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――高校デビューとは、中学生の頃は、それほどクラスで目立たない存在だった人が、高校に入ってイメージチェンジを行い、垢抜けた格好や振る舞いをしたり、不良行為に手を染めたりすることなどを意味して用いられる語である。
騒がしい目覚まし時計を乱暴に叩いて止めた少女は、寝惚け眼を擦りながら上体を起こした。
少女はこの物語の主人公、鈴城彩である。
本日は晴天。中学時代の本が親友、趣味は読書、特技は速読の彼女が高校デビューするには、縁起の良い天気だ。
「うぅん。ねみゅい」
舌足らずな言葉を漏らしながら、自室を出ると彩の鼻先を甘い匂いが擽った。大好きなメープルシロップの香りである。
「あっ! 今日の朝御飯、ホットケーキなの?」
「おう、おはよう。今日は彩の大事な日だから気合いが入る様にと頑張ってみたんだ」
大きな背中には似合わない可愛らしい小さなエプロンを付けながら、ホットケーキを焼くのは彩の兄、風樹である。
彩より十二歳上の風樹は、彩が幼い頃に両親を亡くしてからずっと家事を行っている。勿論、料理もこなしてきた。中でも、風樹の作るホットケーキは絶品で彩は何かと大きな行事がある度に作ってもらっていた。
「えっへへー。今日は入学式だもんね。今度は失敗しないんだー。色んな子と話して、色んな子と友達になるの」
「変な男は連れてくるんじゃないぞ」
「うっわ、お父さんみたい」
彩はニヤニヤ笑った。それを見て「うっせ」と返しながらも風樹は笑った。
これが、彼等にとっての家族団欒である。風樹の給料と遺産をやりくりしながら二人で狭いアパートの一室を借りて住んでいる。
二人は幸せだった。過去に両親の死があったにしろ当時の彼等にとっては莫大な遺産のお陰で、幸せに生きていた。この高校デビューをきっかけにこの平穏が崩れるだなんて予想もしていなかった。
「お兄ちゃん、どんな髪型が良いと思う?」
「彩の髪は長いからな……みつあみが良いんじゃないか?」
「やだよ。それで中学生の時浮いてたもん」
「そりゃそうだ。そうなる様に俺が仕向けたからな。お陰で変な虫も付かなかっただろ?」
「変な虫って……」
彩は苦笑いを浮かべながら、中学生活、いや、人生で初めて告白してくれた山田君の事を思い出した。告白した次の日、返事をしようとしたら怯えた表情で「昨日の事は忘れてくれ」と言われた。
あの時のことは酷く覚えている。山田君は何故か変に絆創膏だらけの顔で不審に思って尋ねら、風樹が関わっていると言うのだ。
自分を娘の様に愛してくれるのは構わないが、父親の様に過保護になるのは止めて欲しい。と、彩は願った。
そう、残念なことに風樹は重度のシスコンなのである。
「大丈夫だよ。私の進学した学校は共学だけど、専攻したコースは女子だけだから」
「いや、共学の時点で油断は出来ない。男は狼だからな」
再度言おう。風樹は残念な程にシスコンなのである。
「じゃ、じゃあ。妥協して二つ結びはどうかな?」
「それなら、俺が極力色気が出ない二つ結びをしてあげようではないかー。はい、おまたせ。ホットケーキ」
「ん。ありがと。いただきまーす」
はむはむと美味しそうにホットケーキを咀嚼する彩の背中を包む様に風樹は座り込んで、髪を束ね始めた。風樹が彩の髪を結う。これが鈴城家の朝の恒例行事である。
普通に行っている彩だが勿論、人にこの事を告げた事はない。一応は羞恥心を持っている様だ。
「伸びたな。髪の毛」
「ほーらね。らいぶ切っへらいもんね」
「もう腰まで伸びたぞ。覚えてるか? 母さんもこれ位の長さで二つに結っていたんだ」
「お母さんが亡くなったのは私が六歳の時だよ? 覚えてるよ、……ちょっとだけど」
「ははっ。だろうな。いやぁ、あれからもう十年が経つのか……何か、目頭が熱くなってきたよ」
「嫁に行く訳じゃないんだから、ただ入学するだけだから泣かないでよー。ん。ごちそうさまでした」
「嫁になど出さんわい」
「わー、怖い怖い」
「ほら、出来たぞ」
風樹は仕上げに左の前髪を蝶のピンで留めた。よしよし、良いな。と笑いながら頭を撫でて言う。
「こうして見るとやっぱり母さんそっくりだな。黒くて軽くカーブがかった髪も、少しつった目も、小さな口も」
「そっくり、なの?」
「ああ。父さんが生きてたら間違えるレベルでそっくり。母さんの遺伝子半端じゃねぇな」
「それお兄ちゃんにも言えるよ。お父さんそっくりじゃん。背が大きいとこも、手が大きいとこも、茶色い髪の毛も」
「写真でしか知らないクセによく言えるな」
「何となくで覚えてるもん。バカにしないでよー」
