弱者の為の武の力
面倒な騒動の起きた翌日昼、長屋正面の庭で命と月華は向き合い、構えを取っていた。
張り詰めた空気が争いの気配を醸し出し、無言で見つめ合う二人の表情からは笑顔が消えていた。
お互い左側を前に出した半身の構えを取っている。同じような構えではあるが、両者には比較すらできないほどの差が存在した。
何となく、ただそれっぽく構えているだけの月華と違い、命の構えは堂に入ており、向き合っているだけのはずなのに、月華は言葉に表せない緊張感に苦しめられる。
摺り足でじりじりと移動する命に顔を向けるだけの月華。
本当に小さな一歩の摺り足、そのはずなのに――気づいたら命は月華の側面に近い位置に移動していた。
月華が慌てながら命の方を向くその瞬間――命が駆けた。
上体を前屈みにしたところまでは月華も見えたが、後は何も見えなかった。
意識が削がれ、注意が外れた瞬間に命は踏み込み、大きく体を落として月華の腹部に拳を突き出していた。
その正拳突きが寸止めでなければ、一撃で戦闘不能になっていたと月華は理解している。
文字通り目にも追えぬ速度の突きで、月華は当たったと気づくより先に拳圧により発生した風を顔に感じた。
「――まいりました」
月華の一言に命は元の左半身の構えに戻り、ゆっくり月華の正面を向き、丁寧に頭を下げて礼をする。
――礼が終わるまで一切隙が見えませんでした。これが本当の武術ですか……。
不意打ちをする気はないが、それでも全く油断せずに礼を終えるその残心に月華は感服した。
その戦いが終わっても意識を途切れさせないという考え方は、野生で生きていた月華にはない考えだった。
「――ふぅー。ありがとうございました」
命は肩の力を抜き、月華に微笑みかける。
「こちらこそ。ありがとうございました」
そう言いながら月華は頭を下げ、命もつられてニコニコとしながら頭を下げた。
「それで、参考になりそうですか?」
命の言葉に月華は首を横に振った。
「……凄すぎて全く参考になりません。色々な意味でお手上げです」
そう言いながら月華は両手を上げて笑った。
「むぅ。でしたら次は口で指導していきましょうか」
「そうですね。では命先生。お願いします」
「ふふ。月華にお願いされちゃいました」
二人は仲良さそうに笑い合っていた。
事の始まりは月華の一言からである。
『武術を教えて欲しい』
命はその問いに、一も二もなく頷き引き受けた。
月華の真剣な様子と、強くなりたいという意志を感じたからだ。
この世界で鍛えても、元の世界に戻った後で意味があるのかはわからない。
それでも、月華は命の武術に興味を持っていた。月華の見立てでは『命がルゥよりも強い』からだ。
自分の半分以下の身体能力の命が、あれだけの強さを発揮する武の力という物を、月華は手に入れたかった。
「まず、三世家で教わる女性向けの初歩武術は『正見』と呼ばれ、正見には三つの柱があります」
命は指を三本立てた。
「これらは順番に習得しなければなりません。まず一つ、己の体を知る――把握することです」
命はそう言いながら手をぐるぐると大きく回した。
「腕を振り回しても綺麗な円にはなりません。関節がそう動くようになっていないからです。そのように、関節の稼働範囲の確認は当然、一歩足を踏み込んだ時どのくらい移動したか、その時重心がどこにあるのか……。自分は呼吸をいつしてるのか。体の限界から無意識で行っている事、己の体を出来る限り把握していきます」
「……すいません。良くわかりません」
武術というよりは医学のような説明に月華は首を傾げた。
「――ですよね。私も良くわかりません」
微笑みながら言う命に月華はがくっと体のバランスを崩す。
「えぇ……。それで良いんですか?」
「良くはないですが、これはあくまで理想ですので。出来ることから一歩ずつが大切ですよ。一つ例題を説明しましょう」
そう言いながら命は月華の左肩に手のひらを当てた。
「この状態で拳を突き出してください」
命の言葉に首を傾げながら、月華は言われた通り虚空に拳を突き出そうとして――途中で腕が止まった。
