三人の過去
それは雨の続いた、ある夜だった。
「もうそろそろ食料も限界ね」
ジャスミンは言う。カイトは返事をするでもない。いつものことなので、ジャスミンは続けた。
「あんたの体力にもよるけど、夜が明けたら、とりあえず移動してみる?」
二人がいるのは、放棄された坑道の出口だった。腐りかけた木枠がかろうじて残っている。奥のほうへ続く道は崩れる気配も見せないが、もしモスが一緒にいたら、ひょっとすると違う意見を述べたかもしれない。この日の少し前、彼が引退を宣言したことが惜しまれた。
カイトは大きく息を吐く。ジャスミンは問うような眼差しを向けた。カイトが、口を開く。ごく小さな低い声で、一言。
「それでいい」
坑道で一昼夜を過ごしているうちに雨に降りこめられ、それから二人は動けずにいた。雨のせいで、いつどこが崩れるかわかったものではない。が、それはこの坑道も落盤の可能性をはらんでいることを想起させる。焦るばかりで妙案は浮かばず、結局は坑道の出口ぎりぎりのところに留まって、雨が弱まるのを待っていたのだ。雨のせいで視界も悪い、足場も悪いでは、とてもこの鉱山から脱出できると思えなかった。この辺りの坑道の穴は、急斜面に穿たれている。二人のいるところも、足を滑らせればどこまでも転がり落ちていきそうな場所だった。
それでも、食料は尽きる。水だけは空に向けて口を開けていればよいが、あまり体に良いものでもない。移動せざるをえなくなることは、わかっていた。ただ二人とも、そのきっかけを逃し続けていたのだ。
「バカをやったわね」
ジャスミンは、胸中に渦巻くものを誤魔化すように笑う。カイトは表情を動かさない。この頃のカイトは無表情で、言葉数の少なすぎる男だった。
ずん、と腹に響く音がした。ぱらぱらと土が降ってくる。カイトが焦ったようにジャスミンの腕を引いた。直後、盛大な音を立てて、坑道が崩れた。ジャスミンはカイトに庇われ、そのまま二人はそのまま流されるように、斜面を滑り落ちていった。
「ぐっ……」
カイトが小さな唸りを上げると同時に、落下が止まる。ジャスミンは慌てて体を起こした。
「ごめん!」
両手をカイトの胸にあてがう。温かな黄金色の光がその手に収束し、カイトに流れていく。治癒魔法だ。レンジャーであるジャスミンは、いざという時のために簡単な治癒魔法を習得していた。ある程度まで傷が塞がると、カイトは手を振って治癒魔法を止めさせた。ジャスミンの息が荒くなる。治癒魔法は、その使い手に多大な見返りを求めるのだ。
雨の音に混ざり、人の声が聞こえた。
「探せ、このあたりのはずだ」
「ヴィナ、ヴィナ、どこだ!」
まだ遠い。複数人いる。善人かどうかは疑問なところなので、カイトとジャスミンはできる限り姿勢を低くして、動かずにいた。
「見つけたぞ、ヴィナ、さあこっちへ」
「いやっ、リュリュ=バーレ!」
子どもの悲鳴が聞こえた。直後、滝の流れるような轟音がした。ジャスミンとカイトの足元に、水が打ち寄せてきた。と思うと、すぐに消える。
「消えた……守護魔の水だわ」
ジャスミンが呟く。同じ世界にいながら違う空間に存在していると言われている守護魔、それが呼びだしたものは、守護魔が自身の空間に帰ると共に消滅する。
はっとしたように顔を上げ、カイトが立ち上がった。その彼の腹に、何者かが激突した。
「あ……」
怯えきった目をした、幼い少女だった。ジャスミンも驚いて目を瞬かせたが、直後、彼女の手を引いて腕の中に守り、身を伏せた。それは咄嗟のことで、考えるよりも先の行動だった。少女は細く小さく、とても壊れやすいもののように思えた。
「ヴィナ?」
「おかしいな、こっちへ来たと思ったが」
人の声が近づいてくる。幾人かは激しく咳込んでいる。先ほどの水に呑まれたのだろう。
カイトがゆっくりと剣を抜いた。ジャスミンは伏せたまま、腕の中の少女に問う。
「ヴィナって、あなた?」
少女は首を激しく横に振った。それが、彼女の状況を雄弁に語っていた。
「そこにいるのは誰だ、ヴィナ……じゃないな?」
威圧的な声。明らかにこちらへ向けられたものだ。ジャスミンの腕のなかで、小さな身体が小刻みに震えはじめた。カイトが太く声を張って答える。
「名乗る義理はない」
相手が姿を見せる。頭上に、光の線で描かれた魔法陣を浮かべて雨をしのいでいるために、その姿がはっきりと見えた。全身を黒いローブで覆い、フードを目深に被っている。特徴のはっきりしない、表情の薄い顔だった。
「こちらは魔導研究院の者だ。少女を見なかったか?」
「知らん」
カイトが即答する。が、相手は少女を見つけるための何らかの手を持っているらしい。別の者が近づいてきて、ひそひそと言葉を交わす。その人数が一人、また一人と増える。総勢で十人を超えたころ、相手の代表らしき男が、ずいとカイトに近づいた。
「嘘をつくな。その後ろにいる女、それが庇っているのがヴィナだ。こちらへ渡せ」
「嫌だと言ったら?」
カイトは返す。その返答に、ジャスミンは安堵した。腕の中の小さな少女の、肩の震えが止まった。研究員は顔をしかめる。
「何の得もないことを、なぜ問うのだね? それは我らの所有だ、こちらへ渡すのが当然の道理だろう」
「道理なら、こっちにだってあるわよ」
