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婚約がなくなりましたので、幼馴染を口説いてもよろしくて?

作者: モカ
掲載日:2026/09/19

エレノアがアルヴィンを知ったのは、物心がつくより前だった。


黒に近い濃い茶色の髪に、灰青色の瞳。整った顔立ちなのに、口元にはいつも少し悪戯っぽい笑みを浮かべている、九つ年上の少年だった。

兄、ローレンスの同級生。

公爵家の次男で、王立学院に通っていた頃から頻繁に伯爵家へ遊びに来ていた。


父は深い栗色の髪、母は淡い金髪。

ローレンスは父譲りの栗色の髪を持ち、 穏やかな茶色の瞳をしていた。柔らかな顔立ちで、笑うと兄妹の目元はよく似ている。

エレノアは父と母の色を混ぜたような、柔らかなミルクティー色の髪 、瞳は深い緑色。黙っていれば、いかにも育ちの良い伯爵令嬢だった。

――黙っていれば、である。


客人の前では背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ね、尋ねられたことにだけ微笑んで答える。

その姿だけ見れば、誰もがよく躾けられた伯爵令嬢だと思った。

だが、客人が帰り、扉が閉まった途端だった。


「アル様! それ、私のお菓子!」

アルヴィンが摘まみ上げた焼き菓子を見て、エレノアは椅子から飛び降りた。

「一個くらいいいだろ」

「駄目です!」

「じゃあ取ってみろ」

頭上へ逃げた菓子に、エレノアは爪先立ちになる。

届かない。

「お兄様!」

助けを求めると、ローレンスは面倒そうにこちらを見た。

「俺に言うな。アルに言え」

「アル様! 返して!」

「はいはい」

返事だけはいい。

手は一向に下りてこない。

「もう! 二人とも嫌い!」


そう言って頬を膨らませた数分後には、また兄たちの後をついて庭へ出ていた。

十歳の頃には、本気で兄の友人関係を心配したこともある。

それでもアルヴィンが来ない日が続けば、今日は来ないのかと兄に尋ねた。


腹を立てることはあっても、姿が見えなければ気になる。

エレノアにとってアルヴィンは、兄の友人というより、いつの間にか屋敷にいて当然の人になっていた。


その「当然」が少しずつ変わり始めたのは、二人が学院を卒業してからだった。

アルヴィンもローレンスも騎士団へ入り、以前のように好きな時に顔を合わせられなくなった。ローレンスは伯爵家の嫡男でもあるため、休みには父について領地へ出向き、家の仕事を学ぶことも増えていった。


