03 我慢から解放された夜
今日で私は、二人とお別れをする。
いつかはそうしようと思いつつ、それを決意できるまでは長かった。
音を立てないようにライナスの部屋の扉を開け、彼の寝台に近寄った。
「さよなら、ライナス」
先ほど起きたことで、眠りが浅くなっているだろう。万が一でも起こしてしまってはいけないので、本当に小さな声でお別れの言葉を囁く。
ライナスとのお別れが済んだら、次はクレアちゃんだ。
クレアちゃんの部屋へ行き、彼女の顔をじっと見つめる。真っ白な顔は、もしや死んでいるのではないかと思わせるほど。……なんて、失礼ね。
細すぎるクレアちゃんの手に、そうっと自分の手を重ねる。
うん、あったかい。
彼女に触れるたびに、ああ、この子は生きているんだと安心する。ただ微笑んだだけでも消えてしまいそうな、儚い存在。それでも彼女は、毎日を生きることに一生懸命だった。
持って一年、と言われたのは、ほんの一ヶ月前。そのときのクレアちゃんは、見ていられないほどの落ち込みようだった。
だが、ちゃんと元のクレアちゃんに戻った。……正確には、戻ってはいないのだけど。でも、戻ろうと頑張っているのだから、それでいい。
『頑張って、あと三年は生きてみせるからっ!』
彼女の可憐な声が耳に蘇る。
「……ごめんね」
そんなことを言わせてしまって。私を売ったお金があれば、助かるかもしれなかったのに。
……別れる、と決めた今、謝るのは失礼だろう。心の中で、今の謝罪の言葉を撤回する。
「ありがとう。あなたと友達になれて、幸せだった」
静かな、クレアちゃんの寝息が聞こえる。
クレアちゃんの眠りはいつも深く、朝になるまでは余程のことがない限り目を覚まさない。だからライナスに言えなかった長い言葉も、言うことができる。
本当に、私は幸せだった。
ありがとう、という言葉だけでは、とても私の感謝の気持ちを表せるとは思えない。けれど、それ以外での表し方がわからないから。言うしかなかった。
――ありがとう、ありがとう。
「ありがとう……っありがとう」
視界がぼやけてきて、これ以上ここにいては駄目だと思った。泣いてはいけない。そんなことをしたら、決心が鈍ってしまう。
クレアちゃんの少しぱさついた髪を優しく一撫でして、足音を立てないようにして部屋を出る。
家の外に出れば、冷たい空気が肌に触れた。夏に近づいてきているとは言え、まだ春だ。暖かいのは日中だけで、夕方からは少し肌寒くなる。長袖の暖かい服を着ていても、夜である今は寒かった。
すっと空気を吸い込むと、泣きそうになっていた気持ちが落ち着いた。冷たさがよかったのかもしれない。
気持ちが落ち着いた後には、ほっと胸に安堵が広がった。
これで、いい。
もう悩まなくて済むのだ。私も、ライナスも。
これで、よかったのだ。だから……安堵の中の悲しみには、気付かないふりをしなくてはならない。
ぎゅっと、帽子をかぶりなおす。少し風があるから、飛ばされないようにしなくては。
風で、涙が乾いていく。
ぱちりと一度目を瞬いてから、海に向かって歩き出す。この家から海までの道は、目を閉じてでも……いえ、行けないけれど、目を開けていれば全く迷うことなく行ける。
この道も、歩くことにも、最初の頃は戸惑ってばかりで。ライナスがいなければ、どうなっていたかわからない。
夜の町は静まりかえっていた。家の明かりはほとんど点いていない。点いているほんの少しの明かりと月明かりを頼りに、足を進める。
静かだ。私の足音と、風の音……あ、遠くから虫の声も聞こえてきた。けれど、それだけの音しか聞こえない。
治安のいい町でよかった、と思う。
酔っ払いの人がたまに歩いていたりはするが、そこまで危険な気配はない。一応何かあったときのため、短剣を持ってきてはいるけれど……できれば使わないで済みますように。
強めの風が来たので、帽子を押さえる。風は私の髪の毛をくしゃくしゃっと乱して、そのまま去っていった。
