64 数学者、帰省する①
Side レオン・カール
「おかえりなさいませ、レオさま」
寮の扉を開けて入ると、座っていたマリーさんが立ち上がって丁寧にお辞儀をした。テーブルには紅茶が少し残ったカップが置いてある。
「ただいま」
「お弁当のお味はいかがでしたか?」
「うん、とても美味しかったよ。みんなも褒めてた」
「お褒めにあずかり光栄です。荷物、お預かりしますね」
「ああ、こっちの袋はお土産ね」
「ライナー様、クレア様へのお土産ですね。帰省時に忘れずに持ち帰るようにしましょう」
「いや、マリーさんにもあるよ。そっちの梱包されたやつ」
「…本当ですか?私のために…ありがとうございます」
「うん。いつも何かとお世話になっているから、そのお礼に。開けてみてよ」
「…こ、これは」
マリーさんが巻き付けられた紙をとると、小さな瓶が現れる。
「薔薇の香油。入試の日に泊まったホテルでマリーさんが置かれていた香油を使っていたのを思い出してね」
「…」
「マリーさん?」
「レオさま、ありがとうございます。一生大切にします!」
小瓶を胸に、満開の笑顔が咲く。真っ白な八重歯が見える。
「気持ちは嬉しいけど、ちゃんと使ってよ」
「はい!」
この笑顔が見れて良かった。大切な人が幸せになることがとても重要なのだと改めて気づく。この世界では学問ばかりに傾倒せず、家族や親しい人も大切にすると心に決めた。親しき中にも礼儀あり。この言葉を決して忘れることないよう、これからも生きていこう。
「ちなみに、ご両親には何を買われたのですか?」
「薔薇風呂セット。なんとなく、貴族っぽいかなと思って」
「なるほど。これは喜ばれるでしょう」
単純に俺が薔薇風呂を気になったというのもあるけど。
「さて、もう寮の夕食の時間ですが、すぐ行かれますか?それともお風呂に入って汗を流されますか?」
「うーん…汗臭いかな…」
体臭と数学は一切関係ないし前世では決して気にしなかったであろうことも、この世界では自然と気になるようになった。しかし自分で肩に鼻を近づけても分からない。
「今まで全く気になりませんでしたし、大丈夫かと」
「じゃあ、もう行こうか」
「かしこまりました」
食堂に来ると、セバスさんが一人で静かにシチューを食べていた。俺たちもシチューをよそって机に運ぶ。
「セバスさん、お隣よろしいでしょうか」
「マリーさん。もちろんでございます」
「失礼します。シェーラさまはいかがされましたか?」
「大変お疲れのようで、すぐに眠られてしまいまして…あとで大家さんに頼んで部屋まで夕食をお運び出来ないか相談しようと思っているところなのです」
シェーラは帰りの馬車でも寝ていたし、本当に体力を使い切ったのだろう。実際、俺もこのあとすぐ風呂に入って寝るつもりだ。
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王立公園に遊びに行った次の週。夏休み中の数少ない図書室が空いている日に本をいくつか借りてから、いよいよ帰省することとなった。大家さんにしばらく寮を空けることを報告して、研究途中の計算用紙、本、王立公園で買った薔薇風呂セットなどを馬車に積み込む。約4か月ぶりにカール領へ戻ることになるが、みんなはどうしているだろうか。両親に兄、屋敷の使用人達の顔を思い浮かべる。
この日に合わせてカール領の屋敷からやってきた馬車を引く従者に馬の扱いを任せ、マリーさんと共に馬車に乗り込み、出発する。
一昨日、食堂でシェーラから聞いた話によれば、シェーラもちょうど今日から帰省するらしい。きっとシェーラも今は馬車にゆられていることだろう。
王都を離れ、森の境界をなぞるような道を走っている時、事件が起きた。
「おわっ!!」
「きゃっ!」
馬車に揺られながら計算用紙に図式を書いていると、突然右から何かにぶつかられたような衝撃を受け、馬車が大きく左に旋回して止まる。あともう少し傾いていたら横転していただろう。慌ててマリーさんと共に外に出る。
「どうしました?」
「フォレストディアとぶつかりました。一匹だけの、群れからはぐれた個体のようです」
マリーさんの問いかけに従者が答える。見ると、頭を強くぶつけたのだろう、気絶した体長1m弱の鹿が倒れていた。
「この大きさならまだ子供でしょうか。大人であれば馬車が横転していたかもしれません」
「まずは馬車に破損箇所が無いか見ましょう」
マリーさんと従者がてきぱきと点検する間、俺は倒れている鹿を観察していた。昔奈良公園で見た鹿とそっくりだが、こいつも魔物なのだろうか。
「レオさま、どうされました?」
「マリーさん、こいつは魔物なの?」
「はい。フォレストディアは警戒心の強い魔物です。肉はおいしいですよ。どうされますか?」
「えっ…どうするのがいいのこういう時」
この場で解体して肉と魔石を持ちかえるのだろうか。水属性の魔法を使えばうまいこと血を抜いて清潔に解体出来そうだが、マリーさんが鹿にナイフを入れて解体する姿は想像出来ないし見たくないな。
「放置して出発するか、運ぶか、ですね。運ぶとなると少し荷台を整理するので出発が遅れます」
「荷台の中で意識が戻って暴れたりしない?」
「いえ、息の根を止めてから運ぶのですよ」
「ああ、そうか。じゃあ、氷漬けにしてみようか」
俺が何も言わないとマリーさんが解体を始めそうな気がしたので、すかさず代替手段を提案した。水属性魔法の応用でこの魔物を覆うだけの氷を生成することは難しくない。
「いつ見てもレオさまの魔法は美しいですね」
「そう?ありがと」
「なんと!レオン様の魔法がこれほどとは!王立魔法学校の第一クラスに進学されるのも納得です」
鹿を閉じ込める氷を作るのを見ていた従者は驚いていた。これくらいならマリーさんでも出来ると思うから、ただおだてているだけなのか?
「この年齢でここまでされるのに驚いているのですよ」
マリーさんが耳打ちで教えてくれた。
荷台の整理を終え、思わぬ所でお土産を獲得した俺たちは改めて馬車に乗り込んで出発した。今度ころカール領に入るのだ。
「にしても、あの魔物がぶつかったとき、マリーさんも従者さんも慣れた様子だったけど、ああいった事故はよく起こるの?」
「めったに起こりません。あれだけの速さで動く大きな箱を見ればほとんどの魔物は近寄りませんから」
「それもそうか。じゃあ馬車で帰省するのはそこまで危険じゃないんだね」
「この道はよく使われる道で、付近の魔物の数が少ないから比較的安全ですが、道によっては馬車より大きな魔物と遭遇してしまう可能性もあります」
「へー」
「ですが、私達メイドも従者も戦闘の訓練を積んでいますし、レオさまを危険にさらすことは絶対にありません。まぁ、レオさまならおひとりで魔物を蹴散らせるかと思いますが」
「いやぁ、まだ一度も魔物と戦ったことないしなぁ」
「魔法大会で披露された熱線であれば十分ですよ」
意外と俺は魔物と戦えるようだ。だからと言って自分から魔物に挑みに行くようなことはしたくないが。もし次魔物と遭遇したら自分も応戦するとしよう。




