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薄暗い部屋の中、芽依花の意識がゆっくりと覚醒していく。
どうやら夢を見ていたようだ。
何とも幸せな夢だった。
(今日は……早番だ……早く起きて朝ごはんとお弁当と……)
微睡みの中、今日の予定を考える。
夜勤明け翌日の早番はしんどい。
夜勤から帰宅して、シャワーを浴びるとすぐに2食分のご飯を仕込む。
しっかり睡眠はとりたいので、午前中にそれを終わらせるとあとが楽だ。
昨日は昼ごはん用に酢豚。夕ご飯用にオープンオムレツとグラタンを作っておいた。付け合せにたっぷりポテトサラダがあるので足りるだろう。汁物はくず野菜を一掃するために作ったオニオンコンソメスープ。
(あの親子は好き嫌いが多くて本当に困る)
お弁当と昼ごはんは、作り置きしておいた冷凍ハンバーグをメインに。あとは、昨日のマッシュポテトに片栗粉混ぜて焼いて……夜はポテト料理の残りをコロッケ……。
朝ごはんは、昨日のスープの残りと卵焼き……。
………………。
(さぁそろそろ目が覚めてきた……起きるか…………ん?……………あれ?体が動かな……………)
「?」
どうしたのかと目を開ければ、横向きで寝ている体に絡め取るように腕が回されていて、背中から体温も感じる。
頭の下にも腕がある……腕枕だ。
これは……完全にバックハグされた状態ではないか。
「〜〜〜っ!!」
事態に気づいた瞬間、芽依花は叫びだしそうな声をどうにか抑えた。
おかげで一気に目が覚めた。
「……ん?……芽依花起きた?」
「ぴゃぁぁっ!」
「どうした?大丈夫か?」
耳元で囁かれるように話されると、息がかかるではないか。
朝から心臓が壊れそうだ。
「あ、うん……だい大丈夫……(じゃない)……かも……」
「そっか」
きゅっ。
「!!!!」
何故そこで抱きしめるのだ兄よ。
「良かった。ちゃんと芽依花がいる……夢じゃない」
「!!」
そのセリフはズルくないか。胸がキューッとつまる、鼻の奥がつんっとして泣きそうだ。
昨日から芽依花の涙腺は壊れてしまっているらしく、簡単に瞳が潤んでしまう。
「わた……しも……夢じゃないんだって……良かった……ぐすっ」
ふわっ。
少し泣いてしまった芽依花の頭を理都は優しく撫でた。
「昔みたいだな」
「うん。昔もよく……頭撫でてもらったよね……」
なでなで……なでなで……。
「……はっ!!そうじゃないよ!今何時?!」
「ん?……深夜の2時くらいだな」
「深夜2時?!」
「芽依花が気絶するように眠ったのが昼の2時頃だったから約12時間寝てるな」
「12時間?!」
そんなに寝たのはいつぶりだろうか。
とりあえず、そんな時間なら仕事に関しては問題がなさそうで安心だ。
「あっ、なら……お兄ちゃん、起こしてごめん」
「いや、それは大丈夫。芽依花が俺の家に引っ越す準備が整うまでしばらくこっちにいるから、リモートで仕事しつつ適当に疲れたら休む」
「えっ、そんなんで仕事大じょ」
ぐぅ~。
「「……」」
(死にたい……恥ずか死ぬ……)
「クスッ。何も食べないまま死んだように寝てたんだ。流石に腹減るよな」
「……うん」
「ルームサービスとるから、何がいいか選んで」
「えっ!深夜2時だよ?!こんな時間に頼めるの?!」
「うん。ここは24時間受け付けてるから大丈夫。まぁ限られたメニューだけど」
両親が生きていた頃は、極稀にある家族旅行でこういう高級なホテルや旅館に泊まっていたが、そんなサービスは知らなかった。
「じゃあ起きようか」
「うん……」
ドキドキするけど離れるのがちょっと寂しいようなそんな気分になる芽依花。
すっかり数年前の甘えたの妹に戻ってしまったようだ。
しばらくすると注文した料理が運ばれてきた。こんな時間なのに食事がいただけるとは有り難い話である。
「いただきまーす!」
「いい匂いだな」
「うん!……モグモグ……美味しい!」
