もたらされた仕事
ホートルノック唯一の酒場は非常に狭く、おかげでひどくごった返していた。酒は貴重品だが、好んで飲む者ばかりというわけでもない。なので、たいがいの酒好きは、金さえ持てば、満足するだけの酒を飲むことができた。ちなみにこの酒場の主人は、ホートルノック全体の酒を管理する大事な役割も担っている。ほかのユニオンとの取引も、酒場の従業員を使って巧みに行っていた。見てくれは髭をきっちり編んだ、陽気で親しげなドワーフという風体であるが、背の低いぶん体格はしっかりしており、店内で揉め事があろうものなら一変、巨大な黒い木槌をもって客を叩きだすのが彼の流儀である。
カイトとイナンナがテーブル席を確保して待っていると、ジャスミンが人波をかきわけてやってきた。
「お待たせ」
戦いの装いは外し、ごく普通の女性らしい格好、作業にも適したエプロンドレスをまとっている。こうすると、ふだんは女性らしく華奢に見える彼女も、その腕や脚が鍛え抜かれたものであることがわかる。特に、酒場で立ち働いている娘たちと比べれば、一目瞭然であった。胸や腰回りのやわらかな曲線がジャスミンに足りていないこともあって、中性的に見えることさえある。
ジュースをちびちびとなめていたイナンナが、嬉しそうに笑う。
「待ってたよ」
カイトは特に何を言うわけでもなく、用意していたジョッキにエールを注いで、ジャスミンに手渡す。ジャスミンは受け取ってイナンナの横に座り、ジョッキを掲げた。
「おつかれさまでした」
言って、一気に飲み干す。大きな息を吐いて体の力を抜く。その様子を見、カイトは問いかける。
「で……ずいぶんと機嫌が悪いらしいが、何かあったのか?」
ジャスミンは肩をすくめ、隠せないわね、と笑った。カイトの目から見れば明らかなことだが、ジャスミンが酒を喉に流すように飲むときは、たいてい良くないことが起きているのだ。
「さっきミランと揉めかけたこと、上の連中にチクチク言われたのよ」
頬杖をつく。ジャスミンの言に、カイトは片目を細めた。
「やけに弱腰だな。ホートルノックはユニオン自治都市だ、プラナウス公の顔色なんて、伺う必要もないだろ」
「王にあることないこと報告されたら嫌なんじゃないの?」
肩をすくめるジャスミン。ユニオンとはいえ、王に対する危険があると判断されれば、国の正規軍に攻め込まれ、王国直轄地として接収されてしまう危険がある。ホートルノックはユニオンとして比較的好戦的な性質をもっているがゆえに、かえって王国との対立を怖れているきらいがあった。
煮込み肉の塊と、こんがり焼き上がったパンが運ばれてきた。
カイトはエールのまま、ジャスミンはリキュールに酒を変えた。肉の皿が、テーブルを狭くしながらも、なんとか載った。添えられたナイフをジャスミンがすばやく取って、自分の分を少しだけ取った。カイトに回す。カイトは大きく一切れを自分の皿に乗せてから、自分用のナイフで細切れにした。イナンナは大きい肉とナイフに手間取りつつ、肉をできるだけ薄く切って、何枚か自分の皿に取った。カイトもジャスミンも、イナンナが自分のぶんを取り分けるまで待っていた。イナンナは二人が自分を見守っているのに気付いたのか、頬を赤らめた。ナイフを置いて手を引っ込める。そうして取り分けが済んでから、三人は示し合わせたかのように、同時に肉を指でつまみ、口に含んだ。やわらかく煮込まれた肉には旨みが凝縮されており、噛むほど肉そのものの味がしっかりと口に広がってゆく。脂や臭みを丁寧に処理してあるのか、肉の味は妨げられることなく、満足感を覚えさせてくれる。ジャスミンが、声を弾けさせた。
「っはぁ、おいしい!」
イナンナが柔らかな声で、そうだね、と同意した。カイトは二人の表情に、密かに安堵を感じていた。食事のあいだくらいは、余計なことを考えずにいてほしい。妙な感情を抱えたままの食事では、おいしいものもそうと思えなくなってしまう。それではもったいない。
食事を終えて一息。カイトは腹を決め、ジャスミンに目配せする。その視線を受けたジャスミンは、さてと、とエプロンのポケットから羊皮紙を引っ張り出した。
「見て、これ」
カイトは羊皮紙に緑の蝋印が押されているのを見て、眉根を寄せた。
「ユニオンの公式な令状……わざわざよこしてきたのか?」
