秋山さんちの日常
秋山薫は帰宅部である。いや、実のところ彼の通う高校に「帰宅部」という部活は存在しない。代わりに「音楽鑑賞部」という有名無実の部活があり、これが事実上の帰宅部として部員を集めていた。なにしろ音楽鑑賞部の年間予算、つまり部費は0円である。活動していないことは学校側も承知の上なのだ。
まあそれはともかくとして。なぜ薫が音楽鑑賞部、もとい帰宅部に入っているかと言うと、それは単純に家に早く帰る必要があるからだ。両親は仕事で家を空けることが多く、そうなると薫が食事の支度をしなければならないのである。
薫以外の子供たちは料理が出来ないわけではない。長男の要や長女の雪菜などは、人並み以上に料理を含む家事をこなす。とはいえ要はほとんど異世界に引き篭もっているし、雪菜も帰宅時間が不規則だ。末っ子の春菜は勇者生活の弊害なのか、サバイバル料理は得意だが台所に立つのは苦手だった。
そんなわけで、薫が料理と必要であれば食材の買出しもしなければならない。そして腹ペコ状態で帰ってくる春菜の帰宅時間を考えると、とてもではないが部活動にいそしんでいる時間はないのである。もっとも、そういう事情がなくとも面倒くさがりになってしまった彼が部活動にいそしむことなどないのだろうが。
繰り返しになるが、秋山家の食事の支度は基本的に薫が行っている。しかしあくまでも「基本的に」であって「全て」ではない。そして今日は夕飯の支度をしなくてもいい、貴重な“休日”だった。
「ん? 開いてる……」
いつも通りに玄関の鍵を開けようとした薫は、しかしすでに鍵が開いていることに気づいた。鍵をポケットにしまって家の中に入ると、奥から明るい女性の声がした。
「カオル~? おかえりなさい」
「ただいま。母さん、居たんだ」
先に家に帰っていたのは、薫たちの母親である秋山千夏だった。左目の目じりについた泣きボクロが印象的なおっとり系の美人だ。彼女の見た目は長女の雪菜とよく似ている。いや、この場合は雪菜が千夏に似た、と言うべきなのだろう。
身長は160センチと少し。黒い髪の毛は、昔は伸ばしていたらしいが今はショートボブにしていた。非常に若々しくて、メリハリのついた、とても子供を四人生んでいるとは思えない身体つきをしている。
雪菜や春菜と一緒に並べば、「秋山家の三姉妹」などと言われることさえある。その上、最近では異世界で禁酒しながら「清楚で可憐な聖女様」を演じているせいでストレスの溜まっている雪菜を押し退け、なんと“次女”に間違われることさえあるとか。あの時の雪菜の落ち込みようといったらなかった。
「父さんは?」
「お仕事よ。一週間くらいアメリカに行くって」
「付いて行かなかったんだ?」
「わたしが飛行機苦手なの知ってるでしょう? 自力で飛ぶならともかく、あんなのいつ落ちるか分からないのに……」
最近は撃墜だの墜落だのそんな事件も多いし、と千夏は眉をひそめた。
「そんな危険な乗り物に父さんが乗るのはいいんだ?」
少し意地悪げに薫がそう尋ねると、千夏は「心配だけど、それもあの人の仕事のうちだから」と答えた。そして茶目っ気を見せながら彼女はさらにこう付け加える。
「それに、あの人ならちゃんと保険をかけているわ。宇宙人的科学力でね」
千夏の夫にして薫たちの父親である秋山元は宇宙人である。そして宇宙人としての彼の仕事は「発展途上文明の調査」というものであり、飛行機と言う空気力学を応用して空を飛ぶ機械に実際に乗ることはこの調査の一環なのだ。
ちなみに秋山家の姓名「秋山」というのは、元ではなく千夏の姓名だ。宇宙人である元は当たり前に日本人的な名前など持っておらず、そのため千夏の姓名をそのまま使ったのである。「断じて婿入りしたわけではない」とは元談。
