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妖心中

作者: 大江山 時雨

 所在なさげにギリリと齧る音が聞こえるのは、奴の機嫌があまりよくないときの兆候だ。

 俺は屋根裏から出ると、奴のいる部屋の襖をそっと開けた。

 案の定、部屋は散らかっていた。よほど荒々しく食ったのだろう。敷かれた布団は乱れに乱れ、血はそこら中に飛び散っている。

 その真ん中、囲炉裏の脇で、綾は大きな骨を舐めしゃぶっていた。

「骨は食うなと言っているだろう」

 俺がなじると、綾は俺をじろりと睨んだ。

「喰う気はありんせん」

 綾は、ペッと骨をぞんざいに吐き出した。それを拾い、あちこちに散らばった骨も拾っていく。粘つく血糊の煩わしさにも慣れたものだ。

「美味かったか」

「そうすな」

 生返事をしながら、彼女はしきりに乱れた着物を気にした。貧相でありつつもどこか品の良い着物だったのだが、胸の辺りが大きく破けていた。おそらく今日の獲物は野武士か何かで、乱暴にされて頭に来たのだろう。丁重に扱えば最期に幾らかいい思いくらいできただろうに、惜しいことをしたものだ。

 あらかたの骨を集め終え、玄関の戸を開けたところで、後ろから声がかかった。

「また埋めに行きなんすか」

「ああ、そうだ。そういう約束だろう」

「別に、今更とやかく言うつもりもありんせん。ただ、今日はあちきも行きんす」

「珍しい。お前がこの家から出るなど」

「妖とて、天道の下を歩きたい時分くらいござんすよ」

 綾はすっくと立ち上がった。あちこち乱れながらも、その姿は上品で美しい。

 俺が玄関を出て、綾も続くと、彼女は見つかった悪童のように身体を強張らせ、ぎゅっと目をつぶった。

「痛い」

「目に塵でも入ったか」

「陽の光が目に刺さりんす」

 俺は呆れた。

「もう日は暮れかけているじゃないか」

「かように焼ける赤き陽、平然といられる方が考えられぬ」

「黄昏時は逢魔が時だろう」

「あちきァあちき。他の妖と括られては困りんす」

「ただの引き籠りが何を偉そうに」

 俺は、戸から数寸のところで動こうとしない綾の手を掴んで引き寄せた。

「あッ、ちょッと、引っ張らんでくなんし」

「だったら早くついてこい」

「はいはい、今行きんす」

 綾はようやく、てこてこと歩き始めた。下駄を履いているので、それでも俺よりだいぶ遅い。それに彼女はどうしてか、随分と恐る恐る歩いているようだった。

「どうした。山に住むくせに、土を踏むのが嫌なのか」

「まだ人の姿で土を踏むのには慣れていせん。少しは待ちなんし」

 懸命について来ようとするその姿は、稚児のようでかわいらしくはあるものの、先程のような艶やかさはどこにもない。

「その姿を見れば農民野武士の興も削がれそうだな」

「奴ばらを床へ誘うなど、ただ飯を食わせ座りいしてば終わるままごと。歩くより易うござんす」

 いかにも恐ろしげな口ぶりだが、こんな状況では強がりにしか聞こえない。俺は鼻で笑ってやって、構わず彼女を置いていった。



* * *



 ちょうど骨を埋め終わるというところで、やっと綾が追いついてきた。息せき切りつつ俺を睨んでいる。

「もう、酷い人。本当に置いていくなんて」

「俺がまともな人間だと思っていたのか」

「まさか」

 俺は盛り上げた土を軽く叩いて固めると、手に付いた土を払った。再び綾を見ると、彼女は数十の塚の群れをじっと見つめていた。

「自分が喰った者の塚など、見ても仕方あるまいよ」

「そうすな」

 そう言いながら、目は動かない。

「どうした」

「この塚は、全てお前様が作りなんしたのか」

「ああ」

