気乗りしない初日
翌朝、日が昇ると同時に、カイトたち三人は街の門へと集合した。既にミランが十数人の部下を従えて待っている。そのうち数人は、ヒイラギたちシノビの、薄暗い装束をまとっている。あとの者たちは貴族の侍従にふさわしい、整えられた制服に、上半身だけの簡単な装甲を身につけていた。彼らの主たるミランは、豪奢な刺繍の施された濃紺のマントをまとい、美しく鍛えられた槍を携えていた。まるで、祭礼に演武を披露する者のような出で立ちである。
カイトはいつもどおり革鎧をまとい、ジャスミンも軽い装甲を身につけている。それに加えて、野営の道具や保存食に水袋も持っている。背負い袋にはロープや小型ハンマーやランタンなど、探索に必要な道具も揃えていた。イナンナも自分の背負い袋に、カイトやジャスミンほどでないにしろ、野外活動のための道具を持っている。
ミランがマントをひるがえし、槍を振って号令をかける。
「さあ行こう。まずは偉大なる予言者を迎えに」
部下たちが素早くミランを囲む。ミランのためには乗り物が用意されていた。地上を走るのに適した、エピオルニスという鳥である。鞍が置かれたものは、それ一頭だけだ。
カイトが眉根を寄せ、ミランを見上げた。
「エグナータまでこの人数で歩きかよ。三日はかかるぞ」
荷車も用意されていたが、一台だけだ。引くのは一頭の巨大な牛である。車に積まれているのは、野営や探索に使うための道具に違いない。ジャスミンはカイトの横にぴたりとついて、小声で囁いた。
「あたしたちだけなら一日半でいく距離だけどね。ミランはどうするかしら」
イナンナがジャスミンを見上げる。不思議そうな表情が、そこには浮かんでいた。ジャスミンは彼女の疑問を察して、答えを与える。
「イナンナも、あたしについて、一日半で行ったことがあるわね。自分が行けたなら大丈夫、って思うんでしょう。でもねイナンナ、あなただって、ちゃんと冒険にふさわしい脚を持っているのよ」
それを聞くと、イナンナは嬉しそうに笑った。その時、冷めた声が割って入ってきた。
「我々を甘く見るな」
ヒイラギだ。ジャスミンが目を瞬かせる。
「あんたが自分から話しかけてくるなんて、驚きね。明日はきっと月が落ちてくるわ」
その嫌味には全く反応せず、ヒイラギは言葉を続ける。
「ミラン様が選り抜いた者たちだ。この程度の距離など、一日で抜ける」
「あら、それは困るわ。あたしたちがヘロヘロになっちゃう」
まったく信じていない顔でジャスミンが返せば、ヒイラギは大まじめな調子でさらに返してくる。
「ああそうだ、貴様らは重荷でしかない。それを肝に銘じておけ」
「なら、依頼なんて出さなきゃよかったのよ」
ジャスミンが唇を尖らせる。ヒイラギは視線を逸らした。それ以上は何も言わず、ミランの傍に戻っていく。ジャスミンは大きく舌打ちした。
「逃げたわね」
「勘弁してやれよ」
カイトは呆れたようにため息を吐いた。
「そうね、こんなとこで無駄に消耗しても仕方ないわ」
ジャスミンはすぐに切り替えた。が、納得はしていないようだ。それはカイトも同じである。だが、詮索しても、どうせ答えは得られないのだ。すべてのやりとりは、昨晩で終わっている。だから二人とも黙っていた。イナンナは二人の態度に倣って、やはり黙っていた。
草原と林との境にあるホートルノックの、頑強な城壁を後にして、街道を歩いてゆく。街道とはいっても、ただ地面をならし、場所によっては石垣が組んであるくらいのものだ。王都の近くでは街道にさえ石畳が敷かれ、馬車を無駄に揺らすことなく都市から都市へと移動することができるという。また、制服を着た巡視兵たちが街道を見張り、モンスターたちを防いでいるのだ。一方、整備された武力に乏しい上、住民の気性の荒いホートルノックでは、巡視兵さえ必要とされない。商人などが往復するときには、そのつど、カイトらのような戦士や、危険に慣れた狩人たちを雇う。