「……お父さんもこの仕事が終われば一週間くらい休みが取れそうだって言っていたし、二週間くらいは家にいられるわね」
千夏は指を折りながらそう言った。ということはその二週間の間、薫は食事の支度から、昼食を食べながら夕食のメニューを考える生活から解放されるわけである。
「それで、カオル。何か作りたいもの、ある?」
「……そこは普通、食べたいものを聞くんじゃないのか?」
「あら失礼」
全然悪いと思っていない口調で千夏はニコニコと微笑みながらそう言った。そんな母親の様子に薫はため息をつきながら「まあ、別に良いけど」と呟いた。
「そうだな、ポークチャップでも作ろうか。赤ワインがないから買っておいてよ」
「はいは~い、了解よ。それと料理酒も買っておいたほうが良いかしら?」
よろしく、薫は答えた。彼はまだ未成年なので、いくら料理に使うものとはいえ自分ではアルコールの入ったものは買えないのだ。
(ユキ姉が飲まないように張り紙しとかないとだな)
一升瓶に頬摺りする姉の姿を思い浮かべながら、薫はそう心の中で呟いた。彼女は放っておくと料理酒やお菓子作り用のラム酒まで飲み干すので、隙を作らない対処が必要なのだ。
「……そうそう。これから友達が来る」
薫がふと思い出してそう告げると、千夏は「まあ!」と言って顔を輝かせた。
「女の子?」
「……男だよ」
苦笑しながら薫はそう答える。クラスメイトで、名前は広瀬聡士。なんでも相談したいことがあるのだと言う。
「ふうん……。恋の相談かしら?」
「さあ、ね。そんな浮ついた感じはしなかったけど……」
どちらかと言うと、切羽詰った感じを漂わせていた。友達のその様子を思い出しながら、薫は二階の自分の部屋に向かった。
薫の部屋の広さは六畳。そこにベッドと机、本棚にタンスが詰め込まれている。そのため部屋の中は狭く、真ん中に人が一人通れる位の“隙間”が空いているだけだった。収納スペースが結構大きいので何とかなっているが、気を抜けばすぐに乱雑で足の踏み場もない部屋になってしまう。
薫が学校の制服から私服に着替え終えると、ちょうど聡士が彼の家にやって来た。彼もまた私服で、どうやら一度家に帰って着替えてきたらしい。薫はすぐに彼を自分に部屋に入れた。
「いらっしゃい、ソウシくん。コレ、良かったら食べてね~」
そう言って千夏がお盆におやつを載せて持ってきた。メニューは手作りのティラミスケーキとアイスコーヒー。ちなみにティラミスを作ったのは千夏ではなく薫である。
「あ、ありごとうございます、秋山さん」
聡士は手渡されたお盆を恐縮気味に受け取った。彼をはじめ、この家に来る薫や春菜の友人たちは千夏のことを「秋山さん」とか「千夏さん」と呼ぶ。彼女は“次女”に間違われるほど若々しく、とてもではないが「おばさん」と呼べる雰囲気ではないのだ。ちなみに彼女の年齢は秋山家の最高機密であり、実の子供である四兄弟さえ自分達の母親の正確な年齢を知らない。
「うまいなぁ……、このティラミス。なあ、やっぱりコレって秋山さんが作ったのか? それともユキナさんとか?」
「いや、オレが作ったけど?」
薫がその事実を暴露した瞬間、聡士は何ともいえない顔をした。
「……どうしてだろう、いきなり苦くなった」
「甘さ控えめだからな」
「そういう意味じゃねぇよ!」
叫ぶ聡士に対し、薫はそ知らぬ顔でケーキを食べながら「知ってるよ」と返す。甘さと苦さのバランスが絶妙で、ほのかに漂う洋酒の香りが高級感を演出している。添えられたミントの葉がまた憎い演出で、これならお店に出してお金を取れそうだ。「いい出来だ」と薫は自画自賛した。
「……ったくよぅ、お前が料理得意なのは知ってたけどさ。何が悲しくて野郎の作ったケーキ食ってんだか」
