獣人の王4
特に悲しいわけではないのだが、三世の目からは涙が流れていた。
シュウイチとマサツグの二人を見て、過去の出来事――特に宿屋での食事の事を思い出したからだ。
確かにその宿屋の質は非常に良く、料理もおいしかったが極上の料理というわけではなかった。
それでも、色々と積み重なったあの時の食事は、今でも忘れられない味である。
精神的に追い詰められた状態からの解放感。
まずい保存食から突然上等な味のついた豪勢な食事。
そして何より、同じ苦難を味わった三人での食事。
その味は今でも忘れられず、確かに涙が出るほど美味しかったと三世は覚えていた。
例え同じ場所、同じ状況であったとしても、その味は二度と味わう事は出来ないだろう。
涙を流しながらでも、三世は前を見据える。
多くの人が残してくれたこのチャンスを逃すわけにはいかない。
だからこそ三世は、泣いても、無様でも、前だけを目指し続けた。
後方からドラゴンの咆哮が轟いた。
ただ声が大きいだけでなく、相当遠くまで聞こえるように吠えているようだ。
たぶんだが、自分に注目を集めて作戦の手助けをしてくれているのだろう。
「ドラゴンに対してお礼って何が良いのでしょうかね」
三世の言葉に並走しているルゥが答えり。
「あの人ドラゴンだけど亜人だよ。ドラゴニュートって言うんだったかな?」
「ああ。そうか……魔物と人しかいませんでしたねドラゴンって。なら人と同じようにか……食事会開いたらとんでもない量食べそうですね」
「その時は私とフィツががんばるよ!」
「ええ。お願いします」
三世とルゥの会話に、シャルトがまじめな表情で会話を遮った。
「前方。塔の傍で戦闘が発生しています。もしかしたら王の候補者かもしれません」
シャルトの言葉に三世は体をこわばらせ、ルゥは正面の方を見据え、嗅覚で正体を探った。
「……片方は獣人の集団。その相手は単独の誰か。香水か何かで自分の匂い隠しているから人か獣人かもわかんないよ」
どうやら近くに行かないとその単独の正体はわからないらしい。
ただ、この状況で単独ならもしかしたら味方かもしれない。
確かに甘い考えなのだが、三世はその可能性は低くないと感じていた。
他人に頼る事を覚えた三世は、今までよりも少しだけ、人の事を信じられるようになっていた。
それは剣と呼ぶには乱暴な作りをしており、鉄塊と呼ぶには形が整いすぎている。
確かに形状は剣と呼んで良いだろう。
刀身から持ち手まで全て鈍い鉄の色をした武骨な大剣。
ただし、その異常なまでの大きさは剣に見えず、まるで鉄の柱である。
マリウスの持っていた馬車に入らない大剣よりも全体的に大きく太い。
そんなめちゃくちゃな大剣だが、当の持ち主は軽々と振り獣人達を紙きれのように吹き飛ばしていた。
しかも獣人達は誰一人切断されていない。代わりに、気絶した獣人が山のように転がっている。
それはここでずっと、三世の意向を読み取り戦い続けた証でもあった。
その大剣を振るっていたのは見知った女性だった。
妖艶なまでの色気を持った、銀色の短髪で長身の女性。
口元をターバンで隠し、露出を極端に減らした砂漠特化の服装をした彼女は軽々と剣を持ち上げ、三世の方を向いた。
彼女の名前はマーセル。
元マーセル盗賊団の団長であり、その正体はガニアル王国王位第一継承権を持つ現国王の長女、ソフィ・ラーフェンである。
「遅いぞヤツヒサ! パーティーの会場間違えたかと思ったじゃないか」
そう言いながらマーセルはターバンで隠してもわかるよう、目で三世に微笑みかけた。
「ソフィ王じ――」
「はいストップ! 俺は目つきの悪い動物のような可愛いお姫様じゃないぞ。元マーセル盗賊団のマーセルだ。ガニアの王女様が国への反乱に手を貸すわけがないだろう」
マーセルの言葉に三世は唖然とし、そして小さく微笑んだ。
つまり、そういう事なのだろう。
「失礼しましたマーセルさん。知人と間違えました」
