ホクロと癖と
「あつー」
言っても言わなくても暑さは変わらない。
そんな事解りきっているけど、勝手に口が動くから仕方がないってもんだ。
そんな私の声を聞きつけてか、子ども達が寄ってきた。
「母さんじゃんけん三回勝負しようよ。僕達が勝ったらプール連れてって」
結果、市民プールに来るはめになった。子ども達はしてやったり顔だ。
一応水着は着たけれど、後は知らぬ存ぜぬ木陰で昼寝をするつもりだったのに、レジャーシートを忘れるという大失態。
中途半端な時間だからベンチも一つも空いてなくて。
仕方なく、さっきまで流れるプールで子どもと追いかけっこをしたけれど、もう直ぐアラフォーと言われる年代の私にはちと無理があるって。
早々に追いかけるのを諦めて、一人ぷかぷか浮き輪にのって水面を漂っていた。
日差しが強い昼下がり、幾重にも塗った日焼け止めは果たして役に立ってくれるのだろうか。
そんな心配をしつつも、お天道様を仰ぎ一人のんびりしてしていた私の顔に、水がバシャっと掛ったではないか。
子どもに見つかったんだと思った私は、身体を翻して臨戦態勢に。
そんな私の前に立ちはだかるのは、見慣れた坊主なんかじゃなくて。
広い肩幅の男の人でして。
「お前のまぬけな顔変わってねえな」
瞬時に遡る私の記憶。
もしかしなくても――。
「先輩」
「おう久し振りだな」
中学、高校と大好きだった先輩にこんなとこで会うなんて。
あの頃よりえらく大きく育ってしまった私。
それに、去年夏の終わり売れ残った水着を買わずに、化石のような時代遅れの水着で来てしまった事が恨めしい。
というか何より先輩は私に気がついてくれたって事が奇跡みたいなんだけど。
独身の頃だったら、浮かれまくっていただろう。
だけどこの年になったら、意外と冷静でいられるもんだと自分に感心してみたりして。
「お久し振りです。先輩よく、気がつきましたね」
「呑気にぷかぷか浮いてる奴がいると思ったら、お前だった。これ昔から思ってたけど目立つよな」
先輩が指差したのは、私の二の腕にある大きなホクロ。
学生時代、夏服のブラウスを着ると丁度袖口のとこに来て嫌だった、このホクロのお陰だとは。
流れるプールで立ち止まる事は難儀な事で、私と先輩は流れに沿って歩き出した。
先輩が卒業してからというもの、何度も先輩先輩会いたさに駅で待ち伏せしたりしたのに、結局会えたのは一度だけだった。
それも先輩は私の知らない女の人と一緒で。
いろいろな声かけのパターンを思い浮かべていたというのに、私は声を掛ける事が出来なかったんだ。
先輩が女の人と一緒だっていうパターンは全く考えていなかったから。
学生の頃、あからさまに公言していたけれど当の本人には言えなかった想い。
昇華出来なかったからこそ、胸の奥でひっそりと先輩の存在があったのは確かだ。
まさか、今になってこんな風に会えるなんて誰が想像しただろう。
会えなかったこの長い歳月、お互いの近況なんかを話したり。
先輩はちょっと離れた所に住んでるらしいけど、実家に里帰りしたのでこの地元のプールにやってきたとの事だった。
本当に偶然が重なったってやつなのね。
顔も体系もあの頃とは別人みたいになってしまった私だけど、先輩と話していると心だけは学生時代に戻ったようで、言葉までもがあの頃と同じようになっていたり。
中学の先生の話題になるとテンションはマックス。
ふさふさ頭の英語の先生は今は、バーコードになっているとか。
調子に乗って、先輩の背中を叩いちゃったり。
まるで学生のノリだ。
そんな事をしていたら
「パパ、はっけーん」
大きな声と同時に先輩の腰に可愛らしい女の子が巻きついた。
今さっき聞いたばかりの先輩のお子さんの登場にドキッとした。
先輩に良く似たその目で、私をじーっと見つめてから軽く会釈をすると。
「何、パパの元カノ?」
とニヤリ先輩を見上げた。
私が「違うよ」と言おうとした瞬間。
「いや、元カノになりそこねた後輩」
先輩はあの頃大好きだった笑顔を浮かべて
「なっ」
と言った。
ここが流れるプールでなかったら私は確実に固まっていたはずだ。
もうね、笑うしかないでしょ。
「ふーん。ママには秘密にしてあげるからね。でも浮気は駄目だよ、じゃあねー」
それはそれは見事なクロールで消え去っていった。
「何ていうか、今時の子ですね」
「お前んとこだって変わらないだろ?」
突っ込みたい言葉には敢えて触れなかった。
――元カノになりそこねた――
先輩は知ってたんだ。なんか非常に照れてきたんだけど。
そんなトリップしてる場合じゃない。返事だ返事。
「うちは男だから、ちょっと違うかも」
「そんなもんか」
「はい、そんなもんです」