「嫌なら食うな。オレが食う。……だいたい、パティシエは野郎の方が多いんだぞ」
「じゃあカオルはオレが作ったケーキ、食いたいか?」
「このレベルなら」
即答でそう返され、聡士は「うっ」と言葉に詰まった。そしてそのまま残りのティラミスを平らげる。
「……んで? 相談って何なんだ?」
ケーキを食べ終わり、アイスコーヒーの入ったガラスのコップを手にしながら、椅子に座った薫はそう切り出した。ちなみに聡士の方はベッドの上に腰掛けている。
「ああ、その、なんて言えばいいのかな……。実は最近、その……、悪夢を、見るんだ」
両手でアイスコーヒーの入ったガラスのコップを持ち、俯き加減になって眉間にシワを寄せながら聡士はまずそう切り出した。
「悪夢?」
「ああ、ここ一週間くらい、ずっとだ……」
苦い口調で聡士はそう言った。ここ一週間ほどの間、毎晩同じような悪夢を見るのだという。最初は彼も「嫌な夢を見た」くらいにしか考えていなかった。しかしそれが一週間も続けば、立派な異常事態である。
「どんな悪夢なんだ?」
「それが……」
聡士は曰く、魔王を名乗る顔面ボコボコで歯の抜けたロン毛のじーさんが毎晩現れては、目が覚めるまで延々愚痴り続けるのだと言う。
やれ「まったく最近の若者は老人に対する礼儀がなっておらん!」だの、やれ「わしの長い友を毟るとは何事じゃ! 育毛にどれほどの労力と資金を費やしたと思っておる!?」だの、やれ「入れ歯にかかる費用を請求する!」だの。
「同じことをずっと延々延々愚痴り続けるんだ!」
聡士はそう叫んで頭を抱えた。若干ノイローゼ気味である。そんな友人に対し、薫は「へ、へぇ」と応じることしかできない。彼は精神科医ではないのだ。悪夢の治療などできない。
「それで、最後にいつもこう言うんだ……」
曰く「我が器よ! 勇者に復讐するのじゃ!」
「勇者、ねぇ……」
聡士の話を聞いて、薫は頬を引くつかせながらそう呟いた。なんとなく話がきな臭くなってきたように思う。しかし彼はまだ希望を捨てない。聡士の言う勇者と魔王が秋山家に関係しているとは限らないではないか。
「それで、その勇者なんだけど……。その、ハルナちゃん、なんだ……」
「あー、えぇっと……。なんか、ごめん」
秋山家関係でした。妹である春菜の名前が出てくると、薫は何だかものすごく申し訳なくなり聡士に頭を下げた。
(それにしても、ちょっと待てよ……?)
今まで聞いた話の中に引っ掛かるものを感じ、薫は記憶を探った。魔王を名乗る顔面ボコボコで歯の抜けたロン毛のじーさん。そしてそのじーさんの髪の毛を引っ掴んだという勇者。最近、似たような話を見聞きした気がする。
(って、あの写真か!)
薫の頭の中で記憶が繋がる。秋山家の末娘である次女の春菜は勇者として様々な異世界に召喚されているのだが、つい最近もまた彼女は異世界に召喚され、そして帰ってきたばかりである。召喚の用件は魔王の討伐であり、彼女はそれを見事に果たして帰ってきたのだが、その記念写真が確かそんな絵図だった。ここまでの話を総合すると、聡士の悪夢と春菜の魔王討伐は繋がっていると考えるのが妥当だろう。
(ということは……?)
ということは、聡士がここ一週間ほどの間悩まされている悪夢は、普通の悪夢ではないと言うことになる。春菜に討伐された魔王の残留思念だか怨念だか何だか知らないが、ようするにそういう類のモノが聡士に取り付いて悪夢を見せいているのだろう。
(おのれハルナ……!)
薫のなかでふつふつと怒りが湧き起こる。とんだ不手際ではないか。魔王を討伐しきれていないばかりか、そのせいで無関係な一般人に迷惑をかけるとは。
(ピーマンのお刺身を山盛りにして食わせてやる……!)
