フィツ
ケルは寝ていたら両親の夢を見た。
自分を置いて逝った母。今自分を育ててくれている母と同じ位大好きなもう一人の母。
自分を置いて逝った父。強く、その上で自分には甘かった。今自分を育ててくれている父と同じ位大好きなもう一人の父。
両親は、とても優しい笑顔で自分を手招きしていた。
「おいで。もう離れなくても良いよ」
それは、ケルが一番欲しかった言葉で、そして心の底からの願いでもあった。
ケルは両親の元に歩いて行った。まるで、両手を引っ張られるような気持ちでふらふらと……。
ケルが少年だから悪いわけでは無い。同じ経験をした人なら、どんな人でもこの呪縛からは抜けられない。
一切の悪意の無い。善意だけの魔法。歩く死体になるのは副作用で、作った本人の願いでは無かった。
この魔法を生み出した者の願いはたった一つ。
『失った愛を取り戻して欲しい』
ただそれだけだった。だからこそ、この魔法から逃げることは出来なかった。
共鳴するように広がり、愛を失った者が愛を取り戻せる。
『レゾナンス』と名づけられた、最悪で最愛の魔法だった。
村人の避難準備の最中に、フィツは急に視界がクリアになった感覚を覚えた。
だが、一度レゾナンスの魔力に引かれたらまともな思考が出来ず、村の建物も人も無くなったのに違和感を持つことすら出来ない。
そしてフィツの前に現れたのは、フィツの師匠マリーだった。
白い髪で優しそうな老婆。フィツの料理の師匠であり、親代わりであり、そして、フィツを奴隷から救った救世主でもあった。
「お師匠様!」
フィツは飛びつくようにマリーに駆け寄った。
「元気だったかい?」
優しい微笑みをしながらフィツの頭を撫でるマリー。
フィツはマリーの本名を知らない。間違いなく貴族ではあると思うが、詳しくは聞くことが無かった。
最初の出会いは奴隷としてだった。
貴族の玩具として買われたフィツは、名前も付けられずただ理由も無く殴られ続けた。
獣人の奴隷制度はしっかりとしているが、人の奴隷制度に厳しい決まりは無かった。
今のフィツの体の傷跡はその時についた物だ。
唇から頭の先まで通すように大きな傷跡があり、体中も火傷、切り傷、刺し傷とあらゆる傷でボロボロだ。
幼少時、貴族に買われたフィツはそれが普通だと思っていた。
ボロボロになり傷が無い場所が一つも無くなると、貴族は飽きてフィツを捨てた。
それを奴隷商人が攫い、同じ様に売る。
名前も無い少年だった頃のフィツの世界では、それが当たり前で、特に何の希望も持たなかった。
世界が変わったのはこの後だった。
老婆が一人奴隷商人の店に行き、彼を買って行った。
彼は買われたその日に、初めて感情らしい感情を取り戻した。
助けてくれ。殴られる方がよほどマシだった。
マリーはとんでもなくスパルタだった。
延々とジャガイモを剥かせるマリー。
包丁も握ったことも無い少年に、それは非常に難しい。
何より手を切るのが怖かった。
傷が怖いのでは無い。マリーは傷を作ると本気で怒るからだ。
「皮剥き程度で体に傷付けてどんだけドンくさいんだ!傷が原因で出来ないとか甘えるならぶん殴るからね!」
良くわからないが、殴られたり刺されたりするよりも、老婆の怒鳴り声の方が怖くて、震えながら従っていた。
毎日地獄の様な料理修業。フィツは自分の年を知らないが、まだこの時は小さい少年だったのはわかっている。
そんな時に、睡眠時間三時間程でそれ以外ずっと料理の修業。それも力仕事をさせるのだから本当に大変だった。
五年ほどで、マリーが何故無茶させてまで料理を教えていたか理解出来た。
マリーは紙を見せた。フィツは字が読めなかったからそれが何なのか尋ねた。