街道の警備は慣れたもので、カイトとジャスミン、そして小さなイナンナも、左右に目を配り、時に立ち止まっては音に気配をさぐり、鼻から息を吸っては妙な臭いが紛れてないかと確かめていた。
肌に触れる空気が、ぴりぴりと緊張したものに変わる。ミランの周囲を囲んでいた者たちのうち、ヒイラギとその手の者たちが、最初に身構えた。それを横目で見やり、カイトは呆れたような半笑いを浮かべた。
「気が早いな、まだそう近くにはいないぞ」
「黙れ。ミラン様に傷の一つでもあれば、貴様らの職務に怠慢ありとみなすぞ」
ヒイラギが鋭く噛みつくように言葉を返す。カイトはそれを鼻で笑って受け流しつつ、背負い袋を地面に降ろした。背負い袋と背中のあいだに挟むようにして持っていた長剣を鞘ごと剣帯から外して、剣を抜き、鞘をイナンナへ渡して、荷物をふたたび背負った。ジャスミンもその横で、黙ったまま弓に弦を張り、矢筒の蓋を取った。イナンナは、身の丈を越えるカイトの鞘を抱えたまま、地面を足でとんと軽く叩いた。
「お名前、教えてくれる?」
守護魔に愛される、という稀有な性質をもつイナンナの言葉に、まるで応じるかのように、風が彼女の髪にからみ、誰が触れたわけでもないのに小石がいくつか転がった。イナンナはそれらへ親しげな笑みを浮かべる。
ミランは愉快そうに、臨戦態勢をとる三人を眺めていた。ヒイラギたちに自分の周囲を守らせつつ、装甲を身につけた者たちには下がるよう指示する。自分は鳥から下りて、手綱を侍従に預ける。
「ユニオンの戦士がどのような戦いぶりを見せてくれるのか、楽しみじゃないか」
鷹揚な口ぶりで、部下たちにとも、カイトらにともとれる言葉を向ける。あるいはその両方かもしれない。カイトは舌打ちした。見世物になるつもりはない。が、手を抜いて後からうるさく言われるのも困る。同じことを考えていたのか、ジャスミンがぽつりと呟いた。
「やりづらいわね」
ちらりとイナンナに目をやるも、彼女は案外、平然としていた。イナンナの役割はカイトとジャスミンを守り助けることだ。自分のなかで確固たる自信があるからこそ、ミランがいようがいまいが、どうでもよいのだ。それを察して、カイトはふっと表情をやわらげる。幼い横顔が、今は頼もしい。
モンスターの気配は確かに近づいているが、正体を表さない。風の流れは変わらないが、地上を走るほかの獣たちが姿を消している。危険なものが潜んでいることは間違いない。しかし、見えない。
イナンナが叫んだ。
「ドラード=バフェリア、大地の子、隠れてるの見せて!」
地面が大きく波打ち、まるでなにかをひり出そうとでもしているかのように震え、唸りを発した。ジャスミンが矢をつがえ、両足を適度に開いて、いつでも射撃できるように身構える。カイトは揺れる地面をものともせず走りだす。
土の下に隠れていたものが、大地の守護魔によって追い出され、地上へと姿を現した。巨大なミミズを思わせる、粘液に覆われた細長い胴体。頭部には目玉はなく、幾本もの触角が自在にうねりながら、辺りをさぐっている。口は顎がなく円形で、歯が内側に向けてずらりと並んでいた。一度噛みついたら、相手を呑み込むまで放さないだろう。地面の下から獲物を狙っていたのであろうが、不意に陽の下にさらされたので、錯乱したようにのたうちまわっている。その大きさは、人一人であれば簡単に飲み込んでしまえるほどだ。
相手の不気味な姿に、ミランが小さく、うわ、と声をこぼした。彼の侍従たちも、声こそ出さないものの、ひどく狼狽しているようだ。さすがにシノビたちは顔色ひとつ変えず、相手がどのように動いてもミランを庇うことができるよう隊列を整え、木の葉のような独特の形をしている投げナイフを構えた。