心の中でそう報復を決意すると、薫はひとまず意識を元に戻した。今はとりあえず、聡士の悪夢の話である。
「……お前の悪夢に、ハルナが出てくるのは分かった。それで、どうする?」
ピーマン無理やり喰わせるか? と薫は尋ねてみる。もちろん冗談だが、緑色の悪魔(春菜命名)を腹一杯に食わせてグロッキーにしてやれば、魔王の恨みも晴れるのではなかろうかと思ってしまう。
「いや流石にそれは……」
薫の提案に聡士は苦笑を浮かべた。春菜のピーマン嫌いは彼もまたよく知っている。
「解決できるなんて最初から思ってねぇよ。……とりあえず人に話せて、少しは気が楽になった」
ありがとう、と聡士は弱々しい笑みを浮かべながら薫にそう言った。
「……アイスコーヒー、なくなったな。お代わり、いるか?」
空になった聡士のコップを見て、薫はそう言った。聡士が「いる」と言ったので、彼は食器類をお盆に載せて台所に向かう。
(ま、確かに普通であればそう簡単に解決できるはずないよな、悪夢なんて……)
廊下を歩きながら薫はそんな事を考える。とはいえここは秋山家。普通ではない人たちが暮らす家である。もちろん薫は一般人であると自負しているが。
(餅は餅屋に、だな)
台所では千夏が夕食の支度をしていた。薫はティラミスが載っていたお皿を流し台に置き、それから空になったコップに冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して注ぐ。その一連の動作をしながら、薫は聡士から聞いた話と春菜に見せてもらった写真のことを掻い摘んで元「破邪の巫女」の千夏に説明した。
「母さん、実はかくかくしかじか……」
「……はむはむうまうまなのね」
薫から一通りの話を聞くと、千夏は頬に手を当てながら「それは大変ねぇ~」と言って聡士に同情した。
「それで、何とかなる?」
「そうねぇ……。それじゃあ、ちょっと見てみようかしら」
千夏はそう言うと、コンロの火を止めタオルで手を拭いた。それから二人は連れ立って薫の部屋に向かう。
「……何やってんだ、ソウシ?」
薫と千夏が部屋の中に入ると、聡士はなぜかしゃがみ込んでベッドの下を探っていた。ちなみにそこに片付けてあるのは冬物の靴だけである。
「いや、18禁関係のブツがねーかなー、と」
「ねーよ、んなモン」
不機嫌そうにそう応じながら、薫はアイスコーヒーの入ったコップを載せたお盆を机の上に置く。
「そうなのよねぇ~。カオル君ってばその手のものを何も持ってないのよねぇ~」
緊張感溢れる親子の攻防を楽しみたいのに、と千夏はため息を付きながら愚痴った。言うまでもなく千夏が攻める側で薫が守る側だ。とはいえ、勘の鋭すぎる千夏相手では敗北は必至。そのため負ける戦いはしたくない主義の薫は、18禁関係のブツは部屋に隠さないことにしているのである。
ちなみに長男である要の場合は、隠すことなく全てオープンである。そのため“緊張感溢れる親子の攻防”にはならず、これまた千夏にとっては不満らしい。
「もしかして女の子に興味ないのかしら~」
母親としてそれはそれで心配だわ~、と千夏はわざとらしく嘆息する。言うまでもなく演技である。そして聡士がその演技に乗っかる。
「げっ、お前ってそういう趣味なの?」
「……アイスコーヒーぶっ掛けられたいか?」
薫の声に不穏なものを感じた聡士は慌てて首を横に振った。そしてわざとらしく咳払いをすると、露骨に話題を変える。
「そ、それで秋山さん。何か用っすか?」
「ん~、カオルからソウシ君の悪夢のことを聞いてね。ちょっと見せてもらって良いかしら~」
「い!? あ、は、はい! どうぞ」
思わぬ話の展開に少し慌てながら聡士はそう答えた。了解が得られると、千夏は早速彼の頬や肩に手を置いたり、下目蓋を下げて目の様子を観察したりする。その姿はまるで患者を診察する医者のようだった。
「う~ん、そうねぇ。お札でも貼っておこうかしら?」
「お、お札ですか……」
妙な単語が出てきたせいか、聡士が戸惑う。しかしそんな彼の戸惑いなどどこ吹く風。千夏はニコニコとした笑みを浮かべたまま自分のペースを崩さない。
「そうよ。わたし、これでも昔は巫女さんだったんだから」
昔取った杵柄ってやつね、と言って千夏は得意げな笑みを見せた。その笑みに毒気を抜かれたのか、聡士は「は、はあ」と中途半端に返事をする。その様子を傍から見ていた薫は「うまく丸め込まれたな」と呆れ気味に内心で呟いた。