大して力の入っていないことがわかる命の手が、肩に触れているだけで拳を振るうことが出来なかったのだ。
「意識せずの突きではわかりにくいですが、突きにおいて一番重要なのは腕ではなく肩です。肩の回転運動が突きにそのままつながりますので、肩が動かなくなれば拳の攻撃手段はなくなります」
月華はその意味を言葉を肌で感じていた。
ただ肩を止められただけで、腕をまっすぐ伸ばすことすら出来なかったからだ。
「拳での攻撃において回転の力はとても重要です。特に正拳突きの場合は、手首以外の関節をいかに使うかが大切な点となります」
「手首は違うんですか?」
「手首は違うんです。手首は逆に固定しないとすぐにぽっきりと折れてしまうので」
命は数歩離れ、左半身の構え――ただしさっき月華と対峙した時よりも足を広げ腰を落とした構えを取った。
「重要なのは肩で、次に腰、肘です。意識する順番は腰から肩、肘とつなげるようにイメージします」
そう言いながら命は流れるような動作で正拳突きを打ち放った。
横から見るとよくわかる。百八十度程度しか回転していない拳が妙に力強い回転をしていた。
その前方に突き出しながらの回転による力なら、確かに力の弱い女性の肉体でも、相当な威力が出せるだろう。
「実戦ではあまり使いませんが、背骨と足でも回転を伝えることが出来ます。隙だらけになるのですが、威力は折り紙付きです」
命は足の位置を固定させたままに体を大きくねじり、上体をそらしながら顔が後ろに向くような異様な恰好の後、全身を回転させるように動きそのまま正拳突きに繋げた。
ゴッ!
虚空を切ったはずの突きが異様な音を出し拳圧による風を発生させる。
「とまあ、これが初歩武術の一つ目、己の体を把握することです」
月華は知らず識らずのうちに手を叩いていた。
「命。質問して良いかな?」
「はい。どうぞ」
命の返事に反応してから月華は立ち上がり、命が見やすいような位置に移動する。
その後で左半身の構えを取り、左足を地面にドンと叩きつけて正拳突きを放った。
「これの足って意味があるの?私には良くわからないんだけど」
月華がやっていたのはルゥが全力で殴り飛ばす時に良く行っていた動作である。
ルゥは地面が割れるほど大きく地面を踏み抜き、その勢いを拳に乗せていた。
「『震脚』ですね。中国拳法の打撃論の一つで、八極拳などで使われます。強力ではありますが、あまりオススメしません」
「何故オススメしないのですか?」
「一つは習熟に技量がいること。震脚をマスターするのは並大抵の努力では無理です。二つ目は筋力に依存すること。強ければ強いほど効果が出るので軽くてひ弱な女性では効果が薄いです。三つ目は隙が大きいことです。打つ前も打った後も大きな隙が出ます」
言われてみたらその通りであると月華は思った。
地面が割れるほどの震脚が出来るだけの力があるからルゥは使えるのであって、自分では使えそうもない。
「ところで私の姉なのですが」
「はい」
「僅か一回の実践で震脚をマスターし、地面が割れるほどの震脚を披露するのですがどう思います?」
「……お姉さまは鉄で出来ているのでしょうか?」
「一応人です」
「ちょっと想像できませんね」
命は目を丸くしながらぽつりと呟いた。
「さて武術の話に戻りますが、二本目の柱は把握した己の肉体を通じて相手の肉体を知ることです。関節は同じなので己の関節を理解したら必然的に相手の関節の稼働も理解出来、自分の筋力を把握すると相手の筋力との差を理解出来る。これと並列して柔術を覚えます」
「ふむふむ。自分の長所と短所を見つつ、相手の長所と短所を知るのですね」
「その通りです。相手の情報がなくても、己の事を知っているなら、相手と相対することで相手を即座に理解出来る。ということですね」
「なるほど。それで三つ目はどんなのでしょうか?」
「三つ目の柱は、場を知ることです。気配や空気など曖昧な表現が増えるのですが、要するに一つ目と二つ目の合わせ技です。例えば呼吸。呼吸一つで攻撃の瞬間から相手の疲労具合まで把握できます」