走っていたカイトはすでに怪物の目の前だ。構わず彼は大きく跳躍し、身の丈ほどの剣を振り下ろした。粘液に覆われたやわらかな肉体に、剣がずぷりと埋め込まれる。が、抜けない。痛みに怪物が大きく跳ねる。カイトは表情を歪め、剣の柄をしっかりと掴み、怪物の胴に両足を踏ん張った。粘液で足が滑りそうになるが、剣で強引に身体を支える。怪物が身をのけぞらせた勢いで、カイトは強引に剣を引き抜き、同時に空中に放り出された。身をひるがえして姿勢をなおし、地面に降り立つ。
ジャスミンの放つ矢が、相手の触角を一本、根元から引きちぎった。
「狙いづらいなぁ、もう!」
やたら撃つことはしない。矢の数にも限りがあるのだ。カイトが怒鳴る。
「ワームの急所は喉の奥だ、届くか、ジャスミン!」
「相手が真っ直ぐこっち向いてくれたらね!」
怪物はその全身が筋肉であるようで、巨大な外観からは想像できないほど素早く、身体を鞭のようにしならせながらカイトに向けて口を開く。カイトは怪物の胴の下に飛び込むようにしてそれをかわし、片足を軸に方向転換したままの勢いで剣を振り上げた。怪物の喉が引き裂かれる。血の代わりに、鈍い橙色の粘液が溢れ出てくる。カイトは身をよじって無理やりその粘液をかわしたが、姿勢を保てず倒れた。すぐさま立ち上がり、怪物から距離をとる。
「バダル=バフェリア、炎の子、奪って」
イナンナの呼びかけに応じて現れたのは、炎のかたまりだ。それは熱となって怪物を包み込み、体表の粘液をあぶってゆく。粘液はしだいに乾き、怪物が動くたびにメリメリパリパリと音を立て、割れて崩れる。同時に怪物の動きは鈍く、弱々しくなってゆく。
ジャスミンは走ってミランらから距離をとった。反対にカイトがミランのほうへ走る。怪物がカイトへ向く。その横っ面をひっぱたくように、カイトは剣を一閃させた。怪物の口の一部が裂ける。続く下からの一撃が、またも怪物の口を裂く。後ろからジャスミンの矢が飛び、触角をまた一本引きちぎる。
イナンナが剣の鞘を抱えたまま、ジャスミンのほうへ走ってゆく。
「アルレ=バフェリア! こっちを、向かせて!」
同時にカイトが跳躍してミランの横へ立ち、地面に剣を突き立てて彼の腕を掴んだ。
「伏せろ!」
直後、激しい突風が頭上を抜けていった。ミランの侍従の何人かや騎獣の鳥は横倒しになり、荷車が大きく軋んで牛が抗議の声を上げた。ミランはカイトの腕に支えられ、カイトは自分の剣で二人の身を支えた。
抵抗するだけの力を失った怪物は、イナンナの呼び起した風によって無理やり首の向きを変えられた。その先にはジャスミンがいる。イナンナはジャスミンの背後まで駆けていって、そのまま崩れるように倒れた。大きく息をしている。いくら守護魔に愛されるとはいえ、それの力を借りるためには、心身に大きな負荷がかかる。もう、なにも呼べないだろう。ジャスミンは今、イナンナの盾になるように立ち、弓に矢をつがえて引き絞っていた。
「こっちよ、デカブツ!」
怪物はふらつきながら、しかし口を大きく開けて、ジャスミンを、そしてその背後にいる無抵抗なイナンナを同時に喰らうべく、真っ直ぐに突進した。
カイトの目には怪物の背しか見えない。彼に抱えられた状態のミランにも同じだろう。ただ、怪物が動きをぴたりと止め、ぐにゃりと力を失ったのは、誰の目にもはっきりとしていた。
狩りを終えた者の静かな目をしたジャスミンが、乱れた髪をかきあげ、息をひとつ吐いた。
「終わったわ」
怪物の急所である喉の奥を、彼女の矢が真っ直ぐに射抜いたのである。
カイトはミランから手を離し、剣を地面から引き抜いた。こびりついた土と粘液を見て顔をしかめる。ミランを横目でちらりと見やり、彼に怪我がないことを確認すると、構わずイナンナとジャスミンのほうへ歩いてゆく。