その頃からだった。

ローレンスが遠くを見る時、わずかに目を細めるようになったのは。

「お兄様、それ読めてます?」

「読めてる」

「眉間にものすごく皺が寄ってますけれど」

「読めてる」

数か月後、兄の鼻の上には細い銀縁の眼鏡が乗っていた。


それでも、アルヴィンとローレンスの付き合いが途切れたわけではない。

休みが合えばアルヴィンは屋敷へ顔を出し、ローレンスと剣を合わせたり、父と話し込んだりしていた。

ただ、昔とまったく同じではなかった。

ある日、いつものように兄を訪ねてきたアルヴィンを見つけ、エレノアは声をかけようとした。

「アル――」

そこで、なぜか言葉が止まった。

「アルヴィン様」


呼ばれた本人が振り向く。

「何だ、急に」

「何がですの?」

「アル様じゃなくなった」

エレノアは少しだけ顎を上げた。

「わたくしも、もう子供ではありませんもの」

アルヴィンはしばらく彼女を見たあと、ふっと笑った。

「そうか」

それだけだった。


何となく面白くない。

「何ですの、その顔は」

「別に」

「絶対、子供だと思ってるでしょう」

「言ってないだろ」

言ってはいない。

だが、そう思っている顔だった。

それ以来、エレノアが彼を「アル様」と呼ぶことはなくなった。


*


エレノアが十五歳になった頃。

ローレンスはまだ騎士団に籍を置いていた。伯爵家を継ぐ時期が来れば退くつもりでいたが、それまでは騎士として経験を積むことを父も認めていた。

近衛への道は視力の問題で諦めたものの、通常の騎士団勤務に支障があるほどではない。

その日、エレノアは兄への差し入れを持って訓練場を訪れた。

そこで、ローレンスとアルヴィンが剣を合わせているのを見つけた。

先に気づいたのは兄だった。


「エレノア」

呼ばれて、アルヴィンも振り向いた。

訓練用の上着は脱いでいた。

白いシャツの袖を肘まで捲り、汗に濡れた髪を片手で掻き上げる。

エレノアは足を止めた。


今まで何百回も見てきた人だった。

なのに、知らない人のように見えた。

肩って、あんなに広かっただろうか。

腕も。

顔つきだって、いつの間に。


「何だ」

アルヴィンが近づいてくる。

「……何でもありません」

「顔が赤いぞ」

「暑いんです」

アルヴィンが空を見上げた。

「今日は涼しいけどな」

「わたくしは暑いのです」

「そうか」

何一つ疑っていないように見えた。

そのまま、昔と同じように頭へ手を置かれた。

「背、伸びたな」


違う。

気づいてほしいのは、背丈ではない。

もう、昔の小さなエレノアではないということだった。

エレノアが睨むと、アルヴィンは不思議そうな顔をした。

「何だよ」

「何でもありません!」


兄が横から籠を取る。

「差し入れ?」

「ええ」

ローレンスが籠の蓋を開ける。

「アルヴィン、お前の分はないぞ」

「何でだよ」

「わたくしの兄への差し入れですもの」

アルヴィンが籠の中を覗き込んだ。

「昔は俺にもくれただろ」

「昔のお話です」

そう言いながら、籠の中には兄一人では食べきれないほどの菓子が入っていた。

アルヴィンは籠を見て、それからエレノアを見た。

口元が少し緩む。


十六歳になった頃。

アルヴィンが屋敷へ来た日の午後、エレノアは兄たちと同じ卓で茶を飲んでいた。

侍女がカップを並べ、砂糖壺へ手を伸ばす。

「エレノア様は――」

「いらない」

先に答えたのはアルヴィンだった。


エレノアは顔を上げる。

「……どうしてあなたが答えるの?」

「入れなくなっただろ」

「いつからご存じなの?」

「この前も入れてなかった」

それだけ言って、アルヴィンはローレンスとの話へ戻ってしまった。


エレノアは自分のカップを見る。

確かに、少し前から砂糖を入れなくなった。

けれど兄ですら気づいていなかったのに。

「何だ?」


視線に気づいたアルヴィンがこちらを見る。

「何でもありません」

「最近それ多いな」

「誰のせいだと思ってますの」

「知らん」

また笑う。

エレノアは紅茶を口に運んだ。

少し苦い。

