01 ありがとう、と呟いた
「――ありがとう」
ぽつり、と。
つぶやいた言葉は、誰に聞かせたわけでもない。ただの独り言だ。
……眠っている彼には、きっと、聞こえていないから。
月明かりが、彼の寝顔を優しく照らしていた。
「ありがとう」
ぼんやりとした気持ちで、もう一度つぶやいた。これは一体、何に対しての言葉なんだろう。
いや、たぶん、何に対して、ということはないのだ。私を見つけてくれたこと、話してくれたこと、笑ってくれたこと。
ずっと一人でいた私にとって、どれもが感謝すべきことなのだ。たとえ、その思惑がどんなものであったとしても。
ああ、馬鹿だなぁ。
かぶっている赤い羽根の帽子を、ぎゅっと引っ張る。
私がメロウだなんてこと、彼はとっくに知っていたのだ。知っていて……私と親しくして、油断させて。売ろうとしていた。
そのことに、怒りは全くわかない。メロウは高く売れるのだから。……治らないと言われた、彼の妹の病気だって、メロウを売ったお金があれば治る可能性はあるのだ。
彼がただ、お金のためだけに私を売ろうとしたのなら、私はすぐに彼のもとを去っていただろう。
それができないのは、迷っているから。
このまま彼の前から姿を消すとする。そうなると、本当に妹の病気が治る見込みはなくなる。
彼は悲しむだろう。私を恨むかもしれない。憎むかもしれない。
……私は、彼に恨まれたり、憎まれたりするのが怖いのだ。家族以外で、初めて私に優しくしてくれた人だから。
しかし、自由を奪われることも怖い。
……ううん、違う。
私が一番怖いのは、彼に二度と会えないこと。
それがわかっていて。
でも、どうしようもない。去るとしても、残るとしても、どちらにしろ彼にはもう会えないのだ。
去った私に向けられる、彼の感情はどうなるのか。それを考えると、もう彼に会う勇気はない。
残ったら、売られてしまう。誰に売られて、どんなことをされるかわからない。
いっそ、もう帽子を脱いでしまおうか。
そんな考えまで頭を過ぎる。
帽子を脱いだら、私は海に戻れなくなる。必然的に、ここに残ることになるのだ。悩む必要はない。
なんだかそれは、とてもいい考えのように思えた。
そっと、帽子に手をかける。
「……メルヴィナ?」
かすかな声に、はっとして彼に目を向ける。
彼――ライナスが、うっすらと目を開けてこちらを見ていた。眠たげなその目を、ごしごしと彼はこする。
「どうしたんだ? こんな夜中に」
その問いに答えようとして……私は口を閉ざした。そして、少しの間言葉を探してから、結局は首を横に振った。
「なんでもないわ」
「帽子を脱ごうとしていたのに?」
「……見ていたの?」
訊いてしまってから、そういえばライナスが私に声をかけたのは、私が帽子を脱ごうとしたときだったと思い出す。だとすれば、見ていたとしても全くおかしくない。
ライナスは、少し苦笑した。
「君は決して、帽子を脱ごうとしなかったじゃないか。それを脱ごうとしていたということは、なんでもないわけじゃないんだろう?」
「……そうね。だけど、あなたには関係のない話だわ」
――決めた。
「起こしてしまってごめんなさい。少し目が覚めてしまって。あなたの顔を見れば眠れるかもと思ったの」
……彼に、嫌われてもいい。
ここを出ていこう。
だって彼は、私を売ったお金で妹……クレアちゃんを救えたとしても、ずっと罪悪感で苦しむことになるのだ。
それでは、彼は幸せになれない。
……クレアちゃんはいい子で、助けたいけど。クレアちゃんだって、そんなお金で助かることは望まないだろう。彼らは、本当に似た者兄妹だ。
そんな考えはもしかして、私の勝手な希望なのかもしれない。けれど……そう、思いたかった。
私が好きになった二人が、私を売ったお金で幸せになれるなんて、思いたくなかったのだ。
「……あのさ」
ふっと思考から意識を持ち上げれば、なぜかライナスにため息をつかれた。
「いや、いいんだけど……いいんだけど、なんかな。……うん、ごめん。なんでもない。とにかく、早く寝たほうがいいよ」
「……怒らないのね」
あなたには関係ない、と。彼との間に線を引いたというのに、ライナスは気にならないのだろうか。
勝手な話だけれど……ショックを受けた顔を全く見せない彼に、私のほうがショックを受けた。ライナスにとって、私はそこまで親しい人じゃなかったのだろうか。
「メルヴィナが関係ないって言うんだから、本当に関係ないんだろう? だったら、怒るわけないさ」
胸が、痛くなった気がした。
その痛みを誤魔化すように、「そう」とうなずく。
「おやすみなさい、ライナス」
「ああ、おやすみ」
そう言葉を交わし、彼の部屋を後にする。
自分の部屋に向かって、ふと気付いた。
『自分の部屋』。そんなのが、地上にある時点でおかしいのだ。
私は、間違えた。ここに居場所を作ってしまうなんて、やってはいけないことだったのに。
居場所なんて、いらなかったのに。
メロウ……人魚。メロウが出現すると、嵐が起こるとされている。陸に人間の姿をして現われる時には、赤い羽の帽子をかぶっている。その帽子を失えば、海には戻れなくなってしまう。