「そうでありんすか」

 ふふ、と不意に彼女は笑った。何が可笑しかったのか見当もつかない。ただ、あまり愉快そうな顔ではなかった。

「きっと奴ばらも、お前様のような男に埋めてほしくはあるまいなあ」

「それはそうだろうが、化けて出られても困るからな」

「出てきたら、あちきがまた喰ろうてやればようござんしょ」

「霊を喰うだと? 大層な肝だな」

「妖が霊を怖がっては、笑い種にもなりんせん」

 今度は、いつものように口元を吊り上げ目を歪めて笑ってみせた。その表情は、見慣れてはいるものの、いささか不気味だ。妖然としている、とでも言えばいいだろうか。

 といっても、実のところ俺は綾が何の妖であるのか知らない。人の姿では云々とよく言うので、この姿以外に別の本性があることは間違いないのであろう。しかし彼女は実に変化が達者らしく、獣の尻尾を出したこともないし、人以外の声で鳴いたこともない。

 ふと俺は、彼女の正体が気になった。

「なあ、お前は何から妖になったのだ」

 何の気なしに尋ねたつもりが、綾は眉をしかめた。俺の方を見向きもせずに、何処かを睨みつける。

「つまらんこと言いなんすな。妖が正体を晒すのは、喰う時か死ぬ時だけでありんすからに」

「すまなかったよ。そんなに怒るな」

「別に怒ってなどいせんけれど」

 本来、俺は奴の正体を見るはずだった。奴の腹の中で最期を迎える一匹の獲物のはずだった。

 奴の住処に迷い込み、奴に組み敷かれ、九死の憂き目に遭っていた俺を救ったのは、他でもない綾だった。こうして共に暮らせど、俺には未だ腑に落ちていないことが多い。

「しかし、なぜお前は、あのとき俺を喰わなかったんだ」

 俺が問うと、綾はさらに気を悪くしたらしかった。

「悪い人。あの夜の暇に語ったのに、お前様、忘れてしまったの」

「忘れるものか。ただ、もう一度聞きたいだけだ」

「本当に?」

「本当だとも」

「どちらにしても、つまらぬ人」

 綾はわざとらしく息をついた。帯に差した煙管の羅宇を、指でゆっくりと擦る。俺は何も言わずに待った。動かずにいると、夕日の光と熱が急に煩わしく感じられた。

 閉じた目蓋に汗が伝うころ、綾はようやく口を開いた。

「……お前様の、瞳」

 つい口から零れてしまった願掛けのような、極々小さな呟き。あの時と寸分変わらない語り方だった。

「お前様の瞳が、深き闇を宿していたから。これから喰われるという死の間際でさえ」

 当時の俺がどんな顔をしていたのか、はっきりとは覚えていない。ただ漠然と、これから喰われるのだろうということを考えていた。目の前で時が止まったように動かない綾の顔だけを見ていた。

 消えてしまいそうな顔をしている、と思ったことは、よく覚えている。暗くぼやけた綾の輪郭が、そのまま背後の闇に溶け込んでいくかのようで。

 ふと、今に意識が戻る。するといつの間にか、綾が俺の目を射るように見つめていた。

「妖は、人の闇より出で来て人の闇へと還る者。お前様のそれには、否応なしに惹かれ、魅入られ、逆らえなくなってしまいんす」

 また不意の笑い。何も可笑しくはないはずが、今度はやつした目を細め、肩を揺らして笑う。よく分からないが、その所作は漠然と俺を不安にさせた。

「あちきも、お前様に聞きたいことがあるの」

「何だ」

「お前様はあの時、なぜ『ここに住みたい』などと言ったの」

 俺は答えに窮した。

 あの時、俺の上で固まっていた綾は、やがておもむろに俺から退いた。そして、「逃げなんし」と掠れた声で呟いた。

 しかし俺は、なぜか逃げようとは思えなかったのだ。そのまま素直に山を下りてこの体験を伝えるのは、俺の役目ではない気がした。ただ、なぜそのように思ったのかは定かではない。

