市の日
朝、目覚めてからまず最初にカイトがすることは、隣のベッドでイナンナが寝ているかどうかを確認することだった。カイトが早く起きようと寝坊しようと、イナンナはたいがい、夜明けとともに目を覚ます。ホートルノックは夏には日が長くなり冬に短くなるため、イナンナの睡眠時間も夏には短くなり冬には伸びる。カイトはそれをあまり良いこととは思っていなかった。子どもはもっと長く寝ているべきだというのが、持論である。
今日は珍しく、イナンナも寝坊しているようだった。野営が続いたり守護魔を多く呼んだりして、彼女にも疲労が溜まっているのだろう。カイトは彼女を起こさないよう、静かにベッドから抜けだした。
窓の板戸に掛けたかんぬきを外すと、ゆっくりと両開きになる窓から、陽光が部屋に差しこんできた。風はない。カイトは窓をそのまま、開くに任せて放置した。
ユニオン内部は狭いため、土地にかかる税金が高い。それを少しでも安く上げるため、共同住宅を借りて住んでいる人々もいる。とくにカイトのように、住み込ませてくれる師匠もなければ家族も持たない若者にとっては、共同住宅は重要な生活拠点である。家賃はそれぞれだが、カイトは大家と親しかったため、安価で住まわせてもらっていた。寝室と物置しか部屋がなく、自炊さえできない環境ではあるものの、カイトはそれで十分満足していた。元々、物を持たない主義である。寝室にはカイトとイナンナのベッドが一台ずつと、それぞれの持ち物の入ったチェスト、それに顔や手足をぬぐうための雨水を溜めた水瓶が置いていあるくらいだった。イナンナのために用意した窓際の机が、最も新しい家具である。物置には、街の外へ出るための道具が雑多に置いてあった。
カイトは手桶に瓶から水を汲んで、顔を洗った。人がいないことを確認してから、その水を窓の外へ捨てる。彼の住んでいるのは二階である。それからカイトは自分のチェストから服を取り出し、イナンナがまだ寝ていることを確認して、素早く着替えを済ませた。枕元に置いていた革袋の財布を開け、ホートルノック貨幣の残りを確認してからまた財布に戻す。
あまり豊かな財政状況とは言い難い。昨日の報酬が早めに支払われることを祈るばかりだ。思わず、ため息がこぼれる。
イナンナが、うん、と小さな声を上げた。目を覚ましたのだ。寝起きのよい彼女はすぐに身を起こすと、カイトを見上げ、おはよう、と微笑んだ。カイトも同じように返しつつ、窓を大きく押し開けて、そのまま固定した。やわらかな朝の空気が部屋になだれこむ。イナンナは窓の外を見やって、まぶしげに目を細めた。
「晴れてるね、よかったね」
街の中央では、十日に一度の朝市が開かれているはずだ。カイトはイナンナに着替えるよう言って、物置へと移動した。カイトがイナンナをそばに置いていることについて、口さがない連中はあれこれと下劣な噂を流すが、カイトはそれを意に介さなかった。そういう者たちが調子に乗れば、その声はやがてジャスミンに届く。そうすれば、ユニオンから信頼を失うのは向こうなのだ。それに、カイトとイナンナの関係がどうであれ、二人が今やユニオンの重要な戦力であることに違いはない。
着替えを終えたイナンナはカイトを呼び、髪を結ってほしいとねだる。カイトはイナンナの机からリボンをとって、彼女の髪に編み込んだ。窓の外から、二人を呼ぶ声がする。ジャスミンとキャンディだ。カイトは二人に手を振って、そのまま窓からひらりと身を躍らせた。軽い足取りで着地する。イナンナが焦ったように窓から身を乗り出すと、キャンディが翼を広げて窓まで飛び、イナンナに腕を伸ばした。
「こっちおいでー、こわくないよー」
それを見上げつつ、ジャスミンがカイトの背を強く叩いた。
「この馬鹿、イナンナが真似したら危ないでしょうが!」
イナンナはカイトと、地面と、自分の手足とをよく見比べてから、キャンディにおずおずと手を伸ばした。キャンディはイナンナを抱きしめて、ゆっくりと地面に降り立った。
気をとりなおしたジャスミンが、イナンナの頭を撫でながら訊ねる。
「市で朝食をとったら洗濯して、昼ごはんのあとに、イナンナの新しい靴と、カイトの上着と、あたしのエプロンを買いに行く。で、どうかしら?」