「おう。別に良いさ」
ラーライル王国の反乱にガニアの王女が手を貸すわけにはいかない。
だからこそ、ソフィはマーセルとして参加していた。
見つかったら大事になるのだが、その場合でも何か策があるのだろう。
以前のソフィならともかく、今のソフィはそんな弱い存在ではなく立派に王女を務め、腹芸もこなせると知っているからだ
それと同時に、自分を助ける事に同意してくれたのはソフィだけでないと三世は理解していた。
ソフィの持っている大剣に三世は見覚えがあった。
それはガニアの王ベルグが良く持っていた大剣である。
その大剣を持っているという事は、ベルグの協力があると同時に一つのメッセージでもあった。
『ガニアは恩を忘れない。何かあったら必ず助ける』
そう言った、ガニアの王、王妃、王女の三世へのメッセージだった。
「はぁ……どうやってガニアの国には恩返しをしましょうかね」
これが終わったらしばらく恩返しの旅になるな。
三世はそんな幸せな未来を想像した。
「あん? もしガニアの王女様なら『仕事で返して欲しいの。とりあえず獣医関係のノウハウと玩具の研究者であるティールとの縁繋ぎで許してあげるの』って言うと思うぞ」
「……ずいぶん逞しくなりましたねとお伝えください」
三世は苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。
――本当、随分したたかで強くなりましたねぇ。最近まで人嫌いだったのに。
同じような状況のはずなのに、随分と人としての差を付けられ三世は少しだけ悲しくなった。
ただ、それはそれで受け入れる事が出来た。
自分は自分。
落ちこぼれで頼りないけど、多くの人に愛された自分であると、今なら胸を張って言えるからだ。
「それで、俺はどうしたら良い? 手伝いに来たけどぶっちゃけ詳しくは知らん」
マーセルの言葉にシャルトが答える。
「これからご主人様が塔の中に入って試練を受けます。その間、私とルゥ姉で防衛をするのですが、それの手伝いをしていただけませんか」
「ああ。さっきまでと一緒だな。良いぜヤツヒサ。しっかり決めて来いよ」
マーセルはふっと十メートルくらいの距離をワープしたかのように移動し、三世の胸にトンと拳を軽く当てた。
三世はマーセルに一礼し、そのまま塔の中にカエデさんごと入っていった。
まだ太陽が沈む気配のないくらいの時間帯、試練によほど時間がかからない限りは余裕で間に合うだろう。
三世が塔に入ってから一時間が経過した。
日が暮れ始めだした時間帯、時刻で言えば四時半すぎと言ったあたりだろう。
わずか一時間ほどで一か所だけ、状況が劇的に変化した。
王の試練を受けるのは月に一度であり、これを逃すと来月となるが、このままだと獣人達の未来は来月すら訪れない。
その為本気で王を目指す獣人達とその配下は全員、塔を目指した。
今までいがみ合っていた王候補達も、時間が少なくなったのを理解し協力して塔を目指したらしい。
つまり、マーセル、ルゥ、シャルトのいる場所に多くの王候補とその配下が一斉に向かったという事である。
王女としての自覚をしたマーセルはどんな相手でも苦戦することはなかった。
個という意味でなら、この中にいる誰よりもマーセルの実力は高い。
単純に身体能力が違い、才能もあり、王族として戦闘教育を受けているからだ。
その上、ベルグに借りた大剣は殺す気がなければ相手を殺さずにいられるという魔道具の為、手加減の必要がなくほぼ全力で戦い続けられていた。
マーセルの行動は単純であり、強い者を打ちのめしてくという方針だった。
塔を目指す獣人の中で一番強そうなの、つまり王候補に狙いをつけて戦いを挑み、同時に周囲の敵を蹴散らしていく。
一切の苦戦なく、無双していると言っても良い状況なのだが、それでも足止め出来ているのは半数程度だった。
マーセルの手から逃れ、すり抜け塔を目指す獣人はルゥとシャルトが必死に食い止めていた。
