頼もしき友
早朝、村の門が開いてすぐに、一行は出立した。長居をすれば、村人たちの反感を買う可能性もある。ミランが大仰に出立を告げると、人々は村の門まで出てきて、名残惜しそうに客人を見送った。おそらくミランは村長の家で、多くの魅力的な物語を聞かせたのだろう。しばらくの娯楽を提供することが、貴人を泊めたことへの最大の報酬なのだ。
その後、一行は何事もなく街道を進み、やがて、大きな都市の城壁を目の前にした。周辺には牛や羊や馬、家畜化された魔物の群れが見られる。太陽の傾き始めた時間である。予定どおりに、エグナータへ到達したのだ。
エグナータは大都市であり、気性の穏やかなユニオンだ。農業国であり、そのなかでも酪農の技術が発達していて、ホートルノックにも食肉や乳製品などがたびたび運ばれてくる。季節に敏感で、天候に恵みを求める祈りが多い。だから祭りも多く、人々はそのたびに日常のうっぷんを晴らす。石と土で造られた家々は、淡い色で塗られている。人々の衣服も、作業着ではあるが、淡い色に染められていた。
エグナータの中心部からは大きく外れた一角に、この街の雰囲気とはそぐわない場所がある。それが、黒い石とレンガで造られた建物、魔導研究院の支部である。研究員たちが居住している周囲の建物も、暗い色で統一されている。これは、温度と湿度を一定に保つ魔法の一環であるらしい。
研究院を目の前にして、イナンナの腰が引けたのを、カイトは横目でとらえた。ジャスミンに低く囁く。
「イナンナ連れてモスんところに逃げる」
ジャスミンは黙って頷いて、ミランに声をかけた。
「ついでの用事を済ませたいの。カイトとイナンナがちょっと抜けるけど、いいわね?」
ミランは興ざめだとでも言いたげな表情を浮かべたが、拒絶はしなかった。
「明日の夜明けと共にまた発つ。東の門だ、遅れないでくれよ、カイト」
その口調は、まるでカイトを刺そうとしているかのようだった。カイトはミランと目を合わせないように注意しつつ、乾いた声で、了解の一言だけを返した。依頼主にたてついても、ろくなことはない。
カイトはイナンナの手を強く引いて、隊列から離れた。淡い色の街並みを抜けてゆく。すれ違う人々の表情は様々だが、どれもこれも余裕があるように、カイトには見えた。実際、エグナータはホートルノックより豊かであり、はるかに安定している。長い歴史がなせることだろう。
エグナータの中心部へ一度戻り、目抜き通りから外れ、住宅の並ぶ一角に入る。このあたりにはジャスミンの元々の実家があり、親戚たちがそれぞれ家を持っているはずだ。魔法研究院に勤めるジャスミンの実兄も住んでいる。カイトはそのどこにも立ち寄らず、むしろ逃げるように足早に、住宅地を通り抜けた。
少し寂れた地区に入る。手入れの行き届いていない家が並び、人々の様子も、温和というよりはしなびたような雰囲気である。数人の子どもが、哀れを誘うような表情を浮かべて物陰からこちらをわざとらしく見つめている。カイトはイナンナに、彼らと目を合わせないようにと指示した。エグナータは大きな街だからこそ、こうして落ちこぼれてしまった人々というのも存在する。
「前も言ったろ。こいつらはここでそれなりに暮らしてんだ、変な同情はするな」
イナンナは返事をしなかった。カイトは少女の目を見ようとしたが、イナンナは目を伏せて、顔を上げなかった。カイトはそれを面白がって、思わずふっと笑い声を漏らした。イナンナが反抗的な態度をとるのは珍しいことだ。
カイトは記憶をたよりに、並ぶ家の一つ一つを確かめ、やがて目的の家を探し当てた。古く小さな家だ。全体的に小柄に造られており、ドワーフ向けに資材を節約して造られたものであることが一目瞭然であった。ただ、石壁は粘土や砂礫で補強され、ほかの家よりも頑丈そうで、いっそう無骨な雰囲気があった。カイトはその家の重たげな木の扉を、拳で乱暴に叩いた。
「モス、いるか?」
やや間があって、扉が細く開いた。イナンナの目線とほぼ同じところに、神経質そうな眼光が現れる。白の混ざった茶色の髪やひげ。肌の色も土のようだ。鋭い眼光がイナンナとカイトをそれと認め、和らいだ。
