古き薫りの街並みに2
限りある物だと理解していても、いや素晴らしいとわかっているからこそ、その魅了に抗いきれず、貪りつくしてしまう。
ゆっくりと、節度ある楽しみ?
そんなことが出来る物は本物とはとても呼べない。
堪えられない、抵抗する気すら起こさせない吸い寄せられる感覚。
ソレことが真である。
抗いきれない幸福から絶望に叩き落される感覚。
ソレは悪魔の契約とすら言えるだろう。
故に仏教で欲望は煩悩の一つであると称した。
欲望をコントロールし、苦しみを生み続ける煩悩を断ち切ることが出来たら、幸せになれるというのが仏教の根本である。
つまり、多くの仏教者が煩悩を断ち切ることを目指し、そして失敗しているということだ。
己を自制することに命を賭けた仏教者が簡単には出来ていないことを、一般の我々がそう易々と出来るわけがない。
――だから……うん。そんな目をしないで欲しい……。
自分の分の白玉がなくなり、しょんぼりとしている命に、三世は心からそう願った。
捨てられた子猫のような寂しい眼差しで、命はグラスに入った水をちびちび飲んでいた。
美味しい物ほどあっという間になくなる。
その気持ちは痛いほどに理解できた。
それを見ていられず、三世は自分の白玉が残っている自分の皿を命の前に差し出した。
「食べる?」
その行動に命は酷く驚いた。
当たり前である。
『男の人が使った皿をこんな公衆の面前で使うというのはとても恥ずかしいことである』と女性は教育を受けているからだ。
「そんなはしたない……」
そう言いながら、目は白玉の方を向いたままだった。
「良いんじゃない?最近はそういうのも緩くなってきたし、西洋化の一種ということで」
三世が微笑みながらそう言った。
命は悩み、考え、ダメであると結論が付いても我慢が出来ず、おずおずと自分の黒文字を白玉に向けて動かし――
「楽しそうだねぇ」
その声で命は手を止めた。
背後からの声と同時に三世は両肩を掴まれた。
よほど強く握られているらしく肩に強い痛みが走る。
命はその様子に気づき三世の背後の男を睨みつけ、立ち上がろうとするがもう一人いることに気づき動けなかった。
「おっと、お嬢さん動かないでおくれよ。怪我したら後が面倒だからさ」
ニタニタとした下卑た表情の男が、命の背後からねちっこい声を出していた。
背後にいる為姿は見えないが自分を掴んでいる男が一人、命の後ろで命を不愉快な目で見ている大柄で小太りの中年が一人。
周囲の客は恐れからか見て見ぬフリを行い、店側の人間も動けずにいる。
客のもめ事はよほどの場合か店の商品が壊れた場合以外介入しないように教育されているからだ。
これは店として間違った方針ではない。
喧嘩が多く下手に介入すると逆恨みを買う為。店として仕方なしの方針である。
体が弱く喧嘩などしたこともない三世である。
だが、二人の男には全く恐怖を抱いていなかった。
それは冒険者としての三世ではなく、こちらの世界の三世が原因だった。
この世界の三世家はガッチガチの武闘派で、戦国時代から戦働きで地位を築いていた。
その力で御国の為に奉仕することこそ豪族たる我らが使命と、彼らは未だ本気で考えているくらいだ。
その所為で三世は追い出されたのだが。
確かに三世はひ弱である。
その虚弱体質により刀を持ち上げることが出来なかったくらいだ。
刀が持てない三世は、マトモな武術を学べていない。
なので三世は戦う術を持っていなかった。
ただし、女中として常に三世家に仕えていた命は別である。
三世家の異常なところは、自分達だけでなく、家にいる全ての者に力を求めたことだ。
自分達の親戚親族はもちろん、家にいるなら女中から、果てには物売りにすらである。
門をくぐりし者全てに、三世家は力を求めた。
そんな場所で暮らしていた命は、こんな油断しきっている相手なら二人くらい一秒とかからずに無力化出来る。
だからこそ、三世は怯えることはなかった。
――ですが、ええ。わかっていますよ。
三世はもう一人の自分に言うよう……そう頭で考えた。
確かに命の力があれば何の問題もないが、それでも惚れた女に全てを任せ、自分は何もしないというのは心底不快な気分だ。
そう、この世界の三世が言っているような気がした。
命の事を大切に思う三世の為に、冒険者の三世は大人の力を使うことを決めた。
「すいません。給仕さん。伝言お願いできますか?」
三世の言葉にびくっと震える若い給仕。
少々申し訳なく思うが、三世は後ろの二人が逃げる前に話を進めたかった。
「『ヤツヒサ』が話があるって誰でも良いので上役の人に伝えて下さい」
その言葉を聞いて、給仕は良い理由が出来たとばかりに逃げるように店の奥に向かった。
「兄ちゃん。店の人に助けを呼ぶってか。情けないねぇ。自分で何とかできないのかい?まあ良いべべ着てる坊ちゃんには無理な話か」
見下すようなこちらを舐め切っている言葉と同時に、背後の男は三世を無理やり立たせた。
「さて、兄ちゃん外行こうか?ああ、ここの支払いは頼むよ。なあ?」