ミランがその背へ、抗議するような声をぶつけた。
「もう少し上品に戦えないのかな? 僕たちまで巻き込んでくれたね」
「デカブツを相手にしてるってのに、そんな近くにいるのが悪い。それくらい頭使ってくれよ」
「そうだね、僕は君たちを買いかぶっていたようだ。こんなに大味な戦いぶりを見せてくれて」
カイトは自虐的な笑みを浮かべた。
「悪いな、おまえのシノビに任せておけば、もう少し手早く終わったんだろうが」
だが、主人の横でヒイラギは表情を曇らせた。カイトはわざとらしく片眉を上げ、彼の返答を待った。しかし、回答が得られないことは、実のところわかっている。ヒイラギらシノビは対人戦闘に特化している者たちだ。諜報活動や暗殺など、人々のなかに紛れ、影の仕事をするのがシノビの役割である。逆にいえば、怪物と戦うための知識や経験は、ヒイラギたちにはない。だからこそカイトらの護衛を必要とするミランの主張は、あながち詭弁ばかりとも言えないのだ。そしてその専門性の違いから、カイトらとヒイラギたちが正面から戦うと、勝つのはヒイラギたちである。だからミランはカイトたちに対して、遠慮する必要がない。ジャスミンが言う。
「あたしたちも余裕をもって戦える相手じゃなかったの。ごめんなさいね」
嘘ではない。いつもの三人であれば、戦わず逃げる相手だ。無駄に体力を消耗するだけであるし、儲けも少ない。戦う理由があるとすれば、こういった護衛の仕事か、退治の依頼がきているかである。カイトたちは好んでモンスターと戦っているわけではないし、戦いを楽しんでいるわけでもない。イナンナの、奇跡のような力も無限ではないし、ジャスミンの弓矢は撃ち尽くせば終わりだ。前に出て戦うカイトにいたっては、体力の消耗が感覚を鈍らせ、命を危険にさらす可能性さえある。今回、逃げずに怪物と戦ったのは、依頼主であるミランの希望があったからだ。そしておそらくミランのことであるから、カイトたちが怪物を引きつけているうちに逃げることもできたはずである。
イナンナがやっと身を起こし、ジャスミンに助けられながらカイトのほうへ来た。ジャスミンはイナンナから、カイトの鞘を預かろうと手を伸ばしたが、イナンナは鞘を抱きしめて離さなかった。イナンナは自分でカイトに鞘を返して、彼を見上げ、微笑んだ。
「がんばりすぎちゃった」
その彼女を、ジャスミンが後ろから抱きすくめた。
「とはいえ、イナンナにがんばってもらわなきゃ、も少し長くかかったでしょうからね」
長期戦になれば、それだけ依頼人を危険にさらす確率も高い。イナンナも子どもながら戦士として、カイトとジャスミンとともに戦っている。自分がどのくらい力を発揮すべきかの判断は、二人に指示されるまでもなくできている。
ジャスミンはミランを振りむいた。
「少し時間をちょうだい。このデカブツの死体を道からどかすのと、イナンナを休ませなきゃ」
「急かして済まないが、頼むよ、ジャスミン」
鷹揚にミランは答え、ああ、と気づいたように質問を続けた。
「ところでジャスミン、この怪物はなにか使えるのかい?」
「こいつの表皮は水をはじくから、使い道はあるわ。歯も硬いから、そのまま刃物に使える。それにこいつの筋は強力で伸縮性があって……どうして?」
ジャスミンは怪訝な顔をする。ミランはそれには応じず、シノビのひとりをそばに呼び、何か小声で命じた。シノビの者は一礼して、まるで鳥が飛び去るような身軽さで高く宙へ跳ね、どこぞへと駆けていった。目をしばたかせるジャスミンに、ミランは言う。
「なに、僕たちはこいつを利用するつもりはないのだし、近隣に村があって、こいつを利用する知識があるのなら、そこへ譲るのがよいだろうと思ってね」
「……貴族さまの人気取りに使われるのは、ユニオンとしては気持ちのいいものじゃないわね」