「それじゃあ、ソウシ君。上を脱いで背中をこっちに向けて」
「は、はあ……」
千夏の雰囲気に流されるようにして、聡士は上半身裸になると絨毯の上に座って背中を彼女のほうに向けた。その背中に、千夏は「えい♪」と掛け声をかけながら、勢いよくどこからか取り出したお手製のお札を貼り付ける。
「い!?」
バシィン! といい音が響く。千夏が手を離すと、聡士の背中には真っ赤な紅葉が咲いていた。さらにその背中には細長い紙、つまりお札が張り付いている。毛筆で何事か書かれているが、達筆すぎて薫には読めなかった。
「……どうかしら?」
「え? あ、いや……。なんか、すっきりした、ような……?」
「そう? じゃあ、成功ね」
背中を向けたままの聡士の言葉を聞いて、千夏は嬉しそうにそう言った。聡士は何も分かってい無さそうだし、薫も何がなんだかさっぱりだが、千夏の様子を見る限り悪夢の問題はこれにて解決と思っていいのだろう。
「じゃ、お札は剥がしておくわね」
「え!? お札剥がしちゃうんですか!?」
「そうよ~。もう用はないし、貼ったまま生活するのも大変よ? お風呂とか」
お札は貼ったままにしておかないと意味が無いのでは、と心配する聡士に千夏は軽い調子でそう答えた。そしてさらにこう続ける。
「それに背中だと自分では貼れないから、誰かに貼り直してもらわないとだし」
千夏にそう言われ、聡士はその様子を想像する。
『ねえねえ、ちょっと背中にお札貼ってくれない?』
「ないわ……」
聡士は遠い目をしながらそう呟いた。ちなみに秋山家的にはアリである。
がっくりと肩を落としながら、しかしそれでもどこかすっきりとした様子で聡士は脱いだ服を着ていく。そんな彼に、千夏は最後にこう言った。
「ソウシ君、話を聞いてもらえて気が楽になったかしら?」
「……はい……」
「そう、それは良かったわ。それじゃあ、今日はもう帰って早く休むと良いわ」
「……はい……。おじゃま、しました……」
どこか虚ろな様子でそう言うと、聡士はゆっくりと立ち上がって玄関へと向かう。彼が帰るのを見届けてから、薫は呟くようにして千夏にこう尋ねた。
「……暗示でもかけた?」
「軽いのを、ちょっとね」
悪戯がバレた子供のように、少しバツの悪い顔をしながら千夏はそれを認めた。
「でもね、『元巫女のお姉さんにお札を貼ってもらったら悪夢を見なくなりました』なんて、人には言えないでしょう?」
それはまあ確かに、と薫は頷く。そんなことを言い出したら白い目で見られるだけだろう。ともすれば精神科医を紹介されるかもしれない。
「だから、ね。心配事を相談して気持ちが軽くなった、っていうふうにちょっと記憶を、ね」
片目をつむり茶目っ気を交えながら千夏はそう言った。確かにそれならばありふれた話だ。それに、相談云々は決してウソではない。暗示自体も軽いものだし、直近の記憶を意識の底に沈めただけだから障害は何も残らない、と千夏は言う。悪夢の問題も解決したことだし、ならいいかと薫は納得することにした。
「……そういえば母さん、アイスコーヒー、ソウシのヤツ手をつけないで帰っちゃったんだ。飲んでくれない?」
「そうね、貰おうかしら」
薫と千夏はそれぞれアイスコーヒーを飲み干す。なんでもない、秋山家の日常の一幕である。
ちなみに。その日の夕食、薫は少し気になったことを千夏に聞いてみた。
「母さん、結局あのお札にはなんて書いてあったんだ?」
「ああ、あれはね。〈鯖の味噌煮〉って書いておいたのよ」
「は?」
「だから〈鯖の味噌煮〉よ。〈鯖の味噌煮〉」
それを聞いて薫は何ともいえない顔をした。その日の秋山家の食卓には、美味しい鯖の味噌煮が並べられていた。
□おまけ□
秋山元(本名ではないが)は悩んでいた。個性的に育ちすぎた子供たちを相手に、いかにして父親の威厳を保てば良いのか、悩んでいた。
父親とは一家の大黒天、もとい大黒柱である。慕われ頼りにされながらも、しかし威厳を兼ね備えていなければならないのだ。
元が生まれたのは〈先駆文明圏〉と称される文化圏、つまるところこの地球よりもはるかに科学技術が進歩した惑星(実際には星間国家といった方が正しい)の出身だ。そのような文化圏では、いわゆる“家族”という形態は崩壊して久しい。しかしこの地球のような〈発展途上文明圏〉においては、未だ重要な社会的基盤の一つである。
それゆえにこそ。元は立派な父親であることを自らに課していた。発展途上文明の調査員として地元の社会に美味く溶け込むことは確かに重要だが、しかしそれ以上に彼は自分が手に入れたこの家族を守りたいと思っていた。