確かに、今日は絶好の洗濯日和である。イナンナはカイトをちらりと見上げてから、大きく頷いた。カイトは肩をすくめるだけだ。休みに特別な予定がなければ、身の回りを整えることに費やすのはいつものことだ。ジャスミンとイナンナがそうしたいなら、反対する理由はない。
市は人でごったがえしていた。街の人々のほとんどが、このために広場に出てきているのだ。通り沿いの店では呼び込みの声も大きく、今が勝負とばかりに励んでいる。イナンナはカイトとジャスミンの間に隠れるようにしていた。キャンディは先頭に立って、踊るように歩いている。ときどき、その大きな翼が通行人にぶつかっては、いつものゆったりとした口調で謝罪している。アンジェである彼女に対して怒りをぶつける人は、そうそういない。
「あー、すごい、ヌガーのワゴンがあるよぉ!」
アンジェが唐突に声を上げて、足早にワゴンへと向かってゆく。カイトはげんなりして猫背になり、ジャスミンが焦ったようにキャンディを追う。
「ちょっと、朝ごはんが先でしょ」
だがすでにキャンディは、ナッツのたっぷり練り込まれたヌガーを人数分買ってしまっていた。糖蜜をたっぷりと使って甘く、歯にくっつくような菓子であるヌガーは、嗜好品であり保存食であり、値の張る品でもあった。買ったものは仕方ない、とカイトはそれを受け取り、口に放った。とほうもない甘さが、贅沢しているという満足感とともに口の中へと広がってゆく。甘さのなかに、歯ごたえのあるナッツが香ばしく引き立たされている。イナンナもキャンディの手からそれを受け取って、少しずつかじった。ふわりとした笑顔とともに、思わず、といった調子の言葉がこぼれる。
「おいしい」
キャンディは、ヌガーを楽しむイナンナを、満足げに見つめた。イナンナはその視線に気づいて、彼女を見上げ、はにかんだ。
「ありがとう」
「いーえー。イナンナはかわいいねー」
結局、ジャスミンもそれに負けて、ヌガーを受け取った。煮詰められた糖蜜の甘さが口の中を支配すると、さすがの彼女も、表情をほころばせずにはいられないようだ。ヌガーを味わうアンジェとエルフとダイモンと人間、これはよい宣伝になったようで、気づけばヌガーのワゴンには列ができていた。
片翼のアンジェの青年が、四人に声をかけてきた。彼は大きな革のかばんを手に持ち、アンジェらしからぬ知的な微笑みを浮かべている。
「朝から贅沢をしているね、珍しい」
最初に反応したのはキャンディだ。歌うような声を上げる。
「あら、愛しのエイファッド! あなたも市を楽しみに来たのかしら?」
そのまま軽やかな足取りで駆けてゆき、青年の首に腕を回すようにして抱きついた。二人は婚約しているのだ。ジャスミンが口の端を上げてにやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。
「あら、朝から熱いわねぇ、先生」
「からかわないでくれよ」
エイファッドは手習い館に勤める教師であり、子どもたちに簡単な学問を教えている。アンジェらしい語り上手と、気さくでやわらかな雰囲気から、評判は良い。アンジェのなかでも落ちついた性格をしているエイファッドは、アンジェの典型のような振舞いをするキャンディと、かえって相性がよいらしい。夏至、つまりアンジェの祖神アジュリアスの祭礼の日に、二人は結婚式を挙げる予定である。
エイファッドはイナンナがカイトの陰に隠れているのに気づくと、困ったように眉を下げた。
「たまには来て、といいたいところだけど、難しいよね」
イナンナは小声で、ごめんなさい、と謝罪する。一人前の戦士としてカイトやジャスミンとともに仕事をしている彼女は、ユニオンの壁の内で守られている子どもたちの間からは、羨望と畏怖の混ざった目で見られている。友だちになろうと近づいてくる子どもはそういない。人間の子どもが少ないということもあり、教室はイナンナにとって、居心地がよくない場所なのだ。また子どもたちが長机に整然と座って教師の話を聞いているようすは、イナンナに魔導研究院のことを思い出させるらしかった。エイファッドはやわらかく目を細めた。