仕方ないので、手櫛で髪を整える。私の髪は胸の下辺りまであるので、帽子をかぶっていても髪は乱れるのだ。少しくせっ毛のため、整えるのも一苦労である。
そういえば、ライナスもクレアちゃんもこの髪を褒めてくれたな、と思い出して、首をぶんぶんと振る。
せめて。せめて、海に戻るまでは、二人のことは考えないようにしたかった。
波の音が聞こえてきた。あと数分もすれば、海に着くだろう。そうしたら、もう陸の世界とはさよならだ。
帰ったら、もう悩む必要がない。今までどおり過ごせばいいのだ。ライナスたちに会う前の、今までどおり。
……駄目だわ。どうやっても二人に思考が行き着いちゃう。
ため息の音は、思っていたよりも大きく響いた。
私は別に、海の中でも完全に孤独というわけではなかった。お母さんとお父さん、そして姉さんが二人。四人がいてくれれば、友達がいないのにも我慢できた。
メロウは、やろうと思えば嵐を呼べる。まあそれは、大きな力を持つ一握りのメロウの話で、普通のメロウは風を操れるだけだ。
だが私には、その風を操る力さえなかった。つまり――メロウの欠陥品。
だから他のメロウは、私のことを嫌った。家族にも嫌われたって仕方ないのだが、幸いにも私の家族は優しかった。こんな私にも、普通に接してくれる。
そう。だから私は、ライナスとクレアちゃんがいなくても平気なのだ。むしろ、いないほうがいい。
……そう思っておこう。
ふと、今日……いや、もう昨日の話か。昨日の昼間の、ライナスと知らない男の人の会話を思い出した。
買いものをしていたとき、男の人がライナスに話しかけてきて。二人は会話が聞こえないように私から離れ、こそこそと話し始めた。男の人が私を指差していたりしたこともあって……悪いとは思っても、つい聞き耳を立ててしまったのだ。
私は風を操れない。けれど、意識すれば遠くの話し声なんかを風に運んでもらえる、ということには地上に来てから初めて気づいた。
『……んぎょって、高く売れるんだろ』
『まあ、確かにそうだけど』
『クレアちゃんの病気だって、あの子売れば治るんじゃねぇの?』
『……その可能性は、ある』
それだけ聞いて、後はもう聞かなかった。聞かなくても、わかってしまったから。
人魚だということは気づかれていないと思っていた。だけどライナスはすでに知っていて、私を売ればクレアちゃんの病気が治る可能性があると言った。
それはつまり、もとから私を売るつもりだったということで。
――気づけば、海に着いていた。私の、帰る場所。私の居場所は、ここだ。
メロウである私は、海の水温を感じない。もし感じるのだとしたら、夜中に海に帰ろうだなんて思わないし。
そこまで考えて、はたと気付いた。
……私、本当に馬鹿かもしれない。わざわざどうして夜中に出てきたんだろう。今までと同じように、次の日のお昼頃に帰ればライナスたちも怪しまないだろうに。
もしかして私は、すぐに気付いてほしかったのだろうか。私が、二人ともう会わないと決めたことを。
……そうかもしれない。
一人苦笑しながら、靴を脱いで手に持つ。砂浜の感触をちょっと楽しんでから、そっと海の中に足を入れていった。
さよなら、ライナス。クレアちゃん。
朝起きたとき、二人は驚くだろうか。置手紙も何も置いてこなかったから、ただ帰っただけだと思うかもしれない。ううん、置いてこなかったからこそ、わかるはずだ。ただ帰っただけではないことを。
もしこの先、私が会いに行かなければ。
……悲しんで、くれるかな。
それとも、怒るだろうか。
私を売らないで済むことに、ほっとするだろうか。
どうであろうと、私にはもう関係ないのだけれど。
ざぶざぶと、海の中を沈んでいく。海に入れば帽子が脱げても平気なのだが、そうすると足が尾びれになってしまうので、もっと深い場所に行ってから脱いだほうがいい。
ここまで来た以上、もう迷いはなかった。
むしろ、どこかすっきりとした気分になっている自分に気付いてしまって。
私はなんてひどい奴なんだろう。そう、強く思った。