「おう、坊主、イナンナ嬢ちゃん、半年ぶりだな」
低いしゃがれ声。扉が大きく開かれる。老齢の域に達しているらしいドワーフがそこにいた。ただし、そのたくましい手足に、衰えはまったく見られない。
「どうした、祭りでもないのに尋ねてくるなんざ珍しいじゃねえか」
まあ入れ、と二人を促す。カイトはイナンナの背中を押して、それに従った。
部屋は二つ、居間と寝間だけの小さな家だ。壁には暗い茶色の粘土が塗ってあり、天井は外から見るよりもだいぶ低い。炊事場は居間の端にある。薄暗いのは、窓が一つで小さいからだ。これは、モスが自分でそうしたものだ。本来は地下暮らしに適応しているドワーフに、少しでも心地よいよう工夫された家だった。隠居の一人暮らしの家には家具もほとんどなく、殺風景だった。炊事場だけは散らかっており、モスの生活をうかがわせた。地下貯蔵庫の扉は開きっぱなしになっている。おそらく、地下には大きなエール樽が置いてあるだろう。
扉が閉められると、イナンナが、ほ、と安心したように息を吐いた。モスは同情するような目を彼女に向けた。
「よしよし、ここにゃあ、あの黒い連中も来やしねえからな」
魔導研究院に勤める者は、たいがい黒のローブに身を包んでいるから、一目でそれとわかる。ほとんど外出することのない彼らであるが、出歩いたとしても、栄えたところにしか現れない。モスはイナンナの背中をなだめるように叩いた。本人は軽く叩いたつもりだったろう。が、イナンナは小さく声を上げて、よろめいた。
「おっと、すまんかった」
モスは頭を掻いた。でっぷりとした腹をゆすりながら炊事場に立ち、かまどにやかんをかける。
「ろくにもてなせるモンもねえが、まあゆっくりしていけや」
「それが、そうもいかない事情があるんだ」
カイトが言いながら、勝手に椅子に腰かけた。カイト用にあつらえられた、人間用の椅子だ。食卓がだいぶ低い位置にくるのが、この椅子の難点である。イナンナはドワーフ用の椅子ではなく、ジャスミンがいつも座る席についた。モスは微笑ましげにそれを見守ってから、カイトに尋ねた。
「なにがあるっちゅうんだ?」
カイトは、ミランの依頼を受けたことと、その内容を手短に話した。聞きながら、モスの表情は徐々に厳しさを増していく。沸いた湯でドワーフコーヒーを淹れる手には、妙に力が入っていた。モスはそれをカイトに出し、イナンナにはベリーのジュースを瓶ごと出した。クセの強いドワーフコーヒーを少しずつ口に含みながら、カイトは話を続けた。イナンナもカイトに倣うように、瓶に口をつけてジュースを少しずつ飲んだ。
だん、と大きな音が鳴った。イナンナがびくりと全身を震わせた。ドワーフが拳を食卓に叩きつけたのだ。木製の卓に、みしり、とひびが入る。
「ふざけとる!」
部屋中のものが、ビリビリと震えるような声だった。イナンナがジュースの瓶を握りしめて縮こまった。カイトは平然としている。
「ふざけとる!」
繰り返し、モスは吠えた。
「まったくもってふざけとるぞ、あの糞ガキめ。何をたくらんどるか知らんが、エルフの分際でサロに手出しなんぞ!」
モスの顔は、茹であがったように赤くなっている。
「妙に好奇心のある人間や能天気なアンジェなら、その愚かさも可愛げがあろうが、よりにもよって、我らドワーフと並ぶ長命の種が。ええい我慢ならん!」
「なにがだ?」
カイトはあえて冷ややかな声をぶつける。それを浴びて、モスは我に返った。大きく息を吐き出し、吸い込み、すまん、と小声で謝る。
「サロに封じられとるもんを、あのガキが知らんはずなかろうが。その上で手出しを……自信ありげだっちゅうことは、何か策があるんだろうが」
信じられないか、とカイトが問うと、もちろんだ、と即答する。
「わしのような年寄りがチビの頃に、じいさまから聞いた話だ」
モスは熱を帯びた声で語る。
「あれに封じられたのは、強大な魔だ。意志持つ魔力そのものと言ってもいいだろう。あの遺跡は、その魔力を少しずつ弱らせながら風化してくもんだ」
それで、と言葉にいっそう力が込められる。
「あれは、経た年月のわりにはきれいすぎる。つまりそれだけ、まだ魔力が強く残ってるっちゅうことだ」
