5話:忘れなさい
やばいかもしれない。そこではじめて直感した。
同時に、店内での異常事態の原因をようやく捉えることに成功する。
その原因は、閉じたままの自動ドアのガラスを突き破り、破片を散らしながらこちらへ向かってくる。直径二メートルくらいの、黒い大きなもやのような物体。音も立てずに浮遊しつつ近づいてくるそれは、きっと私の移動の跡をトレースしてきたのだろうと感づいた。
……なんて、冷静に解説している場合じゃない!
私は一目散に小道を走り出し、その場から離れようとした。
人のいない世界。音のない空間。そして物理法則をてんで無視した謎の浮遊物体。ずいぶんとファンタジックな雰囲気に包まれてきているけれど、決して妄想でないことは身体感覚の鮮やかさが示していた。じんわりと額にたまる汗。走るほどに口内にひろがる鉄の味。風を切ってたなびく後髪。いずれのエレメントも現実にしか属さない。
そう、これは現実なんだ。紛れもないリアルなんだ。
仮に妄想が現実になってもみれば、今度はこう思うに違いない……これが妄想だったらよかったのに。かねてより持っていた私の見込みが、まったく正しいことを確認した。
五分ほど小道を進んで、一旦歩を止める。文化部で運動不足の私は、すでに肩で息をしなければいけないくらい消耗していた。後ろを見渡すと黒い物体とはだいぶ距離を離していて、破壊力こそあれ機動力では私でも勝負になると思った。……でも、肝心のスタミナがあまりにもネックだ。
あたりは徐々に消灯していくかのように薄暗くなっていた。私は急いでスマホをとりだし、時刻を確認する……1、7、3、4。一瞬だけ、家のことが頭をよぎった。このまま逃げつづけても埒があかなさそうだし、そもそも鏡の世界から自分は還ることができるのか……という、きわめて正常な不安をはじめて覚えた。東郷橋駅へ、一旦きびすを返したほうがいいのかな……なんて一瞬の迷いが、結果的にはだめだった。
再び走り出す準備ができていたはずの身体から、急に力が抜けていく。ブリーツスカート越しに手をあてていた両脚が震える。……どうして。あの黒い影から逃げなきゃいけないはずなのに。
きっと、と私は思う。このおかしな鏡の世界で平気な面を保っていた、先ほどまでの私がおかしかったのだろう。荒唐無稽なフィクションを受け入れて、身を投じるのに必要な緊張が、ほんの少し現実のことを気にしてしまったばかりに……ほどけてしまったんだ。
家に帰りたい。
勉強しなきゃ。
連絡しないと、母親が怒るだろうな。
そんな雑念を抱きはじめる私を、鏡の世界は敵に回したにちがいない。
迫り来る黒い影を、私は空虚な思いで眺めるだけだった……
「グゲエエェ!」
静かだった世界に、ごう、と空気の焼ける音と、ショッカーの断末魔のような悲鳴。
目の前まで来ていた黒い影が、突如として業火を身にまとって、そのままオレンジ色のなかに溶けていく……そのまま下のアスファルトにまで引火すると思いきや、黒い影が虚空に消えていくのと同じくして、線香花火のように失せていった。
黒い影をまとう炎が消えると、向かい側にいる人物の姿がようやく見えた。
そこにいたのは、暗がりでも視認できる、私のよく知る人物だった。彼女は身体の正面にかかげたままの右手をしまい、こちらへつかつかと……もとい、足音なしで近づいてくる。呆気にとられたままの私の、ちょうど真横まで歩み寄ってきたところで……
「忘れなさい」
私と同じ高校の制服で身を包み、私と同じ紺のスクールバッグを左手にもつ彼女。
七宮平乃は、独り言のようにそう言い残し、そのまま歩き去っていく。
「ち、ちょっと……待って!」
わけがわからない。どうして七宮さんが、ここに? いや、彼女を捜していたのは他ならぬ私だけれど、それにしても前ぶれがなさすぎた。私はあわてて彼女の背中を追おうとする……が、目の前にいたはずの七宮さんは、私がまばたきした瞬間、跡形もなく姿を消した。
小道をあちこち捜しても、やはりどこにもいない。意味不明な出来事の連続に、いよいよ大声を出してしまいそうになる。もういやだ。元の世界へ還りたい。
そう考えていると、七宮さんが最初に現れた地点に、何かが落ちているのを見つける。
小さい、手のひらサイズのポリ袋だ。中には錠剤のような白い粒がいくつか入っている。
七宮さんが落としていったのだろうか? ……それは不明だけれど、ただの駅前のはずれにこんなものが落ちているのは、いくらなんでも不自然だ。
なんて思いながら、ポリ袋を手に持って眺めていると。
(……えっ?)
辺りには人だかりが戻っていた。
歩いてきた小道を戻ると、セブンイレブンの看板が墜ちているのを見物しに来た、仕事帰りの人間でにぎわっている。その喧騒にどこか祖父母の家のような懐かしさを覚えた。
その後、すっかり闇に溶け落ちた東郷橋駅前へ戻り、いつも通りの電車に乗る。帰宅ラッシュの車内で何分か揺られつつ、自宅の最寄り駅で降りる。歩く。自宅の玄関をくぐってリビングをのぞくと、連絡を寄越さなかったせいか、テレビを観ている母親がすこし不機嫌そうで。……何事もなく、ほんとうに何事もなく、帰宅できてしまった。
私にとってはじめての鏡の世界への没入……異世界転生ものは、いともあっけない形で終わりを迎える。
あそこで目の当たりにした七宮平乃は……今まで見たことのない、別人のような冷酷さをたたえていた。彼女の残した一言は、私に対する明らかな拒絶。
優等生の知らない一面を見てみたいという当初の目的が、あまりにも不本意な形で達成されたことに、後になって気づいた。
* * *
翌日の朝は、私を嘲笑うかのようにいつもどおりの様相を呈していた。教室に入ると、また教卓近くの七宮さんの席を何人かの太鼓持ちがとり囲んでいる。
「今日の帰りのホームルーム、そういや模試が返ってくるんだったよな」
「これで失敗したら挽回きかないからね……鬱病」
電車に乗っていただけなのに、どうして急に周囲から人が消えたのか。音も消えたのか。
あの黒い物体の正体はなんなのか。どうして私を追跡してきたのか。
そしてなにより、どうしてあの場に七宮さんがいて、魔法めいたものを使いこなしたのか。
忘れなさい……という、彼女が残した言葉の真意はなんなのか。
謎は深まるばかりなのだけれど、翌朝の教室はいつもと変わらぬ風情で、七宮さんも取り巻き相手に屈託のない笑顔をふりまいている。昨日のことなんて私は知らない、あれは別人だと言わんばかりに。さっき一緒に登校してきた真紀ちゃんも、当然のようにいつもどおりだった。何も思いつめるところのなさそうな、と言ってしまえば失礼だけれど、そのくらいの快活さ。
そんな世界のどこかに……私の疑念を打ち明けてしまえば、また亀裂が入ってしまうような気がして。七宮さんのいうように、忘れるしかないのかもしれない。
でも、やっぱり鏡の世界のことが頭から離れない。あの謎を解き明かすことが、勉強をさしおいて今の私のやりたいことであることは、否定しようがなかった。
(つづく)