「そっちの嬢ちゃんはあっしに付いてきてもらおうかね?なあに悪いようにはしないからさぁ」
どうもこのようなことを行い慣れているらしく、彼らは店と関わりのない外に連れ出そうとしている。
――マズイ。こっちの男はともかく、向こうの小太りの男がそろそろ、本格的にマズイ。
青筋を立てながら怒りに震えている命が隣にいた。
小太りの男が命の肩にでも触ろようものなら、その瞬間に命以外は覚悟してもらわないとならなくなる。
正直こいつらの事など心底どうでも良いのだが、命を他の男に触らせたくなかった。
そんなことを考えていると、店内の為脱いでいた三世の外套を後ろの男が掴み、自分の物とした。
背後の男は無言で外套を羽織り、もう一人の男はソレを見てニタニタ顔を浮かべる。
時間が経つごとに命の怒りが膨らんでいくのを三世は感じた。
――間に合わない場合は命の人間の壊し方コースが始まってしまう……。頼むから間に合ってくれ……。
三世が心からそう願い、そしてその願いは通じた。本当にギリギリのタイミング、命が拳を固く握りしめ始めたところで――二メートルはあろう大男が慌てた様子でこちらに駆け寄ってきた。
この店の警備員である。
「お客さん。うちの偉い人に何か用ですかい?」
そう言いながら、大男は二人の男の首根っこを掴む。
掴まれた首からギリッと嫌な音をさせながら、二人の男は青ざめた顔のまま両手を上げた。
三世はこの店に西洋品の販売をしているだけでなく、相当な額を出資している。
拘りがあり向上心のある店長を見て、その価値はあると信じているからだ。
……決して命が嬉しそうに美味しいと言ったからではないと思う。
問題は店長は経営に一切興味がないことだった。
百年続く老舗なのに、三世が入るまでは常にトントンか赤字を出していた。
三世が経営に口を軽く出すだけで、雑誌に載るほどの話題の店になったのだから、どのくらい経営に無頓着だったのかよくわかる。
そういった経緯の為、ただ出資しているだけでなく商売の話から貿易によって生まれた太いコネの利用まで、三世はあらゆることに手を貸し、困った時の相談役にもなっていた。
つまり、この店にとって三世は店を大きくした恩人ということだ。ただの協力者だが、店長は店の関係者という風に考えているくらいだ。
そんな人物が自分の店で絡まれるなどということがあったものなら、ソレは赤っ恥以外の何物でもない。
「すいません社長さん。遅くなりました」
大男は二人の男以上に顔を青くし三世に声を震わせながら深々と謝罪した――男二人の首を絞めながら。
おそらくだが、三世と命に何かあったらクビだとでも店主に脅されたのだろう。
「すいません。その二人の事。あとお願いしますね?」
三世がそう言うと、大男はブンブンと首を何度も縦に振った。
その後、三世は大男の耳元で小さく囁いた。
「助かりました。店主にはにそれとなく良い様に伝えておきます。なので臨時報酬も期待しててください」
その直後に大男は晴れ晴れとした――とても気持ちの良い笑顔になった。
「いえ。これが仕事ですから。後の事はお任せください。あっしがこいつらを〆るついでに裏がないか調べておくんで後はごゆるりと」
そう言いながら大男は、首を掴んた二人の男を振り回しながら店の奥に消えていった。とても良い笑顔で――。
大男が奥に向かった後、三世が周囲を見回す。
逃げるタイミングを失った客と、三世に怯えるような顔をする給仕。
事情を知らない人から見ると、三世が極道のような恐ろしい人に見えるだろう。
事情を知っていても、給仕から見たら恐ろしい存在に見えているくらいだ。
ここが甘味処と思えない程重苦しく不快な空気が漂っている。
この状況を何とかする手段など――三世が持っていないわけがない。
「すいません給仕さん。ご迷惑をおかけしました。ここにいらっしゃるお客様全員の伝票、私に回してください」
微笑みながら店中に聞こえるよう良く通る声でそう告げると、給仕はぽかーんとした表情で固まった。
「すいません皆さま。不快な思いをさせてしまいました。ですのでここは私が奢ります。もちろん食べ足りない方は好きに頼んでください。皆様の不快に思った気持ちの分だけ、この私に支払わせてください!」
胡散臭い笑顔のまま高らかに叫ぶ三世。
そんな三世を待っていたのは沈黙であり、次には沈黙は小さな拍手に変わり、最後に拍手の合奏が鳴り響いた。
拍手と口笛にお礼の言葉が続き、客は次々と注文をし始めた。
その時皆の表情はさきほどの大男と同じく、とても良い笑顔だった。
『美味しい食事と楽しい時間。それと笑顔。人はこれに逆らえない』
三世が商売において学んだ一つの結論だった。
「あ、もちろん迷惑かける給仕さん方にも臨時収入が入るようにしておくので」
小声で小さな給仕にそう語ると、給仕も皆と同じ笑顔を浮かべた。
給仕が慌ただしく接客し、客たちはこの機会にと高い物を頼んでいる中、三世は頭を掻きながら申し訳なさそうに命の方を向いた。
「大人げない上に情けない方法ですが、一応はあなたを守ることが出来ましたかね」