厳しい顔で天井をあおぐ。
「手出しして何が起きるか、わしには想像もつかん。我が祖デルガルは、サロの魔封印の英雄だが……そうか」
カイトはコーヒーを一気にあおった。直後、むせる。ドワーフコーヒーの、泥水をすするような独特の喉越しと、鼻を抜けて頭まで覆うような強い匂いは、気をつけていないとすぐにこうなるのだ。イナンナがカイトの背を慌てて撫でた。息が整わないうちから、カイトは言う。
「なるほど、かなり、覚悟、しねえと、だな」
でもな、と続ける。
「ミランは、危険なことはない、って豪語してる」
深呼吸して息を整える。
「えらく自信のある口ぶりだったぞ。それに、今回はあくまで調査だと」
「信用できん」
モスは渋い顔をする。その瞳には、深刻な影が、静かに揺れていた。
沈黙。
すっかり日が暮れ、カイトは席を立って、勝手にランプに火を入れた。透明なガラスを用いた、高価な品だ。橙色の光が、部屋をやわらかく照らす。イナンナの腹が小さく鳴った。カイトはイナンナの頭に手を置いた。
「屋台かどっかで飯調達してくる。おまえはここにいろ」
イナンナは頷いた。カイトは、何やら考え込んでいるモスを横目でちらりと見てから、バケツ型の鍋を勝手に借りて家を出た。
酔っ払いが徘徊し始める街中を、特に揉め事もなく抜けて、カイトは街の中央へ出た。住宅街を抜けるときには家から漏れる光だけが道を照らしていたが、街の中心へくると、こじゃれた形をした街灯が立って、大通りを明るくしていた。カイトはそれを見上げ、目を細めた。これは魔法研究院がエグナータにもたらしたものだ。エグナータは魔法研究院を受け入れる代わりに、こうした恩恵を手に入れている。苦々しい思いで、カイトはそれを睨む。我に返って、急ぎ足で大通りを抜け、裏通りの安い料理屋に入る。
モスの家へ戻るカイトの片手には、パンと酒瓶が抱えられていた。もう片手には、持って出たバケツ鍋に、料理屋で買った山盛りのシチューを入れている。さびれた貧民街には明かりなどないが、カイトのダイモンの目には、色がないだけで昼間とさほど変わらない景色が見えていた。モスの家の扉を足で小突き、中に声をかける。
「戻ったぞ」
ガタ、とかんぬきを外す音がして、扉が細く開いた。顔を覗かせたのはイナンナだ。カイトは目を瞬かせた。何か言おうと口を開くと、イナンナが指を唇に当てた。扉を開き、カイトを中に入れる。
カイトの目に飛び込んできたのは、ランプの光に浮かび上がるドワーフの姿だ。彼は作業台を居間に出して、水桶を傍に置き、巨大な斧を研いでいた。その眼差しは厳しい。ランプの光が斧に反射してきらめいている。カイトは息をひとつ吐いた。
「年寄りの冷や水、って言葉、知ってるか?」
「ここで死ぬんなら、そういう運命だったっちゅうこった」
傍には、ドワーフ製の兜と鎖帷子が揃えてある。使い古されたドラゴン革の靴やベルトもあるが、手入れを怠った形跡はない。
「なんのために隠居したんだか、わかんねえな」
カイトが皮肉めいた笑みを浮かべる。モスは、ふん、と鼻を鳴らした。
モスは元々、ホートルノックの戦士だ。生まれはエグナータである。長い時を生きる彼は、遥か昔にダイモンの妻を得て暮らしていたが、彼女に先立たれ、ダイモンとして生まれた子らが独立し、ひ孫まで育つのを見届けた。もはやダイモンの一族となってしまった子孫たちには関わらず、一人で移住を決め、ホートルノックの勃興に立ちあったのだ。それからはホートルノックの戦士の筆頭として、ジャスミンとともに戦い、カイトに戦士としての技術を叩きこんだ。二人がイナンナを拾う少し前まで、モスは現役だった。戦士を引退してからはまたエグナータへ戻って、静かに過ごすなどと殊勝なことを言っていたのである。
「ベッドの上で死にたいなんちゅう寝言をほざいたのが間違いだ。ドワーフなら土ん中で死なにゃあ」
モスは斧をすっかり磨き上げ、満足げに息を吐いた。カイトに向く。
「食うぞ、飯だ!」
カイトは片方だけ口角を上げた。イナンナに向け、聞えよがしに言う。
「嬉しい誤算だな」
イナンナは困ったように小首を傾げ、あいまいに微笑んだ。