ジャスミンは立ち上がる。ヴィナと呼ばれた少女の肩を、しっかりと抱いて。
「この子が嫌がってるわ」
研究員たちは顔を見合わせる。何事かまた密やかに相談し、別の者が言った。
「その子はひどいいたずらをして、それを怒られたくないがために家出をしてきた。我らは保護するために来たのだ」
「嘘だ」
間をおかず、カイトが切り返した。ヴィナと呼ばれている少女は、ジャスミンにしっかりとしがみついてきた。見ず知らずのジャスミンよりも、迫るローブ集団の方が、少女にとっては明らかに恐怖の対象だった。ジャスミンは強い口調で返す。
「あのねえ、こんな暗い雨の中で、こんな寂しい場所にいるのよ。子どもなら、怒られることよりも先に、独りになることを怖がるような状況だわ」
普通ならね、と言い添える。研究員たちはめいめいに怪訝な表情を浮かべた。ジャスミンは小声で呟いた。
「だめだわ、こいつら、何か欠けてるみたい」
カイトはジャスミンに目を向け、彼女にしがみついている少女を見やった。剣は手にしたままだ。ジャスミンはわずかに不安がよぎり、小首を傾げる。
「カイト?」
「ジャスミン、そいつ、渡すな」
カイトの言葉に、ジャスミンは表情をぱっと明るくした。片目を閉じる。
「もちろん、任せて」
カイトは少女と視線を合わせる。少女の、驚きにあふれた、そしてわずかな希望を含んだ眼差しが、彼のそれと交差する。
カイトの表情が、ふ、と和らいだ。
「……イナンナ」
彼の発した言葉の意味と、その意図を、最初に理解したのはジャスミンだった。カイトがそう言ったのが、嬉しかった。
「イナンナ、そうよ、この子はイナンナよ、ヴィナなんかじゃないわ」
研究員たちを睨む。彼らは苛立ちと戸惑いの混ざった声を上げた。
「なにを馬鹿なことを!」
「こいつら、頭がおかしいのじゃないか?」
「違いない。こうなれば」
研究員たちの幾人かが、腕輪や指輪に飾られた腕を振り上げた。また別の者は杖を掲げ、別の者は本を開く。それぞれがわずかな光を帯びる。魔法だ。
「さあヴィナ、こちらへ来なさい、ヴィナ!」
呼ばれ、少女が大きく身を震わせた。
カイトが歯噛みした。剣を構える。魔法に対抗する手段を、カイトもジャスミンもほとんど持っていない。ジャスミンはそれでも、わずかな防御の魔法を手のなかに紡ぎはじめる。
少女が、震える声を発した。
「わたし……わたし」
研究員たちが焦れて乱暴な声を上げた。
「ヴィナ、来ないと、この男も女ももろとも吹き飛ばすぞ、いいのか!」
やられる前に斬ってやろうと言わんばかりに、カイトが走り込もうと力を込めた。その刹那。
「わたしは、ヴィナじゃない」
小さな、しかしはっきりとした声。
「ヴィナ、なにを」
研究員たちの言葉を打ち消すように、少女が、叫んだ。
「ヴィナって呼ばないで!」
研究員たちが魔法の雷を放った。少女の鋭い声。
「ドアナ=バーレ、助けて!」
同時に、土壁がカイトとジャスミンを包み込んだ。
「わたし……あなたたちと、いっしょにいたい」
ジャスミンにしっかりとしがみついて、その表情には怖れよりも大きな決意をみなぎらせて、彼女は言った。土壁に雷が激突したのか、激しい音がする。しかし土壁は揺るぎもしない。ジャスミンが驚きに目を見張った。
「これ、なに?」
「ここの、大地の子。来てもらったの」
少女が答える。カイトが、召喚師、と呟く。確かに、幼くしてこれほどの力を使いこなしているとしたら、魔導研究院にとっては垂涎ものの研究対象だったろう。少女の拙い意志など、大義の前に踏みにじられたに違いない。
「ジルビーやココが魔導研究院を嫌う理由が、よーくわかったわ」
設備や資料の揃った研究院を避け、あえて独学で努力している知人を挙げて、ジャスミンは苦笑した。
「やっぱりあたし、あの兄は軽蔑する」
研究員として働いているであろう身内へ、あらためて失望を感じる。
土壁が消えた瞬間、カイトが弾かれたように飛び出して、剣を研究員の喉元に突きつけた。
「失せろ。ここにヴィナはいない」
低い声、据わった目には、彼の敵意がみなぎる。研究員たちは迷っていたが、やがて一人、また一人と姿を消しはじめた。カイトに剣を突きつけられている者は、最後まで惜しげに少女を見つめていたが、カイトの視線に射すくめられて踵を返した。
徐々に雨足が弱まり、やがて止む。魔法使いたちの気配が、完全に消えた。カイトはそこでやっと剣を下ろした。ジャスミンは、ほ、と安堵の息を吐いた。いつもなら人を脅したり殺したりすることを嫌うカイトが、この瞬間はためらわなかった。しかし、血を出さずに終わるなら、それに越したことはない。
少女は、まだ自分の状況が信じられないという顔をしている。ジャスミンはその彼女を抱きしめた。
「よかったわね、あなた、もう自由よ!」
ジャスミンは身を離して、少女の顔についた水滴をぬぐってやった。少女の唇が、ぎこちなく動いた。
「わたし……」
浮かぶ、微笑み。
「イナンナ、嬉しい」
自分の新たな名前を、噛みしめるように、声に出す。
ただ小さな少女を、己の義侠心に従って助けただけだった。結果、ジャスミンとカイトは、小さな天才召喚師を仲間に加えることになったのだ。
出会いは、雨の続いた、ある夜だった。




