86 数学者、発明する①
Side レオン・カール
「計算機が欲しい…」
寮の自室で机に向かって大きな紙に長々と計算を殴り書きしながら、心の底から思う。この冗長な時間をなんとか短縮できないかと。何が楽しくて8桁×8桁の掛け算や10×10行列の対角化を何回もしているのかと。腕が悲鳴をあげているのだ。
なぜそんな計算をしているのかというと、両親に頼まれたのだ。うちの領で立ち上げたいとある事業の経費や経済効果について試算をして欲しいと言われたのだ。俺がかつて屋敷で考えていた色々な設計図を使って商売をするのだというから手伝わないわけにはいかないのだが、あまりにも計算が煩雑すぎて投げ出したくなるのだ。
思えば、計算機がここにあればいいのに、とこれまで何度も嘆いてきた。人の手で出来る程度の計算というのは、たかが知れている。例えば整数論において、十分大きな数の計算が素早く出来ることは非常に重要だ。「このような形で表される整数はすべてこのような性質をもつ」というような予想を立てたいとする。このとき、手で計算して成り立ちそうだと確かめられるのがたった数例しかない、なんてことはよくあることだ。17世紀の数学者、フェルマーは次のような予想を立てた。
『n=0,1,2,...について、2^(2^n)+1は全て素数である』
実際、n=0,1,2,3,4のときの値は順に3,5,17,257,65537で、これらは全て素数である。n=5のときは4294967297であり、当時フェルマーはこれが素数だと思ったのだ。
しかし、n=5のこの約43億の整数が素数でないことが分かったのは、彼の没後70年経ってからであった。人の手計算では、10桁程度の整数を素因数分解することすら困難なのである。現代の計算機があればこの程度の素因数分解は瞬きをする間に完了するのだ。このように、計算機があれば大きな数も簡単に計算できるので、数の性質についてより核心に迫る予想を立てやすいのだ。
「あぁ~もう今日はやめだ、やめ」
俺は持っていた鉛筆を紙の上に放り投げて椅子に深く沈みこむ。計算機がいかに重要かを延々と考え出してしまうくらいには集中力が切れている。両親からはこの計算について特に期限は指定されていないので、そう焦る必要もない。
「あら、レオがそんなことを言うなんて珍しいわね、どうしたの?」
「あ、シェーラいたんだ」
「いるわよ」
シェーラが俺の頭の上に顎を乗せて計算用紙を覗き込む。
「なんだか大変そうなことをしているみたいね。これなんて、いち、じゅう、ひゃく…百万。大きな数ね」
「そう。計算が面倒すぎてやる気がなくなっちゃってね」
「ふうん」
シェーラは俺の頭の上に顎を載せたまま喋るので、顎が上下するたびに髪の毛が俺の頬をくすぐる。俺は反撃の意を込めて、頭の上に手を伸ばしてシェーラの頬を軽くつまんでみる。
「いひゃい」
かなりすべすべして柔らかい。痛くないよう軽くつまんだつもりだったが抗議されたのですぐやめた。シェーラも追撃を嫌ってか、俺の頭の上から離れた。
「もう、なんてことしてくれるのかしら。お返しよっ」
それからしばらく攻防が続き、いつのまにか軽い取っ組み合いへと発展した。シェーラの顔は笑っているので、ただのじゃれあいのつもりだろうからそれに付き合っている。
「おわっ」
「きゃっ」
シェーラの背後に俺のベッドがある状態で俺がシェーラの肩を少し強く押してしまい、シェーラは膝かっくんの要領でベッドにあおむけに倒れ込む。それと同時に俺も引っ張られてシェーラに覆いかぶさる形になってしまった。なんとか両手で自分の体を支えてシェーラに衝突せずに済んだが、顔が近い。
「「……」」
「れ、レオ、どいてくれないかしら」
「いや、シェーラが手を離してくれなきゃ」
「あっ…ごめん」
シェーラが俺の腕を掴む手をほどく。俺はシェーラの上から離れ、改めて2人でベッドに並んで座りなおす。
「…まさかあんな風に姿勢を崩すなんて」
「そうだな」
「ちょっとドキッとしたわ。あんなに顔が近くなっちゃって」
俺もだ…とは恥ずかしくて言えなかった。しかしシェーラは俺の顔を見て、すべてお見通しのようだ。
「ねぇレオ、どれくらいドキドキするか…もう一回してみない?」
「…えっ」
俺が答えるな否や、シェーラは俺の肩に腕を回す。
「レオ、こっち見て」
…やはりこの世界の女性はかなり積極的は人が多いのではないか。俺は苦し紛れにシェーラの向こうの壁に貼った過去の研究結果の表を見る。…おや、あの表、いま考えればもう少し簡単に計算できるじゃないか。
「そうか!」
俺は思わず立ち上がった。スカイのp=2における乖離性を使った、論理演算の魔力機構を組み込めばこの世界でも簡単な卓上計算機が作れるじゃないか。俺はまっすぐ机に向かって目の前の紙を裏返して計算を開始した。
「え…レオ?急にどうしたの?」
「いま話しかけないで、思いついたアイデアが消えちゃうから」
「レオ?私のこの胸のドキドキは?」
「今俺はかなり興奮してるから問題ない」
「どういう理屈なのよ」
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シェーラは呆然としていた。意を決してキスしてしまおうと思っていたのに、その覚悟が無駄になってしまったのだ。しかし鉛筆をせわしなく動かす当の本人はそのことに一切気づいていない。
「まぁ…これがいつも通りのレオよね」
シェーラは肩をすくめながらそう言い、おもむろに傍にあったレオの枕に顔をうずめる。そして口を枕でふさぎながら叫んだ。
「私の覚悟を返しなさいよーーーーー」
「ちょっと静かにしてくれないか」
「…ぶー」
シェーラは不貞腐れながら、だがしっかりと、顔をうずめたまま大きく息を吸ってやった。