少々照れたような口調でそう呟く三世に、命は微笑みながら深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。ですが、ソレこそ主様のお力です。大人げないことはございません。とても立派で、カッコいい人を守る力です」
そう言って命は頭を上げて三世を見つめた。
二人で見つめ合った後――二人は我慢出来ずに笑い合った
今回の事で店主に色々と話さないといけないのだが、今日中は無理だろう。
沸きに沸いている大量の客の注文に追われている様子が調理場を見なくても想像出来る。
嬉しそうに汗を掻きながら大量のしらたまを茹でる店長と、白玉がかかわらない全てを担当する店員達。
少なくともあと一時間は忙しいままだろう。
三世は今回の支払いなどの話し合いを行う為、後日また来ることを給仕に伝えてそのまま店を出た。
「今更ですが、主様、本当によろしかったのですか? 決して安い金額では済まないでしょう」
全員分の支払いに従業員の臨時報酬を合わせたら、確かに楽な金額とは言えない。
「そうですね。ですが、命が戦った場合の相手の治療費と比べたら微々たるものですので」
「……意地悪です」
微笑みながらの冗談に、命は頬を膨らましながら抗議の態度を示した。
「ですが、いざという時は私に頼ってください。手弱女なこの身ではありますが、主様を守る為にここにいますので」
そう言いながら、命はどこから取り出したのか取られていた外套を取り出し、三世の背にかけた。
「……そうですね。実力は疑ってませんよ。手弱女という部分には少々疑問が残りますが」
「あら。でしたらワタクシが男勝りということでしょうか? そういうことをおっしゃる主様は今夜のお夕飯がいらないと言うことでしょうか?」
「申し訳ありません。とても女性らしい御姿としなやかで美しい指で用意されるお夕飯をぜひともこの私にご披露下さいませ」
「あらあら。随分お口が達者になりましたね。……ふふ。いつも通りのお夕飯でしたら作りますのでご安心ください」
「いつも通りなら文句なしの絶品ということですね。楽しみにしています」
そんな会話をしながら、二人は街を歩いた。
三世の体調に合わせて休憩を挟みながら、本日の分の新聞を幾つかと夕飯の材料を買いこむ。
命が夕食に悩まない限り、三世が命の夕食に口を出すことはない。
何故かわからないが、命は三世が食べたい物を必ず用意してくれるからだ。
今三世は夕食には魚を食べたい気分であり、命が向かっている場所は魚屋の方向である。
何故そこまで好みの料理を用意出来るのか、三世には理解出来なかった。
夕食の後銭湯に向かい、後は寝るだけとなった。
狭い室内で一部屋のみ、必然的に布団は隣りあわせとなる。
それを三世は非常に複雑な気持ちに思った。
それが許されるのは命と愛し合っているこの世界の三世だけだ。
他所から紛れ込んだもう一人はここにいる資格などありはしない。
だが出ていくこともできない。
体の弱い自分が布団以外で夜を明かそうものなら、最悪朝には冷たくなって発見される。
騙しているような罪悪感と、他人を好んでいる女性の傍にいるという複雑な心境で、三世の胸はきつく締め付けられていた。
命を愛している他人が自分の中にあり、命を愛していない他人が自分の中にある。
自分はどっちで、自分が何なのかわからなくなり、ひどく不安定な気持ちになっていく――。
本来なら、困った時は一番に相談するべき相手が隣にいるのに――その相手にだけはこの想いを伝えてはならない。
だからこそ、なお自分の立ち位置を三世はあやふやに感じた。
深夜になっても、三世は眠ることが出来なかった。
そりゃあそうだ。
他人が隣にいて、こんなぐちゃぐちゃでよくわからない思考が煮詰まった状態の中眠れるわけがない。
どうしたもんかと悩んでいると、布団の中で背を向けていた命がくるっとこちらの方を向いてきた。
起きていることに気づかれ心配をかけたのかと思ったが、どうも違うらしい。
呆れたような顔の後、とてもやさしい瞳で三世に一言だけ言葉を残した。
「――主様。深く考えないで。あなたはあなたです」
それだけ言って命は元と同じように後ろを向いた。
ただ心配してそんな言葉をかけてくれた――なんて甘い事を考えるにはその言葉は本質を突きすぎている。
何を知っているのかわからない。だけど、三世の知らない情報を命は間違いなく握っている。
そして後ろを向いたということは、これ以上何も話す気がないということだ。
余計ややこしいことになり三世の頭は更に混乱する。
それでも、一つだけ確かなことがある。
【竹下命は何があっても三世の絶対の味方である】
それだけは疑うことがない、絶対の真実だ。
「命、おやすみ」
三世は命の背中に一言残し、命に背中を向けた。
今の三世は二つの人生を歩んでいるのと同じ状態である。
そして、そのどちらも命は肯定し受け入れてくれてるように感じ、少しだけ穏やかな気持ちになることが出来た。
気づいた時には三世は意識を手放しており、安らかな寝息を立てていた。
ありがとうございました。