なのに、その日は砂糖を入れる気にはならなかった。


そんな小さなことで胸が騒ぐようになっても、どうにかしようとは思わなかった。

その頃のエレノアには、すでに将来を約束された相手がいたからだ。


侯爵家の長男、ジェラルド。

幼い頃に両家の話し合いで決められた相手で、エレノアより三つ年上だった。

明るい金髪に淡い青の瞳。いつ会っても服装に乱れひとつなく、物腰も穏やかで、侯爵家の跡取りとして申し分のない青年だった。


嫌いではない。

むしろ、長く付き合ってきただけに気心は知れていた。

誕生日には贈り物が届き、夜会では最初の一曲を踊る。家同士で食事をする時には隣に座り、将来暮らすことになる侯爵領について話を聞くこともあった。


「北の屋敷は、冬になると随分冷えるらしい」

「では、暖炉の前から動きませんわ」

ジェラルドが呆れたように笑う。

「領主夫人がそれでいいのか?」

「領主夫人にも冬くらいございます」

そんな会話をして、二人で笑うこともある。


けれど、胸が高鳴ったことは一度もなかった。

ジェラルドと結婚することは、いつか社交界へ出ることや、兄が伯爵家を継ぐことと同じだった。ずっと前から決まっていて、そうなるものだと思っていた未来。

だから、アルヴィンを見て胸が騒ぐようになってからも、どうにかしようとは思わなかった。


好きになったところで仕方がない。

そう自分に言い聞かせることにも、いつの間にか慣れていた。

当のアルヴィンは、そんなエレノアの胸の内など知っているのかいないのか、相変わらずだった。

近衛への選抜が決まったと聞いて祝いを言えば、

「ありがとう」

と言ったあと、

「お前ももうすぐ社交界だろ。転ぶなよ」

である。


十七にもなる伯爵令嬢へ言うことではない。

「いつまで子供扱いなさるの?」

「転ばなくなったら考える」

「最近は転びません」

アルヴィンが片眉を上げた。

「この前、階段で躓いただろ」

エレノアは目を見開いた。

「見ていらしたの!?」

「見てた」

そこだけ妙に嬉しくなる自分が、さらに腹立たしかった。


*


ミレーヌと親しくなったのは、エレノアが社交界へ出て間もない頃だった。

同じ伯爵家の令嬢で、年も近い。淡い蜂蜜色の髪に大きな茶色の瞳をした、愛らしい娘だった。


「エレノア様って、思っていたよりお話ししやすいのね」

最初にそう言われた時は、悪い気はしなかった。

「どんな方だと思っていたの?」

「もっと近寄りがたい方かと。お綺麗だし、侯爵家とのご婚約も決まっているでしょう?」


ミレーヌはよく喋った。

新しいドレスの話、舞踏会で誰と誰が踊ったという話、評判の菓子店の話。

会えば自然に隣へ座り、見つければ腕を取る。

「私たち、気が合うわね」

三度目に会った頃には、そう言われていた。

エレノアとしては、そこまでのつもりはなかった。

けれど、わざわざ否定するほどでもない。


そのうちミレーヌは、ジェラルドが同席する場にも顔を出すようになった。

「ジェラルド様って、とてもお優しいのね」

ある夜会の帰り、ミレーヌが言った。


「そう?」

「エレノア様は慣れているから分からないのよ。さっきだって、私が飲み物をこぼしそうになったら、すぐに支えてくださったでしょう?」

そんなことがあっただろうか。

エレノアは曖昧に笑った。


それからだった。

夜会でジェラルドを探すと、ミレーヌと話していることが増えた。

二人で笑っている。

テラスから一緒に戻ってくる。

ジェラルドがミレーヌへ飲み物を渡している。

どれも一つだけなら、どうということはない。


「お知り合いでしたの?」

一度だけ、ジェラルドに尋ねたことがある。

「君の友人だろう? 顔を合わせる機会が増えただけだよ」

言われてみれば、その通りだった。


ミレーヌの方も、

「嫌だわ。エレノア様ったら、まさか妬いてるの?」

と笑った。

「いいえ」

それは本心だった。

嫉妬はしていない。

ただ、少し妙だとは思った。


それでも、エレノアは気にしないことにしていた。

ある夜会で、顔見知りの令嬢がそっと身を寄せてくるまでは。