 昔から俺はそうだった。他人の心はおろか、己の心さえまるで分からない。それでいて、たまに突拍子なことをしては周りに不気味がられる。なぜそんなことをしたのだと自問してみても、問いは心の奥に吸い込まれ、応答も反響も返ってこない。

 いつしか俺は、己を理解するのを諦めた。

「なぜだろうな」

「ちょっと。あちきに答えさせておいて、己だけ躱すなんてナシでござんしょう」

「いや、そうではない、本当に分からんのだ」

「それを躱していると言うのでありんす」

 いつもの綾なら不満げな顔で「そうでありんすか」と言うだけなのだが、今回は珍しく食い下がった。

 そのため俺も渋々心の奥を探ることにした。相変わらず真っ暗闇のがらんどうで見るに堪えない。きっとこれが、綾の言うところの「闇」なのだろうが。こんなものに惹かれるというのも奇妙なことだ。

 いや、待てよ。

 もしかすると、俺もそうだったのではないか。闇から出で来た妖が闇に惹かれるというのであれば、闇を宿した人間もまた闇に惹かれるのだとしても、おかしくない。

「そうだ。きっと俺も、お前と同じだったのだ」

「はあ。何が?」

「俺もお前の闇に惹かれたのだろう、ということだ」

 おそらくは本心に近い答えだという自信があった。ただし、この答えなら綾も満足するだろう、という安い下心もあったことは、否定できない。

 それを察したのか、はたまた別の理由か、予想に反して綾は不満げに鼻を鳴らすだけだった。「それならば」とだけ呟くと、飲み込んだ言葉が喉に刺さったかのような顔で黙りこんだ。

 何か別の言葉をかけてやるべきかと逡巡していると、綾は何を思ったか唐突に塚のひとつを軽く蹴飛ばした。

「おい」

「化けて出たらあちきが喰ろうてやると言うたでしょ」

「そういう問題ではない」

「そういう問題ではありんせんのね」

「何?」

「いいえ、何でも」

「なぜ塚を蹴ったのかというのが聞きたいのだ」

「あちきは幽霊など怖くありんせんから」

「だから、そういうことではない」

「そういうことではありんせんのね」

「俺をからかっているのか?」

「お前様をからかったところで、面白くも何ともない」

 今度は綾の方が、躱しているのだかいないのだかさえ判然としない答えで俺の咎めを有耶無耶にした。思えば今日の獲物を喰ったときから、ずっと機嫌が悪い。

 獲物に何かされたのか、と想像すると、わずかに心がざわめくのを感じられないこともない。しかし逆に言えば、それだけのこと。やはり、俺に人の心は解せない。ともすればこの妖よりもずっと。

 しかし、難儀なことに、だから仕方ないのだと居直ることができるくらいなら、俺はここに居座ってなどいないのだ。

「綾よ」

「なあに」

「俺は、お前のことを察せられないんだ」

「ええ、よく知ったことでござんす」

「だから、お前が何を考えているか何を感じているかなどというのは、俺にとって問題ではない。俺がお前に何を与えられるかということこそが、大事なのだ」

「はあ。……あちきには、一体何を言いなんしているのか」

「来い」

「えっ?」

 俺は綾の手を軽く引き、塚のさらに奥へと歩いた。

「お前は陽の光が痛いと言ったな」

「え、ええ」

「嫌いなのか」

「別に、嫌いとは」

「ならいいんだ」

 何がいいのやら、とぼやく声には答えず、奥へ奥へと進んでいく。道の草木は遠慮なく生い茂り、坂は上へ上へと傾いていき、次第に後ろから聞こえる息も苦しげに変わっていった。