ウルフハウルは既に何度も使用され、ルゥの喉は枯れていた。
シャルトも道中の偵察に加え常に速度強化の魔術を使っている為体内のオドも枯渇気味と化しており、二人は体力こそあり余っているが、それ以外はほとんど出しつくしていた。
――手が足りない。
シャルトはそう強く思った。
――手段が必要だ。
そして、その手段はない訳ではない。
魔法、魔術の先生であるドロシーによってシャルトは『とっておき』が使えるようになっていた。
ただ、こんな状況になっても、ソレを使うことに気が引けていた。
使えば楽になるのをわかっていても、その手段使う事を決断する事が出来なかった。
シャルトの黄金の瞳には不思議な力が宿っている。
それは己の中に世界があるような能力で、その世界に記憶した事は好きな時に引き出せる。
自分の世界に入る為には睡眠する必要があるが、逆に言えば寝さえすればその世界に自由に入る事が出来た。
そしてその世界では、別の世界線の映像を見る事が出来る。
三世曰く、見ている映像は『パラレルワールド』というものらしい。
見える映像は選ぶ事が出来ない。
近い未来か過去の時間帯のIFと呼べる世界を幾つも見てきたシャルトは、別の世界線にいる自分の魔法を知る事が出来ていた。
『善因善果』『悪因悪果』『因果応報』『因果両断』
どの自分も『因果』と呼ばれる魔法を切り札としていた。
ただし、世界線が違うと魔法も異なり、全く同じ魔法は一つたりとも見当たらなかった。
最初はこの魔法について全く理解出来ず、三世から因果に関連する縁についての話を聞いてみたが、やはり理解出来なかった。
だが、ある日をきっかけに、縁についてシャルトは理解することが出来るようになった。
ふとしたきっかけであり、それは本当に一瞬の出来事だった
それはシャルトという名前ではなく、月華と呼ばれていた時の事である。
そこが和風の世界だった為か、縁という言葉を使う人が多くいて、話を聞いているとそういう物があると自然に理解出来た。
更に、那綱神社で縁を通じて幽霊を引っ張り出すという霊魂が漂わないこの世界では絶対に出来ない事をやってのけたおかげで、シャルトは縁を認識し、操作することが出来ると知る事も出来た。
縁という物は自分と別の何かとの繋がりの事である。
それは人であり、物であり、概念でもあり。
縁によっての繋がりが存在するおかげで自分という形を保たれる。
『縁起の理法』と呼ばれる考え方なのだが、シャルトが理解したのはその先にあった。
それはこの世界に存在する理という名前の縁についてだった。
この世界の魔法とは、一言で言えば縁そのものである。
『魔法は縁というパイプを通じて別の場所から流れ込んでくる』
それに限界はなく、また流れ込んでくる魔力も一つの種類ではない。
無数の別世界より魔力と魔法の行使方法が縁を通じてこの世界に流出している。
それこそが魔法の正体である。
経験により因果律を理解し、ドロシーの指導によって魔力を感知できる能力を覚え、夢での経験で先に答えを見たシャルトは、魔法を使う事が出来るようになっていた。
ただし『因果』の魔法は一種類しか選択することが出来ない。
パラレルワールドのシャルト達が使った魔法はその生涯と経験により生じた魔法である。
『善因善果』という呪文ならば、善行を成した仲間にその因果に見合った武器を用意する魔法であり、シャルトが三世とルゥへの家族愛によって生成されている。
『悪因悪果』という、悪行を成した敵にその因果に見合った呪いを与える魔法は、シャルトの三世とルゥの敵に対する憎しみで生成されている。
その経験と答えを見知ったシャルトはどれでも使う事が出来るが、一つ使えば他が使えなくなる。
因果の魔法とはその人の生き様を現す魔法であり、たった一つしか使う事が出来ない。
だからこそ、シャルトは緊急時となった今でも使う事をためらっていた。