「カイトやジャスミンに聞いてもわからないことがあったら、僕のところへおいで。どうしても手習い館が優先にはなるけど、できるだけ力になるから」
エイファッドの言葉にジャスミンは唇を尖らせたが、カイトは助かると言ってイナンナの背を押し出した。自分たちで教えきれないことがあるのも確かだし、イナンナの好奇心ならば、いずれカイトやジャスミンより多くを学びたいと思うときがくるかもしれない。そのとき、エイファッドはよい教師となるだろう。イナンナは戸惑ったように大人たちを見上げたが、頷いた。
エイファッドは朝食を食べたら手習い館へ行くというので、キャンディは彼を見送ることにして、三人と別れることになった。
「またあとでねー」
細い背の両翼と、長身の片翼とを人込みの向こうに見送る。
朝市の中心である広場には所狭しと露店が並び、売買する人々の声が賑やかだ。衣類、食器、装飾品、靴や帽子、革磨きや砥石といったものまで、必要なものはたいがい、朝市で揃う。ユニオンの外から持ち込まれる品々を買う機会は、十日に一度のこの日のみだ。これを逃すと、あとはいつ来るかわからない行商人を待つしかない。ユニオン内に住んでいる人々ならともかく、その周囲の村々に暮らす人々にとっては、大がかりな買い出しの日でもある。こと加工食品に関しては、朝市で買うのが最も安く、質もいい。
三人は人の波を縫うようにして歩いた。小さなイナンナは、人波をうまくすり抜けて進んでいく。カイトとジャスミンは、ときどき道を譲られつつ、イナンナについていく。二人はユニオンの数少ない戦士であり、知らない人はない。よって、二人にぶつかって揉めるなどとんでもない、とばかりに、皆、道を開けてゆく。便利ではあるが、カイトとジャスミンにとっては、居心地がよいとも言いづらい。二人がイナンナに手習い館へ行けと口うるさく言わないのも、人のなかでどうしても浮いてしまう立場というものを理解しているからだ。カイトは元々プロドア王国から亡命した「空籾」たちの出世頭、ジャスミンはユニオン幹部の娘ということもあり、人々のあいだに溶け込むには、少し目立ちすぎている。
三人はとりあえずいつもの酒場に入って、石焼きの平たいパンに肉や野菜を挟んだ軽食を注文した。酒場ではあるが、市の日にはテラスにテーブルを出して、人々に朝食を提供している。ドワーフの店主のかわりに、彼の娘とその婿が、客をもてなしていた。イナンナとジャスミンはさくらんぼの果汁を薄めたチェリー・エードを飲み、カイトは朝からエールをジョッキで頼んだ。ゆっくりと朝食をとっていると、人々の数も次第に減ってゆく。市の日とはいえ、仕事はある。買い物を済ませた者たちから、いつもの日常へと戻ってゆくのだ。
手習い館の鐘が、かろんかろんと鳴り響いた。市を楽しんでいた子どもたちが抗議の声を上げ、親に叱られて、出かける用意をしている。ホートルノックでは、子どもを子どもとして扱い、教育を受けさせることを優先させるべし、との方針を出している。それを推奨するために、手習い館では子どもたちの昼食を提供していた。手習い館で十分に学んだと認められた子どもたちは、職人の徒弟に入ったり、商館で見習いになったりする。こういった教育の仕組みは、ほかの都市ではなかなか見られない。
職人たちはそれぞれの工房へと引っ込んでいく。ホートルノックの主産業は、モンスターの骨や皮の加工品だ。ホートルノックは職人の街であり、彼らが加工するための素材となるものを、周辺の村々が持ち込んでくる。市で売買されている農作物のほとんどは村のものだ。市のために訪れた村人たちは、街をぞんぶんに満喫していた。街にも少しは狩人や木こりが暮らしていて、彼らは街から出かけてゆく。
カイトらは朝食を済ませると、一旦、自宅へ引き返した。各自、編みかごに洗濯物を入れて、洗い場に集合する。そこにはキャンディも来ていた。彼女は恋人のぶんもあわせて、山盛りになった洗濯物を抱えていた。
市の日ということもあって、洗濯場に人は少ない。いくつかある街の井戸のうち、洗濯のために設けられたのはここだけだ。だが、ホートルノックはこの井戸があるために、ほかの街よりも清潔であるらしい。井戸のまわりには桶と洗濯板が積んであり、これらは銅貨三枚で借りられる。石鹸は銅貨五枚で、一つ買えば三回は洗濯できる。カイトとジャスミンとイナンナは桶と板をそれぞれ借り、石鹸を三人で一つ買った。洗う物の多いキャンディは石鹸を一つ買い、桶を二つ借りた。