「……余計なお世話でしたら、ごめんなさい」

「何かしら」

「最近、ジェラルド様とミレーヌ様を、お二人きりでよくお見かけしますの」

エレノアは扇を持つ手を止めた。


「どちらで?」

「庭園や、人気の少ない回廊で。私だけではなく、何人か……」

自分だけが妙だと思っていたのではないらしい。

それからも、二人がほとんど同じ頃に姿を消すことは何度かあった。


そして十九歳になった年。

王家主催の舞踏会で、またジェラルドが消えた。

ミレーヌもいない。

エレノアはしばらく待った。

戻ってこない。

今夜は、確かめてみよう。


*


薄暗い庭園の奥で、ミレーヌはジェラルドの首に腕を回していた。


エレノアの姿に気づくと、その口元がゆっくりと弧を描く。

隠すつもりはないらしい。

むしろ、見つかったことを喜んでいるようにさえ見えた。

ミレーヌはエレノアから目を逸らさないまま、ジェラルドへ顔を寄せた。

そして、唇を重ねる。


けれど。

ミレーヌが期待していたであろう顔を、エレノアはしなかった。

むしろ、笑った。


ミレーヌの目がわずかに見開かれる。


その時、エレノアの背後から口笛が鳴った。

「やるなあ。こんな場所で」


ジェラルドが飛び退いた。

ミレーヌの顔から笑みが消える。


エレノアの背後には、近衛騎士が二人立っていた。

一人はアルヴィン。

もう一人は同僚の近衛騎士、マーカス。

アルヴィンは、庭の隅で密着していた二人を眺めている。

「王家主催の夜会で。なかなか度胸がある」

「アルヴィン」

マーカスが低い声で咎めた。

「何だよ。感想くらいいいだろ」

「勤務中だ」

「真面目だなあ」

その会話を聞きながら、エレノアは笑みを深くした。

ミレーヌの顔色が、今度こそ青くなった。

――少し前。




今夜こそ確かめると決めたエレノアは、舞踏会の会場を出た。

二人が向かったとすれば、人気の少ない庭園か、その周辺だろう。

廊下へ出たところで、向こうから巡回中の近衛騎士が二人歩いてくるのが見えた。

一人はアルヴィン。

もう一人は同僚のマーカスだった。


ちょうどいい。


「アルヴィン様」

呼び止めると、アルヴィンが足を止めた。

「どうした」

「少しよろしいかしら」

「何だ」


エレノアはにっこり笑った。

「この格式高い王家主催の夜会で、不埒な行いをなさっている方がいらっしゃるようですの」

マーカスの眉がわずかに動く。

アルヴィンは、しばらくエレノアの顔を見ていた。

「それで?」

「ご一緒に確認してくださらない?」

「俺たちを証人にする気か」

そこまで言っていないのに、もう意図を読まれている。


「まあ。わたくしはただ、王宮内の風紀を案じておりますのよ」

「そういうことにしておくか」

アルヴィンは笑った。

「私まで必要ですか」

「もちろんですわ」

「でしょうね」

マーカスが小さく息を吐く。

アルヴィンも肩をすくめた。

「仕方ない。行くか」

エレノアは二人を連れ、庭園へ向かった。



そして。

予想は当たった。

それも、エレノアが思っていた以上に分かりやすい形で。

「違う!」

ジェラルドが声を上げた。

「エレノア、これは誤解だ!」

「何が?」

「今のは――」


アルヴィンが首を傾げた。

「俺には口づけしているように見えたが」

「私にもそう見えました」

マーカスも続ける。

ジェラルドの顔が引きつった。

「見間違いだ!」


アルヴィンは少し考えた。

「視力が悪くては近衛にはなれなくてな」

そこまではよかった。

「こいつの兄はそれで落ちた」

「一言余計だわ!」

エレノアが振り返る。

アルヴィンは笑っている。

兄のローレンスが近衛選抜を受け、視力検査で落とされたのは本人が今でも少し気にしている。

「お兄様には絶対言いますからね」

「何をだ?」

「また笑い話にしたって」

「事実だろ」

「そういう問題ではありません!」

こんな時まで、どうしてこの人はいつも通りなのか。


その横でジェラルドが呆然としていた。

「エレノア……」

「ああ」