ジャスミンは刺々しい声で返す。カイトはその応酬を耳で聞きつつ、怪物の死体を端から転がすようにして、少しずつ道からどかしていた。ダイモンが生来もつ筋力をもってしても、この怪物を動かすのはそう簡単な仕事ではない。カイトの額からは汗が吹き出し、力んだ顔は赤く熱くなっていた。イナンナがもう少し余裕をもっていられれば守護魔の力を借りられたのだろうが、彼女は今、地面にへたりこんで身を休めている。召喚師に使役されているものたちはその召喚師が傷つけばともに損なわれ、召喚師が死ねばともに消滅してしまうから、消耗した召喚師の呼びかけでは応じてもらえないこともある。いくらイナンナでも、これだけ疲労していては、守護魔たちも簡単には力を貸してはくれないだろう。
ミランに派遣されたシノビが戻ってくるころ、カイトは怪物の死体を道から動かし終えた。やっと、荷車の通るだけの幅が開けたのだ。汗だくになったカイトにジャスミンが水袋を手渡す。カイトは喉を鳴らしながら水袋の半分ほども水を飲んで、ジャスミンを呆れさせた。が、口の中はべたつき、喉は痛いほど乾いていたのだ。そこへ水が流れてきたときの満たされる感覚は、つい貪らずにはいられなかった。横で見ていたイナンナもつられて水を飲み、ジャスミンも苦笑しながら喉を潤した。
怪物の死体は放っておくことにして、先へと進む。カイトとジャスミンの経験上、あれほどのモンスターが出現したときには、ほかのモンスターが出てくることは少ない。あれは圧倒的な捕食者であり、どの種にとっても危険な相手であるからだ。だからといって気を抜くことはせず、あたりに目を配り、耳をそばだて、風の流れを感じながら、全身で周囲を警戒する。それはモンスターを相手に戦い続けるカイトとジャスミンにとって、ごく自然なことだった。
日が傾くころ、小さな村落が見えてきた。高い石垣で囲まれており、それ越しに、かがり火がちらちらと揺れて見える。ミランがヒイラギに言いつけると、彼はすぐその村へ駆けていった。カイトはミランを横目で見上げる。
「野営はしないのか?」
「わざわざ消耗する理由もないだろう」
「そりゃまあそうだが、あの村はエグナータの管轄だから、泊めてくれるとは限らないぞ」
どれほどの謝礼を積まれても、余所者を警戒する村人たちの意識が崩れることは、それほど多くない。威圧して宿を強請るようなまねをすれば、それは貴族の、ひいては王の名を傷つけることに繋がる。カイトはあまり期待をしなかったし、ジャスミンやイナンナまで、同じように期待しない態度でいた。
しばらくして戻ってきたヒイラギが、ミランの前に膝をついて、彼を見上げた。その顔には珍しく喜色が浮かぶ。
「話がまとまりました。どうぞお越しに」
カイトとジャスミンは同時にえっと声を上げ、ミランは蔑むような目をカイトにちらりと向けたが、ヒイラギをねぎらって下がらせた。
カイトとジャスミンは思わず顔を見合わせた。ジャスミンが首を傾げ、カイトは肩をすくめる。そのジャスミンの服の裾を、イナンナが引っ張った。イナンナは青い顔をして、小声で呟いた。
「あのひと、魔法の匂いがする」
ジャスミンは驚きに目を見開き、ヒイラギを見た。彼女の瞳に魔法が宿り、きらめく。エルフである彼女は、生来、魔法に長けている。相手が魔法を使うとわかれば、その内容を看破することは難しくない。
「さすがは密偵もこなす連中ってところかしら……人心を惑わしたり掌握したりする妖術を習得してるのね」
つまりヒイラギは村人たちに魔法を使い、交渉を有利に運んだのだ。それ自体は罪に問われることではないし、魔法に慣れた者には効果がないどころか、使用したことが気づかれれば敵意ありと判断されてもおかしくない。ただ、小さな村落では魔法を使える人が、いても一人か二人、治癒を学んでいる程度のものだ。高度な魔法には対応するどころか、気づくことさえないだろう。