もっと話したかったけど、無情にも監視員の若い子達があちらこちらから一斉にスピーカーの音を鳴らし始めた。点検を兼ねた休憩時間の合図だった。
名残惜しいけど、仕方ないからな。
「それじゃ先輩、私あっちなんで」
「おう」
二人並んでプールサイドから身を引きあげて、そのまま、背中合わせに歩きだした。
振り返れなかった。
凄く他愛ない会話だった。
別れ際だってそう。
「また」なんて言葉は絶対つかないし。
ついたところでどうしようもないんだけど。
だけど、凄く心が軽くなっているのは確かだったりする。
これが韓国ドラマだったりすると、また偶然出会って道ならぬ恋に進んじゃったりするのかもしれない。
怪しい妄想が浮かんだのはやっぱり暑いからなのか。
いかんいかん、私は子どもとプールに来てるんだって。
何気なく二の腕にあるほくろを見てみた。
先輩これ覚えていてくれたんだな、と。
思う存分遊んだ私達は、帰宅の途へ。
あの後先輩の姿を見る事はなかった。
そんなものかもしれない。あの人の中で会えた事が不思議なのだから。
帰りの車中、まだまだお子様だと思った長男が、バックミラー越し意味ありげに私を見ていた。
「母さん、何か良い事でもあった? 鼻歌歌って」
思わずドキッとしてしまった。
誤魔化すように
「思いのほか、プールが気持ち良かったからだよ」
何も無かったのに少しだけ後ろめたい気持ちになったりするのは、何故なのか。
「ねえ、母さん、勝負しようよ。勝ったらあそこのソフトクリーム買って」
帰り道に通る、小さな店のソフトクリームは子ども達の大好物だ。
自分も好きだし、食べたいと思う。素直に買いに行こうかと言えばいいものを、子どもに乗って勝負してみる。
もし私が勝ったら諦めるのだろうか?
でもそんな疑問は杞憂に終わる。
あっさりストレート負け。
満足そうにソフトクリームを頬張る子ども達を見ながら、自分の手のひらに目をやる。
私ってこんなにじゃんけん弱かったのかしらと。
隣に座った次男が、笑いながらこっそり教えてくれた。
「母さん知らないでしょ? 父さんが教えてくれたんだよ、母さんってば最初は必ずグーを出すって。そしてその次は必ずパー。次は僕もお兄ちゃんもお父さんも知らないのだけどね」
知らなかった、自分にそんな癖があったなんて。
記憶の奥底に眠って記憶がゆるりと抜け出てきた。
まだ先輩を思っていたあの頃。
約束のない先輩を待っていたあの駅で、私は今は旦那となった中学、高校の同級生と再会したのだ。
何気ない会話をして時間を潰す事が、何度が続いたある日言われたんだ。
「勝負しようよ。俺がじゃんけん三回勝ったら付き合うって条件で」
私が偶然を装って先輩を待ち伏せしていたら知らない女の人と楽しそうに一緒に歩いていたと愚痴ったので、慰めのつもりだったのかもしれない。
先輩に出会ったとこで付き合える保証はどこにもない。
この不毛な片思いを終わらせるのは丁度いいかもしれない。
それに、とってもさらっと言うから、冗談のつもりかもしれない。
私が勝ったらそれまでだし。
そして、私はストレート負け。
知らないもの同士ってわけじゃないし、地元だから家も近い。
冗談みたいに始まったのんびりまったりの関係は私にはとても心地よかった。
優しかったし、楽しかったし、何より笑いのツボが一緒なのは最高だった。
もしかしたら、旦那は私のじゃんけんの癖を知っていたのかも。
もしかしたら――。
帰り道は更に楽しくなっていた。
今日帰ったら、旦那に勝負を挑んでみよう。
きっとのってくるに違いない。
見返りは何にしようか。
旅行? プレゼント?
まだ勝ったと決まって訳ではないのに、もう勝負はついたつもりになっていた。
車の中、小さな声で「鼻歌でっかくなってるし」
長男の呟きが聞こえたけど、そんな事はお構いなしだ。
おかしな事だけど、先輩に会ったという大事件は段々と小さなひとコマに変わっていった。
過去は過去なのだ。
先輩を好きだったあの頃の私はもう思い出になってる。
そう今は今。
その晩遅くに帰って来た旦那に勝負を挑んだ。
笑いながら受けてたった旦那を尻目にじゃんけんぽんと手を突き出した。
癖というのは恐ろしい。
私はしっかりと拳を握って突き出していたのだから。
それに動揺した私は、またパーを出してしまう。
癖というのは恐ろしいもんだ。
私が出した見返り旅行は、旦那の願いとなって決行されそう。
ちょっと悔しい気もするけれど、それはそれでいいのかもしれない。
何気ない日常で忘れかけていたけれど、これが私の一番の幸せなのだと改めて感じた一日だった。
その日の晩、夢で先輩に振られた事はそれでいてちょっとショックだったけどね。