頼んだのはカレーとコンソメスープのセット。夜食用のメニューなので頼める種類は少なかったが、うどんやサンドイッチもあった。
(お兄ちゃんと一緒だと食事が何倍も美味しく思えちゃうな)
「芽依花と一緒に食べると余計に美味しく感じるよ」
「んっ!モグモグ……それ私も思ってたっ!!」
「えっそうなのか。ハハッお揃いだ」
「だね!ふふふっ」
そうして2人で談笑しながらも、あっという間にカレーを完食した。思っていた以上に空腹だったらしい。
「デザート頼むか?」
「いや、流石に太るから……」
「全然太ってないだろ」
「いやぁ……まぁ太ってはないけど……たるんではいるから……」
「へぇー……」
ジーーー。
やめてほしい腹を見るな。
「……芽依花……ちょっとこっちに」
「や!ダメ!!絶対腹肉触る気でしょ!」
「いや、触らない」
「嘘じゃん!その顔嘘じゃん!」
「嘘じゃない。ちょっと摘むだけ」
「もっと駄目!!」
「俺のも触っていいから」
「………」
ピクッ。
「いや!!ダメ!!やっぱダメ!!」
「一瞬迷ったな」
その通りそのセリフに、若干惑わされてしまいそうになった。だってあのスタイル、あの腰の細さだと絶対に腹筋が割れているに違いない。
(4……いやもしかしたら6ブロックに)
ジーーー。
「そんなに俺の腹見て……触りたい?」
「!!!!」
(正直触りたい……でもその場合対価が必要なのでしょう)
ドキドキドキドキ……ドキドキドキドキ……。
「やっぱりダイジョーブ!!」
「そうか」
(近づいたら腹肉摘まれる!それは無理ぃ)
しかし、隙をみてどこかで触ってみようと思った芽依花であった。
「あっ、そうだ!それでさっきの続き」
「ん?腹筋の話?」
「ちがっ違う。仕事!仕事の話だよ。ずっとこっちにいて仕事平気なの?」
「あぁ、パソコンでリモートワークするから問題ない」
(凄い……何か最先端を行くような働き方の仕事をしてる)
「なんの仕事してるの?」
「んー?アプリの開発とか……運営……みたいな感じかな?最近は少しだけマネジメントもしてるのか」
「へぇ……あっ、フリーランスってやつ?」
「いや……ちょっと違うというか、法人化して俺が代表をしてるんだ」
法人化して代表?ナニソレ。
「えーと……法人化って何?」
「ん?簡単に言うと会社を設立するってことだな」
「会社をつくったってこと?」
「そうだな」
「代表って?」
「代表取締役ってやつだな」
『代表取締役』
「社長?!」
「厳密に言うと代表取締役と社長は……いやまぁ兼ねてるからそうだな」
「お兄ちゃん社長なの?!」
「小さな会社だけどな」
記憶の中の幼さの残る兄が、俗に言うハイスペになってしまっていた。
確かに昔から滅茶苦茶頭が良かった。当時通っていた学校もハイレベルな中高一貫校、将来は医者にでもなるのかと思っていた。
「だから……こんなホテルに宿泊……」
「ハハッこれは今日だけ……流石に何泊もできないよ。実は芽依花と再会できると思って……格好つけたんだ」
「えっ……」
「自分からバラしちゃったな……カッコ悪」
少しだけはにかんで笑う理都。
芽依花は、ときめき過ぎておかしくなりそうだ。嬉しくてニマニマと綻ぶ口元が抑えられない。
「うへっ……へへへっ。お兄ちゃん嬉しい!ありがとう!この再会は一生の思い出だよ!」
「そう言ってもらえて俺も嬉しい……おいで」
優しく微笑みながら両手を広げている理都に、満面の笑みで芽依花は飛び込んだ。
そしてそのまましばらく、離れていた時間を取り戻すかのようにお互い抱きしめあったのだった。
さて、翌日。
さっそく芽依花は職場に退職届を提出した。
この職場も叔母の紹介で超のつくブラックだった。
正直なんの思い入れもなくロボットの様に働いていたので、辞めることに関しては全く躊躇はない。
できれば今すぐにでも辞めたいが、引き継ぎ等が色々あるのでもすこしかかる。ただ辞める人も多いので意外とすんなり辞めれそうで良かった。
就業後、クタクタになった体でタクシーを停めた。