ふだんのような仕事であれば、内容は口頭確認して、報酬契約書を受け取るだけだ。このように仕事内容が書類として届くことは、めったにない。それだけに、ユニオンの蝋印の押された公式書類は、あるというだけで胸騒ぎを起こさせる。
「ええそうよ。しかも明らかに」
ジャスミンは目線だけを動かしてカイトを見る。
「お目当ては、あんた、って感じ」
羊皮紙を指で挟み、ひらひらと振る。言われたカイトよりもイナンナのほうが鋭く反応し、羊皮紙に目を据えた。その様子を見て、ジャスミンが笑う。
「イナンナ、大丈夫よ、そんな睨まなくても」
「でも……」
「見てごらん」
令状を開いてテーブルに置く。イナンナは頬をふくらませた。ジャスミンは、あ、と声を出して、イナンナに謝った。彼女は上目づかいにジャスミンを睨む。
「ごめんってば」
イナンナは読み書き計算が苦手なのだ。ユニオンに所属している者は誰でも読み書き計算の講義を受ける権利を有するが、そこへ通うには、イナンナは歳がいきすぎていたし、目立ちすぎていた。ほかの子どもたちからは怖れられ、大人たちさえもカイトとジャスミンがいないところでは、一人の戦士に対する距離感をもってイナンナに接することのほうが多い。イナンナは、カイトとジャスミンから少しずつ学問を教わっているが、ユニオンの公式文書に使われる、特殊な書体で小難しく書かれた文言までは、まだ読めない。
ジャスミンは細い指で、羊皮紙の文字をなぞった。
「内容は、ただの要人警護なんだけど」
彼女の指は、依頼人を示して止まった。カイトはそこに書かれた名を見て、露骨に顔をしかめた。反射的に浮かぶ苛立ちをこらえ、声を落ち着かせようとする。
「ミラン・プラナウス……なんの冗談だ?」
貴族の嫡子であるミランが、わざわざユニオンの人間に仕事を依頼する。理解に苦しむ行動である。なにか必要なことがあれば、その要望に従う人員を確保することは、いくらでも可能だろう。良好な関係とは言い難いユニオンの戦士を借りだす理由は、彼にないはずだ。
「すぐ断ろうとしたんだけど、上に泣きつかれちゃって」
ユニオン幹部曰く、ミランの目的は、ユニオンに王国発行の貨幣を渡すことであるらしい。名目として簡単な仕事を任せ、その報酬という形で、王国や貴族領との通商に便利な王国共通貨を流してくれるというのである。王国は、発行したユニオンとその周辺でしか通じない地域通貨のかわりに、大陸共通貨幣として自国の通貨を流通させたい魂胆があるようだ。ユニオンにとっても、豊かな土地をもつ貴族たちとの取引に使えるならば、王国の貨幣は手に入れておきたいものである。
「とりあえず、カイトとイナンナと相談させて、って言ったら、これ押し付けられたの」
見てよ、と数字を指差す。報酬として記載された金額に、カイトは頭を抱えた。
「確かに、割はいいが……」
報償は王国貨幣で金が五百、銀が千となっている。いずれも、ホートルノックの地域通貨と比べれば、少なくとも十倍ほどの価値がある。この大金が、ユニオンに支払われるのだ。
「金一枚の価値をわかってねえのかな、あいつは」
「まさか。わざわざこっちに別宅まで建ててるくらいだもの、金銭感覚は理解できてるほうだと思うわよ」
ちなみにホートルノック金貨が一枚があれば、共同住宅に住んでいるカイトならば、五日を楽に暮らすことができる。カイトたちさえ令状に従えばそれほどの報酬が手に入る、とほうもなく「おいしい話」である。
「こんな甘い話、ちょっとは不審がりなさいよ、って思うんだけど」
ジャスミンはユニオンへの不満を、ごく小声ではあるが呟いた。幹部の中には、彼女の父親や古い知人も混ざっている。それが彼女に、より辛辣な言葉を吐かせているのだ。カイトは内心それに同意するものの、ジャスミンの肩に手を置いて、なだめるように軽く叩いた。
「しょうがないだろ、金はでかい武器になる」
令状を指で押さえ、引き寄せた。汚れた靴下でも持つかのような手つきで、つまみあげる。
「さて、どうしたもんかな?」
イナンナがジャスミンに尋ねる。
「要人って、大切な人のことだよね。それって、ミランのこと?」
「大切な、っていうか、社会的に影響力の強い人、ってとこかな」
まるで姉が妹に教えるかのような調子でジャスミンは返した。依頼人はミランであるが、護衛の対象はまた別の人物であるようだ。カイトの手元にある羊皮紙を眺める。
「あたしもよく知らないんだけど、たしか、女性の占術師で、人間だったかな」
