第80話 戦術の崩壊
通路の奥へ進むにつれ、空気の感触はさらに薄れていった。
呼吸はできる。だが、吸っている実感がほとんどない。肺が満たされる感覚が曖昧で、代わりに妙な軽さだけが残る。
音も同じだった。足音は確かに鳴っているはずなのに、床に吸われるように消えていく。自分たちの存在が、この空間にうまく“乗っていない”。
「……境界を越えたな」補助役が低く言う。
それが何を意味するのか、言葉にしなくても全員が理解していた。
さっきまでの領域とは違う。ここは、完全に性質が変わっている。
「前方、反応」感知役の声も、わずかに鈍く聞こえる。
「数は四。配置……囲う形」嫌な構図だった。
逃げ道を削り、連携を分断する配置。これまでなら、空気を使って流れを整えれば崩せた形だ。
だが、今は違う。
「どうする」前衛が短く問う。
視線は前を向いたまま、判断だけを求めている。一瞬だけ迷う。
空気は使えない。そう分かっている。
だが……試す。言葉が先に出た。完全に捨てる前に、確認したい。
どこまで通用しないのか。その判断が、ほんのわずかに遅れる。
「行く」指揮官の声。
戦闘が始まる。敵が同時に動く。四方向から、滑るように距離を詰めてくる。
踏み込みの予兆はない。空気の乱れもない。ただ、位置が変わる。
「合わせる!」反射的に魔力を広げる。
空気を整える。流れを作る。だが、やはり反応がない。
いや、正確には遅すぎる。流れが立ち上がる前に、戦況が動いている。
「右!」感知役の声。それに合わせて圧をかける。進路を制限する。
だが、敵はそのまま抜けてくる。引っかからない。
「……くそ!」前衛が受ける。
今度は二方向から同時に。剣がぶつかる。だが、押し返しきれない。
「補助!」強化が入る。
前衛の動きが上がる。だが、それでも足りない。
敵の動きが速いというより、こちらの対応が遅れている。
「左、回り込む!」声が重なる。
だが、間に合わない。側面に入り込まれる。
「っ……!」前衛の肩に一撃が入る。浅い。だが、確実に削られる。
「下がるな!」指揮官の声。
前衛が踏みとどまる。その判断自体は正しい。
だが、流れが繋がらない。
「……違う」思わず呟く。これは、単に空気が使えないだけじゃない。
連携そのものが崩れている。
「戻せ……!」
無理やり空気を動かす。一点に集中する。踏み込み。そこだけ合わせる。
わずかに流れが生まれる。だが、薄い。支えきれない。
「今!」声に出す。
前衛が踏み込む。タイミングは合っている。
だが、力が乗らない。踏み込みが軽い。地面ではなく、空間側の支えがない。
斬撃が浅くなる。決定打にならない。
「……押し切れない!」補助役が叫ぶ。
その通りだ。いつもなら、この段階で崩せている。
だが、今回は違う。敵が崩れない。動きが鈍らない。連携で押し込む形が成立しない。
「切り替えろ!」指揮官の声。
強い。
「空気を捨てろ!」その一言で、意識が引き戻される。
そうだ。分かっていたはずだ。
「……了解」短く返す。
だが、遅い。判断が一拍遅れている。
その一瞬、敵が踏み込む。今度は完全に内側に入られる。
「ぐっ……!」前衛が大きく体勢を崩す。
追撃が来る。止めきれない。
「下がれ!」
俺が前に出る。反射的に空気を弾く。衝撃だけを狙う。
わずかに距離が開く。だが、それも不完全だ。
圧が弱い。完全には止まらない。
「……まずい」
状況が悪い。明確に。
「立て直す!」指揮官の声。
全員が一度距離を取る。無理に押さない。形を作り直す。それしかない。
呼吸を整える。だが、整わない。リズムが揃わない。
空気がない。流れがない。繋がりがない。
「……ここまでか」前衛が低く言う。
諦めではない。現状の認識だ。
「個でやるしかない」補助役が続ける。
結論は出ている。
「……ああ」頷く。
連携は捨てる。少なくとも、今の形では。
「各自、自由に動け」指揮官の指示。
それで戦闘が変わる。前衛が単独で踏み込む。補助がそれを支える。感知が危険を潰す。俺は最低限の干渉だけに徹する。
戦いとしては成立すが遅い。一体ずつ削るしかない。
四体。その数が、やけに重く感じる。
一体目を落とすまでに、時間がかかる。その間にも、こちらは削られる。
二体目。さらに消耗。
三体目。呼吸が荒くなる。
最後の一体を落としたとき、誰もすぐには動けなかった。
静寂。だが、安堵はない。
「……きついな」前衛が吐き出す。短い言葉だが、全てが詰まっている。
「効率が悪すぎる」補助役が言う。
「このままじゃ、持たない」
事実だ。戦えるが、進めない。
「……どうする」感知役が静かに問う。
撤退か、継続か。その選択。一瞬の沈黙。
「進む」指揮官の答えは変わらない。
「だが、やり方を変える」
視線がこちらに向く。
「空気に頼るな」
その言葉は、当然でありながら重い。
「……分かってる」頷く。だが、問題はそこじゃない。
空気を使わない戦い方。それを、まだ持っていない。
「……次で決める」指揮官が言う。
短いが、意味は明確だ。この先で判断が下る。進むか、引くか。それを決める戦闘になる。
四人で再び歩き出す。だが、さっきまでとは違う。
足取りが重い。空気がない。流れがない。そして、連携もない。
その事実が、はっきりと突きつけられていた。
このままでは、戦えない。その認識だけが、静かに積み上がっていく。