オンボロとはいえ、車がないのはとても不便である。
とりあえず退職できることが決まり、ほっと胸を撫で下ろしタクシーに乗り込む。
Rururu……Rururu……。
「あ、電話……お兄ちゃんかな」
仕事が終わったとアプリで連絡をしたので、今日からしばらく住むことになる短期契約マンションの場所を知らせてくれるのかもしれない。
ピッ。
「もしも」
「ちょっとブス!!お腹空いてんだけど!!」
「!!」
疲れていたので画面を見ずに電話を取ってしまって後悔した。
夢綿果子の金切り声が疲れた体に堪える。
「ぷりんちゃん、私もう家出たんだ」
夢綿果子は、さすがに言いづらいのだろう。基本的に人称は『ぷりん』と呼ぶように言われている。
マリンから産まれたぷりん……語呂だけは良い。
「はぁ?!何勝手に決めてんの?!今日はエビチリの気分なの!作りに戻ってきてよ」
「もうその家には戻らないから」
「そんなの許すわけないじゃない!!」
あなたの母が決めたんですがね。
「……もう決まったことだから……連絡してこないで……さようなら」
「はぁ!?ちょっ」
プツッ。
通信アプリの方はブロックしていたのだが、電話番号の着信拒否を忘れてしまっていた。
芽依花は、そのまま無山親子の電話番号を着信拒否設定した。
スマホをみると、理都からマンションの住所の知らせが来ていた。
少しの間だけの仮住まいだが、二人で暮らすとなるとドキドキする。
(……またお兄ちゃんと一緒に暮らせるのは嬉しいな。ちょっと緊張しちゃうけどね)
マンションに到着すると、契約した部屋へ向かう。
部屋の前で一度深呼吸をしてノックをすると、中からパタパタと走ってくる音が聞こえた。
ガチャ。
「おかえり芽依花っ」
嬉しそうに出迎えてくれた兄の姿を見て一瞬で疲れが吹き飛んだ。
「ただいまっ!!」
帰ったら超絶カッコいい兄の出迎えとは幸せすぎる。
中は少しだけ家具が置かれたシンプル1LDKの部屋だった。
芽依花が退職するまでの間の仮住まいなので十分な広さ。
「こっちの個室は芽依花の部屋」
「えっいいの?」
「うん。俺は基本的にリビングで過ごすから」
「そっか……」
何だか部屋を使わせてもらって申し訳ない。
「寂しかったら、俺の方に来て寝てもいいからな」
「……………ん?」
「芽依花、昔はよく俺の布団に潜り込んできてたもんな」
「……………んん?」
とても慈愛に満ちた表情でそう告げる理都。
芽依花の個室をもらって申し訳無さからくる表情を寂しさと受け取ったと推測する。
「どうした?」
曇のないきれいな瞳で理都はこちらを真っ直ぐに見つめている。
「えっ……と…………それは……大丈夫……かなぁ……あはは……」
「そうか?一緒に居たいときはいつでも遠慮なくこっちに来ていいからな。俺も芽依花とおしゃべりするのは楽しいから」
「うん。……ありがとう。とりあえず先にシャワー行ってもいい?」
「あっ、そうだな!また後でたくさん喋ろう」
芽依花は、ニコッと笑って頷くと足早に自室に入った。
バタン。
「とりあえずシャワー……」
昨日、叔母の家から出ていく際の荷物はボストンバッグ一つのみ。
その中から部屋着を取り出す。
着替えながら芽依花は先程の理都のセリフについて考えた。
(……これ……お兄ちゃんの中で私の年……小学生で止まってない?!)
はっきり言って19歳の女として扱われている感じがしない。
(あぁ……だから普通に一緒に暮らそうとかベッドの中で抱きしめたりとか……なるほど……なるほど……)
家族としては正解だ。理都にとって芽依花は昔も今も6歳も年が離れたかわいい妹。
しかし……。
(……私は……お兄ちゃんが……初恋で……)
そこまで考えて、思考を停止する。
今は悩んでも仕方のない話だ。まずは、再開できたことだけで満足しなければいけない。
着替えの準備を済ますと、芽依花は浴室へと向かった。
拙い文章を読んでいただきまして、ありがとうございました。