第1話 あったらイヤな料理
「究極にウマイけど、65%の確率で死ぬ料理」
こんな料理があったら、イヤである。
凄く美味しいのだが、食ったら65%の確率で死ぬのである。
しかも“味見だけ・・・”などと言うヌルい試しは許されない。
最高の味をもつその料理は、舌で触れたら最後。確実に65%の確率で死ぬのだ。
さて、皆さんならどうします?
コトの発端は友人との会話だった。
「なあ、あったらイヤな料理ってどんなのかな?」
僕の言葉で論議が始まった。
「あったらイヤな料理」と聞いて大抵の人たちは虫や爬虫類の料理を揚げてくるに違いない。現に友達もそうだった。
タガメの味噌汁、カマキリの天ぷら、ヘビの蒲焼など。とにかく虫や爬虫類の料理を連発してきた。
しかし僕はそれらを食うコトには抵抗が無いので、別にイヤではないのだ。
むしろカマキリが食べられる機会があったら、是非とも食べてみたいし、ヘビの蒲焼なんてウナギと大して形が変わらないのだから構いはしない。もしかしたらウナギよりウマイかも知れない。
「そりゃ、おめェ。その気になりゃ何だって食えるだろうよ」
友人はそういって眉をしかめたが、現にそういうモノを食う文化があるのだから、虫食いや爬虫類食いが笑われたり、蔑みの対象になるのはおかしい。
現に日本人は生で魚を食ったり、生卵を食ったりしているではないか。
事実これはら外国(特に西洋)から見たらトンデモないゲテモノである。
さて、僕がそんなスタンスだったお陰で「あったらイヤな料理」は早くも頓挫してしまった。
つまりどんな食材を提案されても「ま、食い物だしね。食えないコトはないだろ?別にイヤでもないかな」となってしまうのだ。
虫と爬虫類以外となると、残るはの石とか土になってしまうが、これらは既に食い物ではない。
食材での議論は限界と悟った友人と僕は、続いてビジュアルにこだわった。
例えばトイレ型の器に盛られたチョコソフトや、しびんに入ったビールなどである。
たしかにイヤな料理ではあるが、いまひとつパッとしない。
こんなレベルなら「ひょうきん族」あたりで既に試しているだろう。
それに必ずしもイヤな料理かと問われると、疑問である。
料理自体がウマければ、イヤさ加減が個性として名物になりそうで本末転倒である。
もうネタも出尽くして、この話をやめようかと思ったそのとき、冒頭の料理が僕の脳裏をよぎったのである。
「究極にウマイけど、65%の確率で死ぬ料理」
自分で言うのも何だが、これは凄い。
この世のどんなモノよりもウマイのだが、65%の確率で死ぬのだ。
微妙に死ぬ確率の方が高いところがミソである。
食って死ななかった人に話を聞くと「あれはマジでウマイ。本当に。死ぬかと思うくらいにウマイって」というシャレにならない回答が返ってくるのだ。
これが例えば「ウマイけれど絶対に死ぬ料理」とかだと、誰も挑戦しない。
そもそも「ウマイけれど絶対に死ぬ料理」を食ったヤツは死ぬんだから、どんな風にウマイのか、それ以前に本当にウマイのが分からない。
ただ分かっていることは、その料理を食うと確実に死ぬ。という余りに理不尽な事実だけだ。
何だか「最期の晩餐」みたいな感じで、安楽死に使われそうでちょっとイヤだ。
翻って、「究極にウマイけど、65%の確率で死ぬ料理」は生きる希望があるので明るい。死ななかった場合はもちろん後遺症や副作用などは一切ない。
運がよければ45%の確率で、この世のあらゆるものを凌駕した究極のウマさを体感出来るのだ。
ただし言うまでも無く65%の確率で死ぬ。
ここが思案のしどころである。
致死率が65%なのは、それだけのリスクを負ってでも食べる価値のあるウマさだからである。
勇気や運や人生やら。
色々なものを賭けて挑むこの料理は、海原○山もオドロキの究極の料理である。
きっと食った者はその瞬間「ぬうっ!」と声を上げ、背後に稲妻が走るに違いない。
平らげた後は、死ぬか生きるかを天に任せるのみだ。
何だか食事と言うより勝負ですな。
そしてこの料理が、もし本当に存在したらどうなるのだろう。
ちょっと日記だけでは物足りなくなってきたので、これをテーマに物語を作ってみようかな・・・。などと考えてしまったのであった。