どの世界のシャルトも自分であると理解出来たが、そのどれもが自分とは決定的に違っているからだ。
別世界の自分とは言え、その生き様を軽々しく真似するような行為を正しいと、シャルトは思えなかった。
「シャルちゃん。何か悩み事?」
そんなシャルトの様子をルゥは不思議に思い戦いながらそう尋ねた。
「すいません。集中します!」
「ああ。叱ったわけじゃないよ。相談に乗ろうか?」
バンバン敵が来るこの状況で何を言っているのかと思ったシャルトだが、その理由はすぐにわかった。
意識はしていなかったが、悩み事で動きが悪くなっていた自分をルゥがカバーし続けていたからだ。
自分が思う以上に、自分の悩みは強かったらしい。
心配そうに尋ねるルゥに、シャルトは自分の心中を明かさずに相談を持ち掛けた。
「……もし、もしも願いが叶うとしたら何を願います?」
シャルトはそう尋ねた。
因果の魔法とは条件さえ守れば万能の力に限りなく近かった。
原因と結果との関連性が不可欠という条件に加え、因果の法則に縛られはするが、それさえ満たしてしまえば再現なく力を行使する事が出来た。
だが、その肝心の中身――心からの願いがシャルトは見つからずにいた。。
「んー。何でもかあ……。それは今を何とかするじゃなくて、一番好きな事とかそういう意味だよね?」
「はい。死者を生き返らせるとかそういった事は無理ですが、それ以外なら」
シャルトの言葉に悩んで、そしてルゥは答えた。
「わかんない! シャルちゃんは何か願いがないの?」
答えにならない答え。
それに対しシャルトは思い悩んだ。
自分の願い、それがわからないから尋ねたが、逆に聞かれてしまった。
考えてみたら当たり前の話である。
『ルゥの願いとは他者の幸せであり、その中でも三世とシャルトに対する気持ちは非常に大きい』
であるならば、ルゥの答えは必然的にそうなってくる。
「あれが欲しいとか。あれをしたいとか。誰かに会いたいとか……何かない?」
そんなルゥの言葉のおかげか、シャルトは昔、自分が呟いた一言を思い出した。
『……また会いたいわ。お姉さま』
そして、ある事実に気づいた。
死者を生き返らせる方法は、魔法でも不可能な事である。
だが、死ではなく、存在すら消滅した人はどうだろうか。
逆説的に言えばその者は死んでおらず、それは死者でないと言えるのではないだろうか。
シュレーディンガーの猫のような屁理屈に近いが、それでもシャルトはその可能性に賭けてみたかった。
「願いがありました。一人。会いたい人がいました」
「そか。……悩み、解消出来た?」
「ええ。ありがとうございます」
戦いながら話し続けた二人を苛立った様子で獣人が襲い、それを回避し続ける二人。
「ルゥ姉。一つ無茶をお願いして良いですか?」
「ん? 何何?」
「ちょっとやってみたい事がありますので、一分ほど私を守ってもらえませんか?」
今まで二人がかりでやっとだったことを、一人でしろという無茶ぶりである。
だが、ルゥはそれを快諾した。
「わかった。出来るだけ早めにお願いね」
そう言って、ルゥは盾を捨て、獣人達に拳を振るった。
盾で防ぐだけでは足りないし、盾で殴りつけたら殺しかねない。
ルゥは攻撃を自分の身で受け、シャルトを守りながら相手を殴り続ける。
その間に、シャルトは自分の願いを胸に秘め、魔法の詠唱を始めた。
「因果の果てにありしは異なる世界――」
魔法の縁を通じ、シャルトはその異世界の存在を感知した。
炎の惑星。大地が空に浮く世界。鋼の巨体が戦い合う島。
様々な世界が、この世界と繋がりを見せていた。
原因があって結果がある。
それが大原則である。
だが、シャルトの願いはその原則を少し外れていた。
存在していない、存在しない人と出会う。
つまり、縁が切れた相手と巡り合う事が目的である。
縁とは切れたら繋げないものであり、縁がないと相手と自分は接点がなくなる。
――だからどうした?
