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魔の在る世界と戦う者たち  作者: 宮音 詩織
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目覚め

 ぐちゅり、という、あっけない音が聞こえた。

 イナンナの視界が、赤く染まった。いや、それは一瞬、そう見えただけだ。もう、モスの姿は見えない。

 肩の傷が痛い。意識が遠のいていく気がした。頭上で、サロの唸りが聞こえる。

 モス、モス、名を呼びたいのに、痛くて声が出ない。そしてきっと、もう二度と、あの豪快なドワーフの返事を聞くことは、ない。

 悲しくて痛くて、もうすべてを忘れて消えてしまいたかった。けれど、モスの声が、耳に残って離れない。忘れるな、と、モスは言った。生きろ、と。

「イナンナ!」

 カイトとジャスミンの声が、聞こえる。

 戻ってきてくれた、というわずかな安堵。耳によみがえる、モスの声。目を開け、と。

 イナンナは目を開く。そして、自分のしでかしたことを、知った。風も、大地も、火も、水も、光も、闇も、守護魔たちの多くが傷つき、苦しみ、弱り果てている。それは世界そのものが大きく乱れていることを示している。サロの力を感じる。守護魔たちを押しのけ、その手の届く範囲にあるものを皆、破壊している。人の営みも、もちろんそこにある。小さな村落も、人の多く住まうエグナータも、そして、愛する家、ホートルノックも、蹂躙している。

 イナンナの胸に、ざわりといやなものが広がった。はっと気づいて見ると、サロが再び暴れ出そうとしていた。痛みを受けたことに怒り、召喚師を傷つけられたことに憤り、暴れようと力を膨れ上がらせている。

 このままでは、全てが壊れる。イナンナはそれがわかった。

「グイルグ=サロ、いにしえの子、いい子だから、静かに、静かにして!」

 声はかすれたが、なんとか喉から出てくれた。イナンナは、肩に刺さる斧を掴み、引き抜いた。その痛みが、今は自分を正気でいさせてくれる。現実に引き戻してくれる。決して逃避することを許さない痛みが、そばにある。

「モス、モス……」

 やっと、声が出た。その名を深く刻み込むように、何度も呼んだ。もっと呼びたかった。もっと話したかった。もっと、もっと。そんな後悔ばかりだ。

 気づいて、顔を上げる。カイトが剣を握り、こちらへ近づいてきている。傷ついている。ヒイラギとの戦いは、彼を消耗させていた。

 視線を巡らせれば、同じように戦いの傷を負ったヒイラギと、彼に庇われており大怪我もないミランが見える。そして、キャンディとジャスミン。キャンディはジャスミンに支えられながら身体を起こしている。ジャスミンは治癒魔法の反動で疲労しているらしい。いずれも顔色は悪い。

 イナンナはふたたび、カイトを見る。愛しい人、自分を助けてくれた、優しい人。ジャスミンを見る。親しい人、温かく自分を迎えてくれた人。キャンディ、明るい希望をくれた人。もう二度と、この人たちに会えないとしたら。

 彼らの死も、そして自分の死も、同じように両者を別つのだとしたら。

 死ぬのは、怖い。

「怖いよ、モス」

 肩の傷を握りしめ、痛みを与える。意識を失わないよう、痛みで自分の意識を縛りつける。

「サロ……グイルグ=サロ!」

 呼び、抑える。もう暴れさせないよう、語りかける。語り続ける。サロもまた、イナンナと同じように痛みを感じている。苦しんでいる。

「ごめんね、ごめんね、いい子、いい子だから」

 自分自身にサロを縛る。ここからどうするべきなのかは、わからない。どうするのが正解なのか、わからない。けれど少なくとも、サロの被害をこれ以上、拡大させてはいけないことだけはわかる。臆病な自分の招いてしまった災いを、これ以上、広げてはいけない。

