04 透明な涙が溢れていく
ふいに、強い風が吹いた。
あっと思ったときには、すでに帽子が飛ばされていて。途端に、人間の体からメロウの体へと戻る。バシャン、と海の中に倒れこんでしまったが、慌てて起き上がり、帽子を視線で追う。
帽子は、ジャンプをしても届かないところを飛んでいた。しかも、海のほうへ飛ぶのならまだしも、陸のほうへ向かって飛んでいく。ふわふわと、私を嘲笑うかのように。
『――大事な帽子なんだね』
……そう言われたのは、出会ってから間もない頃。
別にあのときは、そう大事なものでもなかった。帽子が取れたら取れたで、人間として暮らしていけばいい。むしろ海よりも陸のほうが暮らしやすいと思っていたのだ。
『メルヴィナに使ってもらえる帽子は幸せだ』
そんな言葉と共に向けられた笑顔に、どきっと胸が高鳴って。
ああ、なんで。
どうして思い出してしまうの。
ぼんやりとしてきた頭で、それでも帽子を見続ける。メロウに戻った今、光源が月しかなくとも、赤い羽根がひらひらと揺れているのさえはっきりと見えた。
帽子が、月を横切る。眩しさに目を細めてしまった。
『メルちゃんの帽子、素敵ね!』
無邪気な、眩しい笑顔。月よりも太陽の輝きに近い眩しさだったのに、どうしてその笑顔が思い浮かんだんだろう。
『ほら見てっ。兄さんに言って、買ってきてもらったの。……ふふ、メルちゃんとお揃いね! 似合ってる?』
わざわざ私の帽子と似たような帽子を、ライナスにねだったクレアちゃん。それは彼女に、よく似合っていた。お揃いお揃い、とはしゃぐクレアちゃんに、思わず笑みが浮かんだ。
そんな、遠く遠く感じる記憶。
なんで、なんで。
やだ、思い出したくない。
ライナスが、クレアちゃんが、そんなことを言うから。必要だったからかぶっていただけの帽子が、すごくすごく大切なものになってしまって。
きっと私は、海に戻ってからもこれを捨てられないだろう。そして、二人のことを思い出しては悲しくなるのだろう。
そう思っていたのに。
ああ、どうして。
『……メルちゃん、わたしが死んでも悲しまないでね? メルちゃんが悲しいと、わたしも悲しくなっちゃう』
『メルヴィナ、クレアと友達になってくれてありがとう』
『大好きよ、メルちゃん!』
『メルヴィナ』
『メルちゃん』
……やめて。
やめて。そんなふうに、私を呼ばないで。
どうしてこんなに鮮やかに、二人の声が蘇ってしまうんだろう。
「……あ」
帽子が、砂浜の上に落ちた。落ちた音は、本来なら波の音で聞こえるわけもないのに、なぜか頭の中に響いてきた。
また風が吹いてくれればいいのに。
この姿で拾いにいける位置でもないので、風に願うことしかできない。しかし皮肉なことに、先ほどまで吹いていた風は弱まっていた。帽子が飛ばされるほどの勢いの風は、もう吹いていない。
今ほど、風が操れない自分を嫌ったことはなかった。他のメロウのように風を操れたら、こんなことにはならなかったのに。
……もしかしたら、完全に未練を捨てろということなのかもしれない。
人間になるための帽子は、海の中でいくつも売っているけれど。それらを買ってまで、もう一度ライナスたちに会おうとは思えない。そこまでの勇気は、私にはない。
もう会わないと……陸には上がらないと、決めたのだ。だったら、帽子がなくともいいではないか。
……そう、いいのだ。
いいはず、なのに。
「……っ」
どうして私は、陸に向かって泳いでいるんだろう。
どうして私は、体を引きずってまで帽子を取りに行こうとしているんだろう。
そして――。
どうして今、風が帽子をさらっていくんだろう。
帽子が遥か遠くへ飛ばされていくのを、呆然と見つめる。
あんまりだ、このタイミングで。
耳に、冷たい風の音が染み渡った。
落ちていた石にでも傷つけられたのか、尾びれが今更痛くなってきた。うろこが数枚はがれたようだ。
じくじくとした痛みが、そのまま胸の痛みに変わっていく。
ぽとっと、砂浜に何かが落ちた。
それが涙だと理解したのは、しばらくしてからだった。
気付いた後はもう、涙が止められなくて。
早く海に戻らなくてはいけないとわかっているのに、飛んでいった帽子の姿が頭から離れなかった。
「……ふっ……ぅ」
ほんと、馬鹿だなぁ。
結局私は、諦めた気になっていただけだった。
涙はぽとぽと落ちていって、砂浜に染みを作る。それを、どこか他人事のように見つめた。涙は人間と同じで、透明なんだな、と思って。
その後に考えたことに、自嘲めいた笑みが浮かんでしまう。
だって。
いっそすべてが人間と違うのなら、諦められるのに、なんて。
そんなの、有り得ないもの。