「お前様には逆らえぬと言ったそばから、かような仕打ち。なんとも底意地の悪いお人よ」

「それならおぶさるか?」

「御冗談。人におぶさるは子泣き爺の領分でありんす」

「まあ、もう少しだ」

 坂を登りきると、一転して開けた場所に出た。綾の手をくっと引き、平地に足を踏ませてやる。彼女は一息つくと、辺りを見回した。

「着きんしたか。それにしては、何も見当たりんせんけれど」

「前だ。前を見ろ」

「前って、前は、崖しかありんせんよ」

「崖の前だ」

 はて、と言いたげな綾の顔が、ようやく前の景色に向けられ、そこで固まる。

 その先では、夕焼けが向こうの山へ沈むきる直前にあった。優しい温かな光がわずかに漏れ、それでも天地を遍く照らしていた。

 俺が知る限りで、これより美しい光景はない。

「人に化ける前が何であったか知らないが、お前、あまり空を見上げたことがないだろう」

「えぇ、ええ」

「どうだ」

「きれい。……とても」

 綾は呆然として手を伸ばし、少しずつ夕焼けに歩み寄っていく。明るくぼやけた綾の輪郭が、目の前の光に溶け込んでいくようで。

「おい!」

 はっとして綾の肩を掴んだ。

「このまま落ちる気か?」

「え……あ、ああ。失礼しいした」

 崖まで一、二尺というところで、綾は立ち止まった。一息ついて、俺もその隣に立つ。

「夕焼けと心中したくなるほど気に入ったか」

「へえ。素敵な例えでありんすね」

「そうか?」

「心中は遊女の華でござんすからに」

 綾はやっと柔らかに笑うと、俺に寄りかかってきた。

「おい離れろ、危なっかしい」

「ぃや。心中したくなくば、支えてみてくなんし」

 肝の冷える体勢だが、せっかく綾が満足げにしているので我慢してやった。そのまましばらく、二人で夕陽の沈んでいく様子を眺めた。



* * *



 日が沈むとすぐに、宵闇が空に迫った。何も見えなくなる前に帰りたいところだが、綾はまだ俺に寄り添ったまま動かない。

「もう暗い。そろそろ帰るぞ」

 俺は彼女の肩を離しながら言った。

「んん」

 しかし、綾はなかなか向こうの山から目を離そうとしない。

「なんだ、まだ何か不満か」

「もうちっと、見ていたい」

「夕日はとうに沈みきったが」

「じきに月が沈みんす」

「付き合いきれるか」

「あッ、待ちなんし」

 俺は彼女に背を向けて歩き出した。彼女が動く様子はない。彼女は帰り方を知らないかもしれないが、仮にも妖なのだ、いざとなれば這ってでも帰ってくるだろうし、まさか暗中で目が利かぬということはあるまい。