村に入ると、人々は愛想よくミランを歓迎した。見たところ、ほとんどが人間である。わずかにダイモンが混ざっているようだ。背の低い石造りの建物が並んでいる。人口は百に満たないだろう。家畜の臭いが鼻に触れる。人の住まいよりもさらに大きな畜舎が、どの家にも備わっている。機織り小屋らしきものや、ひとつ背の高い備蓄倉庫、中央にある井戸。人々の着ているのは毛織物だ。濃淡様々な赤に染めた毛糸で織られているらしい。家々の脇には、糸染めの染料にするための植物が無造作に生えている。
「さあさ、貴族さま、どうぞこちらへ」
「狭い村ですが、ゆっくり過ごしてくださいませ」
ミランは村長の家へと案内される。従うのは側近のヒイラギのみで、あとの者たちは村の空いた場所で毛布にくるまることになる。ミランはイナンナとジャスミンに向いて、優しくおだやかに声をかけた。
「君たちが外に寝て、僕だけがベッドを借りるというのも心苦しいのだが」
「気にしないでください。あたしもイナンナも、外で寝るのは慣れてます」
ジャスミンは愛想よく返した。村人たちの手前、ミランに対してぞんざいな態度をとるわけにはいかない。壁の内側で、見張りの必要もなく眠ることができる、というだけでも、十分にありがたい話なのだ。ミランの機嫌を損ねたり、村人たちに怪しまれるようなことがあってはならない。
ミランのシノビたちはそれぞれ薄闇に紛れるようにして姿を消した。寝姿を他人に見られない、というのは、彼らの重要な掟であるらしい。ほかの護衛兵や荷運びたちは一ヶ所に集まって、荷車から保存食を取り出し、口にしている。火を通さなくても食べられるような、ビスケットや干し肉だ。不自然でない程度に離れた位置で、カイトとジャスミンとイナンナも荷物を下ろした。薄い毛布を取り出して身体を包み、同じような保存食を食べる。ジャスミンがイナンナの口に、干したプラムを放り込んだ。
「はい、おまけね」
思わぬ甘味に、イナンナは満面の笑顔を浮かべて、ジャスミンにじゃれついた。ジャスミンはイナンナを甘やかしすぎるが、それはエルフゆえであるところが大きい。長い時を生きるエルフにとって、子どもの成長は早すぎるのだ。可愛がろうと思ったときには、相手は成人している。だから、イナンナが幼いうちに、とばかりに、ジャスミンはイナンナを甘やかす。カイトもそれを咎めるつもりはない。
村の畜舎からは、落ち着きのない家畜たちの声が聞こえてくる。羊と牛のそれが混ざったような鳴き声だ。魔物を家畜化したものだろう。村人たちの家々からも、せわしない生活音や、機織りや糸車の音などが聞こえている。余所者が村の敷地にいる、ということは、少なからず村に影響を与えているようだ。だが、悪いことばかりでもない。娯楽のない村にとってはこれもまた刺激のひとつだ。しばらくは話題に事欠くまい。
ジャスミンとイナンナが寄り添うようにして眠りに落ちる。カイトは空を見上げた。日はすっかり暮れているが、星は見えない。薄い雲がかかっているのだ。風がカイトの髪を揺らした。目を細める。
「……崩れるか?」
つい、言葉がこぼれる。正直なところ、遺跡を探索するときには晴れていてほしい。雨風は味方になってくれることもあるが、だいたいにおいては障害物であり、予測できない事態をもたらすものだった。
カイトはジャスミンとイナンナの寝顔を見やった。ダイモンである彼の目には、昼間に見るのと同じようにはっきりとした輪郭をもって、二人が映る。イナンナが小さくむにゃむにゃと言葉にならない寝言をもらした。身じろぎした拍子に、髪が乱れて顔にかかる。カイトは指をイナンナのほうへ伸ばして、かかった髪を払った。