井戸の釣瓶は大きく、水をたっぷり入れると、子どもでは扱うのが難しい重さになる。だがイナンナは小柄ながらも自分で水を汲み上げ、自分の桶に注いだ。桶に洗濯物を入れ、石鹸をナイフで削りいれる。イナンナはそのまま裸足になり、洗濯物を踏み始めた。こうして汚れを押し出すのだ。ジャスミンも横で同じように洗濯物を踏んでいる。カイトは棒を借りてきて、服の汚れを叩き出した。キャンディも同じように棒を振っている。振りながら、キャンディは歌っていた。
「太陽が空を駆けゆけば、青は刻々色を変え、空を流れる雲もまた……」
芸事に秀でるアンジェのなかでも、キャンディはとくに叙景詩が得意だ。彼女の眼には世界がどれほど美しく映っていることか、と聞く人を感嘆させる。カイトは洗濯しながら、キャンディの紡ぐ歌に聞き惚れていた。イナンナとジャスミンも夢中な様子で、キャンディの声にあわせて足踏みしている。
イナンナは自分の洗いものが終わると、キャンディの洗濯物もひとしきり踏んで手伝った。汚れた水は、井戸水と混ざらないようにと造られた排水溝に流す。石鹸をすすぐためにまた踏み、最後に、きっちり絞って水気を払う。
それぞれが自宅で洗濯物を干したところで、太陽が空の最も高いところへ上がった。ホートルノックでは一日に三食を摂る生活習慣ができており、あちらこちらの工房で、作業の音が止んだ。手習い館の鐘楼も昼休憩の鐘を鳴らして、人々に時間を知らせる。四人はいちどホートルノックの中央、聖ナータ教会のそばで待ち合わせ、昼食の相談をした。
「狭いけど、うちで昼食にしない?」
ジャスミンが言うと、イナンナが珍しくはしゃいだ声を上げた。カイトもまた、表情をほころばせた。ジャスミンは料理上手だ。それに、自炊のできない環境で暮らすカイトにとって、誰かが家で作ってくれる料理というのは、それだけで価値のあるものだ。
「久々にジャスミンの手料理が食えるのか」
そうと決まれば、と四人は市で食材を買いこみ、ジャスミンの家へと向かった。
彼女の家はこじんまりとした一軒家だ。木の柱や枠に、粘土で壁を覆っている。骨組みをしっかり組んでいるために窓を大きく取ることができ、明るくて風が抜けるため、狭さを感じさせない。だが、キャンディはさすがに家に入ることを辞退した。
「わたし、ジャスミンのお気に入りの、陶器のマグを壊しちゃったんだもの」
その翼は、部屋のあちらこちらにぶつかってしまうのだ。ジャスミンは苦笑した。キャンディはお気楽で能天気ではあるが、友人想いで、過ちを繰り返さないだけの分別をわきまえていた。
キャンディは、ジャスミンの家の居間にある大窓に腰かけることにした。ちょうど、出窓になっていて座りやすいのだ。こうすれば窓から翼を出せるので、邪魔にならない。
ジャスミンは台所に立って、イナンナに教えながら料理を作る。カイトも横で、芋をむいたり豆の殻を取ったりという、細々とした作業を手伝わされた。キャンディはそれを窓から眺めつつ、いつものように伸びやかな声で歌っている。メロディはいつも、どこかで聞いたことのあるようなもので、適当なでっちあげであることには違いないのだが、その声と詩の見事さに引きこまれ、つい耳を傾けてしまう。
豆と野菜のスープ、ふかした芋をつぶしてバターと角切りのベーコンを混ぜたもの、それに市で買った、イナンナの腕ほどもありそうなソーセージをスライスしてあぶったものが出される。芋とソーセージは堅焼きのパンを皿代わりにしている。行儀を気にすることもなく、そのまま手で食べるのだ。スープも、皿に口をつけてすすりこむ。遠慮のいらない食事のあいだ、特に誰が雑談をするわけでもない時間が過ぎる。その沈黙は、互いを接待する必要もない、気安い静けさだった。ソーセージは脂の甘みと旨みが肉汁としてあふれ、スパイスの香りが鼻に抜けた。あぶった香ばしさも相まって、これだけでじゅうぶんにごちそうとして成り立つ。芋は口当たりもなめらかで、たっぷり混ぜ込まれたバターの風味とベーコンの塩気が、芋の味を引き立たせていた。口のなかの脂を、スープで流す。スープはジャスミンが作り置きしていたスープストックを使っているので、まるで店で出てくるものであるかのような旨みが、豆や野菜によくしみ込んでいた。