忘れていた。


エレノアは婚約者を見る。

不思議なほど胸は痛まなかった。


怒りも、悲しみも思ったほど湧いてこない。

ただ、自分だけ何も知らないと思われていたことは、少し腹立たしかった。

それよりも強く胸の奥にあったのは、妙な軽さだった。


「後のお話は、父を交えていたしましょう」

「待ってくれ」

「近衛騎士のお二人がご覧になっていますもの。わたくしと二人で話しても仕方がないでしょう?」

ミレーヌが震える声を出した。

「エレノア、違うの。私――」

「何が違うの?」


ミレーヌが黙る。

「あなた、ずっとわたくしたち親友でしょうって仰っていましたわね」

「……ええ」

「困っていましたの」

「え?」

「友達という名の知り合いですもの。勝手に親友面されても迷惑でしたわ」

ミレーヌの口が開いた。

エレノアは微笑む。

「でも、あなたのおかげで、浮気をするような方と結婚せずに済みそうです。そこだけは感謝しますわ」

踵を返した。




庭園を出たところで、アルヴィンが隣へ並ぶ。

「泣かないんだな」

「泣くほどの情を……あの方に持ったことはありませんもの」

アルヴィンが横目で見る。

「泣いた方が可愛げがあるぞ」

「……余計なお世話ですわ」

「昔はもっとよく泣いてた」

「何年前の話をしているのですか」


アルヴィンは前を向いたまま、わずかに笑った。

「俺から見れば、ついこの間だ」

またそれだ。

いつまで経っても子供扱い。

婚約までなくなりそうだというのに。

けれど。

婚約者が別の女へ口づけした場面より、この男に一言からかわれた時の方が、よほど胸が騒いでいた。


*


婚約の解消が正式に決まったのは、それからほどなくしてのことだった。

父の執務室へ呼ばれると、机の上に一通の書面が置かれていた。

「侯爵家からだ」

父はそれをエレノアの前へ滑らせる。

「先方も非を認めた。婚約はこれで解消された」


その言葉を聞いた瞬間、エレノアは知らず息を吐いていた。

父が眉を寄せる。

「そんなにほっとするものか?」

「……したようですわね」

自分でも少し驚いた。


長い間、結婚するものだと思っていた相手なのに、惜しいとも寂しいとも思わない。

父はまだ腹の虫が収まらないらしく、書面を睨んでいる。

「近衛騎士が二人も見ていなければ、何を言い出したか分かったものではない」

「あなた」

母がたしなめるように呼んだが、その声も普段より冷たかった。


ローレンスに至っては、腕を組んだまま、

「一度くらい殴っても許されると思うんだが」

と言い出した。

「許されません」

母が即座に返す。

「まだ何もしてないだろ」

「だから、する前に止めているのです 」

エレノアは思わず笑った。


三人がこちらを見る。

「ごめんなさい。でも、皆様の方がわたくしより怒っていらっしゃるんですもの」

そう言うと、父は少し複雑そうな顔をした。

エレノアはもう一度、机の上の書面を見る。


婚約がなくなった。


その事実を考えるたび、不思議なくらい胸が軽くなる。

今まで、考えないようにしていたことがあった。


婚約者がいるから。


そう言い聞かせて閉じていた蓋は、もうない。

だったら。


開けてもいいのではないか。

エレノアはそう思った。


思ったのなら、行動は早かった。

アルヴィンが非番の日を兄から聞き出す。

「何で知りたいんだ?」

「用事がありますの」


ローレンスがエレノアをじっと見る。

「何の」

「秘密ですわ」

兄が怪訝そうに眉を寄せたが、エレノアは知らぬ顔をした。



数日後、非番のアルヴィンが屋敷を訪れた。


ローレンスとの話が一段落するのを待ち、エレノアは声をかけた。

「アルヴィン様、少しお時間いただけます?」

アルヴィンは口元を少し緩めた。

「いいぞ」


エレノアは侍女に茶を頼み、隣の小さな居間へ移った。

二人分のカップが置かれ、侍女が下がる。

エレノアはひと口だけ紅茶を飲んでから、向かいに座るアルヴィンを見た。

「わたくし、婚約がなくなりましたの」

「おう。お疲れ」