因果律とは原因が必要である。それはつまり縁そのものがないと何もできないという事になる。
ない物を繋ごうというのは無茶である。そんな無茶を平然と行っているからか、シャルトの目に痛みを走った。
――だからどうした?
簡単に言えば、別世界のシャルトでも成し得ないのだ。
そんな事、他の誰でもなく自分が一番理解している。自分の事なのだから当然である。
だからこそ、その無茶こそが自分の魔法――自分の心からの願いなのだとシャルトは理解している。
「ええ。私は無茶をします。無茶で、強引で、無理やりで。正直自信がないです。でも、自信も力もなくても、立ち上がった人は私は知ってしまいましたので、あきらめるわけにはいかないんです……」
ぷちっ。
小さな音と同時にシャルトの瞳から涙が流れる――その涙は赤く染まっていた。
限界を超えた魔法の行使に媒体である瞳が耐えられなかったのだ。
――だからどうした。
魔力は規定の量に全く届いていない。
だからこそ、シャルトは別の世界にある魔力を無理やり引っこ抜いてかき集めた。
月華だった時に神社に蓄えた力と同程度、せめてそれくらいは必要である。
血の涙は止まらず、このままだと失明する可能性もあるだろう。
だが、それでも良かった。
その程度で願いが叶うならシャルトに後悔はない。
瞳の痛みに逆らいながら、シャルトは折れそうな心に活を入れた。
「だからどうした!」
叫び声と同時にパキンと金属の割れる音が聞こえ、同時に瞳に激痛が走り目の前が真っ暗になる。
「因果……接続!」
小さく呟くシャルトの言葉。
それは縁起を繋ぎ直すというこの世界の理を塗り替える呪文だった。
獣人とは言え人の身には大きすぎる理という法則を己に宿し、体が悲鳴を上げ苦痛を生み続ける。
だとしても、シャルトが諦める事はない。
目的の為なら絶対に諦めない、我欲の強い己の主人。
誰を助ける事を心の底から喜べる、慈愛に満ちた己の姉。
そんな二人の背を見てきたシャルトは、痛み程度で折れるわけにはいかなかった。
「だって……ここで諦めたら、二人に置いていかれてしまう……」
そんな事なく、二人ならきっと待っててくれるだろう。
でも、それでもシャルトは嫌だった。
出来るなら、二人と肩を並べて歩きたい。
だからこそ、シャルトはその手を握りしめ、掴み上げた。
小さなテーブルと三つの椅子。その世界には他に何もなかった。
崩壊した世界。
その場所にいる主はただ悠久の時間をその場所で、無意識のまま過ごしていた。
彼女はただそこにいるだけの存在であり、死ぬ事すらない。
何故なら、彼女は生きてさえいないからだ。
生まれてもいない存在だからこそ、死ぬこともない。
偶然により一瞬だけ縁が繋がり、自我が確立されたがただそれだけであり、その存在自体はあやふやで生物と定義することさえできない。
彼女の名前は『アムル』
スキルという概念より生じ、とある獣人の力により目覚めた呼び名も種族もない、それどころか人間なのかすらあやふやな何かである。
いうなればアムルという名前の自我を持った概念だ。
彼女を生きていると断定するには決定的に足りない物が一つあった。
それは縁である。
彼女が生涯で持った縁の数は三つ。
三世八久という己の主。父とも呼ぶべき存在。
ルゥという自分を目覚めさせた獣人。自分の一人目の妹。
最後にシャルトという名前の獣人。もう一人の妹。
この三人と縁があり、そしてその縁は全て切断された。
全ての縁が消え、彼女の存在は失われた。