「すごい、おいしいね」
イナンナは、たまに食べさせてもらえるジャスミンのスープが好きなようだ。育ち盛りにふさわしく、カイトと同じくらいの量をもりもり食べていく。共同住宅には台所がないため、こうしてジャスミンの家で食事をとることは多い。
ジャスミンの家は片付いており、生活に必要な小物類も、可愛らしく形作られたものが選ばれている。この家はジャスミンのこだわりがつくりだす城であり、彼女らしさをもっとも自由気ままに発揮している縄張りなのだ。この家に招待される権利を得た人物は少ない。ジャスミンは自分の父親さえ、我が家に踏みこませない。
昼過ぎになり、四人はふたたび市へと出かけた。朝ほどの活気はないにしろ、まだ人は多い。むしろ、人込みに押されずじっくりと掘り出し物を探すことができる、よい時間だ。
イナンナは新しい靴を買った。外を歩いても破れにくい、頑丈な革靴だ。ジャスミンはほかの大陸から渡ってきたという、異国の文様のほどこされたスカートを買った。カイトはジャスミンに引っ張られ、キャンディにおだてられながら、なんとか新しい服を買った。人の買い物に付き合うのは苦ではないが、自分のために物を買うのは苦手だ。広場の隅で休憩しながら、ジャスミンはカイトの着ている服をじろじろ眺めた。特に上着は、長く着続けていることが一目でわかるほどくたびれている。
「あんた放っておくと薄汚れていくんだもの。イナンナのためにも身だしなみ整えてちょうだいね」
「あはは、ジャスミン、それ奥さんみたいだよぉ」
珍しくキャンディがジャスミンをからかう。ジャスミンはわざとらしくカイトを睨み、大袈裟に手を横に振った。
「ないない。こんな甲斐性ナシ旦那にしてどうすんのよ?」
「おいジャスミン、同じ仕事をしてるんだから、稼ぎは同じだろ?」
カイトはいちおう訂正しようとするが、ジャスミンはぺろりと舌を出した。
「あたしは暇な時間も勉強したり自炊したりしてるの。ぐうたら寝てるあんたとは、生産性が違うのよ」
その言い草には、さすがのカイトもかちんときて、頬をぴくりと引きつらせた。顔の表面にだけ笑みを張りつけて、言い返す。
「ああ、俺もごめんだな。胸も尻も可愛げもない女じゃ、嫁にしたって」
「続けるつもりなら角をもぐわよ、カイト」
ジャスミンの目に、洒落にならない怒気が宿る。カイトも退く気はない。胸に苛立ちがむかむかと煮え、頭は熱くなっていた。イナンナが慌てて止めようとしてくるが、ケンカをあおった当の本人であるキャンディはけらけらと笑いながら、イナンナをさりげなく二人から遠ざけた。カイトとジャスミンは互いに手こそ出さないものの、一度ケンカに発展すると、かなり口汚く互いを罵る。
「はあい、イナンナ、あっち行こう。大丈夫、こわくないよー」
イナンナは、カイトとジャスミンではない人物と二人きりになることに焦っているようだが、キャンディはそれを意に介さなかった。それよりは、カイトとジャスミンに思う存分、ケンカをさせることのほうが重要であるらしい。
「いいんだよぉ、ああやって言いたいこと言える仲だってこと確認しとかないと、どんどん遠慮して、すれ違っちゃうんだもん、あの二人」
キャンディが言ったので、イナンナは驚いた顔で彼女を見上げた。キャンディはイナンナに片目をつぶってみせた。カイトとジャスミンの、誰よりも信頼できる対等な仕事仲間、という関係性は、強固なようでいて実のところ、かなりの努力をもって成立しているのだ。それを理解している人物は少ない。そしてキャンディは、その貴重なひとりなのだ。キャンディがそれを理解し、自分たちが十分にケンカできるようイナンナを遠ざけてくれたことに、カイトは密かに感謝していた。
「少しは殊勝な態度をとったらどうだ、だいたいいつも俺を振り回しやがって」
「偉そうな態度とってるんじゃないわよ、いっつも何も言わないのはカイトでしょうが」
「おてんば通り越して、いっそ粗暴だなお前は。本当にエルフか?」
