは何なんだろうね。いきなり人の体に入り込んで、語りかけてくるような存在。童話に出てくる悪魔みたい」


 ネルルは頭をひねって考えている。鏡にうつる自分の姿を見ながらそんなことをしていると、ナルシストみたいだ。いくら考えても俺の正体なんて分かるわけがない。俺にだって分からねえんだからな。一つ確かなことは、俺がクルルだということだけだ。


 ネルルが考えを巡らせている間に、俺はこっそりと体の支配権を奪えないかと試行錯誤してみた。体というものは脳に命令されて動くものだ。だとすれば、俺が念話とやらの技術を使って、命令を偽装してしまえばいいのではないだろうか。


 具体的にどうすればいいのかは全く分からない。だが、念話だって自然とやればできたのだから、やってみれば意外と上手くいく可能性はある。


『にやにや、にやにや、にやにやしろ!』


 信じられないことに、ネルルの口元がにんまりと弧を描いた。どこかの令嬢のように整った顔には似合わない表情だ。


「やってくれたねクルル。やっぱり悪魔の類なの?」


『フハハッ! どうとでも言うがいい。俺は俺のために生きる。この体は俺のものだ!』


「この私の体を奪おうなんて、良い度胸だよ。そんなこと絶対に叶えさせないけどね」


 そうして、体の支配権を巡る戦いが始まった。外に出ようとする俺と、部屋に居続けようとするネルル。足を踏み出そうとして転んだり、腕を強く打ち付けたり、果てには自分の足を止めようと掴んだり、訳の分からない状況だ。


『この体を傷つけるのは本意じゃない。素直に降参したらどうだ?』


「いまだに部屋から出られてないくせに。降参するのはそっちだよ」


『鼻血が出ているぞ。俺には視覚と聴覚しかない。痛みを感じない分、俺が有利なのは明確だろう』


「痛みも苦しみもある私の方がこの体を上手く使えるに決まってるよね」


 戦いは、一時間ほども続いた。ようやく部屋の戸に手が触れたとき、俺の頭の中に声が響く。


『私の勝ちだね』


 そんな勝利宣言の直後、俺は体がぴくりとも動かせなくなってしまった。


『動かねえ! 何をしやがった!』


『簡単なことだよ。私は今、なにげなくやっていた普段の方法とは別に、クルルと同じ方法でも体に命令を出してる。つまり二対一ってこと。もうクルルに勝ち目はないよ』


 なんてことだ。俺の世界を巡るという目的が、最初の一歩すら踏み出せずに挫折することになるとは。だが、仕方ない。もはや俺にはどうすることもできない。


『確かに、俺の勝ち筋は消えたようだな……。負けたならしょうがねえ。好きにしろよ。俺を消すなりなんなり。もともとあり得ねえことだったんだ。二度目の人生なんてもんは』


 覚悟ならすんなりと決められた。一度死んでから、あの澄んだ青空を見て、この世界を見て回りたいと思った。あの時のワクワクするような感覚を味わえただけで、上々というやつだろう。


『クルルは諦めが良いんだね』


『諦めが良いことだけが俺の長所なんだよ。迷惑かけたな』


 俺は潔く、借り物の視覚と聴覚を手放した。夜に明かりを消したときのように、俺は暗闇に包まれる。不思議と安心感があった。やはり俺はネルルの言う通り、悪魔のような闇に近い存在だったのかもしれない。


『……諦めが良いのは欠点だよ、クルル』


 耳を塞いでも、聴覚を手放しても、念話というやつは届いてしまうらしい。厄介なものだ。これじゃあ落ち着いて寝れもしねえ。


『クルルの生きる目的、聞いてもいい?』


『俺の生きる目的は、この世界を見て回って、未知を体験することだ』


『未知なんてもの、本当にあるのかな』


『あるさ。例えば、この森を抜けた先には、どんな地形が広がっていて、どんな人が住んでいて、どんな生活をしているのかとかな』


『渓谷が広がってるよ。きっとそこに住んでいる人は、筋力が発達していて、上下に強い移動手段を持ってる。採取や狩猟生活を営んでいるんじゃないかな』


 俺は思わず興奮して、視覚も聴覚も取り戻してしまった。再び色づいた世界では、鏡にうつったネルルが暗い顔でうつむいている。


『行ったことがあるのか?』


『ないよ。でも分かるの。森や川、太陽と雲、植物、魔物。毎日見ていれば、想像がついちゃうよ……』


 今にも消えてしまいそうな、ひどく落ち込んだ声だった。どうしてだろうか。二度目の生を諦めようとしている俺よりも、活力を感じられない。


『ならその先はどうだ。渓谷の先はどうなっているのか分かるのか? あの青空はどこまで続いているのか分かるのか? この世界にはどんな生き物が存在しているのか、すべてネルルは知っているのか?』


『知らないよ。私は神じゃないから。でも、どうせ、面白いものなんて何もない。みんな私と同じように、平凡でつまらない人生を送っているよ。想像を超えるような人生を送っている人なんて、一人もいない』


 達観している。ネルルという少女は、優れた頭脳を持って生まれたがゆえに、常人では理解できないところまでも、想像できてしまうのだろう。


『ネルルは、ワクワクしたことはないのか?』


『ないよ。今までに私の予想が外れたことなんてないから』


 ネルルは寂しげに呟いた。きっと本当のことなのだろう。それはとてもすごいことで、同時に悲しいことでもある。自分の思った通りに進む人生など、退屈なものでしかないのだから。


 だが、ネルルが気づいていないことが一つだけある。それは、これまでの人生がネルルの予想通りだったとして、これからの人生がそのまま続いていくとは限らないということだ。


『なら、俺はどうだ? 俺が今日、お前の体を乗っ取ろうとしてくると、予想してたのか?』


 ハッとしたように、ネルルは顔を上げた。


『想定外だったんだろう? 俺という存在が。お前には分からなかったんだ。だからあんなにも怯えて、毛皮に包まった』


『……そうかも、しれない』


 ネルルは俺という存在が突然現れて、恐怖した。ネルルにとって俺との遭遇は未知の出来事だったというわけだ。そして、人は未知の出来事にあったとき、恐怖ともう一つ、ある大切な感情を抱くことがある。


『もう分かっただろう。もう一度聞くぞ。ネルルは、ワクワクしたことがないのか?』


 ネルルは姿見の側から離れると、両開きの窓を開け、外へと身を乗り出す。するとそこには変わらず、どこまでも続いていそうな澄んだ青空と、手招きしている大きな木々たちがいた。けれど、ネルルには今までと違った風に見えたことだろう。


「そっか、私……。気づかなかったよ。初めてだったからさ」


『初めてなら気づかねえのも無理はねえ。でも、案外わるくねえ気分だろ?』


「……そうだね」


 そのまましばらく、俺たちは遠い空を見上げていた。少し残念だったのは、どこからともなく現れた水滴のせいで、その青空がゆがんで見えたことだろう。

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