05 海の底で見上げる世界
ただひたすらに、海の底に向かって泳ぎ続ける。辺りが暗くなっていくにつれて、気持ちも落ち着いてきた。
もう、大丈夫。吹っ切れた。大丈夫。
しばらくすれば、我が家が見えてきた。家と言っても、人間が暮らしているような立派なものではなく、貝や海草などで作られたものだ。
昨日の朝に家を出たはずなのに、なんだか懐かしくなってまた少し涙が出た。
海の中では、メロウの涙は泡になる。ぷくぷくと浮いていく泡に、やっぱり、涙でさえも人間と違うのだと思い知らされた。
「……ただいま」
家の中に入れば、お母さんと二番目の姉さん……ミル姉がいた。
「おかえ……ちょっと、どうしたのよ。そんな情けない顔して」
私の顔を見てお母さんが眉をひそめ、ミル姉もしかめっ面になった。
心配してくれているのだとわかって、えへへ、と自然と笑みが漏れる。
「何でもないわ。大丈夫だから、心配しないで」
「何でもないって顔じゃないでしょう」
「そうよ! 帽子も靴もないし、まさか人間たちに何かされたんじゃないでしょうね?」
ミル姉が私を胡乱げに見つめてくる。
あ、と両手を見るも、持っていたはずの靴はどこにもない。帽子を追いかけるときに離してしまったようだ。
「……ごめんなさい」
「メル、謝れって言ったんじゃないのよ? 何かされたんじゃないの、って訊いてるの」
「ううん、何もされてないわ」
「だったら何でそんな顔なのよ」
少し口ごもってから、本当に何でもないから、と答える。思っていたよりも小さな声になってしまって、ますますミル姉は厳しい顔をする。
そしてもう一度ミル姉が何か言おうとしたのを、お母さんが遮った。
「メルヴィナ。お母さんの帽子と靴があるから、ちょっと出かけてきなさい」
「え? 今帰ってきたばかりなんだけど……」
「いいから」
お母さんはそうきっぱり言うと、「どこだったかな」とつぶやきながら帽子と靴を探しにいった。
……帽子と靴があるから、ちょっと出かけてきなさい、って? お母さんは、私を地上に行かせたがっているんだろうか。
なぜだかわからなくて、頭には困惑しか浮かばない。
「母さーん。私のメルにあげてもいいわよ! そのほうが早いでしょ」
ミル姉までそんなことを言う出すものだから、本当にわけがわからなくなる。
「そんな、ミル姉だってよく地上に行ってるじゃない」
「いーのいーの、行ってきなさい。……上に、なんか心残りがあるんでしょ? もう行かないって決意した感じだけどさ」
「っなんで……」
息を呑めば、ミル姉はにやっと笑った。
「ふっふっふ……私の観察眼をなめるなよ!」
「ミルシア、お母さんのあったから貴女のはいいわ」
「……そーですか」
帰ってきたお母さんのマイペースな言葉に、ミル姉は口元を引き攣らせる。その様子に思わずぷっと笑ってしまった。
メルヴィナ、とお母さんに呼ばれてそちらを見れば、帽子と靴を無理やり持たされた。
「さ、行ってらっしゃい。地上に行かないとしても、海の中で上を見上げること」
「……うん、行ってきます」
断れる雰囲気でもなくて、帰ってきたばかりの我が家を後にする。
お母さんの言うとおり、地上には行かず、上を見上げるだけでいいだろう。それに何の意味があるのかはわからないが、これ以上お母さんたちに心配をかけたくはない。言うとおりにして、少しでも気持ちに整理がつくのならそれでいいのだ。
尾びれを動かして泳ぎ出せば、目の前を魚が数匹横切った。それを視線で見送りながら、もう少しだけ泳ぐ。
あまり家から離れてしまったら、地上に行きたくなってしまいそうで。だから、家が見える位置で止まり、上を見る。
――海の上なんて、何も見えない。
メロウだから海の底でもそれなりに目は見えるのだが、それでも上のほうがほんの少し明るくなっているのがわかるだけで、空は見えなかった。まだ日は昇っていないだろうし、この明るさは月のせいだろう。