家族と一緒に過ごすことがこんなにも幸せであることを、元はこの惑星に来て初めて知った。科学技術の進歩が幸福に直結するわけではないことを、まざまざと見せ付けられた気がしている。自分たちは科学の進歩のために、もっと根源的で大切な何かを犠牲にしてきたのではないか。元は柄にもなくそんな哲学的なことさえ考えるようになっていた。
まあそれはともかくとして。元は今の生活が好きである。綺麗なお嫁さんを貰い、子宝にも恵まれた。すでにこの惑星に永住しようと決めている。専門の医療機器が無いので寿命は100年足らずになってしまうだろうが、そんな事は瑣末な問題だ。
だいたい、長く生きたからと言って幸せになれるわけではないのだ。長く生きたせいで心をすり減らし、しかしそれでもなお生に執着する同胞を、元は何人も知っている。彼らが幸せであるとは到底思えない。そんなふうになるために今の生活を捨てるなど、元には考えられないことであった。
だからこそ、元は家族を守りたいと思っている。しかし父親たる彼から威厳が失われればどうか。妻には愛想を尽かされ、子供たちは言う事を聞かなくなるだろう。つまり、家庭の崩壊である。それを避けるために、元は何としても父親の威厳を保たなければならないのだ。
(しかし、あの子供たちを相手に、どうやって威厳を保てば良いのか……)
元は悩む。子供たちが普通であれば、彼もここまで悩むことはなかっただろう。しかし元の子供たちは彼の宇宙人的経験則をもってしても、常識を軽く蹴り飛ばすぶっ飛んだ成長を遂げてしまっていた。宇宙人たる彼をしても付いていくのになかなか苦労する、秋山家はそんな魔境になってしまったのである。
「コレではイカン!」
戦慄と危機感を覚えながら、元はそう叫んだ。父親の威厳を保つためにも、ここは一つドデカいインパクトが必要だ。しかしあの子供たちに父の偉大さを刷り込むには並大抵のインパクトでは足りない。手持ちの手札でどうやりくりするのか。元は悩んだ。そしてあるサプライズを思いつく。
「そうだ。宇宙に連れ出してやろう」
無重力を体験させてやるのだ。いかにファンタジーな世界に入り浸っている子供たちといえど、無重力を体験したことはあるまい。「ファンタジーにはSFで対抗せよ」。昔の偉い人はイイことを言ったものである。
元は早速準備に取り掛かった。子供たちを宇宙に連れ出すための宇宙船は自前のものがある。それをステルスモードで大気圏外に待機させ、あとは子供たちを船内に転送してやれば完璧である。
そして某日。計画は実行された。あらかじめ知らせておくと対抗措置を取られる可能性があるので、元は奇襲を選択する。さらに意識を残しておくと反射的な抵抗が怖いので意識も失わせることにする。
家族が揃ったある夕食の食事に、宇宙人的科学力によって作り出された睡眠薬を混入し、全員の意識を刈り取った。ファンタジーの住人たちに宇宙人的科学力が通用するのか不安な面もあったが、見事なSFの完全勝利である。
意識を失った子供たちを、元は手早く宇宙船に転送していく。目が覚め、自分が地球の外にいることを知り、さらに無重力を体験すれば、いかにあの子供らといえども大いに慌てふためくに違いない。これで父親の威厳も保たれるというものだ。
もちろん、艦内の監視カメラを利用して記念動画の撮影準備もバッチリである。慌てふためく子供らの姿を記録に残せれば、それをネタにあと三年くらいは父親の威厳と優位性を保てるに違いない。まさに完璧な計画である。
そして、その時は来た。
Case1 長男、要の場合。
「はーっはっはっはっはっは! この程度で我がモーソーの域を越えることはできーん!!」
地球を見ながら高笑い中。「地球は、丸かった」と迷言をほざく。
Case2 長女、雪菜の場合。
「あ、こっちからアルコールの気配がする……!」
臭いではなく気配でお酒を探す酒豪には、初めての無重力だって障害にはならない。悠々とお宝を発見し、豪快にラッパ飲みしていた。
Case3 次男、薫の場合。
「またか。またなのか……! オレを! 面倒事に! 巻き込むなっ!!」
不貞寝した。
Case4 次女、春菜の場合。
「え? えぇぇぇ!? え!? えええええええええ!?!?」
あまりの衝撃に精神が耐え切れず魔力が暴走。宇宙船轟沈。
ちなみに。轟沈しちゃった宇宙船は、後日保険で新しい船を買ったとか。おしまい。