「まって」

 しかし、急に彼女の声色が変わったものだから、俺は立ち竦んだ。

「こないで」

 かと思えば、今度は正反対のことを言う。何か様子がおかしい。

「みないで」

「おい、どうした、綾」

 俺は彼女の縋る声を無視して近寄った。見ると、彼女は苦しげに胸を押さえて前かがみになっていた。

「大丈夫か」

「大丈夫、大丈夫じゃありんせんけど、でも来ないで、見ないでくなんし」

「何を言っているのか全く分からん。とにかく、どこか悪くしているのだろう。おぶってやるから動くな」

「やめて、いらない、あちきァ妖でありんす、本当の身体も無しに、身体を悪くするなど、無理問答じゃあるまいし」

 そう言いながら綾は「うぅぅ」と呻いてうずくまっていて、まるで説得力がない。

「おぶるからな」

 綾を背負おうと懐へ潜り、手を掴み肩に回すと、彼女の口から吐息が漏れて首筋にかかった。その息が恐ろしく冷えていて、俺はぎくりと固まった。

 その瞬間、大木の倒れるときのような音がすぐ背後に聞こえ、そのすぐ後、一気に背中の重みが増した。押し潰されるほどではないが、とても立ち上がれそうにない。

 後ろを振り向こうとしたところ、首の動きが横で止まった。

 綾の両手が、俺の頭を押さえていた。

「お願い。見ないでくなんし」

「そうは言っても、このままではおぶってやれない」

「だから、あちきァいいの。このまま這いずってあちきの懐から抜けて、そのまま振り返らないで、家に帰りなんせ」

「お前はどうするのだ」

「あちきァもう、帰らない」

「何だと?」

「帰らない。家はお前様の好きに使ってくなんし」

「ふざけるな。それで納得できると思うか」

「無理を承知のお願いでありんす」

「なら無理だ。おぶれないのなら、引き摺ってでもお前を連れていく」

 俺は綾の下から抜けると、すぐさま振り返った。

 そして、その姿を見た。





「……ぁ」

 糸のように漏れる声。

 その姿は、八本の折れた大木が綾に突き刺さっているように見えた。しかし、よく見ると大木は綾の背中から生えていたのだし、そもそもそれは大木などではなかった。

「……あぁ」

 それは、巨大な蜘蛛の足だった。月光に照らされ、濃い黄と黒の縞模様がうっすらと浮かび上がっている。それらの足は、いずれも力無く地に横たわっていた。

 俺は自分の顔が微動だにしていないことを確かめてから、さめざめと泣いている綾の方を見た。彼女は俺と目が合うなり、その腫らした目を精一杯に鋭くして俺を責めた。

「見るなと言ったのに。お前様は結局、見てしまいんしたね」

「ああ、見た。だがそれがなんだ。俺はお前を妖と知っていたではないか。今更多少違う姿が変を見たところで、驚きも慄きもしない」

「お前様が気にしなければ済む話なら、鶴女房も葛葉狐も別れはしなかった」

 俺の言葉が終わるより先に、綾は言い放った。

「人には分かるまいよ。人に正体を見られた妖の、胸を裂かれるような思いなど」

「分からない。なぜだ。俺がその姿でもいいと言っているのだ」

「見られて平気でいられるくらいなら、最初から人に化けようなどと思いいせんっ」

 綾の感情を露わにした声を聞くのは、初めてのことだ。そこで俺はようやく、己のしでかしたことの深刻さを自覚した。もう、取り返しがつかない。

 俺は、黙り込んでしまった。そのまま動けずにいると、やがて綾は己の涙を拭い、酷く渇いた笑みを浮かべた。

「……妖が、人の闇に絡め取られ、気づけばかように、儚くなって。あちきァ、なんてくだらないんでござんしょ」

「それは、」

「お前様」

 言葉の意味を問おうとしたが、それをまた綾が遮った。今の綾の言葉を無視するわけにもいかず、己の言葉を無理やり飲み込む。

「お前様が、あちきのために何かをしてくれようと言うのは、嬉しゅうござんす」

「……そうか」

「だから、ここはひとつお言葉に甘えて、お前様にしか頼めないことを頼みんす。その方があちきもお前様も、未練がないでござんしょ」

 嫌な予感がした。したが、俺は言葉の続きを促した。

 すると綾は、すぅ、と息を深く吸い込んだ。



「お前様の手で、あちきを殺してくなんし」



 俺はその時、確かに慄いた。

「なぜ、そんなことを」

「言ったでござんしょ。心中は遊女の華でありんす」

「俺がお前と共に死ぬということか」

「当然、そこまでは望んでいせん。真似事でいいから、お前の後に俺も逝くと、そう言ってあちきの心の臓に刃を突き立ててほしいのでありんす」

「それを、俺が引き受けると、少しでも思ったのか」

「無理を承知のお願いでありんす」