自分しか知覚出来ないという事は、世界を知覚できず、世界からも知覚されないという事に他ならない。
だからこそ、彼女は死んでおらず、ここに一つの奇跡を呼び起こした。
一度目、ルゥの覚醒により目覚めたアムルは、二度目、シャルトの覚醒、縁の接続という奇跡により、再び意識を取り戻した。
目覚めたアムルが最初に見たものは、崩壊しかけた己の世界と、手を差し伸べて来る自分の二人目の妹の姿である。
「姉さま!」
シャルトにとっては一年近く前の話だが、アムルにとってはついこないだの話である。
何が起こっているのかわからないアムルだが、一つだけ確かな事があった。
シャルトという少女は自分の可愛い妹で、信じるに値するという事だ。
アムルは迷わずその手を掴み取った。
シャルトのひび割れた眼球から血が噴き出し、その血は空中に漂い魔法陣を形成する。
血で作られた禍々しい魔法陣は白い光を放ち、それにシャルトは手を差し伸ばしその中から一人の女性を引き上げた。
白いローブだけに身を包んだ金色の髪をした女神のような女性。
その女性はシャルトの方を向き、そっと抱きしめた。
「無茶をさせたわね。ごめんなさい」
そう言いながら女性はシャルトの瞼にそっとキスをした。
次の瞬間――シャルトの血涙は止まり、眼球のヒビも消え同時に見えなくなっていた視界が完全に回復した。
「ありがとうございます姉さま。ところで現在の事情は――」
その言葉に女性は笑みを浮かべ首を縦に動かした。
「大丈夫。こっちに来た時大体の事はわかったから」
そう言葉を返し、ルゥの横に立った。
「るー。見覚えないけど知ってる雰囲気。あなたはだあれ?」
ルゥの言葉に女性は微笑んだ。
「私の名前はアムル。あなたのお姉さんよ」
不思議な事に、何故かルゥはその言葉が真実であると感じている。
相手が嘘を言っていないだけでなく、自分自身もそれが真実であると確信していた。
「わかった! よろしくお姉ちゃん! それで、どうしよっか? お姉ちゃんは何か出来る事がある?」
ルゥは大勢の相手がいるこの状況で、絶対的なピンチを打開できないかという意味を込めそう尋ねた。
ルゥの体はボロボロになっていて、そろそろしのぐ事すらしんどくなっていたからだ。
「んー。そうね。とりあえず――こんなのはどうかしら?」
そう言いながらアムルが指をパチンと鳴らした瞬間、ルゥとシャルトの思考が急激にクリアなものに移り変わり、同時に、アムル、ルゥ、シャルトの三人は意識が繋がった。
お互いが何を考えているのかすぐわかり、またお互いの知識の共有も一瞬で行う事が出来る。
それは以前、料理人ギルドで三世と経験した状況と全く同じ代物だった。
文字通りの三位一体。
通信機にすら頼る必要なくあらゆる量の情報の伝達が可能となった三人は、何も語らずお互いのすべき事を理解しそれぞれバラバラに動き出した。
シャルトは魔法の力を失った。だがその事に不満はない。
『因果接続』
切断された因果を強制的に結び直すという奇跡の代償としたら非常に安い物と言えるだろう。
むしろ、魔力がいつも邪魔をして魔術の行使の足を引っ張っていた為邪魔な物が消えたというくらいの感覚でしかなかった。
その上、アムルは魔法の力を使えるのだからシャルトにとっては良い事尽くしである。
ルゥの傷は全て軽傷で大したものではない。
ただし疲労の蓄積は激しい為これ以降ルゥが相手の攻撃を凌ぐのは難しいだろう。
そしてアムルの現状は少々歪なものに変化していた。