唇に指先を当てて考える。すぐに思いだしたようで、その指をそのままイナンナに向けた。
「そうそう、予言の母メルクリア」
とたん、イナンナが目を見開いた。全身を強張らせる。彼女の様子が一変したのを見て、カイトとジャスミンは怪訝な顔を見合わせた。イナンナの唇が震える。
「そのひと……会いたくない」
「知ってるの?」
ジャスミンが驚きの声を上げる。直後、はっと気づいて、辺りに睨みを利かせた。周りで聞き耳を立てていた者たちが慌てて顔を逸らした。が、素知らぬ顔をしていても、その意識を耳に集中させていることには変わりないだろう。ジャスミンは鼻面にしわをよせて舌打ちした。カイトも周囲を威圧するように見つつ、ジャスミンには落ちついた声を向ける。
「おいジャスミン、美人が台無しだ」
「お上手ねカイト」
ジャスミンは抑揚のない声で返した。カイトは溜息を吐いた。あまり人目のあるところで露骨な態度をとるのはよくない。ただでさえ目立つ自分たちが、この狭いユニオン内で生きづらくなる原因になりかねないからだ。ジャスミンも理解してはいるだろうが、カイトほど慎重ではない。
カイトはイナンナに目を向ける。彼女は声をひそめ、恐る恐る、という面持ちで喋り始めた。
「魔導研究院にいた。イナンナと同じ」
カイトは顔色を変えてジャスミンを見た。彼女もまた、驚きと戸惑いのないまぜになった蒼白な顔で、イナンナを見つめている。
イナンナは、その土地を守護するものに好かれるという特殊な性質の持ち主である。だからこそ、普段は姿を見せることのないそれら守護魔を呼びだし、助力を請う召喚師として、比類ない力を発揮することができるのだ。その彼女に目をつけたのが、魔導研究院と呼ばれる組織であった。今や王の後ろ盾をも得て、大陸だけでなく、世界中の魔術や神秘を研究しているらしい。イナンナはそこで、物心のついたときにはすでに、研究素材として扱われていたのである。ジャスミンは感情を隠せない表情のまま、低い声でささやいた。
「じゃあ、メルクリアって人も……」
イナンナは頷いた。カイトはあらためて羊皮紙を睨み、表情を歪めた。
「予言の母って大それた二つ名は、そういうことなんだろうよ」
カイトはそのまま書面に目を走らせる。イナンナが、彼の腕に手を添えた。その仕草にカイトは、自分が眉間に深い皺を刻んでいたことを自覚して、苦笑した。彼女に目を向けながら、低い声で、ジャスミンに問う。
「おまえ、書状の宛先、見たか?」
え、とジャスミンが怪訝な顔をする。カイトはイナンナにも見えるよう書状をテーブルに置いて、その場所を指差した。
「イナンナも含まれてる」
ジャスミンはカイトの手から令状をひったくって、該当箇所を確認した。とたん、怒りのあまり顔を紅潮させる。
「やっぱり断るわ。ミランがどういうつもりか知らないけど、嫌なニオイがぷんぷんするもの」
ジャスミンにとってイナンナは頼りになる仲間であり、戦いの場へも連れていくが、それはどのような危険があっても、自分たちで彼女を守ると誓っているからだ。ユニオンのものたちがイナンナを戦士として扱うのは、彼女の持つ特殊な力を畏怖しながらも信頼しているから、理解できる。だが、なんの責任も持たない他人に、幼いイナンナを戦士として気安く扱われるのは許しがたい。それは、カイトもまったく同じである。
ジャスミンはエプロンのポケットに書状を押し込み、息をひとつ吐いてから、わざとらしく明るい声を上げた。
「もう決めた。明日は市が立つんだもの、休みにしましょ。仕事は、また明後日から」
「ん、それがいいな、せっかくの日だ」
カイトが頷くと、横でイナンナが安堵の息をついた。周囲で聞き耳を立てていた者たちの中から、明らかに落胆の声が漏れ聞こえてきたが、カイトもジャスミンもそれを黙殺した。酒場の主人も不満げに鼻を鳴らし、直後、ごまかすように咳払いをした。王国共通貨幣があれば、王国貴族たちの貯め込んでいる、珍しい異国の酒も手に入れやすいのだろう。
ジャスミンは呆れたように肩を落とした。ミランがあのとき、あの場所にいた理由を察してしまったのだ。つまり、三人に出す依頼のことを言いふらしていたに違いない。カイトもそこに思い至り、舌打ちする。ジャスミンは両手で頬杖をつき、唇を尖らせた。
「ほんっとうに、腹立つ男だわ、あいつ」
その横でイナンナが、ゆっくり大きく頷いた。