エレノアはしばらくアルヴィンを見た。

「……それだけ?」

「何が?」

本当に分からない顔をしている。

「……もう結構ですわ」


エレノアが席を立つと、アルヴィンの口元がわずかに緩んだ。

やっぱり分かっている。

そう思うと、ますます腹が立った。



次の夜会では、こちらから近づいた。

「アルヴィン様」

呼びかけると、アルヴィンがこちらへ目を向けた。


「何だ」

「次の曲、お相手がお決まりでなければ踊ってくださらない?」

「今日は護衛だ」

それくらいは見れば分かる。

エレノアは扇を少し持ち上げた。


「では、お仕事でなければ?」

アルヴィンはわざとらしく考える顔をした。

「考えとく」

「考える必要があります?」


今度は口元が緩む。

「俺にも選ぶ権利くらいあるだろ」

「まあ!」

また笑われる。



別の日、アルヴィンがローレンスとともに屋敷へ来た。

三人で茶を飲んでいると、侍従がローレンスを呼びに来た。

「旦那様がお呼びです」

「今?」

「はい」

ローレンスは面倒そうに立ち上がった。

「すぐ戻る」

扉が閉まるのを待って、エレノアは口を開いた。


「最近、縁談のお話がたくさん来ますの」

アルヴィンはカップを手に取った。

「だろうな」

「侯爵家からも」

紅茶をひと口飲んでから、何でもないことのように言う。

「良かったじゃないか」

エレノアは眉を寄せた。

「……そう思います?」

「条件は悪くない」


エレノアはカップを置く。

「わたくしが他の方と結婚しても?」

アルヴィンは皿から焼き菓子を一つ摘み、指先で軽く割った。

「それはお前が決めることだろ」

まったく顔色が変わらない。

その余裕が、エレノアには面白くなかった。


「わたくし、今は婚約者がおりませんのよ」

「知ってる」

エレノアは少し身を乗り出した。

「あなたも独身ですわね」

「そうだな」

「公爵家の次男」


アルヴィンが眉を上げる。

「今さら何だ」

「近衛騎士」

「俺の経歴でも読み上げる気か?」

「お仕事も安定しておりますでしょう?」


そこでようやく、アルヴィンが笑った。

「そこまで考えたのか」

「結婚は生活ですもの」

「現実的だな」

エレノアは顎を上げる。

「悪くて?」

「いや」


アルヴィンは椅子の背にゆったりと身を預け、片脚を組んだ。

肘掛けに肘を置き、頬杖をつく。

相変わらず、余裕のある顔だった。

「で?」


「……で、とは?」

「俺を口説いてるんじゃないのか?」

エレノアの頬が熱くなる。

「な……」

「違うのか」


否定しかけて、やめた。

ここで逃げたら、今まで散々遠回しに訴えてきた自分が馬鹿みたいだ。


「そうですわ」

エレノアはアルヴィンを見返した。

「わたくし、あなたを口説いておりますの」


アルヴィンの表情は変わらない。

「ようやく認めたな」

「いつから気づいていましたの!?」

「最初から」

「腹が立つ!」


アルヴィンが笑った。

「昔から変わらないな」

「また子供扱いしてます?」

「してない」


頬杖をついたまま、アルヴィンの目がまっすぐエレノアへ向く。

「言っておくが、俺は遊びのつもりはないぞ」

「望むところですわ」

ほんの少し、声の調子が変わった。

「じゃあ、大人として聞こうか」


一拍置く。

「俺のところへ来るか?」

エレノアは返事を忘れた。


アルヴィンは頬杖をついたまま、こちらを見ている。いつもの顔だった。少しも慌てていない。そのくせ、エレノアが何と答えるのかまで分かっているように見える。

「……はい?」


アルヴィンの口元がわずかに緩んだ。

「聞こえなかった?」

「聞こえましたわ!」

「なら、返事は?」

本当にずるい。

こんな時くらい、少しは緊張した顔を見せてもいいだろうに。

「……本当に、ずるい方」

「何が」

「こんな時まで、いつも通りですもの」

「今さら別人みたいに振る舞ってどうする」

言い返せない。


エレノアは、この人のそういうところをずっと見てきた。兄の隣で笑っていた少年の頃から、剣を振るう青年になり、近衛の制服を身につけるまで。