「なら無理だ」

「でも、お前様が何をしようと、あちきはもうすぐ死んでしまいんす」

「なぜだ」

「簡単なこと。あちきにはもう、生きるための力が残っていせんのよ。だから人化の術も解け、このざまでありんす」

「馬鹿な。お前は、今日だって、しっかりと獲物を喰っていたじゃないか」

「それではまるで足りんせん。お前様が大喰らいだから」

 綾が妙な言葉で俺を詰るので、俺は戸惑った。

「どういう意味だ」

「妖が喰らうのは、本当のところ人の肉ではなく、人の想い。妖は、愛や恐怖を血肉にして生きんす。それなのにあちきは、お前様にあちきの想いを与え尽くしてしまいんした」

「どうしてそんな馬鹿なことを」

「馬鹿はお前様の方」

「何だと?」

「人の心は、さように己で出したり引っ込めたりと融通の利くものだとでも思っていなんすか」

「いや、そういうわけでは、だが、」

「だがも何もありんせん。あちきが、どうでもいい男に心中の真似事を頼むような浅ましい女に見えなんしたか。そんなわけがあるまいよ。あちきは、お前様を愛しているの。あちきが数十年蓄えてきた血肉共が全て溶け出てしまうくらいに、愛しているの。なのにお前様ときたら、どうしてひとかけの愛さえ寄越してくれないの。粗暴な下衆でさえ、床の上ではあちきを愛してくれるのに。そんな不味い愛、もはや喰いたくもないのに、お前様の愛だけを喰らっていたいのに、お前様へ近寄ろうものなら、その目の闇があちきを脅しんす。どうして、どうしてお前様は、そうやってあちきを拒みなんすの」

 その激情の告白は、綾の命の全てを焚べてしまったかのようで、俺は焦った。だが、焦るばかりで、適当な言葉は何も出てこない。

 俺は彼女を愛していない。人の想いを喰らう存在からそんな事実を突き付けられては、如何とも反論できない。

 それでも、きっと黙っているべきではないのだろう。彼女が何と言おうと、俺はお前を愛しているのだと言ってやるべきなのだろう。

 分かっていても、その一言が遠い。

 結局のところ、自信がないのだ。無尽蔵に綾の愛を喰らうという俺の心に、彼女への愛が本当に残されているのか。

「だから、ねえ、お前様。自覚はなくとも、お前様はあちきの想いをたらふく喰いなんしたのよ。せめて最後に、あちきのささやかな願いを叶えてくれても、いいと思いんすけれど」

 しかし、どうやら俺がその願いを聞き入れたくないのは、確からしかった。ここまで言われてなお、往生際悪く黙り込んでしまうほどに。

 もう一度己の闇に手を伸ばす。何か綾への想いが隠れているはずだ。そうでなければ、綾を躊躇いなく殺してやれるはずではないか。その本心を引きずり出して、綾に喰わせてやれば、するりと片付く話なのだ。

 けれど、やはり何も掴めない。

 わけも分からず、俺は悪足掻きのように呟いた。

「……死んだらお前は、どこへ行くんだ」

「どこにも行きんせん」

「お前たち妖には、死後の世界はないのか?」

「ん。先程は死ぬと言いしたが、それは言葉の綾。妖は端から生きてなどいやせんから、畢竟死ぬこともありんせんのよ。ただ塵の如く水の如く、集まり還っては別の妖になりんす」

「別の、妖に」

「地獄へ落ちるわけではありんせんから、心配しなんすな」

 違う、と思った。

 それで俺はなんとなく、己の思惑が知れてきたような気がした。なぜそんな不毛としか思えぬことを聞いたのか。なぜ綾を殺すことができないのか。

「それなら、なおさらお前を殺すわけにはいかない」

「ほう? あちきに、地獄へ堕ちてほしかったと?」

「語弊がある。地獄でいつかまたお前と会えるなら、お前の望みを叶えてやるのもいいと思っていたんだ。だが、お前が別の妖になるなど冗談ではない」

「どうして。あちきの還る所など、お前様には関係がないでしょう」

「俺は、お前のいる所にいたいのだ」

 一瞬だけ、綾の口がきゅっと結ばれた。

「……そうは言っても、どちらにせよあちきが還ってしまうのは、もう決まっているのでありんす」

「それならば、俺も妖になる」

「はい?」

 綾の素っ頓狂な声を聞くのも、今日が初めてだ。

「俺が妖になれば、お前と同じ所へ集まり還ることができるのだろう。なら、そうしてやる。俺の闇がお前を脅すというのなら、この闇ごとお前にくれてやる」

「童のような無理を言いなんすな。それは人の身を捨てるということでありんすよ。分かっていなんすか」

「お前と共にいられぬくらいなら、身体も魂もいらん。そんなものは砕き尽くして、塵の吹き溜まりとなり果ててしまえばいい。そうだ、そうすればお前の正体は人に見られたことにもならないし、一石二鳥じゃないか」