「なるほど……なんとなくわかる気がします」
「ええ。月華は三つ目の柱はほとんど出来てますから」
命の言葉に月華は首を傾げた。
「出来てるって、一つ目と二つ目が全く出来てないのに?」
「ええ。普通の人は順番にですが、月華は特別です。元々野生に身を置いていて、その上多くの人に狙われ、そして実戦を経験している月華は確かに三つ目は出来ています」
狩りを行う野生動物が持っている本来の能力を、人が理解することが『場を知る』ということだ。
猫の頃に食うか食われるかの生活をしていた月華には、馴染みのある当たり前の感覚でしかなかった。
「なるほど。なら一つ目の指導をお願いして良い?」
「良いですよ。ですがその前に、一度に詰めても意味ないですし少し休憩しませんか?」
命の提案に月華は頷き、命の部屋に戻ってお茶の用意をした。
二人は部屋の中、肩が触れ合う距離で座りお茶と饅頭を楽しんでいた。
部屋が狭い為必然的に距離が近くなる。
本来なら近すぎて不快となる距離だが、二人ともそうは思っていない。
何となくではあるが、二人は似ている。似ているからこそお互いの事がわかり、気づいたら短い時間にもかかわらず仲良くなれていた。
人と仲良くなることを嫌う月華の背景を考えたら、それは相当に珍しいことだった。
「命、聞きにくいことだけど聞いて良い?」
「ええ。どうぞどうぞ」
「――どこまで知ってるの?」
三世は命の事を信頼し敢えて尋ねなかったが、月華は逆に命の事を信頼しているからこそ、その問いを投げつけた。
「……。そうね。私が偽物だということくらいは知ってるわ」
その言葉を否定しようとするが、月華は言葉に詰まった。
否定したいが否定することが出来ない。そういう側面もあると月華も考えているからだ。
「この世界は作り物で、私達は作られた偽物。主様と月華は本物。そして二人は帰ることを目的としている。悪いけどこのくらいしか私は知らないわ」
微笑みながら応えるその姿は、己の運命を全て受け入れているように、月華の目には映っていた。
「もう一個聞きにくいことを聞いて良い?」
「どうぞ。何個でも良いですよ」
月華はとても言いにくそうに、その疑問を尋ねた。
「どうしてご主人様を手伝うの?私達がずっとこっちに居たら良いって思わない?」
その質問に命はきょとんとした表情を浮かべ、そして微笑んだ。
「思いませんね。そのあたりが私と月華の大きな違いでしょう」
「……聞いて良い?」
命はこくんと頷く。
「月華の愛情はきっと正しい愛情なんだと思います。相手を束縛したいという意味も入った……。ですが私の愛情は違います。私は尽くしたいんです」
「尽くしたい?」
「ええ。究極的に言えば、命令され、ボロボロに使い古された上で主様に全てを捧げて生涯を終える。それが私の理想です」
その異常なまでの献身的な愛は月華にもわかる部分であり、そして理解出来ない部分でもあった。
「それではご主人様は喜びませんよ……」
辛そうな表情で呟く月華に、命は微笑みながら人差し指を自分の口元に当てた
「ええ。だから内緒にしてください」
月華は首を縦に降ることしか出来なかった。
「私からも聞いて良いですか?」
命の言葉に月華は気持ちを切り替え、笑みを浮かべながら頷いた。
「もちろん。いっぱい聞いちゃったし講義のお礼もあるわ。何でも聞いて」
「では、そっちの世界での主様の事を教えてもらえませんか?」
命の言葉に月華はぱーっと笑顔を浮かべ、三世と事を中心に姉の話を混ぜ、のろけ話を中心に語り始める。
それは間違いなく長くなり、普通の人ならうんざりする内容だが、命はそんな様子を見せず、嬉しそうにうんうんと頷きながら話を聞く。
今現在三世の方に寄りたくない命は、何時間でも月華に付き合うつもりでいた。
その時、三世は長屋の裏庭にいた。
月華と命がいた表側の綺麗な庭ではなく、裏側で手入れされていない荒れ地。
そこ居るのは三世だけでなく、ビリーと数人の部下――そして絶賛土下座中の学生達である。
ありがとうございました。