「あんたってば昔っからカッコつけてむすーっと黙ってたけど、実はただのバカだったってことかしらね?」
「やかましくわめくな。声が耳に刺さる。難聴になったら賠償請求するぞ!」
「あーあ、ミランにケンカ売られたのって、あんたの服装がみっともないせいなんじゃないかしらね!」
二人が言い争っている場所には誰も近づこうとせず、口でのケンカはどんどん過熱していく。周りの人々はどちらかが逆上して武器を抜くのではと気が気でないのだろうが、今日は二人とも手ぶらである。それに、カイトも意識しており、ジャスミンもまたそうなのだろうが、決して手出しをしない、という暗黙の了解は、当然ながらある。互いに手の届かない距離にいて、そこから一歩でも近づく気配を見せない。カイトは拳を固く握りしめ、自分の掌に爪を立てた。怒りがたぎるに任せて言葉だけは激しくなるが、そうしながらも、一縷の理性は常に働かせていなければならない。互いに手出しをしない。相手が本当に傷つくことは決して言わない。そして、なるべく相手の言葉を聞かない。カイトは、ジャスミンにぶつける暴言を選ぶことに集中して、ジャスミンの暴言を理解する隙を、自分に与えなかった。
存分に彼女を罵ったカイトは、ついに語彙を失って、息を止めた。とたん、むせる。激しく咳きこんだあと、肩で息をしつつ、ジャスミンを見る。彼女もまた同じようにぜいぜいと息をしていた。頬は紅潮し、汗まで流れている。しかし、どこかすっきりとした表情をしている。それを見て、カイトは思わず口元を緩ませた。これだけ吐き出せれば、満足だ。
二人がケンカを終えてそう間もないうちに、キャンディとイナンナが戻ってきた。イナンナは二人の顔を見て、ほ、と安堵の息をついた。キャンディはけらけらと明るく笑う。
「ほらぁ、いつもどおりでしょ?」
「ごめんねイナンナ、ちょっと、昨日のことがあってささくれてたから」
ジャスミンが詫びて、イナンナを抱きしめる。カイトはイナンナが見覚えのないケープを着けていることに気づき、キャンディに言った。
「悪い、気をつかわせたな」
「気にしなーい。こっちはこっちで楽しかったよぉ」
キャンディはイナンナを連れて市を巡り、恋人に贈る新しいペンを選ぶのに意見を訊ねたり、自分の新しい鞄を買ったり、イナンナにケープを見繕ったりしたらしい。そしてもういい頃だろう、とカイトとジャスミンのところへ戻ってきたのだ。
「まったく、時間ぴったりだよ、キャンディ」
「んふふ、じっくり五年も仲良しやってるものー」
キャンディは満面の笑顔で答えた。
夕刻にはエイファッドも交えて、酒場で夕食をとりながら、洗濯のことや市のこと、買い物の成果を語りあった。
ところで、とエイファッドが重々しい声で切り出した。
「プラナウス公の子息からホートルノックへ依頼があるようだけど?」
ああ、とカイトとジャスミンがあからさまに嫌そうな顔をしたので、エイファッドは力なく笑った。
「だよね、そうだと思った……実は、僕からも話をしてくれって、手習い館の館長に言われてしまったんだ」
「ねえ、わたしのエイファッド。それは二人の心を波立たせてまでも、どうしても交わさなければならないお話なのかしら?」
キャンディが甘えた声を出しながら恋人を咎める。彼女の口調が詩的な表現を帯びるときには、かなり怒っている証拠だ。エイファッドはそれを承知しているので、慌てたように小声で謝罪し、口をつぐんだ。ジャスミンが大きくため息を吐く。
「まあ、いいけどね……まさかエイファッドが言ってくるなんて思わなかったわよ」
「まったくだ。そうまでして俺たちを売りたいのか、ユニオンは」
「頼られてるってことだよぉ」
キャンディはその一言で話を終わりにし、強引に話題を変えた。
「そういえばねぇ、このあいだ配達に行った街で、面白いものを見たんだけど」
そのとたん、酒場の雰囲気が、何やら気の抜けたものに変わった。つまり、カイトとジャスミンが店に入ったときから、人々は二人の言動に注意を払っていた、ということだろう。カイトとジャスミンはげんなりした顔で、互いに目を見合わせた。イナンナは二人を交互に見上げ、困ったように肩をすくめた。