どうしてお母さんは、私に上を見上げろと言ったのだろうか。お母さんだって、ここから上を見上げたって何も見えないということはわかっていたはずなのに。
……そう。何も見えない、のだ。けれど、なぜか目を逸らせなくなった。
もう私は、砂浜の上を歩いたりできないんだな、とか。
もう、日の光を思いっきり浴びたりできないんだな、とか。
人々の喧騒を聞くことはないんだな、とか。
ライナスの声を聞くことも、クレアちゃんの声を聞くことも、ライナスの笑顔を見ることも、クレアちゃんの笑顔を見ることも。
三人で他愛無い話をして、笑ったり、拗ねたり、呆れたり、そんな、幸せな日常を過ごすことも。
もうないんだな、とか。
そんなことが、頭の中に次々に浮かんでは、涙の泡のように消えていく。
いつか大切な思い出も、涙のように消えてしまうのだろうか。地上でのことを何もかも忘れて、海の中でひっそりと、家族とだけ関わって生きていくのだろうか。
――そんな生活、今の私には絶対無理だ。
気がついたときには、上へ、上へと、泳ぎだしていた。急ぎすぎて魚にぶつかりそうになってしまい、「ごめんなさい!」と泳ぎを止めずに謝る。
戻ったとしても、まだライナスとクレアちゃんは眠っているはず。だから私は明日の朝、何もなかったような顔で二人と顔を合わせよう。二人のもとを去ろうとしたなんて、きっと気づかれてはいけない。
だから、できるだけ早く……あの家へ、戻ろう。
* * *
少し息を乱しながら、水面から顔を出す。
月の位置は、それほど変わっていない。急いで戻れば、ライナスの家を抜け出していたのは二時間ほどになるだろう。
逸る心に体がついていけなくて、浜に向かって泳ぎながら焦ってしまう。
帽子をかぶるのは、人間になったときに足がつく位置まで泳いだ後だ。無意識に自分に帽子をかぶせようとしてしまう手を、我慢させる。
「――!」
不意に、誰かの声がした。
こんな時間に人間が来るなんて、どうしたんだろう。
「――ルヴィナ!」
……え?
思わず、泳ぎを止めてしまった。
私の、名前?
「メルヴィナ!」
うそ。
だって、この声は。
ライナスの声、で。
砂浜に人影が見えた途端、私は自分でも信じられないような速さで泳ぎ始めていた。足がつくか、なんて気にもせずに、適当な場所で帽子をかぶって、よろけながらそのまま走る。転んでも気にせず。靴を履くのも面倒で、手に持ったまま。
「ライナスっ!」
そして、彼に思いっきり抱きついた。
「……メルヴィナ?」
驚いたように目を見開いたライナスは、次の瞬間にははっとしたように私を抱きしめ返した。
「……よかった。逃げたのかと思った」
逃げた、という言葉に、びくっと反射的に体が動く。その反応で、自身の言葉が正しいとわかったらしい。ライナスは腕の力をゆるめて、強張った顔で私のことを見つめてきた。
じっと、視線が合う。
何か言わなくては、とは思っても、なかなか言葉が出てこない。沈黙の中に、波の音だけがやけに大きく響いていた。
「……初めて会ったとき、なんだか違和感があったんだ」
小さな声で、ライナスが話し始める。
「海の場所を訊かれて、ますます変だな、と思って。案内した後隠れて見ていたら、君は海へ入っていった」
「……」
「人魚だったんだって気づいて……。いや、それだけじゃなくて。ただ、その、メルヴィナのことが頭から離れなくて、しばらくの間、なんとなく海に行くようになって。そして、もう一度会った。これを逃したらもう会えなくなるんじゃないかと思ったから、家に誘って、クレアの友達になってくれなんて頼んだんだ」
話の内容が上手くつかめなくて、少し首をかしげながら目を瞬く。
えっと……つまりは、どういうこと?