 カイトが声をかけてくる。

「イナンナ、どうすればいい、どうすればお前を助けられる?」

「わ、わかんない」

 正直に答える。恐る恐るカイトを見上げると、彼は憤怒と絶望の入り混じった瞳で、こちらを睨んでいた。

「そんなに、頼りないか?」

「本当に、わかんないの」

 ああ、とイナンナは激しく後悔する。自分だけが死ねばそれでいいと思っていたのに、カイトがこんな顔をする。翼をもがれてさえ、キャンディはこちらを心配そうな顔で見つめている。ジャスミンは今にも泣いてしまいそうだ。

 キャンディが傷つけられたとき、悲痛なほどの激しい怒りを感じた。モスがいなくなった今、虚しさと悲しさで全身が満たされ、震えるほどだ。イナンナは感じる。自分にも、自分が傷ついたときに腹を立ててくれる人がいたのだ、自分が死んでしまうことを悲しみ、それを止めようと命を懸けてくれる人がいたのだ。気づくのが、遅すぎた。愛されていることを自覚していなかった、それは、とほうもない罪だった。だから、こんな過ちを犯したのだ。

 もう戻れない。止まれない。

「……いやだ、いやだ!」

 まだ足りない。もっと生きたい。なのに、その方法がわからない。ついこのあいだまで、当たり前のようにそこにあったものが、今は、遠い。

 サロの勢いが次第に削がれてゆく。イナンナは、肩から血が流れていくのを感じていた。自分の命が小さくなるほど、サロもまた、同じようにしぼんでゆく。

 イナンナの、傷のないほうの肩を、ぽんと誰かが静かに叩いた。イナンナの耳に、メルクリアの声が、聞こえた。

「母と呼ばれた身の上よ、たまには、それにふさわしきことをなしてもよかろう……最期の時くらいは、のう、ヴィナ?」

 イナンナは顔を上げ、彼女へ振りかえった。思わず、息が止まった。メルクリアの表情は穏やかで、その眼差しはただ、慈愛に満ちていた。今までに見たことのない、彼女の顔。イナンナは気づいた。初めて、この人と、ちゃんと目が合った。

 自分と同じ、孔雀色の目だ。

「わらわも元は召喚師。今の弱り果てたサロならば、ぬしという手負いの器は捨てて、わらわがもとへ来ようぞ」

 自嘲的な笑みを浮かべる。

「召喚師としての器は、ぬしには遠く及ばずとも、いっとき、宿すことならばできる」

「だめ、そんなことしたら、心が、砕ける」

 イナンナは思わず抗議する。メルクリアは指先をイナンナの口に添えて、言葉を止めた。

「もうよい、よいのだ、ヴィナ」

 頭を撫でる手は、優しい。

「生れてよりこのかた、ついぞ愛というものを理解できなんだ……が、真似ることはできよう……のう、ヴィナ」

 その声は、とても表面だけをつくろった芝居に思えない。

 メルクリアはカイトへ目を向ける。

「時を見誤るでないぞ」

「あんたは……一体?」

 カイトが問う。メルクリアは毅然と顔を上げ、答える。

「メルクリア・リベオン、と、呼ばれたのは昔のことよ。今はただ予言の母と、たいそうな肩書きを下げておるだけの女ぞ」

 メルクリアはそして、イナンナを見る。

「ヴィナ、その名は捨ててもよいぞ……あのドワーフは忘れるなと言った。ならば、わらわはこう言おう……忘れよ」

 イナンナの口から、反射的に、言葉がこぼれた。

「おかあさん」

 メルクリアの手が、まるでそれを黙らせるかのように、イナンナの額を掴んだ。だめ、とイナンナは言葉に出しかかったが、それより早く、サロが大きく唸りを上げた。イナンナとの繋がりを断ち、新たな媒介へと、サロの魔が移ろうとしている。魂ごと引き裂かれていくような感覚。深く魔と繋がったイナンナには、それがとてつもなく悲しく、辛く、痛いことのように感じられた。それ以上に、サロを手放したくなかった。あの人に渡したくない、と強く思った。それでも、サロは離れてゆく。

 イナンナの目から、涙がこぼれた。こんなの、残酷だ。


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