「してねーよ」
風樹は笑いながら彩の頭を撫でて、ふと冷静な顔になった。
「もうそろ学校の用意をしないと駄目だろ?」
「ん!! 忘れてた!! 二十分前には着きたかったんだけど……まあ、良いか」
「それなら、俺が乗せて送ってやろうか」
「え、良いの? お兄ちゃんは仕事に行かなくちゃいけないんじゃないの?」
「あー、あー……良いんだよ。仕事は。それより学校の方が心配でお兄ちゃん仕事にも手が付きません」
風樹は遠い風景を眺めながら、言葉を濁した。それにどんな意味が含まれているのか、彩は一ミリも気にはかけないで、やったー。と両手をあげてスクールバックを持った。
もう、送られる準備は満タンである。
「こーら。歯、磨いてないだろ」
「あ、忘れてた」
コツン、と額をつつかれて彩は飛び跳ねた。そして、すぐさま洗面所へ向かい綺麗にしてから、駆け足で再び風樹の前に戻ってきた。
そんな彩の一連の動作を見て、風樹は「いやぁ、今日も相変わらず可愛い小動物だなぁ」と、笑みを絶やさずごちた。
重度のシスコンなのである。
「じゃっ、いってきまーす」
彩は誰も残らない部屋に、大声で残してアパートを出た。後ろに風樹が続く。そして再び風樹は彩の楽しそうな後ろ姿を眺めながら「成長したな。可愛くなったなぁ」とごちるのである。
こう考えてしまうのは、お父さん兼お兄ちゃんという職務を持つ風樹の宿命である。
* * *
「高校って、こんな雰囲気なんだ……」
風樹に見送られ、学校に入った彩は挙動不審に辺りを見回していた。下駄箱がロッカー制な点とか、購買や食堂がある点、自販機がある点等ちょっとした中学との差を見つける度に高校生になったという実感が沸いて嬉しくなる。
「屋上とか、行けたりするのかな?」
彩は中学生の頃から見ていた夢物語の一つに、屋上で黄昏るというのがある。中学の時は屋上は事故自殺防止の為に鍵が掛かっていて入れなかった。
しかし、高校生なら自由に入れるだろうという確信があった。漫画やドラマ、映画、様々なメディアで屋上=青春という情報を植え付けられてきた彩はどうしても屋上へ行きたかった。
屋上へ行く事こそが、高校デビューであるかの様にさえ思っているのだ。
そして、実行しようと校内を巡り始めた。都合の良い事に早く着き過ぎたお陰で校舎に人は少ない、いやいない。
新一年生の彩が彷徨いていても問題は生まれそうにないと判断した彩は、何も知らない未知なる学校を開拓していく。
しかし、一つ問題が生じた。
「んむ、迷った」
彩は極度の方向音痴なのである。
屋上へと向かっている筈なのだが、入り込んだ構造のせいで現在二階で迷子となっている。しかし、この学校は四階建て。まだ、半分しか上っていない。
彩は徐々に不安になってきた。もしかしたら、このまま屋上に行けない所か教室にすら着かないかもしれない。そうしたら、ある意味高校デビューになる。それは、彩は望んでいない。
戻ろうか、いやしかしここで下手に動いて更に変な所へ行っても困ると途方に暮れた時――
「何しているんですか」
彩の後ろから男性の澄んだ声が響いた。落ち着きかつ、優しさの籠った不思議な声に思わず彩は素早く振り返り挙動不審な返事をした。
「あっ! や、これは、違うんです。あの、その、ま、迷子に、なってまして……」
「……迷子?」
彩は男性の顔を見上げた。口元には笑みがある。馬鹿にしている訳ではない、優しさを含んだ笑みだった。眼鏡の奥の少しつった目尻は、柔らかみを帯びていた。
彩に声を掛けた男性は若い、教師だった。眼鏡に整った黒髪、全体的に線が細く真面目な印象が見受けられる。
しかし、彩の顔を直視した途端、男性の目は丸く見開かれ驚愕の表情に変えた。まるで、彩がここにいるではない生物であるかのように。
「翠子、さん? ……いえ、そんなはず、ないですよね」
「は、はい? 翠子?」
「今の言葉は、忘れてください。貴女には関係のない話です」
「あ、はい。分かりました……」
「で、貴女は新一年生ですよね。何組ですか?」
「それすらも分からないです」
殊勝に俯いた彩を見ながら、男性は苦笑を漏らした。
「じゃあ、名前を教えてください。名簿で調べます」
「鈴城彩、です」
「鈴城……B組ですね。僕の担任するクラスですので教室まで一緒に行きましょうか」
「あっ、はい!」
入学当日から顔の整った美形の先生に声を掛けられ、しかも担任の先生だっただなんて、屋上には行けなかったがこれも高校デビューだ! と、内心発狂中の彩はルンルン気分で教師の後ろをついていった。
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