マリーはその反応に怒り、怒鳴り散らしながらフィツに字を教えた。
料理の修業の時間を削っての勉強で二年。合計七年。フィツは字が読めるようになった。
それは奴隷解放証だった。フィツは既に奴隷では無くなっていた。
マリーの目的はたった一つだった。
自分の店を手伝わせること。それだけだ。
「まったく。たかだか同時に十皿程度も作れないのに練習も嫌だとほざく。軟弱者ばかりだったからねぇ。お前は最低でも十五皿は作れるようになれよ」
当たり前の様に無茶を言うマリー。字が読めるようになった後は、ずっと店の手伝いをさせられた。
奴隷が終わったからもう怒鳴られない。そんなことはただの夢だった。
本当に十五皿一度に作れるようにならないと認めてもらえないらしい。
フィツは悔しさをバネに練習を重ねた。
十年経った。合計十七年。マリーは歳で衰え、フィツは全盛期が訪れ、フィツは別々の料理を二十皿一度に作れる様になっていた。
なおその時マリーは同時に五十皿の料理を用意出来た。要求は超えることが出来たが、マリーを超えることはまだ無理そうだった。
フィツはマリーを超えたかった。理由は沢山ある。
もう寿命の近いマリーの店を継いで安心させてあげたかった。
速度・技術・味でマリーを超えて、怒鳴られなくなりたかった。
そして何より、自分をマリーの息子だと認めて欲しかったからだ。
更に五年修行した。それでもマリーに追いつくことは出来ずに、マリーの体の方が先に限界が来た。
恐ろしいことに、倒れこむ前日まで料理を作っていた。一度に五十皿。そのラインだけは絶対に崩さず、味も追いつくことすら出来なかった。
「はは。ざまーみろ。私の勝ち逃げだよ」
苦しいはずなのに無理やり笑うマリー。
周囲には従業員や、貴族が立ち並び悲しそうな顔をしている。
その中でも、フィツはマリーの最も傍。ベッドの隣にいた。
他の人は何もわからなかった。奴隷から解放してあげたのに名前をあげなかった。ずっと名無しの状態で店でこき使い続けた。
それでも、マリーはフィツを死ぬ寸前まで傍においておいた。
「負けは認めますから、お師匠様。店を誰かにお譲り下さい!お師匠様の大切な物がなくなってしまいます!」
マリーは最後まで、フィツに店を継がせるのを拒否した。それどころか、誰にも店を継がせず、このまま潰すつもりだった。
「はは。私に勝ってからそう言えよ。ガキ。まあもうそんなチャンス無いけどな。あーあ。私は料理人最高か。ふふふふふ」
そんなことを言っている場合でも無いのに、マリーはふざけたような言動をする。
基本的に嘘は付かない人だから本音だろう。だが、死ぬ寸前にする話では無い。
みるみる弱っていき、もう限界が近い状態。マリー。
老衰だけはどうしようもない。
弱った状態でも、必死に言葉を紡ぐマリー。これが最後の言葉だと、全ての人が理解した。
「私の後を継ぐなんて言わずに、私を超えておくれ。ずっと言えなかった。私の息子のフィツ……」
それがマリーの最後の言葉だった。
とても単純なことだった。
ずっと息子と思っていた。扱いは他の人と同じように厳しかったが、それでも、マリーにとってフィツは息子だった。
二十年以上名前をつけなかったのは、付けなかった訳では無い。恥ずかしくて言えなかっただけだった。
老衰で亡くなった、大往生だった。
だが、フィツには悔いが残った。
それは二つの悔い。
一つは料理人として超えることが出来なかった悔い。
もう一つは、息子としてあの人を超えられなかった悔いだ。
だからこそ、フィツもレゾナンスの魔法にかかっていた。
フィツは優しく微笑むマリーにあったことを沢山話した。
素晴らしい腕の獣人が弟子になったこと。