思い返せば、そのどれもが好きだった。

「悔しいですけれど」

エレノアは小さく息を吸った。

「そんなあなたが、ずっと好きだったのですわ」


アルヴィンの表情は変わらない。

「知ってた」

「……今すぐ撤回してもよろしくて?」

「それは困る」

そう言いながら、アルヴィンは頬杖を解こうともしなかった。


*


父はアルヴィンと娘を何度も見比べた。

「……本当に、この子でいいのか?」

「お父様!」

エレノアが声を上げると、父は片手を上げて制した。

「いや、父親として確認は必要だろう」

そう言いながら、今度は娘の方を見る。

「お前は気が強いし、思い込んだら聞かないし……」

「お父様?」

声が低くなる。

父は一瞬だけ口を閉じたが、懲りずに続けようとした。

「それに、怒ると――」


「あなた、その辺にしておいてくださいませ」

母が静かに止めた。


アルヴィンは笑みを崩さなかった。

「昔から、よく知っています」

父はしばらくアルヴィンの顔を見た。

「……それでもいいのか?」

「ええ」


そのやり取りを黙って聞いていたローレンスが、ようやく口を開いた。

「……いつからだ?」

アルヴィンが友人を見る。

「何が」

「とぼけるな。お前、こいつのこと昔からからかってばかりだっただろ」

「そうだったか?」

「そうだったよ」

ローレンスは妹を見て、それからもう一度アルヴィンを見た。

少し間を置いて、眉を寄せる。


「……そういう趣味だったのか?」

アルヴィンの笑顔が、そこで初めて止まった。

「言い方に気をつけろ」

「だってお前、こいつが十歳の頃から――」

「だから言い方に気をつけろ」

ローレンスが瞬きをする。

「二回言った」


エレノアはとうとう吹き出した。

この男にも、そんな顔をすることがあるらしい。


それからほどなくして、エレノアとアルヴィンは正式に婚約した。


*


ある日、ローレンスが元婚約者と自称親友のその後の話を持ってきた。

ジェラルドとミレーヌが婚約することはなかったらしい。

一時は両家の間で話も出たそうだ。あれだけの騒ぎを起こした以上、二人が結婚すれば多少は体裁も整う。

けれど、ジェラルドが首を縦に振らなかったという。

「結婚するつもりまではなかったらしいぞ」


ローレンスからそう聞かされた時、エレノアは少しだけ呆れた。

ミレーヌの方は、てっきり自分が選ばれたのだと思っていたらしい。庭園で見せた、あの得意げな笑みを思い出す。

結局、ジェラルドはしばらく王都を離れ、侯爵領で父親のもと領地経営を学び直すことになった。

ミレーヌも以前ほど夜会で姿を見かけなくなった。

エレノアはそれ以上、二人のことを尋ねなかった。

もう、自分には関係のない話だった。


*


年が明けて最初の、王家主催の祝賀舞踏会。

国王夫妻は大広間の上座に座り、その背後には近衛騎士たちが控えていた。

家族とともに挨拶の順番を待っていたエレノアは、その列の中に見慣れた顔を見つけた。

アルヴィンだった。

勤務中の彼は、普段とは別人のように真面目な顔で正面を向いている。こちらには気づいていないようだった。


そう思った時、不意に視線だけが動いた。

目が合う。

アルヴィンはほんのわずかに片方の眉を上げ、続いて口端を片方だけ持ち上げた。

それも一瞬のことで、次には何事もなかったように正面へ視線を戻している。


エレノアの顔が一気に熱くなった。

(な、な、な、何なのよ!!)

周囲を見ても、気づいた者はいない。

当の本人も、何食わぬ顔で国王の背後に立っている。

こんな場所で、ほんの一瞬だけ。


自分にだけ。


エレノアは正面を向き直した。

本当に腹が立つ。これから先も、この男には何度となく腹を立てるのだろう。

そう思いながら、もう一度だけ上座へ目をやる。

アルヴィンは相変わらず真面目な顔をしていた。

エレノアはすぐに視線を戻した。

けれど、口元だけはどうしても戻らなかった。




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