「言っておくけど、俺はメルヴィナを売る気なんて、最初からなかったよ」
「え? だって……男の人と、私を売ればクレアちゃんの病気が治るかもしれない、って話してたでしょう?」
昼間の会話が聞こえたのだと話すと、ライナスはがっくりとうなだれて、「やっぱりか」とつぶやいた。
「たぶん、メルヴィナは誤解してる。あの後ちゃんと、メルヴィナを売る気なんて一切ないってはっきり言ったんだよ。あいつはメルヴィナが海に帰るのを偶然見て、それで君が人魚だって知ってたんだ。ああ見えて口が堅い奴だから、そんなに心配はいらないと思うけど……海から来るとき、帰るときには、もっと周りに気を配ったほうがいい」
十分気を配っていたつもりだったが、足りなかったらしい。
人魚だとばれていたのは、単に私が悪かっただけで。しかも、二人の会話をもう少しだけでも聞いておけば、こんな思い込みはしなかった。
全ては私の勝手な思い込みだったのだと、落ち込むと同時にほっとした。
「じゃあ……私は、これからもライナスとクレアちゃんに会いにきていいの?」
「もちろん。むしろ……会いにきてほしい」
真剣なライナスの声に、なんだか顔が熱くなった。こくりとうなずけば、ライナスははあっと大きく息を吐きながらしゃがみこんだ。
「本当に、よかった……」
「ごめんなさい、勝手に誤解して」
「いや、いいんだ。……でもやっぱり、伝えたいことはすぐに伝えなくちゃ駄目だな、って思ったよ」
立ち上がったライナスは、私の目を真っすぐ見つめた。
「――メルヴィナ。俺は、君が好きだ。会ったときからずっと」
……会ったときから? 内面を全く知らない人を好きになれるとは思えないのだけど。
でも考えてみれば、私だって最初からライナスを信用してしまっていたし、そういうこともあるのだろう。
じっと見つめてくるライナスの目が返事を待っているように感じて、慌てて口を開く。
「えっと、私も好きよ。ライナスとクレアちゃんがいなかったら、私はつまらない日々を過ごしていたと思う」
「……え。うん? ちょっと待って、伝わってない気がする」
「大丈夫、ちゃんと伝わってるわ。こんな夜に探しにきてくれるくらいだもの。クレアちゃんだって、大好きだって言ってくれたし」
「あのさ、たぶんクレアが出てくる時点でこの会話は噛み合ってないと思うよ」
私としては、これ以上なく噛み合っているように感じるんだけれど。何が違ったのかわからなくて、今の会話の内容をもう一度思い出してみる。
ライナスは、私のことが会ったときからずっと好きだと言って。それに対し、私も好きだと言った。ライナスとクレアちゃんのおかげで、幸せな日々を過ごしているとも言ったし……何か変なところがあっただろうか。
うーん、と考え込む私に、ライナスは乾いた笑みを漏らした。
「もしかして、好きの意味がわからない?」
「それくらいはわかるわ。一緒にいて楽しいとか、そういうことでしょ?」
馬鹿にされたような気がして、むっとして言い返す。
「……まあ、それはこれから教えていくから」
「えっ、もしかして違ったの? それとも、隠された意味があったり……?」
「あーうん、そうだよ。隠された意味だから、わからなくていいんだ」
適当に流された気がするのは気のせいだろうか。そもそも、『好き』という言葉に隠された意味なんてあるはずもない。
……いえ、ひょっとしたら私が知らないだけ? 関わりがあるのは家族くらいだったし、自分が常識知らずだという自覚もある。普通の人だったら、もっと違う返事をしたのかも。
またも考え込んだ私に、ライナスはすっと手を差し出した。そして、照れくさそうに笑う。
「とりあえず、さ。帰らない?」
それはきっと、ライナスたちの家へ、ということで。
……そっか。帰っても、いいんだ。『帰る』とか、『戻る』とか。そんな言葉を使える場所だと、思ってもいいんだ。
零れた涙をそのままにして、私は彼の手を取った。今なら、眠っている彼にしか言えなかった言葉を、言える気がした。
「ありがとう、ライナス」
その後何年かして。
海の底で見上げる世界が、本当の意味で、私のもう一つの帰る場所になった。
『あ』りがとう、と呟いた
『り』ゆうは最初からなくて
『が』まんから解放された夜
『と』うめいな涙が溢れていく
『う』みの底で見上げる世界
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
また、御題をくださった夢見月*様へ、最大の感謝を。
あとがきは、活動報告にて。