アムルは分類上人でも物でもない。概念が単体で存在するという不思議な状態である。
代わりにシャルトの使い魔という種族として存在が固定されていた。
つまり、シャルトはアムルを呼び出す事が可能という事である――物理的な距離を無視して。
「異世界の理よ。開け」
アムルの呪文によりアムル、ルゥ、シャルトの体は光の球体に包まれた。
相手の攻撃に反応して壁になりつつ肉体を治癒してくれる光の盾。
光に包まれたルゥは突撃をし、周囲の人を吹き飛ばしていった。
それは今までのルゥとは別人のような動きだった。
何故ならば、守る事を全く考えていないからだ。
ただただ突撃し、殴りつけ、体当たりを行い、獣人を吹き飛ばし続けるルゥの行動は今までのルゥではあり得ない動きである。
獣人達はルゥの動きを危険であると判断し、ルゥを最初に落とす事に決めた。
ルゥの背後を獣人達は狙った。というよりも背後以外に狙えそうな場所が見当たらなかった。
だが、ルゥの背後はシャルトが陣取り守る姿勢に入っていた。
太刀を振るい、武器を破壊しつつ相手を蹴り飛ばしルゥに攻撃を任せる。
ルゥがどこに向かい、何を狙うか事前にわかっている為、カバーするのはさほど難しい事ではなかった。
そうなると、次に狙われるのは魔法使いのアムルである。
ローブ一枚という戦闘用とは思えない装備に加えてひ弱そうな見た目から、獣人達はアムルは魔法以外は全く脅威ではないと認識した。そしてその認識は正解である。
アムルは人と戦うような力を一切持っていない。
魔法が使える以外は一般人程度であり、最初に狙うのは正しい選択だ。
人と戦い続けた獣人達は、魔法使いの脅威を理解している。
だからこそアムルを囲い、全員が全力で剣を振り下ろした――が、そこにアムルの姿はなかった。
獣人達は鼻を使いどこに向かったのかを探し、ここから十メートルほど離れた黒い髪の獣人の傍にアムルが居るのを確認した。
いつでもシャルトが呼べばアムルは傍に来ることが出来る。
つまり、距離を無視したテレポートが常時可能であるという事だ。
三人娘と遠方で王候補と戦っているマーセルの四人により、塔の前の戦局は何とか膠着していると呼べるまで持ち込む事に成功した。
天秤の傾きは均等になったのだが、押し切る事は出来そうにない。
確かにかなりの速度で獣人を気絶させることに成功しているのだが、それ以上にこの場所に獣人が集まり、更に遠くの方には三角座りをしながらわくわくした目で獣人が待機していた。
ちなみに、彼らは王を目指して塔に来たわけではない。
どこから噂を聞いたのか、マーセルという最強の存在に挑む事を心待ちにいるだけである。
王を目指す者とその配下に加え、戦いという名前のじゃれ合いに来た獣人達にマーセルは苦笑いを浮かべる。
だが、マーセルは彼らが嫌いではなく、むしろ王を目指す者よりも好ましいとさえ思っていた。
それはベルグの血だろうか、マーセルも戦う事に喜びを感じる体質だった為、彼らの事は嫌いになれそうになかった。
「ありゃ。シャルちゃんここ」
ルゥはそう言いながら自分の首をとんとんと叩いた。
ソレを見てシャルトは自分の首を触り、そこに今まであった物がなくなっている事に気が付いた。
奴隷用の首輪である。
以前のルゥの時と同じように、無理した影響で壊れて取れてしまったらしい。
少しだけ寂しそうな顔をしつつ、シャルトは腕に巻いていた黒い首輪を外し、自分の首に付け直した。
ありがとうございました。