「どうして、あちきにそこまで執着しなんすか。あちきに愛しているの一言も言えないくせに」

 綾の言葉が、鋭く突き刺さる。しかしここで引き下がっては台無しだ。

「確かに、俺は己の心の内など分からん。俺は所詮、狂人だ。だが、腹を空かせば物を食うし、眠ければ寝るように、俺がしたいことくらいは分かる。俺はお前の側にいたい。これだけは間違いないんだ」

 綾の口は、何かを言おうと開いたまま止まった。あと一押しだ。

 言葉を継ごうとしたその時、綾が先に声を上げた。

「そも、妖になるというのはそう楽なことではありんせん。永き羅刹の山道を這う這う登っていく覚悟が、お前様にありなんすのか」

「蜘蛛のお前がなれるんだ、人の俺が人の想いになれぬ道理はないだろう」

「いいえ。人の身なればこそ、難しいのでありんす」

「なぜだ」

「たとえば、お前様はどうしてあちきの喰った人間を埋めなんしたのか」

「言っただろう。化けて出られたら敵わんから、」

「見え透いた嘘をつきなんすな」

 綾はピシャリと言い放った。

「お前様は己を狂人と嘯くけれど、お前様は、誰とも知らぬ墓が荒らされれば怒るでしょう。あちきが拗ねてお前様に当たると、うんざりして、それでも何とかしてやろうとするでしょう。お前様は、ただの不器用な心なき人でありんす。狂人などではない、ましてや妖の器にはあらず。あちきとは相容れいせん」

「……強情な奴だな」

「お前様こそ。どうかこれ以上、あちきを惑わせないで。一思いに殺してくなんし」

「なぜお前は、一切合切拒もうとするんだ。俺と同じ妖になるのでは不満なのか。結局、それをまだ聞いていない。答えて――」

 その瞬間、綾が突然飛び起きて俺の胸倉にしがみついた。さすがに面食らってよろめくと、そのまま足が縺れ、後ろに倒れた。ずしりとした重みが胴にのしかかる。

 すぐ目の前には、眉を寄せ眉間を震わせる綾の顔があった。

「……不満なわけ、ありんせん。それが叶えば、どれだけ」

 残った感情を絞り切るような声の後、綾の身体はふっと脱力した。口を歪め、泣き笑いのような表情で、彼女は続ける。

「でも、とても間に合いせんの。もう、幾ばくも風が吹けば、あちきは消し飛んでしまいんす。お前様、そんな報われぬあちきの最期を見たいの」

「見たくない。間に合わせるさ」

「ほう、では、いつまでに」

「今だ」

 綾は「くふっ」と笑い、表情を少し緩めた。

「お前様らしくもない、そんなでたらめな約束で茶を濁しなんすなど」

「分かっているじゃないか。俺はでたらめな約束など決してしない」

「へえ、では、如何にして果たしなんすおつもりか」

「口を開けてみろ」

「はあ」

 素直に口を開けた綾の顔を、俺は思い切り引き寄せ、接吻した。

「っ⁉」

 綾が目を見開くのも、歯がかち合うのも、俺の唇が切れるのも気にせず、強く顔を寄せ、舌を絡める。唇を、頬の内側を、奥歯を、歯茎を、舌でなぞる。情緒などあったものではない接吻で、綾の口を舐り続けた。

