月華3 -記憶-
月華の一番古い記憶は小さな少女に名前をもらった時だ。
眩しい月の夜に見つかった、月みたいな綺麗な瞳をしていた黒猫。
だから少女は月華という名前を、その黒猫に付けた。
月華は名前と同時に、少女から幸せをもらった。
少女の家族がおかしいと思い始めたのは、月華を拾ってきた少女が大人になり、子供がその時の少女と同じ位の歳になった時だ。
長い年月が経ったにもかかわらず、月華に衰えた様子は見えず、出会った時とまったく変わらず美しいままだった。
それでも少女は変わらず月華を愛し続けた。
大人となった少女に可愛がられ、月華はまだ幸せだった。
大人となった少女の家族が、月華に強い猜疑心を持つようになったのは少女の腰が曲がり、髪が真っ白になり老婆と呼ばれる歳となった時だ。
数十年経ち、子供が老人となるまでの時間が経過しても月華は美しい猫のままで、死ぬ気配どころか衰える気配すらまったくない。
周りが変化し続ける中で全く変わらない黒猫に、少女の家族は恐れを抱いた。
それでも老婆に可愛がられ、月華は幸せだった。
全てが崩壊したのは老婆が亡くなってからだった。
残された家族は月華に強い猜疑心を持ち、その上で恐ろしく感じた。
こいつはきっと人を呪う悪魔に違いないと。
同時に人を食った化け猫の話がその村で広がった。
もちろん月華ではない。老婆の元にずっといた月華にそんな時間はなかった。
しかし、老婆の家族はそうは思わず、衰えない月華こそ化け猫の正体であると思い、月華を殺そうとした。
老婆の孫に殺されたかけたことに対し、月華は絶望も悲しみもなかった。
彼らの事を月華は、どうでも良い存在としか思っていないからだ。
強いて言えば落胆した。
老婆がいないことに――あの自分を愛してくれた小さな少女に置いて逝かれたことに、月華は酷く落胆した。
月華を可愛がってくれる人はこの世界にいなくなった。
老婆の孫達からさっさと逃げ、一人身となった月華は、何時からか自分の尻尾の先端が二つに割れていることに気づいた。
それと同時に、他の猫達が自分に寄ってこないことにも。
それは拒絶や恐れではなく、尊敬し敬っているからこそ、姿を見せないようにしていると月華は理解した。
偶に姿を見せると、背筋を伸ばし動かなくなるか、または頭を下げて即座に姿を隠す。
――どうやら自分は普通の猫ではないらしい。
月華はようやく、自分が特別であることに気がついた。
その特別の所為で老婆に置いて逝かれたことを理解し、ひどく悲しい気持ちになった。
月華は長い間独りで暮らした。
魚は食べ慣れなかったので山で獣を、または人の集落で人の残飯や鼠、場合によっては大きなイノシシまで襲い、生きてきた。
そんな日が続いていると、ある時急に自分が人型になれることに気が付いた。
人の中に紛れたらもっと生活が楽になるのではないかと月華は考え、ボロ布を纏い人里に向かった。
自分の金色の瞳と耳が、人のソレとは大分違うことを知らずに――。
化け猫騒動として村中での大捕り物が始まり、月華は逃げ出した。
その人里から離れ、別の人里に向かい、今度は目と耳を人のソレと同じにして紛れ込んだ。
生活は確かに楽になった。食料があちらから寄ってくるのだ。
偶に、浮浪者となりはてたと勘違いした善人が食料を分け与えてくれたが、そんなことは本当に極稀である。
ほとんどの人が月華と関わり合おうとはせず、遠目に見るか目をそらすだけ。
そんな中で月華に関わろうとしてきた人間は邪で、不快な目をした男だけだった。
そんな男達を返り討ちにし、食べ物や小銭を奪って月華は生活していた。
最初は小銭の使い道がわからず苦労したが、時折名前をくれた少女が月華に餌を買ってくれたことを思い出し、月華はお金の使い方を理解した。
あんまり長時間同じ場所にいるとまた騒動になると月華は考え、人里を何度も移り住んでは小銭と食料を奪いその日暮らしを過ごす日々。
野生動物を追うよりは楽に暮らしていけるが、何一つ楽しくない日々だった。
そんな生活の最中、月華は一人の青年と出会った。
青年は外で、風景の絵を描いていた。
素晴らしいわけでも、表現力があるわけでもない。
別に月華は絵のことがわかるわけでもない。
ただし、その絵はとても美しかった。
絵としてではなく、その絵画に描かれているのは美しい世界で、その世界は月華が今生きている醜い人の世界ではない。
その絵の世界は、あの小さな少女と出会った時の月華の世界そのものだった。
美しい絵を描くその人を見ると、月華はとても優しい気持ちになれた。
そんな青年に月華は興味を持った。
恋という言葉を知らない月華には興味を持ったということしか理解出来なかった。
月華は猫の姿となり、青年の後に付いていった。
青年は画家一本で食っていける程度には売れているのだが、体が弱く、そしてお人よしだった。
安い値段で絵を売っている為それほど裕福でもないのに、孤児院等の養護施設に金銭や食料を大量に贈る日々。
