第8話 そうだね、熊害だねっ
結局、俺はニーヤンに背負われて、山を登ることになった。
かーなーり屈辱的だが、背に腹は替えられない。
この屈辱は、男に戻った時にニーヤンを倒して、晴らすことにする。
そして、俺は、ぶるっと体を震わせた。
「ごめん、ニーヤン、その、お花摘みに……」
「お花? この山は針葉樹だらけだし、花なんてどこに……」
「トイレだよ馬鹿っ! 遠巻きな言い回しくらいわかれっ! 」
「痛い痛い、暴れないでメア! だって、人間界のトイレの言い回しなんて、知ってるわけないじゃない」
「いいからとっとと降ろせ! 」
俺はそう言ってニーヤンの背中を殴り、ニーヤンは渋々と言う風に降ろしてくれる。
「……覗くなよ」
「当たり前でしょ」
「嗅ぐなよ、聞くなよ……って、近いんだよお前! もっと遠くに行けよ! 」
「しょうがないだろ、まだ魔物がその辺をウロウロしてるかもしれないんだ。メアの、人間の匂いを辿って来るかもしれないし」
「いいから遠くにいろ! 半径2m以上! 」
そう言って、ようやくニーヤンの気配が遠ざかるのを耳にすると、俺はショーツを足の2/3まで下ろした。
「……そりゃあ、旅はしたし? トイレくらい外でするのは普通だったけどさ」
そう、ぶつぶつ呟きながら、俺は用を足し終える。
うちのパーティは、男3人に女2人。
不思議と、人間というものは「あそこでしよう」という場所が被ることがあり、男同士ならともかく、女の用足し姿を見てしまった時は、本気で気まずくて死ぬかと思った。
「……登山か……。地上人の頃、森を抜けたときみたいに、ヒルや蚊には気をつけねーとな」
実際、冒険者が命を落とす上位にランク付けされているのが、害虫による障害である。
蚊はマラリアなどの感染症をまき散らすし、ヒルは無理矢理剥がすと牙が残り、そこから足などが腐ることもある。
魔界に害虫がいるかどうかはともかく、気をつけておくことに越したものはない。
「……よし! 」
頭を軽く整理してから、俺はショーツを上げようと、白い下着に手をかけた。
……そのとき。
「……ブルブルブル…………」
そんな、車のエンジン音のような音が、俺の背中で聞こえた。
一瞬、車に乗りすぎて幻聴が聞こえたのかと思ったが、俺は冒険者の勘で、横っ飛びに跳ねる。
正直、ショーツが足に絡まっていたので、大した距離は避けられなかったが、それでも、それまで俺がいた場所のすぐ側の唐松に獣の爪痕が残る。
「うわ、直撃だったら死んでたな俺……! 」
慌てて、モンスターに向き直る。
そのモンスターは、「蚊遣り熊」と呼ばれる、巨大な熊だ。
全長3mはあるだろうか。
「蚊遣り」という名前は、その熊の血液が、人間にとっては毒であり、熊の血を吸った蚊が次に人間の血を吸うと、人間が中毒を起こすことから名付けられたのだ。
「だけど、モンスターの中では、これくらいの身長は全然……! 」
俺は、無意識に剣を構えようとして、そして気付いた。
……あれ? 俺、今、普通の女じゃん。
構えようとした剣もないし……。
心の中で、必死に焦った結果、俺はそこら辺にあった松の葉を構えた。
「……か、かかってこい」
「……ブル? 」
そりゃあそうだ。
蚊遣り熊は魔界のモンスター故、知能が多少はある。
俺がおかしな行動を取ったせいで、熊も混乱しているのだ。
てか、普通の人間の女が、松の葉一つで熊を倒せとか無理だろ!!
松の葉なんて、露営でたき火に火を付けることぐらいにしか使わんわ!!
そして、俺は、足を開こうとして、ショーツが足に絡まったままなのに気付いた。
「ご、ごめん、俺、今ちょっとパンツ履くからさ、待ってて待ってて。ホント待ってて……」
と、そこで、俺は気付いた。
最初の蚊遣り熊の背中から、更にぞろぞろと熊が群れを成して迫ってくる。
……あ。
これ、詰んだな。
俺は、そっと、松の葉を捨てて、両手でショーツを引き上げた。
せめて、死ぬときは綺麗な格好でいたい。
「ブルブルブル!! 」
「ブルブルァーーーー!! 」
熊たちが勝利の雄叫びを上げる中、俺はそっと両手を合わせた。
武器もねえ! 防具もねえ! 助けもそれほど来るわけねえ!
――と、そのとき、俺の脳髄に、勇者として戦っていた際に、どうしてもしなかったことが一つだけあることに気がついた。
俺は、息を吸って、それから大声を張り上げた。
「ニーヤアアアアアアアアアアアアア!!」
そう。
「誰かに、助けを求める」ことである。
そのまま、数秒が経ち、熊たちは軽く混乱している。
「ブル? 」
「ブルブルブル? 」
それはそうだ、自分たちが襲おうとしていた女が、急に訳のわからないことを叫んだのだから。
しかし、俺とニーヤンの距離は2mである!!
「ブル――」
と、のっしりと俺に向かって歩き出そうとした蚊遣り熊の首が、少しずれた、気がした。
「……ブル? 」
そのまま、どしゃりと、熊の首が落ちる。
切り口が、ワイヤーのように美しい切断面をしている。
「俺をお探しかい? メア」
「ニーヤンてめえ! 俺がピンチになるまで待ってやがったなこの野郎!! 乙女の気持ちをもてあそびやがってこの野郎!! 」
「ご、ごめん、痛い、痛いよメア」
魔王にポカポカと殴りかかる俺のことを、熊たちはぽかんとして見ていた。