 たっぷり四半刻はかけただろうか。ようやく唇を離すと、案の定綾は恥辱と怒りを孕んだ目で俺を睨んだ。

「この頓珍漢、いきなり何しなんす」

「血だ」

「は?」

「確かに、血の味がした。お前のではないだろう。先程喰った獲物の血だ」

「それが何になりんすか」

「人の血を啜る人はいない。人はそれを鬼と呼ぶ」

 綾は呆けたような顔で俺を見た。実際、呆れ切っているのかもしれない。

 だが、少なくとも天はこの屁理屈を認めたようだ。





 ぞわぞわと己の身体を巡る血が冷えて泥のように固まっていくような、不気味な感覚が最初にあった。それが「始まり」であるのだと、直感した。

 そして、血を失った心の臓は、代わりにどろりと温度のない何かを身体に巡らせ始めた。きっとこれが、俺の心にあった闇なのであろうと思った。

「ぐうっ……」

「お前様っ」

 突如として、胃が丸ごとひっくり返るような、激しい吐き気を催した。それは、俺の中の「人」による最後の足掻きのように思えた。

 俺は絶対に吐くまいと喉を閉め口を結び、千切れそうなほど強く舌を噛んだ。

 全く往生際が悪いではないか。お前が人でありたいと願うなら、もっと早くに足掻けばよかったのだ。心の隅でずっと隠れていたお前が、この土壇場で俺を支配できると思うな。黙っていろ。黙って俺に殺されろ。

 俺に悪態をついている間にも、心から溢れ出た闇は俺の身体を巡っていった。闇は、画に零れた墨の如く人の身体と魂を塗り潰していく。闇が広がれば広がるほど、吐き気も舌の痛みも薄れていった。

 そうして耐え忍び、ようやく吐き気が収まったかと思う頃。

 俺は、人の皮だけを残して「闇」そのものになっていた。

 そこで、はたと気づく。俺の目の前にもまた闇が広がっていることに。

 闇に境界などない。黄昏にぼやけた二つの輪郭が交わるように、自然と闇は一つに還った。ただ、人の皮だけを残して。

 ただ、闇が一つに還る途中、煌びやかに輝く何かが行き違うのを見た。それは、俺の中に入ってくると――得も言えぬ甘美な心地を俺にもたらした。

 そしてすぐに、それが綾の「想い」なのだと気づいた。

 なんだ。俺の中にもあったのじゃないか。

 俺は拍子抜けした。結局、綾の言う通り、俺は単なる人間に過ぎなかったらしい。偶然、身体と心の境界に闇を挟んでしまっただけの人間。狂人でもなく、妖の器でもない、他愛ない人間。

 しかし、そんなことはもはや些細なことだ。

 とにかく俺は、俺と綾の望みを成し遂げたのだ。こんなにもあっさりと、完全な形で。人と妖の境界は、かくも容易く越えられる。

「これで、俺とお前は、一ツ所の塵だ。集まるも還るも、一緒だ」

「……お前様は、本物のうつけでありんすな」

 綾は、まだ呆けた顔をしていた。

「うつけは嫌いか」

「いいえ。……悪くありんせん」

 そこ言うと、彼女はようやく頬を緩めた。

「お前の想いは、なかなか甘美な味わいだったな」

「当然でありんす。あちきがまさに身を削って出来たお前様への想い、不味いと言いなんしたら喰ろうてやるところでござんした」

 綾は頬を吊り上げ、牙を見せてきた。そんな仕草は今まで一度も見たことがない。遊女のする顔とは思えなかった。よほど機嫌を良くしたらしい。

「俺の想いは美味かったのか?」

「筆舌に尽くし難きほど」

 綾はそう言いながら俺に身体を預けた。いつの間にか彼女の身体は、いつものように軽くなっていた。

 俺は綾の身体を起こしてやると、手を引いた。

「さあ、帰ろう。俺達の住処へ」

 ところが綾は、反対の方へ手を引いた。なんとなしに引いているようで、かなり力が強い。

「今度は何だ?」

 彼女は口元に指を当て、妖然と笑った。月夜に青白く照らされたその表情は世にも恐ろしく、俺でさえぞわりと背筋が寒くなる。

「夜は、我等の時間。暗闇を恐れて家に逃げ込む人の如き真似は、情けのうござんす」

「なるほど、違いない。では、これから我等はどうするのだ」

「そうすな」

 綾は再び崖の先を見つめた。





「じきに月が沈むのを、眺めんす」

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