ついでに言えば、黒猫と化している月華にも見かける度に何か食料を分け与えてくれた。
そんなつもりでこの青年に近づいたわけではない。
だけど月華は、その青年の傍を離れることが出来なかった。
月華は人を襲うのを止め、こっそりと青年の傍で静かに生活することにした。
青年の描く絵画はそれなりに売れている。
ただし苦労の割に値段は安く、その上ちょくちょくと人に施しをしているのだから、裕福な生活が出来るほどお金を持っていなかった。
『自分の描いた物を見てくれるだけで嬉しいから、あんまり沢山お金を取るのは悪い気がしてねぇ』
そう一人で呟く青年を月華は聞いたことがある。
意味がわからなかった。
食料もかつかつで、病弱なのに病院にも行けない生活の癖に、一体何を言っているのだろうか。
本当にこんな生活を続けて大丈夫なのかと、月華は心配した。
当然――大丈夫なわけがなかった。
青年は倒れ、絵が描けなくなり、あっという間に家から食べ物がなくなった。
『ごめんね。もう食べる物がないんだ』
この期に及んで、まだ月華の心配をする青年に、月華は何かしてあげられないか考えた。
考えて、考えて、考えて、考えて――結局月華に思いつくのは、人を襲って食料を奪うことだけだった。
――大丈夫。脅して食べ物を奪うだけならそこまで話題にならない。殺さなけばれば大丈夫……。
そう考えながら、青年の為に月華は人を襲うことに決めた。
結果で言えば、それは失敗だった。
月華が食料目当てで人を襲おうとするのだが、小さな少女が素手で襲いに来ても相手は冗談にしか思わず、軽くあしらわれた。
そんなある日、ある転機が訪れる。
西洋風の馬車に乗った商人の足を止め、月華は商人を脅した。
商人は下卑た視線を月華に向け、護衛と思われる大男に少女を捕まえるように命令した。
その視線には月華は見覚えがあった。
酷く不快で、そしてとても醜い目だ。
こちらの事を恐れないどころか、こちらを食い物にしか思っていない商人達に月華はため息を吐き、そこから退散しようとした。
そろそろ青年の体力も限界だし、何か他の手段を考えないといけない。
人のように働けないだろうか。そんなことを考えている月華の目に、ちらっと馬車の中の様子が映った。
そこにあったのはあの青年の絵だった。
「……それは?」
月華は絵を指差し、商人に尋ねた。
商人は下卑た視線のまま、偉そうに孤児院を潰したことを自慢しだした。
その土地を他の人に売る約束をしていたらしい。
追い出す為にずっと孤児院の経営を苦しめていたのに誰かが寄付をしていたらしくずっと潰れなかった。
だけど遂に限界が来たらしく、大人も子供も皆外に追い出した。
そんな中、大人の一人が大切そうにその絵を持っていたから、価値があるのではないかと考えついでに奪ったと、商人は言った。
月華は人の醜さについて、まだ理解が足りなかったことを知った。
人を苦しめた事を自慢をする商人。
自分を締め上げ痛めつけようとする商人の護衛。
そしてそんな奴らの手にある美しい絵。
他の事は良かったのだが、醜い存在が絵を持つことだけは、月華にはどうしても我慢出来なかった。
月華が我に返った時には――獣に八つ裂きにされたかのような、人と思われる肉の塊が二つ転がっていた。
慌てて月華は絵の方を見る。
――良かった。絵は汚れていない。
奇跡的に絵には全く血がついておらず、安心した思いでその絵を持とうとして、月華は自分の血まみれの手に気がついた。
月華は気づいてしまった。
目の前にいた醜い二人と同じくらい――いや、平然と人を殺せる自分はもっと醜い存在であり、その絵を持つ資格がないことに。
血まみれの手では絵が持てず、月華は絵を残してその場を後にした。
血まみれの手も、爪の間に入っていた肉片も洗えば落ちた。
だけど、己の醜さだけは、いくら手を洗っても綺麗になることはなかった。
商人が死んだ事は大した事件にならなかった。
理由はわからないが、ここで月華は学んだ。
中途半端に気を使って逃げるよりも、脅し、苦しめ、場合によっては殺した方が容易く目的を達成できるということを――。
しばらくしてから、月華は青年に食料を渡すことが出来るようになった。
人の脅し方、物資の奪い方、殺し方。それらを効率良く行う方法を身に着けた。
脅す為の武器である短刀を手に入れた。
その途中で、妖である自分は武器を生み出せることに気が付いた。
人の持つ物で一番良く切れそうな太刀を生み出し、ソレを使いより効率良く人を脅し、人を殺した。
多く殺したら意味がない。
人がこの場にこなくなる恐れがあるからだ。
人を殺すのは最低限――ただし、容赦だけはしてはならない。
月華は人の悪意について、誰よりも詳しくなっていた。
醜い己があの人を、綺麗なあの人を救う為にはこんな方法しか月華は思いつかなかった。
「誰でも良い。誰でも良いから、あの人を助けてあげてください」
そう願い続けているが、その声を聴く者は現れなかった。
ありがとうございました。