自分は実は歌を聞くのが好きで、凄く美しい歌声の子を雇えたこと。
自分の傷を見ても引かずに、仲良くなってくれた人が出来たこと。
色々なことを話して、マリーはその全部をただ聞いて頭を撫でてくれた。
それはフィツのして欲しかったこと。ずっと欲しかった物だった。
「それじゃあ、もう離れることは無いよ。私と一緒に行こうか」
目の前の優しいマリーは、フィツに手を伸ばす。
その手を取ったら、もう二度と戻ることは出来ず、死体か歩く死体のどっちかになるしかなくなる。
自分の理想の手を取るということは、現実を捨てると同じ意味だからだ。
フィツは迷わず、手を取ろうと伸ばし、そして急に手を止めた。
「全部で四人だな!?ちっ。ハードな展開すぎて付いていけないわ」
グラフィは追加で来た部下の話を聞き、頭を乱暴にかきむしる。
状況は最悪。子供の救出が出来るかわからない。にもかかわらず、要救助者三名追加だ。
自分達三人で四人を救出。しかも暗い夜道の中で証拠を探しだした上でだ。
厳しいが、今は走るしか無かった。足跡が続いている。
向かう度に死者が見つかる。さくっと足を破壊して邪魔にならないように蹴飛ばし放置する。
楽にしてやりたいが、優先順位は限りなく低かった。
グラフィ達ヴィラン分隊の三人は、目的の人物を見つけた。それは僅かな可能性。奇跡と呼ぶに相応しい状態だった。
事前の情報では、まず行方不明になった者が見つかったことは無かった。たとえ見つかっても、それは死体になった後だ。
動く死体と動かない死体の二種類があるが、それでも生きたまま見つかったことは無い。
だが、目の前に探していた四人がいた。
そこには、肩にケルを抱き、両手で二人の村人を引っ張りながら、汗だくで何とか三人を押しとめているフィツの姿があった。
「おい軍人さん!そろそろ体力の限界だから助けてくれー!」
顔の怖いフィツの泣き言にヴィラン分隊はゲラゲラ笑いながら、フィツの連れている村人を捕まえた。
「よっし任務完了。とっとと合流してあっちを助けるぞ!」
グラフィの声に部下とフィツが大声で答える。
「いや、お前は休めや。一回拉致されてるし、そもそも料理人だし」
しゅーんと落ち込むフィツ。
「そうだな。飯作るのが俺の仕事だからな」
落ち込んではいるが納得したらしい。
そんなフィツをヴィラン分隊は笑いながら、急いで村の方に地図を見ながら移動した。
レゾナンスの魔法の中、フィツは手を取るのを躊躇った。
それは理想の母親。理想の愛しい人の姿。
だが、理想過ぎた。
マリーは一度たりとも自分の頭を優しく撫でたことなど無かった。
マリーは料理以外の話をフィツがしても関心を持っていなかった。
そこがフィツは気になり、優しく微笑むマリーを見つめた。
そうしていると、ふと懐かしい声が聞こえた。
目の前にいるマリーの、ずっと後ろから、ずっと聞きたかった懐かしい声が。
『死にたいならとっとと死ねば?そうなったら一生私の不戦勝だけどな。あーあ。足元位には追いつくと思ったのになー』
その声を聞き、フィツはキレた。
「うるせー虐待婆が!待ってろよ!俺が行く時はお前の出来ること全部出来るようになって、全部お前を抜いてからそっちに自慢しにいってやる!」
フィツが始めてマリーに逆らった瞬間だった。
マリーはフィツの声に反応しなかった。
代わりに、フィツは突然夜の森に放り出され、近くにケルと村人の二人がいることに気づき、必死に拘束した。
あの声が本物のマリーなのかはどうでも良かった。ただ、あっちに行く前に超えておかないと、また馬鹿にされて怒鳴られる。
それだけは御免だとフィツは苦笑した。
ありがとうございました。
つか…れた……。